凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

このブログのこと

2014-01-30 23:07:52 | 考え方
 このブログは、親しい一人の人を除いては、知っている人の誰にも教えていない。一人だけは、何を書いても、私のことを悪く思わないでいてくれるだろうと信じているところがある。よくうちとけて話が出来るので、説明できる機会もあるだろう、という安心感もある。
 まあ、しかし、それも、一生懸命そういう間柄を培う努力をしてのことだけど。

 で、他の友人知人にこのブログのことを伝えないのは、多くの人がちゃんと読んでくれるだろうと信じているけれど、それでも、私のことを誤認するだろうという懸念があるからだ。ここに登場する私は、私の一部だ。私は、実は明るい。年がら年中、冗談を言う機会を探しているところがある。冗談を言っているつもりでなくても、笑いを呼んでしまうことも再々ある。しかし、ここに登場する私は、暗いだろうと思う。いや、自分のことだからわからないけれども、他人が読むといやな人格として映るのではないかと想像する。実は、ここには、自分自身、あまり好きでないキャラクターの部分が出ている気がする。では、なぜ、そういう自分を全開して書くのか。

 私には、(おそらく私だけではないだろうけれど)、承認欲求が強い。よくここに書くように、私は親にとって「返品希望」だった子どもだ。父は、私のことを「欠陥品」のように罵っていた。それは、私を傷つけていただろうと思う。「私って、そんなにダメなの?」と自分に問う以外にない状況だった。私は自分のことを「出来そこない」と呼んでいた。
 しかし、親の目を外れると、私は決してそんなに悪くなさそうに扱われるのだ。近所の人からも学校でも、親戚からも、私はむしろ、褒められることが多いのだ。私は自分が良きものでありたい、という欲求を持っていた。しかし、評価は真っ二つに分かれていた。極端な出来そこないか、かなり卓越した資質を持っているものなのか。学校の成績は良い。しかし、家に帰れば、出来そこない呼ばわりだ。成績が良いことすら、家では良きことにカウントされない。「私って、結構、いけてるんでしょ?」と思いたいが、家にあっては冷水を浴びせられる。プライドの芽は、すぐに摘まれる。そのような揺れ動きの中で生長した。
 そして、成長して、自分の良き部分を自分で認めていきたいという欲求が湧き立って来る。親にくそみそに罵倒されたあの心の傷を、悔しさを、無念さを、消し去りたいのだ。私のキーワードに「無念」という言葉がある。自分で、多用するのには気づいている。
そう、私は、「無念」なのだ。
 「無念」には二つの意味があるが、無念無想の境地に行きたいものだ。

 得られなかった承認を得たい、それを自分で獲得しようとする。だから、私はその承認欲求の垣間見える文章を書いてしまう。それがこのブログだという気がする。
 それは、きっと他の人が読むと、醜い、いやな人格の、文章なのだろうと想像するのだ。だって、その自分を自分も、実は好きではないから。好きではないが、承認欲求を満たすために書く。世界の知らない人に向かって、書く。世界の、知らない人は、私を罵倒しないだろうと思うので。私のことを知らないから、「エラソーに言っても、お前なんか大したことないじゃないか」とからかったりしないだろうと思うから。
 そして、たった一人、このブログを読む親しい人は、たぶん、このいやな人格でない私のことも知ってくれていると思っているから。

 でも、それも願望だ。どこまでわかってくれているかはわからない。でも、自分のことなど自分でそれほどわかっているものでもないから、誤解しないで読んでくれると思えるその親しい人に託して、このブログを書き続けている。全世界に向けて、私のことを全く知らない人たちに向けて書いている。

 ちょっとペダンチックで、ナルシスティックで、承認欲求の強いこのブログを、自分でも好きでないキャラの部分を全開させて恥をさらしていく。
 それがこのブログ。

愛の受容器

2014-01-18 23:10:17 | 自分
 愛情を受け取るには能力が要る。いくら愛をかけても、かけた対象にそれを受け取る力がなければ、愛は空振りだ。

 私の話だ。私には、人に愛される、という自信がない。それもまた、生育環境に起因するものなのか。何度もここには書いたような気がするが、私は、親から、「届いたのは、注文の品とは違った」と不満を言われ続けたような印象がある。親が望んだのは、もっと違う子どもだったのに、お前が来てしまった、返品がきかないから家に置いてやるが、ほんとうにお前は期待外れの子だ、と言われ続けた記憶が非常に強く残っている。「気に入らない」「気に入らない」と文句を言われ続け、私はどうしたら「良い子」になれるのかがわからないまま、年頭の祈りは、いつも、「良い子になれますように」だった。

 今思えば、父は全く無意識だったのだろう。彼自身、どのような子どもを望んでいたのかさえわかっていなかったと思う。ただ、私に驚き、想定外のことに出会うたびに、ただただ無意識に無自覚に、不満を垂れ流していたのだ。そして、私はそうした言葉の一つひとつを聞き流せない状況に置かれていた。他にきょうだいのいない私は、親とはっきり向かい合う位置に置かれ、自分への不満を聞き続けることになったのだ。時には、父は私を自分の前にきちんと座らせ、襟を正して聴くように命じ、延々と、いかに私が父の期待を裏切り、望ましい子どもではないか、ということについて説教を垂れた。
 親とはどういうものか、子どもとはどういうものか、女(の子ども)という存在がどういう存在か、そのようなことを一切問おうとしない多くの昔の親は、子どもに対して実に不躾で無礼極まる態度をとり続けていたのだろうが、私の場合、昔の親子であるにもかかわらず、一人っ子だった分だけ不運だったのだろうと思う。

 母もまた無意識の人だった。子どもに対して庇護者になれず、自分自身が少女のように、夫から庇護され、夫に称賛されることを願い続けた人だ。だから、彼女の眼中に私と言う存在はないに等しい。自分の卓越した美貌や女らしい弱弱しさを強調したい時に、私は母を引き立てる役割として機能した。

 「美女と野獣」のように周りから言われがちだった母と父。そして、母はさもうれしそうに、「あんたはお父さん似」ということを言い続けた。だから、子どもの頃の私の自分イメージは、『ノートルダムのせむし男』のまさにせむし男であるカジモド。私にとって、エスメラルダは、憧れても憧れても、少し情けをくれるだけの母―あるいは世間―だった。

 大学生の頃、隣家の幼児が私の家に遊びに来ていて、母と私を見比べて、突然その子が、「おねえちゃんの方がきれい!」と言った時、私はものすごくあわてたのを覚えている。そんなはずがない、何を言うの? とんでもない、という私の狼狽をよそに、母は泰然として、「ふふん、それはそうや。おねえちゃんの方が若いもん」と言い放った。まさに言い放つ、という感じだった。私は天地がひっくりかえってもここまで驚かないだろうと思うほど驚きあわて、母が憤怒で爆発するのではないかと思ったが、母は冷静だった。それでも不気味だった。あの子は間違っている、何を間違ってあのようなでたらめを言ったのだろう、と思った。
 その後、母の意趣返しはなかったが、事あるごとに、「若いうちは誰でもきれい」と言い続けていた。加齢が少しずつ自分の美貌を衰えさせていることに無念な思いを持っていたのだろう。それでも、私はただただ、「お母さんはまだまだ若い」だの「友だちがきれいって言ってたよ」だの「お母さんほどきれいな人はいないよ」だの、あながち嘘ではないが特にそこを強調することによって、母の意を迎えようとしてきた。

 が、思えば、母が私の気持ちを気にしたことはない。今となれば、母が気にするのは、私が母の世話をする気を失わないように、私の意をそらさないようにすることだ。母は自分が見捨てられないように努力をしている。ただただそれだけだ、ということが手に取るようにわかる。

 このような親との関係で、私が「愛の受容装置」を育めなかったのは仕方のないことではないのか?
 私に向けられた「愛」を信じるのはとても難しい。亡くなった夫が私を好んでくれていたのは今になればわかる。ずっと昔、私に愛を打ち明けてくれた人が、私を本当に好んでくれていたのも、今になればわかる。しかし、リアルタイムでそれを信じるのはとても難しい。今、私に「愛」を語ってくれる人がいても、私の受容器はなかなか作動しない。過去のことならなぜ受け容れられるのか? それはたぶん、過去はもう、今の私には何も機能しないからだろう。「愛」のある状態で凍結させることが私の良い総括に寄与するので、そのように解釈してめでたく過去に見送ることができる。
 しかしリアルタイムに起こっていることは今の私に機能する。信じることによって、「裏切り」や「落胆」を経験することになるかもしれないリスクを抱える。それはもう、回避したい。「もう」と言うのは、何かどこかで経験していることのような気がする。「もういやだ」「落胆させられるのはいやだ」「裏切られるのはもういやだ」と、私は思う。この「もう」は日々の小さな落胆や失望の経験から発する感情でもあるが、もっと根本にある経験がある。それがたぶん、親との関係なのだ。私が、私の親の私への感情を読み解いたのはずっと後のことだ。ある日、うすうす感づいていたことにはっきりと気付く。親たちの愛の欠如を。父は、子への愛情は母親の領分だと思っていただろう。そして、母にはその器量はなかった。「自分が一番」という、幼子のような人だった。ただそれだけのことだ。大した悲劇でもない。よくある親の姿だ。ただ、親の愛を無償の、無上のもののようにたたえる言説があまりにも広く深くしみわたるように流布しているので、その神話が私を苛んでいた。

 今なら言える。子どもが幼い頃、子が親を思い、親は自分のことを思う、というタイプの親子は結構いるのだ。親がまだ大人にならないケースで、そのような逆転関係は、それほどまれなことではないだろう。それなのに、親なら子どもを思うはず、という神話がまかり通り、それで傷つく子どもがたくさんいる。
 今なら、多くの傷ついている子どもに言うことができる。あなたの親はあなたを愛さないかもしれない。そして、自分の子どもを愛さない親は、たくさんいる。どこにでもいる。でも、それはあなたが愛される値打ちがないからではない。たまたま、そういう愛を知らない人が親であっただけだ。親のあたりが悪かっただけ。それとは無関係に、あなたは愛される価値がある。あなたへの愛は、親以外から来る。他の思いがけないところからいくらでも来る。愛は来る。この世には、他者を愛する人がたくさんいて、その人の愛が来る。親からたまたま来なかっただけ。それはたまたまそういう親にいきあたってしまっただけで、何一つあなたを損ねるものではない。少し憂いを含んだあなたを育んだかもしれないが、その憂いを含んだ風情さえ、時には魅力にすらなる。親の愛がないことはその程度のことで、あなたの人生の失敗ではない、と、私は自分に言い聞かせるように、子ども達に言いたいと思う。

 私もまた「親の愛は海より深い」などというような神話に侵され、その挙句に親に裏切られ、愛の受容器を発達し損ねた者だ。
 しかし、今少しでも自分に向かっている愛のようなものがあるなら、それは信じておくに限る。それはたとえ束の間であっても、良いものだからだ。明日失うことになっても、今日の愛をしっかり受容すればよい。一瞬であっても、愛は良いものだからだ。愛に永続性を期待する必要はない。もし期待するなら、永続するように努力するしかない。努力して愛を交わし合い、優しさを与えあい、愛の良さを思う存分享受することしかない。それが、この美しい発明品である「愛」という理念を長続きさせ、良いものに仕上げていく秘訣だろう。それ以外に、天与のものとしての「愛」などない、というのが、年をとってから「愛」の存在の可能性に気付いた私の考え。

人との関係の取り方

2014-01-03 09:51:40 | 人間関係
 まことに難しいものだと思うのは、これだ。他の人はそれをどういうように処理するのだろう。確かに多くの人が、人間関係で悩んでいる。私自身、「女性のための相談」というようなことを仕事にしていたこともあるので、それは、よくよくわかっている。
 近所付き合い、職場の人との関係、、、最も多いのは夫との関係の悩みだった。

 この世を生きるのに、人との関係を拒否しては生きられない。誰かが要るように思う。しかし、希薄な、時候の挨拶だけの関係ではなく、もっと豊かな関係を求め始めると、苦悩も始まる。

 私の経験で言えば、親たちは、配偶者と子どもとの関係だけは不動のものと思い、甘え切っていた。世間に対しては極端なほど遠慮をし、「身内」意識が強い。が、身内を守る、というより、身内なら守ってもらえる、という片務的な愛を要求していた人たちのように思う。配偶者は大人なのでまだ気を遣う面もあるが、子どもにだけはとてつもなく甘え、支配し、限りない権利を持っているかのようだった。今思えば、精神的に未熟な人たちが大人になり、子どもを持ったというだけのことで、今もなお多くの家庭でDVや虐待が起こるのは、そういうことなのだろう。相手を支配する、思い通りにする「権利」を持っていると思うと、支配できなかったり思い通りにできないと、「権利」を侵害されたと思って怒るのは当然だ。

 私の見知った人間関係はこのような関係だったので、どうしても親しくなると、甘えが出てくる。子ども時代の経験が、今の人間関係の基礎であるから、親しい人につれなくされると、今度は見捨てられたと思いこむ。母が私についてはほとんど興味を持たず、ネグレクトに近かったので(もちろん、母は自分の趣味や周囲からの称賛のために、私に手をかけいつもかわいらしい手作りの洋服を着せ、行き届いた母親を演出していた。が、私が泣こうが悲しもうが、怪我をしようが病気になろうが、人目のないところでの私には全く興味を示さなかった。)、母にはほとんど見捨てられていたようなものだが、それは私の子どもへのまなざしにもあるようで、子どもは干渉されなくてよいだろうが、もう少しかまってほしい、という欲求はあったかもしれない。

 そして、私自身、未だに心の芯からわいてくる寂しさに、打ちのめされそうになる。誰かに傍にいてほしい感じがたまらなくわき起こる。が、そういう人を「募集」したとして、自分の心が満たされるとは思いにくい。寂しい時間つぶしのために、人と出会うというのは、確かに相手も同じ考えでいるときはイーブンな関係でよいのだろう。
 これまでの経験で自分が相手から気に入られる可能性は高いと思う。なぜなら、どうやら私は「寂しい人」をとてもうまくケアしてしまうようなのだ。自分がすることは、自分がしてほしいこと。相手の意を汲み、その人が何を欲しているのかを理解して、その場合自分なら何をしてほしいだろうと想像する。そしてそれを行為に転換すれば、多くの人の寂しさは癒される。「私をわかってくれるのはあなただけ」ということになってしまう。しかし、私は決してわかってもらった実感がない。多くの寂しい人は不器用で、相手の意を汲むことができない。私には、その人がなぜ寂しいのかがわかる。「下手くそ」だからだ。寂しい人の多くは、自分の寂しさにかまけて、他人のニーズに疎い。だから、ずっと寂しいままなのだ。「唯一、自分をわかってくれる人」であるはずの私のような人間に逃げられるから。なぜなら、私はその人といても少しも癒されない。少しも、わかってもらえない。だから、結局、好きになれないから、一定の距離を縮める気になれない。いつまで経っても、私は「お友だち」でいましょう、というスタンスを変えない。
 そして私も寂しいままだ。もっと親しくなりたい、でも、そんなに一方的に私から良きものを得よう、なんて思う人と親しくなりたいという欲求がわかない。そのような人に末期の水をとってもらいたいとは思わない。

 だから、この人生で私は寂しいまま、人々と適度な距離をとりながら、生き続けるしかないのだ。それでも、倒れそうになるほど寂しいことがある。正月は特にだめだ。気を紛らわせる場所すらない。

 仕事に生きようにも、もはや仕事からも見放され始めたから、年を取るのは本当に困難だ。一人で、生きる覚悟ができていたはずなのに、少し親しい人ができると、期待してしまう。依存してしまう。依存してはいけないのだ。他の人は、自分の都合で距離を縮めるが、私のニーズを汲むことはない、ということを、幼い頃からもう見知っていたはずなのだけれど。

 

元旦早々

2014-01-01 22:30:45 | 自分
 そう、元旦くらい、一年の計だから良いことを考えればよいのだが、一夜明ければ人間性が変わる、というわけにはいかないから、相変わらず、うっとうしいことを考えている。ただ、もう一つの、友人たちにも公開しているブログでは、明るい話題を提供するが。

 何を考えているかと言うと、私は、「女」というカテゴリーに属する側に生まれたことをまことに残念に思っている、ということを改めて確信して感じている、ということなのだ。FTMの問題に還元しようとは思っていない。FTMと、少し次元の異なる話なのではないかと(実は同じ構造上にある、という気はしているが)思っているので、同列に論じる気はない。

 女である、ということは、この世で、主体たりえない、ということではないのかと思っている。男が獲得し、男が築き上げたこの社会の秩序において、女の果たす役割は男のアイデンティティの強化、男の人生の果実、男の装飾品、男の癒しであって、女は「男の」何かであって同列にはいない。それはもちろん、これまでのフェミニズムが喝破してきたことだ。今さら、言うまでもない。が、今私が思うのは、その男優位の社会に女が乗り込んで来た第二波フェミニズム以降のことなのだ。
 確かに日本の政府ですら、「男女共同参画」というわけのわからない日本語を創作したにしても、「男女平等」を標榜するという時代にはなっている。とにかく、「平等」なのだ。それを盾に女たちは闘ってきた。

 しかし、法制度上の「平等」とは違う場面で、女たちは男の「対象」でしかない。もちろん、そのことも第二波フェミニズムは喝破してきた。しかし、しかしなのだ。ヘテロフェミニズムは、男を指向する女の物語だ。男を指向する時、これまで主体でなかった女はどこに位置づくのだろう。男にとっての「女」であることを、どのように主体化するのだろう。
 私にはわからないのだ。ヘテロフェミニズムが理解できない。男は「女」を得ることによって立つ。(勃つ、というようなしゃれを言いたいわけではない。)「女」は男を男たらしめる「道具」だ。ヘテロフェミニストは、その「道具」でありたいとは、微塵も思っていないだろう。が、ほんとうに、女は男と対を成しながら、自らがすっくと立っているのか?
 私には理解不能だ。

 私は、男といることによって、自分が何かの「手段」に落ちてしまったと感じる。いくら相手の男が私を望んだとしても、私が望まれた理由は相手の男が「男」であるために利するものに自分がなったのだと感じる。

 「性欲」などは信じにくい。それは、最も、様々な物語と結びついてきたものなので、この世の掟を反映していると思っている。

 だから、私は何か? と思うとき、男を喜ばせる、男を利する何かであるのはいやなのだ。「女」であることが、男の「手段」であるなら、私はそこから撤退するしかない。私は私でありたいからだ。
 (しかし、これはわがままなのだろうか。人はそもそも、誰かにとっての何かであるしか、愛される理由はないのだから、私が私であること、など、あまりにも無意味なのかもしれない。)

 私はこの世の主体でない生き物には生まれたくなかった、ようなのだ。だから、女であったことが頗る残念であるのだ。
 男と女のラブゲームなぞに、およそ参加したくない。
 じゃあ、どうするか? 女と女のラブゲームに逃げ込むか? それはしかし、この社会の「他者」と「他者」の出会いだ。この社会の「他者」である「女」には、「他者性」の美しさが確かにある。それを愛でることは不可能ではない。否、むしろ、好ましくさえ見える。しかし、「他者」と「他者」は出会うことに意味がない。「他者」は「主体」にとっての「他者」でしかない。ということは、「他者性」の美しさを賛美し、そこに関係性を見出すとすれば、それは、自分が「主体」性を帯びる、ということに他ならなくなる。つまり、私は「男」のアイデンティティを乗っ取ることによって、「他者性」の美を享受する側に回るのだ。
 男は、概念として主体だ。主体としてしか「男」というカテゴリーは成り立たない。そして、現実を主体として生きざるを得ない。
 自らの客体性に主体的人生を裏切られ続けた私は、主体としての男を指向するが、自分を愛玩する男を求めることができない。自分は愛玩されたくはない。では何を望むか? 愛玩されたくないが、誰かと関係をつくりたいと切望している。「愛」着し合う関係を得たい。では、客体として位置付けられた女性を指向する以外にないのではないか。男アイデンティティを乗っ取って、女性を対象とする以外に何ができるだろうか。
 否、もう一つの方法があるかもしれない。それは、男アイデンティティを乗っ取った自分が、対象も男に求めること。どちらにしても、自分が客体化された「女」であることから逃れられる。
 むしろ、女性を対象にする後ろめたさからも逃れられるから、男アイデンティティを乗っ取った自分が、男を対象にするのが一番楽な操作なのかもしれないと思う。
 
 ひょっとして、BLとは、そういう表れなのか?