社会は、細かなコミュニティに分かれているので、社会全体を敵に回したとは思っていない。私の活動範囲の小さなコミュニティのことだ。しかし、社会全体に連動しているのも事実なので、コミュニティ内にとどまっている小さな出来事とも思いにくい。
力を持っている人が力を発揮する。その時に、過去に逆らったかわいげのない私は、そういう力のある人から、第三者からはそれとわからない制裁を受ける。
「ある人」は、ある著名な人に帰依し、その人が亡くなった後の遺産を任されたようで、コミュニティに数多ある小グループの活動基金に充てることにした。多くのグループが活動資金を必要としていて、本の出版、連続講座の実施、意識調査プロジェクトなど、さまざまな企画を持ち込んで、その基金からの助成金を獲得しようとする。
私が所属するあるプロジェクトは、その選から漏れた。申請を担当したプロジェクトのメンバーは、「力足らずですみません」と皆に謝っていたが、私は自分が原因なのではないかと思っている。
「ある人」は、私が直接、攻撃したわけではない。ただ、その人が懐に入れてかわいがっていた人を、私が職務上、問いただす羽目になった。問いただされた人が、自分になびかない私を敵視したために、どのように私のことを「ある人」に伝えたのかはわからないが、とにかく私はたぶんその「ある人」からも敵視されたようなのだ。もともと、その、「ある人」は私には気が合わないタイプの人だ。官僚的で生硬で、自分だけが正しいと思っているようなところがあり、しかも各界の超一流の人になびいていくタイプの人だ。まぁ、自分を一流だと思っているから、一流の人になびいているだけなのだろうけれども。で、そういうタイプの「ある人」に、私自身、初めから好感は持っていない。しかし、敵とも思っていない。仲良くならないタイプの人にすぎない。
が、どうも嫌われ、悪口を言われているらしい、ということはなんとなくわかってきていた。そして、上記のプロジェクトに私が参加していることをその「ある人」は知った。私は表には出ていなかったが、そのプロジェクトで地域の報告会議を行った時、その「ある人」がやって来たのだ。私は、立って挨拶に行き、ご無沙汰していますと頭を下げ、その人はその時はとっさのことだったせいか、「あら~」とにこやかだった。
が、会議の後、その人は素早く立ち去り、その人の連れが、ばつが悪そうに私と少し話した。
勘の悪い私でも、その人に快く思われていないことはわかった。
そして私の所属するプロジェクトの基金への応募。通らなかった、ということを聞いたとき、私のせいだろうと思った。ただ、そのことはメンバーには言っていない。こういうことを説明すると、相手の悪口を言わねばならない状況になりそうで、いやなのだ。が、再度、応募した時にまた落選すれば、「なぜだろう?」ということにもなるだろう。なぜなら、その基金の性質から考えても亡くなった人の活動テーマから考えても、その「ある人」の活動範囲から考えても、どう考えても、私たちのプロジェクトは最も適しているテーマを持っているからだ。そして、いささかの偏りもなく、ニュートラルに事が進められている。ほんとのところ、通らないのがおかしいのだ。ただ一つの理由は、私だ。
しかし、人というものは、どうしてこうも、私情に揺さぶられ、私情に身を任せて、公的な動きをつくるものなのだろう。
考え方は違う、そのやり方はいやだと反対を表明する、その点については私はあなたについていかないと言明する、それでもその部分を除いて、私は明確に人を肯定するし、その相手の誠実さを疑わない。
私はその「ある人」のことを、正直で悪いことは一切しない人だと信じている。策を練って、人を陥れる人ではないと思っている。でも、好きではない。尊敬もしていない。そういう人間関係というものはたくさんある。こっちではダメだけど、あっちではしっかりやっておられるから、良い仕事をされるだろう、などと評価はできる。
そういうことは、そんなに困難なのだろうか。
私は人の好悪が激しくないとは思う。そのせいか、こちらはそうでもないのに、異様に好かれることがある。異様に好いて来る人は、私をとらえて離そうとしない。自分だけのものにしたがる。たぶん、私の淡白さが、そういう人たちには心地よいのだろう。人の好悪が激しい人同士は、異常に仲良しか、うんと仲が悪いか、だ。
私の目には過剰に見える。
しかし、この私の線の引き方、距離の取り方、基本的にニュートラルな位置どりは、過剰な人たちから見ると、敵に見えたりずるく見えたりするのかもしれない。
もう少し、理性的に、論理的になろうよ、と言いたい状況が展開している。
が、そうして権力者にも逆らって、嫌われて、片隅でひっそりとしている私の生き方が賢いとは、どうも考えにくいのも事実。
力を持っている人が力を発揮する。その時に、過去に逆らったかわいげのない私は、そういう力のある人から、第三者からはそれとわからない制裁を受ける。
「ある人」は、ある著名な人に帰依し、その人が亡くなった後の遺産を任されたようで、コミュニティに数多ある小グループの活動基金に充てることにした。多くのグループが活動資金を必要としていて、本の出版、連続講座の実施、意識調査プロジェクトなど、さまざまな企画を持ち込んで、その基金からの助成金を獲得しようとする。
私が所属するあるプロジェクトは、その選から漏れた。申請を担当したプロジェクトのメンバーは、「力足らずですみません」と皆に謝っていたが、私は自分が原因なのではないかと思っている。
「ある人」は、私が直接、攻撃したわけではない。ただ、その人が懐に入れてかわいがっていた人を、私が職務上、問いただす羽目になった。問いただされた人が、自分になびかない私を敵視したために、どのように私のことを「ある人」に伝えたのかはわからないが、とにかく私はたぶんその「ある人」からも敵視されたようなのだ。もともと、その、「ある人」は私には気が合わないタイプの人だ。官僚的で生硬で、自分だけが正しいと思っているようなところがあり、しかも各界の超一流の人になびいていくタイプの人だ。まぁ、自分を一流だと思っているから、一流の人になびいているだけなのだろうけれども。で、そういうタイプの「ある人」に、私自身、初めから好感は持っていない。しかし、敵とも思っていない。仲良くならないタイプの人にすぎない。
が、どうも嫌われ、悪口を言われているらしい、ということはなんとなくわかってきていた。そして、上記のプロジェクトに私が参加していることをその「ある人」は知った。私は表には出ていなかったが、そのプロジェクトで地域の報告会議を行った時、その「ある人」がやって来たのだ。私は、立って挨拶に行き、ご無沙汰していますと頭を下げ、その人はその時はとっさのことだったせいか、「あら~」とにこやかだった。
が、会議の後、その人は素早く立ち去り、その人の連れが、ばつが悪そうに私と少し話した。
勘の悪い私でも、その人に快く思われていないことはわかった。
そして私の所属するプロジェクトの基金への応募。通らなかった、ということを聞いたとき、私のせいだろうと思った。ただ、そのことはメンバーには言っていない。こういうことを説明すると、相手の悪口を言わねばならない状況になりそうで、いやなのだ。が、再度、応募した時にまた落選すれば、「なぜだろう?」ということにもなるだろう。なぜなら、その基金の性質から考えても亡くなった人の活動テーマから考えても、その「ある人」の活動範囲から考えても、どう考えても、私たちのプロジェクトは最も適しているテーマを持っているからだ。そして、いささかの偏りもなく、ニュートラルに事が進められている。ほんとのところ、通らないのがおかしいのだ。ただ一つの理由は、私だ。
しかし、人というものは、どうしてこうも、私情に揺さぶられ、私情に身を任せて、公的な動きをつくるものなのだろう。
考え方は違う、そのやり方はいやだと反対を表明する、その点については私はあなたについていかないと言明する、それでもその部分を除いて、私は明確に人を肯定するし、その相手の誠実さを疑わない。
私はその「ある人」のことを、正直で悪いことは一切しない人だと信じている。策を練って、人を陥れる人ではないと思っている。でも、好きではない。尊敬もしていない。そういう人間関係というものはたくさんある。こっちではダメだけど、あっちではしっかりやっておられるから、良い仕事をされるだろう、などと評価はできる。
そういうことは、そんなに困難なのだろうか。
私は人の好悪が激しくないとは思う。そのせいか、こちらはそうでもないのに、異様に好かれることがある。異様に好いて来る人は、私をとらえて離そうとしない。自分だけのものにしたがる。たぶん、私の淡白さが、そういう人たちには心地よいのだろう。人の好悪が激しい人同士は、異常に仲良しか、うんと仲が悪いか、だ。
私の目には過剰に見える。
しかし、この私の線の引き方、距離の取り方、基本的にニュートラルな位置どりは、過剰な人たちから見ると、敵に見えたりずるく見えたりするのかもしれない。
もう少し、理性的に、論理的になろうよ、と言いたい状況が展開している。
が、そうして権力者にも逆らって、嫌われて、片隅でひっそりとしている私の生き方が賢いとは、どうも考えにくいのも事実。