凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

一人で生きる

2009-05-28 09:19:33 | 人生
私にはパートナーはいない。時折、ふわふわした頼りないものを感じる。この人生で、私を最初に考えてくれる人はいない、ということに、たまらないほどの寂寥感がある。とても親しい友人がいてくれて、有り難いかぎりだが、その友人も私より大事な誰か(恋人とかパートナーとか)を持つかもしれない。それは、あり得ることだし、それはその友人にとって、とても良いことだから、悲しむいわれはない。
ただ、私がそういう人を持たない、という厳然たる事実が続くだけだ。

 昔、少し話題になった映画で、夫に愛されていると信じて、幸せに主婦業に励んでいたある良妻賢母の女性が、夫に恋人がいたことを知って、自殺してしまう映画があった。その人の人生は、信じていた愛が(幸福が)幻だったことで、完全に意味を失ったということだろう。実際、どれほどの妻たちが、この幻に生きていることか。だから、「浮気」という概念は、大層な意味を持つ。パートナー関係は、この幻を支え合う共犯関係だ。どこかで、幻だと知っていても、守り合う暗黙の約束で、生きていける。それに、実際のところ、病気になったり、死ぬ間際など、この幻関係が、ちゃんと機能する。先述の映画の主婦は、この幻を「幻だ」と突きつけられてしまったから、破綻したのだ。上手に騙されていれば、機嫌良く、人生を全うできたのに。縁あってパートナー関係を結んだ人は、互いに「うまく騙し続ける」しかない。それができなければ、修羅場だ。人生の無駄使いみたいな、修羅場に突入する。

 それにしても、この幻関係を持たないのは、頼りないものだ。もし、大規模な阪神淡路大震災のような災害が起こっても、私を最初に思い出してくれる人はいない。それは、かなりのわびしさだ。
 そう言えば、嘗て、あの震災の時、母に電話を入れたら、母のところは全く被害がなく、私に「そっちはどう?」と聞いてくるでもなく、散歩中の父が自分を気遣って電話くらいよこすべきなのに電話もない、と怒っていたのが思い出される。「お父さん、散歩中なの? そっちの方が心配だ」と私は言ったが、母はそれには反応しなかった。この人の血が自分にも流れているのは、少し悲しい。

「咳をしても一人」「こんなよい月を一人で見て寝る」「一人の道が暮れて来た」そんな句が思い出される。
 
 すがすがしい境涯だ。が、わびしい境涯でもある。この寂寥をかかえて、元気に生きるということが出来るのだろうか。
 しかし、多くの人々が、ひとりぼっちで生きている。「ひとり同盟」でもつくろうか。
 ペア関係をつくるのだけが、生き方ではあるまい。


2009-05-27 21:30:44 | 
長い間、この日記に彼のことが書けなかった。
悲しすぎて、苦しすぎて、胸が痛みで耐えられなくなる。
人は、自分のキャパに応じた悲しみ方しかできないのだと、つくづく思う。

彼は、死んでしまった。2003年6月20日、、、
今でも、痛いよ。
彼のことを考えると、胸が痛い。心臓が痛い。ぎゅーっと痛むよ。

思い出すと、歩いていても、その場にうずくまりたくなる。なんで? なんで、死ぬの?  

自分も大きな病気をして、回復してきて、
今やっと、みんないずれ、同じところに行くのだと思うようになった。

でも、やっぱり、あれはきつい。彼に先に逝かれたのは、きつすぎる。
何をもってしても、もう、癒されない辛さだ。もう、決して治ることのない傷が、ざっくりついてしまった。「一生傷」というやつだ。
だから、何かが違う。人生の何かが違う。どこかで、自分の幸せを望んでいない。どこかで、自分の破滅を見ようとする。

もう、いいや。彼に会えたら、もし、何か時間が戻るような、信じられないような奇跡が起こるのなら、もう、何も要らないから。もう、私のこれからの人生は全部要らないから。だから、会わせて欲しいよ。
でも、それは、私が死ぬときなのだろう。
彼が迎えに来てくれて、あぁ、やっと会えた、と、私は安堵しながら、この世から旅立てるのだろうか。

このようなことを考えていると、きっと、生命力は落ちているのだろうね。
生き物としての、活力のようなものが、低下しているのだろうね。
弱っていくのだろうね。

でも、ほんとに、彼に会わせてもらえるなら、いいのだよ、もう。これからの自分の時間なんて。

普通に生きる

2009-05-27 20:40:42 | 人生
何か特別なことを成し遂げたわけでもない。一冊の本も残していない。ごく当たり前のように、市井を、生きて去って行った夫や父のことを思う。
 父は、若い頃は好きになれなかった。が、亡くなってから、父の良さを思うようになった。若い頃は、父にとって、特別な間柄である娘という立場の私には、父は不本意な言動に終始した、不快な人だった。しかし、私への影響が終わって、あらためて、父を客観的に見ると、普通の人の偉大さを思う。普通に生きて死ぬことの偉大さを思う。不幸なのは、あの人の娘だった、ということだけ。

 夫については、もっと、複雑で悲しい。縁あって近しい間柄になったのに、思いもかけない早さで、去っていかれた。あの人は、幸せではなかったのだろう、と思うと、後ろめたさで苦しいばかりだ。幸せにできなかった。普通の人の人生を、さわやかに、強いぎらぎらした野心など微塵もなく、飄々と生きた。あの人にとっての不幸は、私のような女と出会ってしまったこと。かわいそうなことをしてしまった。私などと出会わなければ、もっと平凡に、もっと穏やかに、生きられただろうに。怒濤のような人生を与えてしまった。

 でも、あのさわやかな人生の受け容れ方は、偉大だと思う。私には、真似のできないさわやかさだった。

 普通の人生の偉大さを、わかるためには、これだけ、苦しまないといけなかったのか。