凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

権威に逆らうということ―「ある人」に嫌われたらしい話

2015-02-25 12:05:14 | 自分
 社会は、細かなコミュニティに分かれているので、社会全体を敵に回したとは思っていない。私の活動範囲の小さなコミュニティのことだ。しかし、社会全体に連動しているのも事実なので、コミュニティ内にとどまっている小さな出来事とも思いにくい。

 力を持っている人が力を発揮する。その時に、過去に逆らったかわいげのない私は、そういう力のある人から、第三者からはそれとわからない制裁を受ける。
 
 「ある人」は、ある著名な人に帰依し、その人が亡くなった後の遺産を任されたようで、コミュニティに数多ある小グループの活動基金に充てることにした。多くのグループが活動資金を必要としていて、本の出版、連続講座の実施、意識調査プロジェクトなど、さまざまな企画を持ち込んで、その基金からの助成金を獲得しようとする。
 私が所属するあるプロジェクトは、その選から漏れた。申請を担当したプロジェクトのメンバーは、「力足らずですみません」と皆に謝っていたが、私は自分が原因なのではないかと思っている。
 「ある人」は、私が直接、攻撃したわけではない。ただ、その人が懐に入れてかわいがっていた人を、私が職務上、問いただす羽目になった。問いただされた人が、自分になびかない私を敵視したために、どのように私のことを「ある人」に伝えたのかはわからないが、とにかく私はたぶんその「ある人」からも敵視されたようなのだ。もともと、その、「ある人」は私には気が合わないタイプの人だ。官僚的で生硬で、自分だけが正しいと思っているようなところがあり、しかも各界の超一流の人になびいていくタイプの人だ。まぁ、自分を一流だと思っているから、一流の人になびいているだけなのだろうけれども。で、そういうタイプの「ある人」に、私自身、初めから好感は持っていない。しかし、敵とも思っていない。仲良くならないタイプの人にすぎない。

 が、どうも嫌われ、悪口を言われているらしい、ということはなんとなくわかってきていた。そして、上記のプロジェクトに私が参加していることをその「ある人」は知った。私は表には出ていなかったが、そのプロジェクトで地域の報告会議を行った時、その「ある人」がやって来たのだ。私は、立って挨拶に行き、ご無沙汰していますと頭を下げ、その人はその時はとっさのことだったせいか、「あら~」とにこやかだった。 
 が、会議の後、その人は素早く立ち去り、その人の連れが、ばつが悪そうに私と少し話した。
 勘の悪い私でも、その人に快く思われていないことはわかった。

 そして私の所属するプロジェクトの基金への応募。通らなかった、ということを聞いたとき、私のせいだろうと思った。ただ、そのことはメンバーには言っていない。こういうことを説明すると、相手の悪口を言わねばならない状況になりそうで、いやなのだ。が、再度、応募した時にまた落選すれば、「なぜだろう?」ということにもなるだろう。なぜなら、その基金の性質から考えても亡くなった人の活動テーマから考えても、その「ある人」の活動範囲から考えても、どう考えても、私たちのプロジェクトは最も適しているテーマを持っているからだ。そして、いささかの偏りもなく、ニュートラルに事が進められている。ほんとのところ、通らないのがおかしいのだ。ただ一つの理由は、私だ。

 しかし、人というものは、どうしてこうも、私情に揺さぶられ、私情に身を任せて、公的な動きをつくるものなのだろう。
 考え方は違う、そのやり方はいやだと反対を表明する、その点については私はあなたについていかないと言明する、それでもその部分を除いて、私は明確に人を肯定するし、その相手の誠実さを疑わない。
 私はその「ある人」のことを、正直で悪いことは一切しない人だと信じている。策を練って、人を陥れる人ではないと思っている。でも、好きではない。尊敬もしていない。そういう人間関係というものはたくさんある。こっちではダメだけど、あっちではしっかりやっておられるから、良い仕事をされるだろう、などと評価はできる。
 そういうことは、そんなに困難なのだろうか。

 私は人の好悪が激しくないとは思う。そのせいか、こちらはそうでもないのに、異様に好かれることがある。異様に好いて来る人は、私をとらえて離そうとしない。自分だけのものにしたがる。たぶん、私の淡白さが、そういう人たちには心地よいのだろう。人の好悪が激しい人同士は、異常に仲良しか、うんと仲が悪いか、だ。
 私の目には過剰に見える。

 しかし、この私の線の引き方、距離の取り方、基本的にニュートラルな位置どりは、過剰な人たちから見ると、敵に見えたりずるく見えたりするのかもしれない。
 もう少し、理性的に、論理的になろうよ、と言いたい状況が展開している。

 が、そうして権力者にも逆らって、嫌われて、片隅でひっそりとしている私の生き方が賢いとは、どうも考えにくいのも事実。

いつの間にか2月

2015-02-08 10:34:22 | 考え方
 なんと言うか、私の周りの運動系はトラブルだらけだ。

 みんな我が強い。絶対、譲らない。だから、議論をしても空しいのだ。対立する意見は出し合って、すり合わせをして、止揚に至る、なんてことはない。
 私が見て来たのは、不毛なバトルばかり。

 バトルに入る人たちは、多くが自説を曲げない。自分こそが正義を体現しているという自負があって、これだけは譲れない、というような勢いがある。この勢いは、エスカレートすると、怒りや敵意の感情に発達する。怒りや敵意の応酬が始まったら、もう、他の考えの入り込む余地はない。

 私はどちらかと言えば、そうした愚痴や不満や怒りを、打ち明けられる立場になりやすい。わかってもらえる、と勝手に思われてしまう。悲しみや怒りをかかえている人の神経を逆なでするようなことは、基本的に言わないから。悲しみは慰撫したいと考えるし、怒りにも慰撫する思いで寄りそうことはある。ただし怒りを煽ることはしない。

 ネガティブな感情は慰撫される必要があると思っているからだ。

 ただ、その人の言い分が正しいかどうかについて、「判定」を求められたら、それは話は別。イージーな判断はする気がない。客観的な正しさ、を判定することは不可能だ。
 だが、自分こそが正しいと思い込んでいる人は、相手から来た批判や攻撃は、自分の正義を蹂躙する行為だと思ってしまう。だから、怒りを持つのだが、その人が正しいかどうかは、まったく別の話だ。
 そもそもの事件の発端は知らないのだが、今わかるのは、怒りに対して怒りの応酬をすることで、どんどん対立が激化している、ということだけ。
 こじれてしまってから、正しさの判定や、正しさへの同調を求められても困る。

 しかし、同調しないことで、今度は私が批判の的になる。同調圧力が働くのだ。

 今、大いに困惑している。その人をなんとか慰撫したい、そのネガティブな感情をなんとか緩和したい、という思いはあるが、それは友人ゆえにそう思うのであって、だからと言って、その人の敵を憎むように、同じように敵視するように望まれても、期待されても困るのだ。その人の敵に対して、その人に対するように同調する気はないし、付き合う気もない。
 それでも、その人の敵を、「悪」と断罪しない私は、その「悪」を擁護していることになるらしい。「断罪」しないが、「擁護」もしない立場、というのは成り立たないのか。
 「断罪」はしないが、共感も同調もしない。むしろ、批判的に見てはいる。距離を置いて考えている。そして、友人の方をケアしたい、という気持ちはある。
 それでも、相手を糾弾し、激しく論難する友人と比べて、敵視しない、怒りに燃えない、断罪しない、という温度差が、第三者の「すぐに同調する」タイプの友人から責められる。

 深く吟味することなく、わかりやすい「正義」、安全な「正義」のもとに集団の尻馬に乗って騒いでいた人を見てきたので、この愚は犯すまいと思っている。

 私は相談を受けた時に、報復もバトルも避けることをアドバイスした。相手は、百戦錬磨の、闘いが人生である、というようなタイプの人。運動家ではなく、「闘争家」なのだ。自分の趣味も「闘い」である人は闘えばよいけれども、そうでなければ、それは不毛な闘いであると、私には見えた。
 
 議論は成立しない。自説を信じて疑わない人同士の議論に、止揚の可能性はない。自説を相対化する力のない人に、議論は不向きだ。それら対立構造に、第三者の目があって初めて、止揚が可能になる。その第三者の目は、どちらにも感情的に引きずられないものだ。両者が、敵と味方の二分法でしか物事をとらえないのであれば、第三者は争いに巻き込まれるだけだ。

 さらに困ったことに、私は友人が敵視している人からも、好感を寄せられる。敵視しない私を、自分の味方と見るのかもしれない。敵とか味方とかではなく、友人に寄りそいたいだけのだが。

 人間を、敵と味方の二種類に分けて、冷静な判断を見失っている人というのは、まことに憂わしい。事実は複雑だし、人の激情はややこしくて正当化は困難だと思うが、第三者の判定を期待する場合がある。自分が正しいと信じているから、同調してもらえると信じて疑わない。だから、第三者の判定が、自分の側に寄与するものでなければ、たとえ「敵」にも寄与しない冷静なものであったとしても、さらに怒りに火が着くのだろう。
 今となっては、世界を震わせるテロリズムと、どう向き合うかという次元の話まで、事の性質は重なる感じすらある。

 せめて、言葉の応酬のレベルにとどまっている私の周りの事件では、早く怒りを鎮静化させてほしいと願う。しかし、鎮静化させる努力はなされていないようだ。怒りが怒りを呼び、「勝つ」か「負けるか」のぎりぎりまで持ち込んでしまった責任を感じてほしいが、あくまで相手が「悪」だと思っている間は、その責任すら自覚しないのだろうな。