凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

大嫌いな人のいやなところは、私にもある、という話

2012-09-29 10:33:50 | 日々の雑感
 時々ふと思うので、言葉にしておこうと思う。

 他人を見ていて、ああいう人は最低だ、ああいう人にだけはなりたくない、いや、全く違うタイプだからなりようがない、と思うことがある。私にとってどういう人かというと、卑怯な人、要領ばかり良くて狡知に長けている人などがそれだ、およそ、自分とは対極の人だと思っている。

 でも、ふとした時に、私が唾棄すべきいやな人だと思っているその人のその部分が、自分にもあるのではないかと思うことがある。

 どういう時にそう思うかは、うまく言えない。あれ? と思うことがあるのだ。

 他の人から同じように見られている、と感じるときかもしれない。全く違うのに、、、と思うと同時に、え? ひょっとして同じ穴の貉? と一瞬考える。しかし、それは、すぐさま自分の中で打ち消される考えだ。

 が、自分を自分に都合よく解釈するのはあり得ること。自分の良いところを肥大させて考えることで、もともと自己肥大型の人はますます尊大に、もともと自己卑下しやすい人は最後の砦のように自分の良い部分を抱きかかえる。そして、欠点に目をつぶる。自分の大嫌いな人と同じ欠点に。

 冷静に自分を意識しよう。私も人と同じだ。どこか卑怯でずるいから、今まで生きてきたのだ。くたくたに疲れている時の満員電車で、なんとか空席に滑り込んだ時の私はすばしこくて他の人の疲れには気持ちがいかない。さすがによぼよぼの人が目の前に現れたことに気づけば席を代わるけれども、それも普通、人は誰でもすることだ。
 誰でもすることを私もしているにすぎない。特別正直者でも、特別ピュアでもない。ずるかったり、卑怯だったり、要領が良かったり、大嫌いな人と同じことを私もして、生き延びてきたのだ。
 叱られないように人の背中に隠れ、失敗をこっそりとなかったことにしたこともあるような気がする。おんなじ、、、。全然立派じゃないのだ。

 よく究極の状況を考えることがある。若い頃、怖くて最後まで読むことができなかったフランクルの『夜と霧』にだったろうか、「最も善き人は帰って来なかった」という有名な言葉がある。毎夜、犠牲者を選び出す地獄の儀式の中で、誰もが死の恐怖で戦いていた時に、選び出された少女の身代わりを申し出た人の話だったと思う。折に触れて思い出すのだ。私ならどうするだろうと。ひたすら目立たないように息をひそめて、選ばれてしまった人の後ろ姿を苦痛と悲哀に声をころして泣きながら見送ったのではないか。

 私は愚かな群れの中のひとり。その私がどう生きるか、どう勇気を持って誠実に生きるか、それしかないような気がする。


  

こわい人

2012-09-26 19:18:18 | 人間関係
 人を恐れさせる人がいる。もちろん、私の活動範囲の中の人間関係だから、暴力をふるうとか、反社会的行動をする人のことではない。
 威厳があって、社会的地位があって、恐れといっても、畏怖、という感じの人だ。

 が、実はこういう人が、私にはよく理解できない。いわゆる「厳しい人」というイメージであるのだが、たいていは、この社会で一定の力のある人なので、疑問がわく。否、社会的に力がなくても、そのような人はいるのかもしれない。なかなか気難しい人、へそを曲げる人、協調性が極端にない人、というのは社会的地位とは関係なくいるものなのかもしれない。ただ、そういう人が社会的地位がないと、誰も相手にしない、友達がいない、はみごにされる、というようなことであるのかもしれない。一方、社会的な地位を獲得している人は、その人には逆らえないから、誰もが恐れながら、その人の言い分に耳を傾け、意を汲むように動く。そして、その人は自分の行動パターンを変えることもなく、ある意味、威張り散らし、自分の思い通りの流儀を通す。

 誰もが尊敬していたり、従ったりするが、恐れられている人というのはそういう人だ。特別な人でなくても、一家の中の長老であったり、職場の中の上司であったり、組織の長であったりする人の中に気難しい人はいる。
 私もそういう立場になったりするのだろう。活動グループの中で一番年上であるし、仕事では教壇に立つし、人の親でもあるし、、、。が、私は人にあまり気難しいことは言わない。だから、慕ってくれる人はいる。Facebookで、昔の職場の部下に当たる人が声をかけてくれたり、娘も私と一緒にいることをいやがらないから、脅威を感じてはいないのだろうと思う。この前まで職場で部下だった人も、一緒に○○に行きましょう、と声をかけてくれたりする。有難いと思う。そして、若い人や目下にあたる人に、恐れられている人を見ると、理解不能になるのだ。その立場だからこそ、気を遣うのではないのか? その立場だからこそ、若い人が伸び伸びできるようにはからうのでないのか。

 私にも気を遣う、脅威を感じる人がいる。なんだか、その人が一般より「偉い」ように見えていたが、単に自分流儀を貫いて、他人の気持ちを思いやらないだけの人かもしれない。わがままが、社会的地位が上がったので、「厳しい」人というキャラクターとなり、上げ底であるだけかもしれない。厳しいけど優しい、という褒め言葉がある。優しいだけにしとけよ、と思う。一歩先を歩いていたって、大したことはないのだから。

 でも、私のきょうなキャラは、愚かな人からはなめられる。まぁ、相手を見てなめるような人はこちらから付き合わないけど、、、、。



納得がいくということ

2012-09-03 11:23:14 | 日々の雑感
 ある若い人と話していて、私も昔はこんなだったなぁと恥ずかしさで胸が疼く。

 とにかくその人は、自分に理解できないことがなかなか許容できない。特にパートナーの言動でわからないことがあると、とことん、説明を求める。傍で見ていて、「あ、ヤバイぞ」と思う。人にはなかなか説明しにくい心の動きがある。なぜ、そのような行動に出たのか? と問われると、ものすごく面倒くさいことまで思い出したり、検討を加えたりしないといけない。そしてさらに、それを相手の納得のいくように説明しないといけない。そんなことを日々繰り返されたら、たまったものではないだろう、と想像する。

 これは、欠点以外の何ものでもない。ものを考えるタイプの人間でも、相手の納得のいく説明など、できようはずもない。自分の文脈で、自分のテンポで、検討を加えて、自分で納得するだけだ。相手の納得とは別ものだ。

 これは、わがまま以外の何ものでもない。すべて、自分の納得のいくように、物事が運ぶなんていうことは、この世にはない。それを知らないその人は、あまりにも幼いのだろう。

 でも、そういう助言をしても、はねつけるだろうしなぁ。このままいくと、嫌われ者で居続けることになるだろうが、人の意思、人の不可思議な行動を許容できなければ、社会を生き抜けない。それは、パートナーであっても、同じなのだが、パートナーだけは別だと思っているところが、また、困ったものなのだ、、、。

 しかし、人のふり見て我がふり直せ、というが、私にも同じような傾向があったので、ここは、なんとか修正しないと、頭の固い人間のまま人生を終えそうだ。それは、ちょっともったいない感じがする。