このブログは、親しい一人の人を除いては、知っている人の誰にも教えていない。一人だけは、何を書いても、私のことを悪く思わないでいてくれるだろうと信じているところがある。よくうちとけて話が出来るので、説明できる機会もあるだろう、という安心感もある。
まあ、しかし、それも、一生懸命そういう間柄を培う努力をしてのことだけど。
で、他の友人知人にこのブログのことを伝えないのは、多くの人がちゃんと読んでくれるだろうと信じているけれど、それでも、私のことを誤認するだろうという懸念があるからだ。ここに登場する私は、私の一部だ。私は、実は明るい。年がら年中、冗談を言う機会を探しているところがある。冗談を言っているつもりでなくても、笑いを呼んでしまうことも再々ある。しかし、ここに登場する私は、暗いだろうと思う。いや、自分のことだからわからないけれども、他人が読むといやな人格として映るのではないかと想像する。実は、ここには、自分自身、あまり好きでないキャラクターの部分が出ている気がする。では、なぜ、そういう自分を全開して書くのか。
私には、(おそらく私だけではないだろうけれど)、承認欲求が強い。よくここに書くように、私は親にとって「返品希望」だった子どもだ。父は、私のことを「欠陥品」のように罵っていた。それは、私を傷つけていただろうと思う。「私って、そんなにダメなの?」と自分に問う以外にない状況だった。私は自分のことを「出来そこない」と呼んでいた。
しかし、親の目を外れると、私は決してそんなに悪くなさそうに扱われるのだ。近所の人からも学校でも、親戚からも、私はむしろ、褒められることが多いのだ。私は自分が良きものでありたい、という欲求を持っていた。しかし、評価は真っ二つに分かれていた。極端な出来そこないか、かなり卓越した資質を持っているものなのか。学校の成績は良い。しかし、家に帰れば、出来そこない呼ばわりだ。成績が良いことすら、家では良きことにカウントされない。「私って、結構、いけてるんでしょ?」と思いたいが、家にあっては冷水を浴びせられる。プライドの芽は、すぐに摘まれる。そのような揺れ動きの中で生長した。
そして、成長して、自分の良き部分を自分で認めていきたいという欲求が湧き立って来る。親にくそみそに罵倒されたあの心の傷を、悔しさを、無念さを、消し去りたいのだ。私のキーワードに「無念」という言葉がある。自分で、多用するのには気づいている。
そう、私は、「無念」なのだ。
「無念」には二つの意味があるが、無念無想の境地に行きたいものだ。
得られなかった承認を得たい、それを自分で獲得しようとする。だから、私はその承認欲求の垣間見える文章を書いてしまう。それがこのブログだという気がする。
それは、きっと他の人が読むと、醜い、いやな人格の、文章なのだろうと想像するのだ。だって、その自分を自分も、実は好きではないから。好きではないが、承認欲求を満たすために書く。世界の知らない人に向かって、書く。世界の、知らない人は、私を罵倒しないだろうと思うので。私のことを知らないから、「エラソーに言っても、お前なんか大したことないじゃないか」とからかったりしないだろうと思うから。
そして、たった一人、このブログを読む親しい人は、たぶん、このいやな人格でない私のことも知ってくれていると思っているから。
でも、それも願望だ。どこまでわかってくれているかはわからない。でも、自分のことなど自分でそれほどわかっているものでもないから、誤解しないで読んでくれると思えるその親しい人に託して、このブログを書き続けている。全世界に向けて、私のことを全く知らない人たちに向けて書いている。
ちょっとペダンチックで、ナルシスティックで、承認欲求の強いこのブログを、自分でも好きでないキャラの部分を全開させて恥をさらしていく。
それがこのブログ。
まあ、しかし、それも、一生懸命そういう間柄を培う努力をしてのことだけど。
で、他の友人知人にこのブログのことを伝えないのは、多くの人がちゃんと読んでくれるだろうと信じているけれど、それでも、私のことを誤認するだろうという懸念があるからだ。ここに登場する私は、私の一部だ。私は、実は明るい。年がら年中、冗談を言う機会を探しているところがある。冗談を言っているつもりでなくても、笑いを呼んでしまうことも再々ある。しかし、ここに登場する私は、暗いだろうと思う。いや、自分のことだからわからないけれども、他人が読むといやな人格として映るのではないかと想像する。実は、ここには、自分自身、あまり好きでないキャラクターの部分が出ている気がする。では、なぜ、そういう自分を全開して書くのか。
私には、(おそらく私だけではないだろうけれど)、承認欲求が強い。よくここに書くように、私は親にとって「返品希望」だった子どもだ。父は、私のことを「欠陥品」のように罵っていた。それは、私を傷つけていただろうと思う。「私って、そんなにダメなの?」と自分に問う以外にない状況だった。私は自分のことを「出来そこない」と呼んでいた。
しかし、親の目を外れると、私は決してそんなに悪くなさそうに扱われるのだ。近所の人からも学校でも、親戚からも、私はむしろ、褒められることが多いのだ。私は自分が良きものでありたい、という欲求を持っていた。しかし、評価は真っ二つに分かれていた。極端な出来そこないか、かなり卓越した資質を持っているものなのか。学校の成績は良い。しかし、家に帰れば、出来そこない呼ばわりだ。成績が良いことすら、家では良きことにカウントされない。「私って、結構、いけてるんでしょ?」と思いたいが、家にあっては冷水を浴びせられる。プライドの芽は、すぐに摘まれる。そのような揺れ動きの中で生長した。
そして、成長して、自分の良き部分を自分で認めていきたいという欲求が湧き立って来る。親にくそみそに罵倒されたあの心の傷を、悔しさを、無念さを、消し去りたいのだ。私のキーワードに「無念」という言葉がある。自分で、多用するのには気づいている。
そう、私は、「無念」なのだ。
「無念」には二つの意味があるが、無念無想の境地に行きたいものだ。
得られなかった承認を得たい、それを自分で獲得しようとする。だから、私はその承認欲求の垣間見える文章を書いてしまう。それがこのブログだという気がする。
それは、きっと他の人が読むと、醜い、いやな人格の、文章なのだろうと想像するのだ。だって、その自分を自分も、実は好きではないから。好きではないが、承認欲求を満たすために書く。世界の知らない人に向かって、書く。世界の、知らない人は、私を罵倒しないだろうと思うので。私のことを知らないから、「エラソーに言っても、お前なんか大したことないじゃないか」とからかったりしないだろうと思うから。
そして、たった一人、このブログを読む親しい人は、たぶん、このいやな人格でない私のことも知ってくれていると思っているから。
でも、それも願望だ。どこまでわかってくれているかはわからない。でも、自分のことなど自分でそれほどわかっているものでもないから、誤解しないで読んでくれると思えるその親しい人に託して、このブログを書き続けている。全世界に向けて、私のことを全く知らない人たちに向けて書いている。
ちょっとペダンチックで、ナルシスティックで、承認欲求の強いこのブログを、自分でも好きでないキャラの部分を全開させて恥をさらしていく。
それがこのブログ。