凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

自我って、何?

2017-07-19 12:47:05 | 考え方
 女の自我って、何なんだ? とは、よく思う。
いや、もちろん、脳のどこかで思考活動を行う人間として、「自我」意識は存在するのだけれど、
その「自我」の認識は、すでに、「女」という属性と切り離されないレベルで形成されてきたと思うと、
この社会の「女」が持つ「自我」とは何なのか? と問うてしまうのだ。

「女」という社会的存在が「自我」を持つ、などという状況は、すでに矛盾ではないのか。

こういう疑問を持つのは、もちろん、私の生育環境が大きいとは思う。
「女」の「子ども」が思考する、などということは、全く想定外であった父のような男に支配されてきたので、
自己肯定感を育成し損なった、という事情はあるだろう。
自己肯定感を育成し損なうと、「自我」という確固たる無前提の概念は、自分のものにしにくいのだ。

「自我」があるのはわかっているし、知識として認識できるが、
それが「主張」を持ったり、この社会での居場所を獲得しようとすると、
たちどころに、体感というか、実感というか、そういうレベルで理解しにくい。

だから、実は、私の中に、フェミニズムは根付かないのだ。
私が生きたいのであって、「女」の私が生きたい、という実感にはならない。

私は「女」ではないのか。
「女」とカテゴライズされて、「女」扱いされてきたが、
私の感覚的「自我」は、フェミニズムでは扱われないものなのだ。
それは、「女」を貶める価値観の中で、育み損ねた自我意識であり、
且つ、「女」の復権を目指すフェミニズムの中で、生きる場所を持たない自我意識なのだ。
「女」であることによって自己確立の機会を失い、失敗し、
「女」の復権を目指す価値観が広まった時には、もう、主張する「自己」を持たない。
「女」の自我の救済に、
私の自我は間に合わなかった。
それは、「女」だから貶められた悔しさを抱える女性たちとは違って、
「女」以前の自我の目覚めから、蹂躙された過去があるから。

かわいい娘として慈しまれながら、「女」だからお嫁さんにいきなさい、と親に言われた人は、
後の知識や情報をもとに、反発することができる。
しかし、慈しまれずに、自分の存在自体をうとましいと親に表明されてきた人は、
「女」だから貶められた、とは思えない。
「自分」だから疎ましいと思われたのだと、自己否定するより理解の手立てがない。

自分が貶められたのは、「女」だったから、という要素は多分にあったと思われる。
フェミニズムの文脈で、説明が可能な部分がある。
「女」だから、軽んじられ、将来への展望も閉ざされ、その気持ちなど一顧だにされなかったのは事実だ。
が、もう一つの要素がある。
「子ども」だから軽んじ、疎まれ、存在を否定されてきた。
さらに、「女」だったから、一層軽んじ、芽生え始めた「自我」をためらいもなく踏みにじられてきたのだ。

「女」である、という社会的立場の自覚以前に、蹂躙された「自我」は、フェミニズムでは救えない。

だから、私は、「女」である以前に、「人」として蹂躙されたと言えるのかもしれない。
と言うことは、
最初に立ち戻ると、「女」であって「自我」を持つ人は十分に存在し得ることになる。
否、そう感じている女性がいる、ということは想像し得る。
フェミニズムの担い手には、そういう人が多いような気がする。

が、それは、女たちの錯覚ではないだろうか。
この男たちの社会で、「女」の「自我」に用のある男はどれほどいるだろうか?
あるいは、「自我」を確立しそこなった、蹂躙されてきた男たちは、女の自我にも、畏敬の念を持つのだろうか?

健全な「それ」を持った自覚がない人は、男にもいるだろうし。

が、女は、男を救うために存在しているわけではないので、そういう男は、早晩、女にも裏切られるだろうけれど。

物心ついた時から、私は「女」だったが、
「女」の自覚なしに「女」だったが、
それ以前の自我など想像するべくもないが、
しかし、どうも、私の感覚では、
存在自体を否定され、蹂躙され、
「女」であることは、その理由づけに使われたような気がする。

憎しみを発散させるには、ターゲットが要る。
身近に、手のかかる子どもがいれば、ターゲットに定めやすい。
そしてそのターゲットを攻撃するには、理由が要る。
その理由の一つは、「女」であること。
主張する子どもは黙らせてよい。
ましてやその子どもが「女」であれば、徹底的に黙らせる必要がある。

私の「自我」の簒奪には二重の仕掛けがあるのではないか。
攻撃者にとって邪魔な存在であることと、それが「女」であることとは、二重構造になっている気がする。
私の自己確立は、二重に攻撃を受けて失敗し、「自我」というようなものが損なわれたのかな、と、そんな気がしてきた。

だから、確固たる「自我」というようなものが想定しにくく、
簡単に、その意味を無化できるのかもしれない。

まぁ、どうせ、出口のない愚痴なのだけれど。