凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

いらちな人

2014-03-31 10:16:53 | 人間関係
 関西には「いらち」という言葉がある。「せっかち」というのとは、ニュアンスが違うような気がする。「せっかち」というのは、本人の気質にのみ言及しているニュアンスがあるが、「いらち」というのは、その人の周りにいる人に、何らかの影響を与えるものという語感がある。その影響も、良い影響というよりは、その人の性急な行動様式のために、周囲がなんとなくせきたてられる感じを持ったり、落ち着いてゆっくり取り組めない雰囲気を作っている、というようないささか「ハタ迷惑」なイメージがついている。

 で、その自他ともに「いらち」を認める人と一緒に、一台のパソコンで作業をしていた。最初は彼女が、よくわからないから一緒に、ということで、私が付き合うことになったのだが、その作業は私も初めてのこと。二人でああでもない、こうでもない、と試行錯誤していたのだが、基本的に彼女がパソコンを触っているときは、私が横にいて、一緒にディスプレイを覗き込む感じだ。彼女がよくわからないまま作業をするときは、私の方は「あ、今のところではなく、もう一度戻れる?」というように、彼女のペースを崩さないで口をはさむので、おそらく彼女はストレスを感じないだろう。「あなたはつきあってて楽」と言ってくれるが、ほんとにそうだろうと思う。が、立場が変わって彼女が横に、私がパソコンを触りだすと、とたんに彼女は口やかましくなる。私がキーを押し間違えて違った操作をしてしまった時、すでに私はそのことに気づいているが、機械というものは次の操作に移るのに一定の時間を必要とする。その隙ですら彼女は、「今のはこうしたらよかったのに」「こうしたらああなるのに」と、口数が多い。いや、わかっているが、この場面になってしまったのだ、操作のやり直しには数秒と言えど、時間はかかる。

 この彼女は、会議でも口数が多い。早口で常に動いていないと気が済まない感じだ。
 彼女は、私には遠慮しているところがあるが、若い人で、自分が何かを教える立場の相手であると、かなり口うるさい。その若い人が自分の机に自分の資料を置く場所ですら、「そこに置いたらやりにくいでしょ。こっちっ!」と、かなり難儀な先輩になる。以前、ある事務所では、とうとうこの人からパワハラを受けたと、若い人が辞めて行ったことがある。「そんな細かいことは、本人がやりながら、自分でわかっていくことだから」と忠告したが、なぜか、彼女には自分のやり方が正しいと信じているところがあって、そこには反省がなかった。

 で、今回、この彼女とパソコン作業をしていて、実にやりにくかったのだが、それで考えたこと。
 「いらち」な人というのは、その場の文脈をリードする人なのかもしれないと思った。頭の回転が速く見えるのは、この場の文脈をリードしているからなのだ。自分の文脈で場を進めているから、自分の想定内の展開になっている。だから、いつでも即応可能なのだ。相手が文脈に乗り切れないで応答に一瞬戸惑ったりすると、その人はのろい人に見える。しかし、そうではなく、多くの場合、他の人の文脈に沿わないといけないという一段階余計に手続きを踏んでいるのだ。
 この彼女も、文脈を支配してしまうタイプの人だ。場を自分の文脈にしっかり引きつけてしまう能力がある。だから、よく喋り、自分の知識を存分に開陳し、場をコントロールしていく。

 私は、他の人の文脈を探すタイプだ。だから、常に他の人の文脈で場をつくる。そのことで、「私のことをよくわかってくれている」だの、「とてもいい人」だのと好かれることもある。だが、自分で文脈を支配するのは苦手だ。そういう者同士が会話をすると、全然話がはずまない。

 「いらち」な人は自分がその場の文脈を支配しているとは気づいていない。自分のペースで、他人を若干巻き込みながら、走り続ける人たちだ。そして、それは変わらないのだろう。この彼女は、年齢的なものもあるのか、たまに相手に文脈を譲る場合もあるし、基本的に悪意がないのが見えるので、同輩には単に「いらち」な人で通っている。嫌われている感じはない。ただ、「かなわんなぁ」と思っている人の愚痴はちょくちょく聞く。

人との関係の取り方

2014-01-03 09:51:40 | 人間関係
 まことに難しいものだと思うのは、これだ。他の人はそれをどういうように処理するのだろう。確かに多くの人が、人間関係で悩んでいる。私自身、「女性のための相談」というようなことを仕事にしていたこともあるので、それは、よくよくわかっている。
 近所付き合い、職場の人との関係、、、最も多いのは夫との関係の悩みだった。

 この世を生きるのに、人との関係を拒否しては生きられない。誰かが要るように思う。しかし、希薄な、時候の挨拶だけの関係ではなく、もっと豊かな関係を求め始めると、苦悩も始まる。

 私の経験で言えば、親たちは、配偶者と子どもとの関係だけは不動のものと思い、甘え切っていた。世間に対しては極端なほど遠慮をし、「身内」意識が強い。が、身内を守る、というより、身内なら守ってもらえる、という片務的な愛を要求していた人たちのように思う。配偶者は大人なのでまだ気を遣う面もあるが、子どもにだけはとてつもなく甘え、支配し、限りない権利を持っているかのようだった。今思えば、精神的に未熟な人たちが大人になり、子どもを持ったというだけのことで、今もなお多くの家庭でDVや虐待が起こるのは、そういうことなのだろう。相手を支配する、思い通りにする「権利」を持っていると思うと、支配できなかったり思い通りにできないと、「権利」を侵害されたと思って怒るのは当然だ。

 私の見知った人間関係はこのような関係だったので、どうしても親しくなると、甘えが出てくる。子ども時代の経験が、今の人間関係の基礎であるから、親しい人につれなくされると、今度は見捨てられたと思いこむ。母が私についてはほとんど興味を持たず、ネグレクトに近かったので(もちろん、母は自分の趣味や周囲からの称賛のために、私に手をかけいつもかわいらしい手作りの洋服を着せ、行き届いた母親を演出していた。が、私が泣こうが悲しもうが、怪我をしようが病気になろうが、人目のないところでの私には全く興味を示さなかった。)、母にはほとんど見捨てられていたようなものだが、それは私の子どもへのまなざしにもあるようで、子どもは干渉されなくてよいだろうが、もう少しかまってほしい、という欲求はあったかもしれない。

 そして、私自身、未だに心の芯からわいてくる寂しさに、打ちのめされそうになる。誰かに傍にいてほしい感じがたまらなくわき起こる。が、そういう人を「募集」したとして、自分の心が満たされるとは思いにくい。寂しい時間つぶしのために、人と出会うというのは、確かに相手も同じ考えでいるときはイーブンな関係でよいのだろう。
 これまでの経験で自分が相手から気に入られる可能性は高いと思う。なぜなら、どうやら私は「寂しい人」をとてもうまくケアしてしまうようなのだ。自分がすることは、自分がしてほしいこと。相手の意を汲み、その人が何を欲しているのかを理解して、その場合自分なら何をしてほしいだろうと想像する。そしてそれを行為に転換すれば、多くの人の寂しさは癒される。「私をわかってくれるのはあなただけ」ということになってしまう。しかし、私は決してわかってもらった実感がない。多くの寂しい人は不器用で、相手の意を汲むことができない。私には、その人がなぜ寂しいのかがわかる。「下手くそ」だからだ。寂しい人の多くは、自分の寂しさにかまけて、他人のニーズに疎い。だから、ずっと寂しいままなのだ。「唯一、自分をわかってくれる人」であるはずの私のような人間に逃げられるから。なぜなら、私はその人といても少しも癒されない。少しも、わかってもらえない。だから、結局、好きになれないから、一定の距離を縮める気になれない。いつまで経っても、私は「お友だち」でいましょう、というスタンスを変えない。
 そして私も寂しいままだ。もっと親しくなりたい、でも、そんなに一方的に私から良きものを得よう、なんて思う人と親しくなりたいという欲求がわかない。そのような人に末期の水をとってもらいたいとは思わない。

 だから、この人生で私は寂しいまま、人々と適度な距離をとりながら、生き続けるしかないのだ。それでも、倒れそうになるほど寂しいことがある。正月は特にだめだ。気を紛らわせる場所すらない。

 仕事に生きようにも、もはや仕事からも見放され始めたから、年を取るのは本当に困難だ。一人で、生きる覚悟ができていたはずなのに、少し親しい人ができると、期待してしまう。依存してしまう。依存してはいけないのだ。他の人は、自分の都合で距離を縮めるが、私のニーズを汲むことはない、ということを、幼い頃からもう見知っていたはずなのだけれど。

 

親分肌の人

2013-08-10 10:54:27 | 人間関係
 リーダーシップがあるというか、人を先導するのに長けた人がいる。結構、いろいろな場面にいるものだ。

 が、これが困る場合がある。本人は自覚しないだろうが、こういう人の中には、自分の懐に飛び込んで来た人だけを大事にする、という人が混じっている。組織にこのタイプの人がいると、実は困るのだ。
 先ず、自分は「長」のポジションだから、何でも一応、耳に入れておいてもらうのが当たり前と思っていたりすると、指示系統を無視して動いたりする。こちらはその人よりも指示系統上、上位であるのに、その人は指示では動かない。先に相談されないことに気を悪くするらしいのだ。
 そして、自分の懐に飛び込んできた人だけを守ろうとするから、業務の実施上あっては困る「えこひいき」が起こる。集団の中の力学を読むのに長けている人は、そういうタイプの人の懐に飛び込むから、自分にとって居心地の良い組織環境が作られることになり、問題はない、ということになるのだが、個人の懐に飛び込まない、組織の成員の一人として立ち位置を作っている人(私の目には、こちらが普通なのだが)は、割を食う。ニュートラルに振る舞うことが、何か不具合を生じる、という結果になる。
 誰からもきちんと距離を置き、組織の一構成員としてふるまう、ということが、この民主主義からほど遠い社会では、こんなにも生き難いことなのかと思う。

 自分の懐に飛び込んで来る人を大事にする人は、要するに身びいきするタイプなのだが、懐に飛び込んでしまった人には、それは欠点には見えない。自分に都合良く動いている社会は、良い社会に見えるものだ。

 が、そういうタイプの人との調整に苦労した私には、まことに問題の多い人であった。そういう人は一人できちんと立たないのだが、親分ポジションなので、一人できちんと立っていない、ということ自体そもそも本人がわかっていない。後ろに守るべき人たちをかかえているヒーローの気分なのだ。後ろに抱えている守るべき人たちは、弱者ではなく、守れば自分にしっかり見返りの来る人たちを守っている、ということも自覚しない。弱者は、いくら守っても見返りは期待できない。そういう人は、そのような弱者を守るわけではない。見返りが期待できる、つまり自分のポジションを強固にする可能性のある人を懐に招き入れ、その人達をかわいがりつつ、自分のポジションを上げている人たちだ。
 一旦何かが起こればその連帯は崩れるだろうが、結構、そういう人間関係の作り方がこの社会では強力なやり方のようで、崩れる気配も見せず、彼女たちは「これでよかった」と思って人生を終えられるのだろう。

 が、本人はそれでよいのだろうが、私はそういう生き方の人がはびこるのはいやなのだ。後ろ盾も何もなく、一人できっちり立ってほしい。誰の利益を代表するのでもなく、これは、真っ当に公平な決定かどうかということを筋道を通して考えて参加してほしい。民主主義はそこからしか生まれない。でも、そう考えていた私が駆逐されるのだから、そして「甘い」だの「理想主義」だの「真面目過ぎる」だのと、批判を受けるのだから、なんだかこんな社会にいつまでも生きていたくない、と思ってしまう。

 親分肌の人は信用しない。自分の身内をかわいがるのは昔のやくざと同じではないか。彼らの世界は、民主主義とは対極にあるバランス感覚に裏打ちされている。

とても理解が難しいのだけど、、、。

2013-06-30 21:34:43 | 人間関係
 友人が職場の意地悪な人の言動に深く傷ついて悩んでいる。話を聞いていると、あ~、こういう人いる! という見知った感じ。

 思うのだが、他人に向かって怒りや憎しみを出す人、というのはどういうふうにものを考える人なのだろう。友人の職場では、その人は、露骨に友人を無視するのだそうだ。他の人と楽しげに談笑していても、友人にはろくに口もきかないか、友人が話しかけるとけんもほろろらしいのだ。友人の何かが気に入らないとしても、そこまで露骨なことは普通はしないだろう。いくら好きでない相手でも、プライベートにつきあわなければよいだけで、職場ではニュートラルな気持ちで仕事をしなければ仕事自体に支障を来す。

 私も挨拶を無視されたり、意地の悪い言動を積み重ねてきた人と一緒に仕事をした経験がある。仕事を辞めようと決心して、(最終辞めたが)、何度も泣いた。が、そんないやな相手でさえ、何かを尋ねられたら、仕事に必要な情報は極力提供し、丁寧に対応した。そうしなければ、自分の気分が落ち着かない。やれるのにちゃんとやらない、というようなことは私にはできない。相手がどんなにいやな人でも、きちんと対応することしかできなくて、その後はもっといやな思いをさせられたりするが、だからと言ってこちらが意地悪なことをしてしまったら、自分で自分を許せないと思うので、意地悪なことは私にはできなかった。
 そう考えると、やはり、あの人たちの意地悪は無意識なのだな、と、最後には思う。意識しては、そんな意地悪なことは出来ないだろう、というのが私の解釈。そして、友人も同じ考えらしい。「彼女は無意識だと思うの」と言いつつ、泣きそうになっている。

 嘗て職場で管理的立場にいた時、ある中間管理職の意地悪な言動に、その部下に当たる人たちが苦しみ果てた挙げ句に、私に訴えてきたことがあった。その中間管理職の言動は、よくも、そこまで根性が悪いものだと呆れるような言動に充ち満ちていた。そして、解決をはかろうとした私にも、曲がった根性剥き出しで抵抗してきた。
 私には理解不能だった。が、やはり、後に考えたのは、その人の無意識性だった。自分が間違っていると思えない人、なのだ。何人もの人に酷いことをして抗議の声が上がっていても、自分の言動の問題性を意識化できない。何か、他の人とは違うストーリーが出来上がっている。

 下げた頭を叩く人たち、正直な人を騙す人たち、真っ直ぐだと「真っ直ぐ過ぎる」といちゃもんをつけ、結果が明らかになってから評価を下す人たち、平気で嘘をつく人たち、、、、そういう人たちに「良心」はないのかと思った。超自我が存在せず、自分を律することができないのか、と思った。倫理観が欠落しているのかと思った。

 性悪説の人は、他人に厳しい、ということを知った。同様に、自分にも厳しいのかどうかはわからない。私が会った人は、自分には甘かったように思う。そして、他人は「悪い人」だと思っているふしがある。だから、こちらが素直に褒めても、下心があると勘ぐる。偶然の振る舞いも、策を弄した結果と判断する。性悪説だから、他人の言動はいつも良いものとしては受け取らないで、常に「裏」を考える癖があったように思う。こういう人に、こちらの率直な邪気のない言動は通用しないのかもしれない。

 性善説に立ってしまう私は、人というものは言っていることと考えていることが同じだと思いこんでしまう。裏に何かがあるとは、決して考えない。ただ、性悪説の人には、私のような者は扱いにくいのかもしれないと思うこともある。彼らの文法が通じないから。そうだろう、性悪説の人の性悪説の根拠が何かはわからないが、性悪説を共有しないので、彼らは彼らで、私のような、あるいは私の友人のような人間はわけがわからないのだろう。で、性悪説の人の癖で、自分などが理解できないほどの「性悪」としか思えないのかもしれない。思ったことをそのまま言う人間が信じられなければ、その人の言うことをものすごくねじれて解釈するしかない。すると、とんでもない「悪」の人間イメージが出来上がり、その自分が作り上げた「悪」人に対して、怒りをあらわにしているのかもしれない。憎んでいるのかもしれない。

 ほんとうに、そうとしか思えないような、人がいるのだ。「性悪」説をとる人は、その考え方の根拠を教えてほしい。

最近いらつくこと

2013-06-12 09:33:39 | 人間関係
 いや、単に気ままな性分が出ているだけだろうと思う。

 でも、いくつか、勘にさわる出来事。共通点は、ヘテロセクシュアル(と思しき)の女性が、やたら私にセクマイについて、意見を開陳してくること。それ、なんで私に言うんだ、と思うが、止まらない。適当にあしらうが、自分の知識をひけらかし、自分の意見を、こちらが聞きもしないのに、一生懸命言いつのる。
 何なんだよ! その人が今思いついたことなど、こちらは長い長い間かかって考えてきて、辛い辛い思いをして、今ここにいるのだ。

 意見の開陳がうるさいので、自己開示した。こちらの状況がわかれば黙ってくれると思ったのに、何? 全然、態度は変わらない。少なくとも、こちらが自己開示したのだから、自分も自分のセクシュアリティについて開示してから意見を言うならまだしも、自分のことは相変わらず語らないまま、意見だけを(しかも、今ごろ何を言っているんだ、というような意見)をぐいぐい私に言ってくる。それはよそで言って! 何で、私に来るんだ!

 若いレズビアンの人たちの活動を応援しようと、チラシを渡したりしたのがきっかけだと思うが、それにしても、この厚かましさ、押しつけがましさ。

 嘗て、セクシュアルマイノリティの研究をする人は、そのスタンス、動機を厳しく問われたものだ。痛みを共有しない人に、単に研究材料として使われたくない、ということで、とても警戒した。

 昔もそういう嫌な経験をしている。偏見を持って、セクマイを差別する人は論外だが、そういう人にはこちらが近寄らないから、実害も被らない。たちが悪いのは、ちょっと勉強したり、興味を持って情報を仕入れている人。そういう人が、ぐいぐい自分の意見を押しつけてくると、芯からいやだ。傷つくし、むかつくし、いらつく。

 こういうことがストレスになるのだ。私の知る限り、当事者は、互いにそれはやらない。痛みを知っているし、それぞれがそれぞれの理由で苦しんできていることはわかっているから、そんなところで議論はしない。ほんとに、ヘテロというのは鈍くて、平気で人を傷つけるやつらだ。

 

 

「間(ま)」が悪いということ

2013-03-29 09:06:08 | 人間関係
 間が悪い、ということがよくある。これは、何なのだろう? それもまた、自分が呼び寄せるものなのだろうけれど、どうも、間の悪い人、というものがあるように思えてならない。

 昨年は、仕事を負担に感じ始めていて、こなすのに青息吐息のところがあった。登録人数270人のやんちゃでやる気のない学生相手に、疲れ果てていた。私のような非常勤は、学校側も使い捨ての安い労働力としか考えていない。それで、休みに入って時間ができると、少々鬱っぽくなってきて、これではいけないと、友人を誘ったり、友人の誘いを受けたり、SNSのオフ会も予約したりしていると、全部、4月の第一週に集中し、今度は忙しくなってしまって、日程の調整が難しくなってきた。3月のあいだに、予定を入れてくれればいいのに、と、今度は恨めしくすらなる。

 そう言えば、こんなこともあった。もう何年も前の話になるが、ある映画を観たいと思った。ヘテロものではないがロマンスをテーマにしたものなので、一人で観るのは寂しいと思って、当時常に連絡を取り合っていた友人達に「一緒に、観に行かない?」と声をかけた。皆、忙しくてなかなか日程を合わせられない人ばかりだけれど、一人くらい空いている人もいるだろうと思ったのだ。が、全員OKだった。中には、さらに友人を誘って来る人もいて、「団体観賞」だと笑ったことがある。
 
 上のエピソードは、別に深刻な話ではない。が、間がうまくいかない例ではある。バランス良く、まんべんなく、適度な予定で埋められていたいが、そうはいかない。

 知人の娘さんが30歳代半ばで亡くなった。その後、知人と話すと、思ったより元気なので安心した。その時、知人が言った。その娘さんは、自死に近いオーバードーズで亡くなったのだが、「あの子はねぇ、間の悪いところがあってね、電話をかけてくるときって、いつもこちらが今は忙しいから困る、というときに限ってだったりするのよ」としみじみ言った。もう1人の子どもさんにはそれはなく、連絡をしてくるタイミングが程よいのに、その娘さんはたいてい間が悪くて、そういうことでも母娘はぎくしゃくしたようだ。

 それを聞いて以来、私はその「間が悪い」ということが強く印象に残っている。それは、何なのだろう? と思うのだ。確かに人生には「間が悪い」ということが多々起こる。大事な話をこれから、という瞬間に電話が鳴って、話す機会を逸する。テレビでスポーツ観戦中、ここ一番という時に宅配便が届く、なんていうことはよくあるだろう。相手は、こちらのタイミングを見計らって働きかけてくるわけではない。おそらく同じくらいの割合で、間の良い時もあった筈だ。だが、間の悪い時、そのために逃した好機の方を私たちはカウントしてしまう傾向があるのだろう。思うように物事が流れていることを当たり前のように享受し、それを阻まれるとネガティブな感情に一瞬浸される。そのネガティブな感情が記憶を刻むのだろう。間が良い、というのはなかなか意識されない、ということなのだろうけれど、、、。

 「間の悪い子」と印象づけられた娘さんは、おそらく、親にとっての難題を持ち込むことが多かったのではないかと思う。悩みが多く、人とうまくいかないことが多く、気分が暗い時が多いと、どうしてもうれしくなるような電話ではないことが多い。対応する時間もかかり、その子からの電話が負担になることが多くなる。それらのネガティブな積み重ねが、「間の悪い子」にしてしまうのではないのだろうか。

 おそらく、「間が悪い」というのは、そういう法則性が生まれているのではなく、その人の外界との連絡の仕方の問題なのだろう。常に、愚痴の電話をしてくる人は、どんなタイミングであっても、たいてい困る電話だ。その電話に出るよりは他のことをしたいのだから、電話を受ける方にすれば、いつも間が悪いことになる。
 いつも難題を持ち込む娘さんは、母親にとって、なんとなく負担だったのだろう。その娘を大事に思っていても、悩んでいる娘に対応することは、楽しいことではない。心ウキウキすることではない。負担であることに代わりはないが、その負担を敢えて引き受けているところがある。だから、間が悪いのだ。もっと楽しそうであればいいのに、と親の方はそれを望む。楽しい報告なら、少々タイミングが良くなくても、それは良き連絡としてカウントされたはずだ。

 間が悪い人、という法則性などないのだろう、たぶん。
 

いじめの構造

2013-03-26 14:58:33 | 人間関係
 ドラえもんには、いじめに象徴的な言い方がある。スネ夫がのび太をいじめるときにいつも言うのが、「のび太のくせに生意気だ」という言い方だ。それは、「年下のくせに」とか「運動音痴のくせに」とか、そういう「理由」があるのではなく、いじめが理由の成立しない理不尽な行為であることを象徴的に表している。のび太はのび太であるから、いじめられるのだ。のび太であるから生意気だし、のび太であるからしてはいけないことだったりする。

 いじめられる方は、自分が何か落ち度があるのかと、たいていは悩む。が、悩んでも意味はない。それはその人自身であることが理由だからだ。しかも、それは、その人の何かを理由とするのではなく、そのコミュニティの中の位置関係でたまたまそこにいてしまったために「選ばれた」のであり、ターゲットと定められたときから、その人は、「処刑台」に据えられるからだ。

 通り魔に狙われたみたいなものだ。通り魔は、ターゲットはだれでもよい。とにかく、そこに居合わせた人を狙う。いじめは、この通り魔事件が、スローモーションのように持続している状態だと考えればよい。

 いじめはスローモーションだから、通り魔事件のように一瞬のことではないから、逆に逃げるチャンスを探して逃げ出せる可能性がある。だから、逃げるしかない。

 一旦ターゲットが特定されると、思考回路は、そのターゲットを目指して働く。何が起こっても、そのターゲットのせいになる。いらいらを解消したいときも、ターゲットを攻撃していらいらを解消しようとする。自分にとって理不尽な出来事も、そのターゲットが首尾良く動かなかったせいだというように解釈される。とにかく、ネガティブな思考は、そのターゲットに向かって吐き出されるように回路が癖づけられてしまう。
 だから、いじめ、ハラスメントの加害者は、もはや自分の加害性に気づかない。どう考えても、いくら思考をめぐらしても、ターゲットが「ちゃんと」してくれさえすれば、うまくいくはずだった、という結論になるのだ。

 昔、DVを受けていた妻が、夫のDVに気づいた話を聞いたことがある。夫が何でも妻が悪い、と言うので、ずっと何でも家庭内のことは自分が至らないせいだと思って萎縮していた。夫はそうして、妻を責め続けて、心のバランスを取る癖がついてしまったのだろう。が、ある時、大地震で家がめちゃくちゃになった。夫はその地震についても妻を責めた。その時初めて、妻は、何もかも、自分が悪いと思わせられてきたことに気づいたというのだ。さすがに、地震は自分が起こしたわけではないので気がついた、というのだ。

 ターゲットになってしまった方はもちろん災難だが、ひとたびターゲットを定めた方も、無意識、無自覚になっている可能性がある。

 実は、私もその二人関係に気づいて、逃げだそうとしているところだ。親しい友人だったので、また、仲良くできるときもあるのでつきあいは長い。しかし、最近、私への責めが加速していた。私は自分が悪いのかと思ったり、相手にも問題があると思うときは反撃したりを繰り返していたが、近頃は、私を攻撃する仕方が増していた。彼女にとって、理不尽なことが続き、思うようにならない人生を送っている、という実感が強いためにそうなるのだろうが、私が関わる場面では、全部私が悪いことになっている、というからくりに気づいた。彼女は、私をターゲットにし始めたのだ。もっと扱いにくい知人友人はいくらでもいるのに、私への怒りが特に強い。絶えず、文句を言う。
 つまり、彼女は、誰かその理不尽なことに責任を取る者を求めていて、その相手を責めたくてしようがなくて ―怒りのはけ口が要るのだ― それを無意識に私に定めたのだ。勿論、最も親しく、最もものが言いやすい、ということで私を無意識に選んだのだろうが、そのからくりに気づいて、私がそこにとどまることはない。
 
 本来、自分に起こる理不尽な出来事とも、どこかで折り合いをつけないとしかたがない。グループに気に入らない人が混じっても、我慢するか、自分が抜けるしかない。しかし、怒りを解消する方法として、誰かを責めることで心のバランスを取ってきた人は、やはり責める相手がどうしても要るのだ。あいつが悪い、酷い人だ、と、人のせいにする癖のある人は、通常、仕事の場面だったりすると面と向かって言えないことが多いが、プライベートな場面で私がそこに居合わせ、何らかの関係にあったりすると、私のせいにする、ということになってしまった。私はDVの被害者妻とは違うから、たいてい、理不尽な攻撃には反撃する。そして、熾烈に喧嘩をする、ということになる。が、ほとほと疲れてきた。なぜ、こうも疲れないといけないのか。要するに、彼女のネガティブ思考につきあわされているからで、彼女に良かれと思っておこなったことも、彼女の怒りの原因になったりすることが多々ある、という事実があった。

 「人間関係の困り事」の日記に書いたAさんのことなのだが、電話がかかって来て、私に「裏切られた」と言ったことで、またもやこのからくりがあると気づいた。私の想像はほぼ的中していたが、ただ、彼女の言い分は私の想定とは少しずれていた。私がAさんのいやがっている人のことを重視していないことは彼女はわかっていたが、その時点で、既に私が「逃げた」と認識をしたらしいこと、そして、そのことに何も意見がないなら、私は何も言わないでほしかったのに、彼女の発言を邪魔した、ということになっていた。そうか、、、私が彼女の援護をしようとして発言をしたことは、既に黙っているべき私が彼女の邪魔をしたことになっていたのか、、、。それなら、私は発言すべきではなかったのだ、ととりあえず謝った。が、後で考えて思った。彼女は、私が彼女の提案に対して無言だったら、それはそれで絶対に許さなかったと思う。冷たい、無視した、とまた責めたに違いない。なぜなら、あの場で、彼女の目論見通り、事が運ぶのは至難だったから、どちらにしても、彼女は成功しなかったと思うからだ。しかし、今となっては、私の発言が彼女を邪魔し、結論を先送りにしたことになっている。
 
 彼女は、どうしても、私を責めたいのだ。私を責めて、うさを晴らしたいのだ。しかし、それを彼女は自覚していない。

 しかし、私はそんな立場に甘んじるいわれはない。逃げるしかない、と思い定めた。
 

相手の何を引き出すか、ということをさらに考えると

2013-03-22 21:46:45 | 人間関係
 パートナーや親しい人について、ふと思うことがあった。

 夫や親しい友人が、私を大事にしなかった出来事を思い出してきた。人は、相手がそこにいることに慣れてしまうと、存在が当たり前になり、感情の赴くままに邪険にしてもよい相手になるのだろうか。私は、あまり大事にされた記憶がないことに気づいた。
 私が相手から、そういう態度を引き出すのだろうか。

 昔、仲の良かった友人が小さな二人の子ども連れで、リクレーションに参加した時、友人は子どもに手を取られているので、私はその子どものミッキーマウスだったかのリュックを背負って、走らざるを得ない状況があった。私が子どものリュックを背負って走っていると、その友人が急に笑い出した。「あなたみたいに偉い人に、こんなことさせて、ごめんねぇ」と。私がその時ほんとうに「偉い人」だったかどうかは別として、大手の出版社の刊行物に名前が載る仕事をしていたのは確かであるし、講演もこなしていたから、その友人の尺度からは「偉い人」だったのかもしれない。
 が、その友人がいつの間にか、私に対して、ひどく邪険な態度をとるようになった。それほど親しくない人に対しては、気を遣って優しいのに、私にはその優しさは来ない。だいぶん前に、距離を置こうとしたが、その友人は私を拒否しているのではなく、「親しいから」だと説明する。邪険にしているのではなく、それだけ「親しい」と感じているのだ、と。

 私には理解できない理屈だ。大事な人は、大事にする。それしかないと思うのだが、、、。

 親しい人を大事にしない、という理屈がわからない。

 ただわかるのは、その人といると、私は幸せを感じない、ということだ。一度、それで距離を置いたのだが、ひょんなことでまた距離が縮まった。距離が縮まると、邪険に扱われるなら、やはり距離を置くしかない。

 その人は私が自分と合わない部分をなじる、批判する、ということが多発する。それは、まるで、彼女の母親が彼女に対してするのと同じようなのだ。だから、彼女は母親が嫌いだ。だから、同じようなことをすれば、私から嫌われるのは明白なのに、なぜ、自分は異なると思うのだろう。

 私がそういう部分を引き出すのではなく、親しくなると、配慮しなくなる人が多い、ということなのだろうか。親しくなれば、気に障ることに遭遇する機会が増えるのは事実だ。そこにどう向き合うか、が正念場、という気がする。
 私は、母でも娘でも、そういう場面に遭遇すると、とがめたり指摘をしないで距離をとる。娘の場合は、直してほしいところについて指摘をするときは、とても気を遣う。怒らせないように最大限の注意を払う。勿論、娘の行く末が心配なときは苦言を呈するが、それはどこまでも娘のため。自分の感情のはけ口ではない。だから、一度だけ苦言を呈する、と覚悟をして言ったことがある。そして、娘から猛烈な反発がきたことがある。娘は、人として言うべきではないことまで、感情に駆られて投げてきた。私は激しいダメージを受けた。しかし、それでも、娘に一度は言うべき事を言う必要があった。感情のコントロールが出来ない未熟な人の報復だった。度を越していた。が、耐えた。娘の人生に必要な苦言だったからだ。

 が、件の友人は感情の処理に、私を使う。それほど、親しくなってしまったらしい。しかし、親しくなることは、態度が雑になることではない。「親しき仲にも礼儀あり」ということを彼女は理解しない。
 「あなたには何でも受け容れて欲しい」と言うが、彼女は私のことは受け容れない。自分だけが受け容れて欲しいのだ。
 なぜ、このような一方通行が可能だと思うのだろう。それも、親しいから?

 思えば、DV男たちは、皆、このような甘えた考えにとらわれているように思う。相手は自分を受け容れるべきで、相手がどう考えるかは気にかけない。この不均衡がどれほど不幸な関係を生んできただろうか。

 相手に対する権利意識が強まると、自分の道理だけが通ると考えるようだ。そして、そう相手に思わせる私にも、問題があるのだろうか。相手を甘やかしてしまったのか。何でも受け容れてもらえる、と思いこませるような習慣をつけてしまったのか。

 私は基本的に鷹揚なたちなので、(それは件の友人も認めている)、あまりいらいらすることはない。他人の言動に、いらつかない。そこに無意識に人はつけいるのかもしれない。つけいるつもりはないが、つけいってしまう。そしてどんどん遠慮がなくなっていき、完全にたががはずれた頃に、私から苦情を言われる。が、その苦情が出る頃には、もう関係性が出来上がっているので、相手は不当なことを言われたような気がするのかもしれない。
 とにかく、今となっては手がつけられない。親しい友人はもう持たないに限る。

私が相手の傾向を引き出すのかもしれない

2013-03-07 17:54:32 | 人間関係
 先に書いたブログの続き。

 私が、相手の指導や助言を、それも望んでもいない指導や助言を引き出してしまうのかもしれない。答えは私が知っているし、平凡な助言は役に立たない事が多い。それでも、教えたくなり、助言を言いたくなるのは、私の姿勢から引き出されるものかもしれない。

 基本的に、何もわかっていない未熟者です、というスタンスで立っているので、そういう気持ちにさせてしまうのかもしれない。

 昔、まだ民間で働いていた頃、何度もやっている仕事なのに、いつも事細かに説明をされるので、「わかってます、もう何度もやっていますから」と苦笑して言ったら、「そうですよね、何か、いつも新鮮な驚きをされるから、、、」と言われた。これは私の癖なのだろう。が、なぜ、いつもビギナーのように思われてしまうのか。他の場所でも、そうなってしまう。考えられる一つは、私が、「慣れ」を回避していること。これは、半ば意識的にそうしている。いつどこで何を経験したのか覚えがないのだが、慣れによる失敗が怖い、という教訓を胸に刻んでいる。
 逆に、多くの「慣れ」による自信を持っている人の仕事の甘さ、適当さに呆れることが多かった。

 若い頃、出会った主婦たちもそうだった。家事は毎日やっているし、料理にも自信を持っている女性が多かったが、そして、私は何年経っても、昨日主婦になりたて、みたいな風情だったようだが、主婦達の雑さ、知識のなさに、私は時折、びっくりした。洗い物は確かに手早いが、私の家で飲食の後、手早く洗って帰ってくれるのだが、後日使おうと思って出して来たら、洗い直さないといけないものが多々あった。
 私は家事は苦手です、というのを常に言っていたので、相手は教えてくれるが、そして、私は素直にふんふんと聞いているが、結局は、非効率であったり、大した腕前ではない主婦が圧倒的多数だった。

 私は自分は未熟だと思ってきたので、常にそのスタンスでいるのだが、だからか、相手によっては優位に立とうとする人も出てくるし、教え導こうとする人も出てくる。私の専門の領域について、間違いだらけの知識を開陳して止まらない人もいる。もちろん、口を出して誤りを正したいとは思うのだが、滔々と喋り続けるので、断念してしまったこともある。
 
 親戚に行ったとき、私の仕事と少し関係する分野にいる親戚が一人いて、その人が、私を自分の身内に紹介するとき、「こう見えて、偉い人なのよ」と言った。「いえいえ、偉くなんかないです」とあわてて否定したが、当時は講演依頼がまだまだたくさん来ていた頃だから、今思えば、一般にはそういう評価だったのだろう。
 自分の地位を最大限に利用して君臨し続ける人もいるだろうが、「いえいえ、、、」と否定し続け、自分の否定する通りの位置におさまる私みたいな人間は、やはり、他人の優越欲求を引き出し、充足させる役割を果たすのかもしれない。

 が、人間には慣れる、ということは、ほんとうはないのだと思う。いつも一瞬一瞬、新しい経験をしているだけなのではないか。
 しかし、そうした私の姿勢が、私を、いつまでもビギナーで、いつまでもこの世に不慣れな、自信なさげな人間に仕立て上げているのも確かなのだろう。


マシンガンのように言葉を繰り出す人たち

2013-03-04 22:24:58 | 人間関係
 ここ数日、立て続けに、自己主張の強い人と会った。

 初対面から、政治的アジテーションに入る人。なにしろ、場所は居酒屋。疲れて一杯飲もうという時に現れたその人は、ず~っとしゃべり続け、自分の正しさを主張し続け、居酒屋にいる間中、その人の一人舞台だった。聞き疲れてのぼせそうになっている私。

 さて、その人が帰って行って、もう一杯飲み直したくなった。もう1人の友人もそうだったみたいで、もう一軒行こう、ということになったが、上記のマシンガントークの人よりも、少しだけゆるくしたような二番手が、自分も行く気になっている。
 二人で行きたかったんだけどなぁ、と思いつつ、3人で別のバーへ。まあ、その二番手の人も、だいぶん喋っているので、少しはこちらにも話をする機会をくれた。が、何にでも口をさしはさんでくるから、やかましい人であることに変わりはない。

 それに、とにかく声が大きい。大きな声で話が止まらないおばさんというのは、相手を疲れさせるものだなあとつくづく思う。

 今日も、大きな声の自分のことばかり話す人と、たまたま一緒になった。ため息。

 「大阪のおばさんは、○○」ととかく言われる。確かに、やかましい。耳がじんじんして、あれは暴力ではないかとすら思う。しかし、出身は東京、なんていう人もいるから、地域性ではなく、年齢のせいか。でも、若い女性でも、声の大きなうるさい人は存在するから、やはり個人差か。育ちか、文化なのか。

 私は、子どもの頃から、はしゃいで大きな声で笑ったりしていると、祖父に叱られ、静かにすることを行儀が良い、とされてきた。そういう意味で、大声を出して話をする人は、行儀の悪い人、という印象がある。しつけの悪い人、という感じを持っている。

 あのハイテンションにはたじたじとなる。けたたましい、というレベルの、年配の女性達。同じような年齢だが、私には無理だ。下品に思えて、好きになれない。
 どこで生きていこうかと思う。