凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

私の問題なのだろうか、やっぱり。

2015-04-22 13:54:27 | 自分
 子どもが小さい頃、私が高熱を出した。激しい頭痛を我慢しながら、子ども達にご飯をつくり、「自分たちで食べて」(もう小学生と幼稚園の子どもだったので)と言い置いて、自分は布団を敷いて、隣の部屋で寝た。すさまじいしんどさだったのだけは覚えている。後で熱を測ったら、41~2度あった。

 その時の記憶にあるエピソード。息子が枕元に来て、何か用事を頼んできたのだったと思う。「もう、お母さん、死にそうなのよ、勘弁して」とうわごとのように言ったのだったと思う。何もしてくれなくても、せめて少しくらい心配してよ、という気持ちで「お母さん、死んじゃってもいいの?」とか何とか、言ったのだと思う。息子は向こうへ行ってしまった。ただ、私はじっと横になっているしかなかった。
 すると、息子が目に涙をいっぱいためて、またやって来た。ちょっと言い過ぎたか、とかわいそうになった。大丈夫よ、と言ってやらなければと思った。すると、息子がこう言った。
「お母さんが死んだら、誰が僕らのご飯をつくるの?」
自分のリアクションは覚えていない。その息子の言葉で、記憶の場面が凍結している。

 親しい友人がいつも言う。私が弱ったり、病気がちだったりすると、決まって言うのは、「あなたが死んだら、私はどうなるの?」「一人で生きないといけないの?」と。
だから、長生きしてくれ、と。どうやら、私が手厚く看病をして、心静かに満ち足りて、彼女が旅立つのを見送らないといけないらしいのだ。

 私にはずっと理解不能の考え方だ。先に死んだ人をかわいそうとは思ってきたけれど、一人残される自分がかわいそうとか、そうなったらどうしよう、とか思ったことがない。と言うより、いつも一人の気分でいる。

 母だけでなく、こういう人がまわりにいるのも、やはり私の問題なのだろうか?
どうも私は、人の甘えを引き出してしまうらしい。

 私に面倒を見てもらおうと思う人はまわりにいるが、私の面倒をみようという人はいない。また、私も誰かに面倒をみてもらおうと思ってはいない。母が亡くなったら、一人でどこかに行こうかとさえ思っている。子ども達の負担にならないように。

 嘗て、父親の墓前で自殺したタレントがいたが、その人のことを思い出す。介護ウツだったと言われている。そして今、私自身がそうなりそうなのだ。もう、自分の人生を生きる意欲がわかない。母に捧げるしかない。そして、それが幸せなこととは思えない。もう、終わりなのかなと思い始めている。

 子どもの頃から感じていた孤独と悲しみが、結局、人生の最後まで私の道連れなのかと思う。
  

結局、母が勝ち!

2015-04-22 10:38:19 | 
 若い頃、私の苦悩は、母が原因だとようやく気づいて、母から自立し始めた。そうすると、実にすがすがしい日々がやって来た。
 しかし、父が亡くなって、母が一人になると、母の方から私の近くへ転居してきた。もとより、一人で暮らしを完結させる気はない人だ。

 母は、父に頼り、父に庇護されることを当然として生きてきたが、今は、私に頼るのを当然としている。

 そして、今は、病院で寝たきり。早く帰りたい、とそればかりを願っていて、何一つ、他のことには興味を示さない。テレビも観ないし、食事も摂らない。からだが弱るから食べるようにと、様々な人に言われるが、聞き入れない。ケアマネージャーさんと相談して、退院の日を決めた。少しでも母の状態が改善してくれると、少しでも手のかかり方が変わる。しかし、そのための努力も協力もしてくれない。
 病院にいること自体が不本意なのだ。帰ったら、自分の思うようになると思い込んでいるらしい。
 
 が、自分で食事もできない。おむつをしている。酸素ボンベも離せない。
退院して家に帰る、ということは、誰かがその世話をする、ということだ。ヘルパーと訪問看護師の手配はしてもらっているが、とても足りない。三度の食事と排泄は、一日に1時間の介護ヘルパーでは、間に合わない。では、後は誰がするか。私しかいない。私が母の24時間に仕えることになる。

 親の世代の介護をしなかった母だ。介護の大変さは、まったく知らない。父は、体調不良を訴えて、2カ月入院して逝ってしまった。父が体調不良を訴えた時も、すぐに母から電話がかかって来て、私は当時、激務でからだをこわしそうだったのだが、それでも仕事の合間に実家と病院に通った。が、今、私には、助けてもらえる人はいない。独りぼっちだ。
 
 母は、私が子どもの頃から、「子どもは一人でいい。きょうだいがいると、親の世話を押し付け合ったりして困る。一人なら、自分が看ないといけないと思って看てくれる」と、言っていた。そして、今、母の目論見通りになった。してやられた!と思う。
 子どもの頃は、実感がないので、実際にどうなるかはわからなかった。否、最近までピンと来ていなかった。介護の大変さを、身近に見たことがないので、想像力を欠いていた。母は、父の母親が病気の時も亡くなった時も、父の実家には行かなかった。行くと、田舎のあの家で、息子の嫁として働かされるに違いないからいやだと言って、病気と偽って、実家に帰る父に同行しなかった。私は子どもなので、父に連れられて行っても遊んでいるだけだが、母は大人なのでそうはいかないらしいということはわかっていたので、何も言わなかった。

 私の子どもの頃の母は、自分の父親に庇護され、夫に庇護されて、ようやく元気にしていられるひ弱な女の人だった。そして、今は、私に庇護されることを当然と思っている。母の勝ちだ。
 私には、自由はない。私には、母のために捧げる暮らししか待っていない。お金で解決できないのは、父の遺産を独り占めした母が、どれくらい相続したのか知らないけれども、湯水のようにお金を使ったので、今や、母自身の介護のためにどれくらい使えるお金が残っているのかわからないからだ。私自身はお金はない。わずかな年金とわずかな貯金しかない。
 母のために拠出するだけのお金はない。だから、からだと時間を母に捧げるしかない。

 施設やデイサービスを利用する、という手はあるらしいが、母が断固拒否してきた。それを押し切るだけの力が私にはない。

 母の勝ちだ。たった一人の娘を、自分の老後のケア要員として、最初から見据えていた母の勝利だ。