凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

つじつま合わせの解釈

2010-07-29 22:04:05 | 考え方
 あまりにも、辛いと、ものを書けなくなる。ちょっと浮上すると、少し書く気になれる。
今日は、久しぶりに話した友人との会話から、「そうだな」と、納得したことのいくつかを書くことにする。

 先日来、あるとても信頼関係にあった友人との関係が薄れて、悲しい思いをしている。私と直接、何かがあったというより、幾人も関係者がいて、私はどちらかというと、巻き込まれた感がある。だから、まだ、ベースには、私と彼女との間には、信頼関係は残っていると思う。と言うか、そう望んでいる。
 その彼女の問題は、端的に言ってしまうと、関係者の誰ひとり、彼女の敵はいなかったのだが、彼女は、皆を敵に回す言動に終始してしまった、ということ。なぜ、そうなったかと言うと、たぶん、その時期、いろいろなことがあったのだろうと思うが、彼女が望む方向に物事がさくさくと向かわなかったとき、それは単に偶然であったり、他の人の事情がからんだりという、複合的な問題があるのだが、それを彼女は、すべて、自分が「被害を受けた」と捉えてしまったことだ。被害を受けたと思った彼女が、その被害をもたらした(と、彼女が思いこんだ)人たちへの攻撃を始め、攻撃された人たちはわけがわからず応戦したり、防衛に入ったり、というようなことが続き、結局、決裂してしまった形になっている。
 今日話をした友人が言ったことで、なるほど、と思ったのだが、彼女は、自分が作り上げた「敵」の幻影に脅えている、ということだ。ほんとうは、「敵」はいない。もちろん、さまざまな不具合は起こるのだが、それでも、誰ひとり、彼女を辛い立場に追いやろうと思った人はいない。しかし、彼女は、自分のうまくいかなさ、自分の思いを汲みとらないみんな、自分の味方にならないみんなをうらむようになり、そこに見えたのは、「被害者」である自分だったのだ。自分の被害を証明するために、それまでの、他の人の言動、他の人とのやり取りなど、あらゆる出来事が、材料としてつかわれる。すべてが、彼女の「被害者」説を裏付けるように解釈され、彼女が今とても「辛い」理由が、証明される。それが、彼女にとっては、つじつまの合う、正しい解釈となる。
 かくして、彼女の被害ストーリーは、完成され、流布する。

 私もそうなのだが、人は通常、物事を解釈し、そこに合理性をもたせようとする。合理的な解釈、ということを行ってしまう。他人の言動についても、自分のストーリーに合致する意味を付与する。実は、全く違っているかもしれないのに、だ。
 あの人がこのように言ったのは、このように解釈すると、つじつまが合う、というように、合理的解釈をおこなってしまう。つじつまが合う、というのは、実は危ういのかもしれない。つじつまが合ったように思った時、そこで解釈は止まり、動かし難い結論になってしまうからだ。全く誤りであっても、そこが「真実」になる。

 人の心理として、解釈をせずに、宙ぶらりんに置いておくことは難しいのだ。しかし、私たちは、この、不安定で、わけのわからない世界に生きていることを肝に銘じておこう。

 そういうように考えると、彼女が自分で作り上げた幻影に苦しんでいる、という解釈もまた、「仮説」にすぎないという理性は残しておこう。そのように解釈すると、つじつまがあって、気分は良いが、何も確定していない、ということをわかっておきたいものだ。