私にはパートナーはいない。時折、ふわふわした頼りないものを感じる。この人生で、私を最初に考えてくれる人はいない、ということに、たまらないほどの寂寥感がある。とても親しい友人がいてくれて、有り難いかぎりだが、その友人も私より大事な誰か(恋人とかパートナーとか)を持つかもしれない。それは、あり得ることだし、それはその友人にとって、とても良いことだから、悲しむいわれはない。
ただ、私がそういう人を持たない、という厳然たる事実が続くだけだ。
昔、少し話題になった映画で、夫に愛されていると信じて、幸せに主婦業に励んでいたある良妻賢母の女性が、夫に恋人がいたことを知って、自殺してしまう映画があった。その人の人生は、信じていた愛が(幸福が)幻だったことで、完全に意味を失ったということだろう。実際、どれほどの妻たちが、この幻に生きていることか。だから、「浮気」という概念は、大層な意味を持つ。パートナー関係は、この幻を支え合う共犯関係だ。どこかで、幻だと知っていても、守り合う暗黙の約束で、生きていける。それに、実際のところ、病気になったり、死ぬ間際など、この幻関係が、ちゃんと機能する。先述の映画の主婦は、この幻を「幻だ」と突きつけられてしまったから、破綻したのだ。上手に騙されていれば、機嫌良く、人生を全うできたのに。縁あってパートナー関係を結んだ人は、互いに「うまく騙し続ける」しかない。それができなければ、修羅場だ。人生の無駄使いみたいな、修羅場に突入する。
それにしても、この幻関係を持たないのは、頼りないものだ。もし、大規模な阪神淡路大震災のような災害が起こっても、私を最初に思い出してくれる人はいない。それは、かなりのわびしさだ。
そう言えば、嘗て、あの震災の時、母に電話を入れたら、母のところは全く被害がなく、私に「そっちはどう?」と聞いてくるでもなく、散歩中の父が自分を気遣って電話くらいよこすべきなのに電話もない、と怒っていたのが思い出される。「お父さん、散歩中なの? そっちの方が心配だ」と私は言ったが、母はそれには反応しなかった。この人の血が自分にも流れているのは、少し悲しい。
「咳をしても一人」「こんなよい月を一人で見て寝る」「一人の道が暮れて来た」そんな句が思い出される。
すがすがしい境涯だ。が、わびしい境涯でもある。この寂寥をかかえて、元気に生きるということが出来るのだろうか。
しかし、多くの人々が、ひとりぼっちで生きている。「ひとり同盟」でもつくろうか。
ペア関係をつくるのだけが、生き方ではあるまい。
ただ、私がそういう人を持たない、という厳然たる事実が続くだけだ。
昔、少し話題になった映画で、夫に愛されていると信じて、幸せに主婦業に励んでいたある良妻賢母の女性が、夫に恋人がいたことを知って、自殺してしまう映画があった。その人の人生は、信じていた愛が(幸福が)幻だったことで、完全に意味を失ったということだろう。実際、どれほどの妻たちが、この幻に生きていることか。だから、「浮気」という概念は、大層な意味を持つ。パートナー関係は、この幻を支え合う共犯関係だ。どこかで、幻だと知っていても、守り合う暗黙の約束で、生きていける。それに、実際のところ、病気になったり、死ぬ間際など、この幻関係が、ちゃんと機能する。先述の映画の主婦は、この幻を「幻だ」と突きつけられてしまったから、破綻したのだ。上手に騙されていれば、機嫌良く、人生を全うできたのに。縁あってパートナー関係を結んだ人は、互いに「うまく騙し続ける」しかない。それができなければ、修羅場だ。人生の無駄使いみたいな、修羅場に突入する。
それにしても、この幻関係を持たないのは、頼りないものだ。もし、大規模な阪神淡路大震災のような災害が起こっても、私を最初に思い出してくれる人はいない。それは、かなりのわびしさだ。
そう言えば、嘗て、あの震災の時、母に電話を入れたら、母のところは全く被害がなく、私に「そっちはどう?」と聞いてくるでもなく、散歩中の父が自分を気遣って電話くらいよこすべきなのに電話もない、と怒っていたのが思い出される。「お父さん、散歩中なの? そっちの方が心配だ」と私は言ったが、母はそれには反応しなかった。この人の血が自分にも流れているのは、少し悲しい。
「咳をしても一人」「こんなよい月を一人で見て寝る」「一人の道が暮れて来た」そんな句が思い出される。
すがすがしい境涯だ。が、わびしい境涯でもある。この寂寥をかかえて、元気に生きるということが出来るのだろうか。
しかし、多くの人々が、ひとりぼっちで生きている。「ひとり同盟」でもつくろうか。
ペア関係をつくるのだけが、生き方ではあるまい。