凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

感情の組織化

2009-10-13 12:04:44 | 組織・集団
 2003年12月に、ヘッドハンティングに来た人に請われて、就職を決意したときから巻き込まれてしまった事件のトラウマが、未だに癒えずに私を苦しめる。もちろん、癒しは、私の現状が改善されるまで、完了しないだろう。不遇感がある間は、この過去の悪夢から解放されることはないだろう。
 が、別にやみくもに安楽を得たいわけではないので、それは仕方がない。むしろ、しばしば起こるフラッシュバックの中で、「あれは何だったのだろう?」というとりとめのない想念が広がり、その中から立ち上がる解釈や発見を今は大事に記録しておこうと思っている。それで、このあいだから、感じていること一つ。それは、感情、その中でもネガティブな感情の組織化、集団化ということを書いてみる。

 悪意というものは、組織されやすいのか。他人の怒りや攻撃感情に乗っかる人は、非常に多いように思う。それは、自分では怒りや攻撃感情を発信することができず、それなりの論拠を構築できない人の、常套手段なのかもしれない。
 そして、その他人の怒りや攻撃感情が、非常にうまく言語化され、それなりの説得力を持つ背景があったりすると、自らの怒りや攻撃感情を発散させるツールとなり、多大な熱意を賭けて応援、支援が始まる。なぜなら、怒りや攻撃感情は、抑圧してあった自分のものであるから。
 時には、当事者以上に、激しく、かたくなに。

 私も、他人が私の怒りの感情を、私以上に代弁してくれて、驚いたことがある。そのときは、私以上に、うまく私の気持ちを語ってくれ、自分のことのように、怒ってくれることに感謝していた。が、ほんとうは、私の気持ちではなく、その人は自分の気持ちを、私の出来事に仮託していただけだったのだ。それに気づくようになったのは、私の怒りよりも、その人の怒りの方が大きかったとき。「いや、そこまでは、、、」と思う私を越えて、その人の攻撃はやまず、執拗だった。
 私は、使われたのだ。

 時には、当事者の怒りと、第三者の怒りが、より一層の相乗効果で、常軌を逸していく場合があるだろう。当事者の怒りと、第三者の怒りは、もともと別のものであったはずなのに、怒りの炎が一緒になって、より大きく燃え上がる。もはや、他に燃え移ろうが、他に迷惑を及ぼそうが、互いに燃えているからわけがわからなくなっている。早く正気に返った方がよい。誰か一人でも、沈静して、事態をもう一度、正しく見つめた方がよい。意味なく、ただ燃えさかるありさまに、当事者たち以外は唖然とするばかりだ。決して効果はない。

 しかしまた、感情の最中にいる人は、なんとものが見えなくなっていることか。できることなら、激情に身を委ねる前に、なんとか醒めたいものだと、そのような人を見ていると、つくづく思う。

 まだ中学生の頃に、「怒りは無謀をもって始まり、悔恨に終わる」という誰だかの言葉を教訓にし、常に冷静でいようとしていた。が、これもまた無理があった。あふれる感情を押し殺すことで、徐々に心を病んで行った。
 感情を抑圧するのではなく、どこかに放出させる方法を賢く見つけ出す必要はある。その上で、冷静さを確保するのでなければ、押し殺された感情は、行き場を失って内部で破壊活動を始める。さて、どのようにして、そんな賢い方法を見つけることができるだろうか。昔、忌み嫌った、からだを動かす作業は、実はとても賢明な手段だったかもしれない。嘗て忌み嫌ったのは、からだを動かすことによって、思考活動、情緒などが鈍磨してしまうと思ったからだ。が、そうではなく、余分な感情の嵐をよけるための知恵としてあったのかもしれないと、15歳だった時から、59歳の今になって、やっと少しだけ成長した。