凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

他人にどう思われるか

2012-11-28 16:53:48 | 考え方
 ふと、反省モードになって思うこと。

 自分にとって、嫌な批評を聞いたとき。嫌な批判を受けたとき。ひどい! 誤解も甚だしい! 私はそんな人間じゃないのに! と思うことはよくある。思い当たるふしがあることならまだしも、とんでもない歪んだ自分イメージを他の人に持たれていると知ると、本当の自分を知って貰いたいと切望したり、自分の正当性をわかってもらおうと躍起になったりする。

 が、反省モードに切り替えると、他人の目に映ったとんでもない私像も、実は私なのだ。本当の私なのだ。

 心あたたかい私、と思っていたのに、冷たい人、と言われたとする。なんという言い方だと憤慨する。が、その人は、冷たい私を見たのかもしれないのだ。
 
 ある友人が、昔、私が仲間とつくっていたグループに入りたいと言ったのに、私に拒否された、と後で恨みがましく言っていたことがある。そんなことがあるはずがない、とよくよく聞いてみると、記憶がよみがえってきた。確かに私は拒否したのだった。しかし、それには理由があった。仲間内で行うイベントのプロジェクトだったのだが、ゼロからのスタートというくらい何も蓄積のない状況で、無から有を創り出す苦労の最中にいた。お金も人手も情報自体がなかった。それでも、その時取り組もうというテーマは、他のどこのグループも手を出さず、手つかずの領域だったので、せめて問題提起のかたちでやってみようというチャレンジングなイベント企画だった。一人でも手を貸して欲しい、という状況の中、メンバーの誰もが労力を提供して手作りすることで乗り越えようと話し合っていた時に、その友人は「何もできないけど、また情報だけ欲しい」と申し出てきた。「何も提供しないけど、情報だけ欲しい」と望まれるような性質のグループではない、と私は断ったのだ。実際、一切の余力はなかった。皆が抜けて、最後は一人になってもやりきる気だと言い合ったもう一人の人との信頼関係でもっているような事態だった。公の助成金を受けて、途中で投げ出すわけにはいかない、しかし、他のメンバーはイマイチ受け身の、心許ない状況だった。結果的には、ほんとうに皆がよくやって、イベントそのものはうまくいったのだけれど、、、。

 その友人は、しかし、自分が拒否された、ということだけをクローズアップして覚えている。私がどのようであったか、などには興味がない。そこだけをとれば、私は冷たく、仲間になりたいと言った人を拒否した、ということになる。そこだけを見れば、それは事実だ。しかし、私たちのような手作りの、一からすべてを作り上げようというような活動に、「何もしないが情報だけ欲しい」というような虫の良い申し出の人を、仲間に加えることはできない、と考える私は、たぶん今も変わらない。時間を戻しても、私は同じ行動を取るだろう。それは「冷たい人」なのかどうかわからないが、それをもって「冷たい人」という人がいるのも仕方がない。たぶん、そういう厳しい面があるのは事実だ。

 昨夜、電話で話した古い知り合いは、私のことを「ふだんはふわふわと優しいけれど、言うべきことはぴしっと言う人でした」と言った。私も忘れている古いエピソードを覚えていて、「肝心な時は、きちんと言う人なんだと感心しました」と言ってもらえて、そういうような記憶を残してくれている人は少ないので、とても面はゆいが喜ばしいことだった。そのような私を見込んで、ある企画を持ちかけてきてくれたのだ。

 他人の自分イメージは、自分が思って欲しいようなイメージではないことが多い。昨夜の電話は、希なケースだ。評価されると、自分のことをよくわかってくれる人、と思いがちだが、評価しない人も、実は自分の一面をちゃんと見て言っているのだ。

 いやな批評も、聞くしかない。たいてい、当たっている。人間は様々な面があるので、どこをとっても、当たっているのだ。どこをクローズアップするかは、人によって、関係性によって、変わってくるのだろう。

 私は基本的に、人の良いところを見ようとする傾向がある。だから、他人から認めて欲しいといつも願っているようなタイプの人に異常に好かれて、ストーカーのように追いかけられた過去もある。最近は、そういうタイプの人には、それなりの対応の仕方を心得たので、若い時のような慕われ方はなくなった。おかげで、割合、健康な精神力の人とのつきあいが増えた。追われたり好かれたり、異常に慕われるのも、こちらにも理由があると、最近はわかる。

 愛情飢餓のようなタイプの人は、そういう「認めて欲しい症候群」のようなタイプの人にするりと入り込まれる隙があったりする。入り込まれても、余力があればそれでもいいだろう。余力がないとき、入り込まれると難儀をする。まぁ、それでもある程度健康な人は、最後は逃げ切る。健康を失った人は逃げられないから、入り込まれて侵食されきる。私などは、入り込まれても、一定のところから侵食されない健康さがあったようで、結局、相手が興味を失って離れていくパターンが多かった。

 話が横道にそれたが、程度も含めて、人は多面的なものだから、どれもこれも、当たっているといえば当たっている。耳に痛いことも、自分の事実の一部だろうと受け取っておいた方がいい。もちろん、それを真に受けて、悩む必要もないだろう。相手の見る目の歪みもあるのだから。





 

 

悪口

2012-11-27 23:29:04 | 人間関係
 思えば、他人の悪口というのは、それほど悪意がなく言われるものなのかもしれない。

 人によっては、その場にいない人の悪口は、その場にいる人との親密さを増すツールである可能性もある。だから、その場にいなくて悪口を言われた人と、次に同席するときは、その人と親密に接することができる。

 悪口を言った人のことを、実は特に嫌っているわけではない場合もありそうだ。好意すら持っている場合もありそうだ。それでも、悪口を言うのは、悪口がその人以外の人と交流をはかるためのツールだからだ。それは挨拶みたいなもの。

 しかし、自分の悪口を言われた、ということを知った人は、許し難いという怒りを感じる。あるいは裏切られた感じがする。悪口を言った人を信用できない人だと思う。二面性のある悪人だと思う。

 その出来事において、悪口を言われた方と言った方では、深刻さは天と地ほども違う。言われた方は怒りに燃え、言った方は言ったことすら覚えていなかったりする。

 よく言うように、足を踏んだ方は痛くはない。時には踏んだことにも気づかない。が、踏まれた方は痛い。
 先日報道されたひき逃げ事故では、ひき逃げされた人は死んでしまった。後ほど逮捕された加害者は、(よくある話だが)、何かにぶつかったような記憶はあるが、ひき逃げなどはしていない、と否認しているそうだ。被害者は死んでいる。が、加害者は記憶が希薄だ。極端な例だが、人の批判、悪口、攻撃は、これに似ている感じがする。やった方はほとんど記憶すらない。何も悪いことはしていないと思っている。しかし、やられた方は、一生忘れられないような心の傷を残したりする。恨みとはそういうものだ。

 これをどうすればよいだろう。私も被害に遭っている。ネット上で、実名で誹謗中傷された。が、ある人がそのことを正した時、誹謗中傷した人が言ったのは、「私、何か悪いこと言った?」だったそうだ。自覚がないのだ。こちらは被害届を出そうかとまで思い詰めたが、向こうは自分が私の悪口を書いたとは思っていない。実名を挙げて事実ではないことを憶測だけで書き連ね、ネガティブなイメージをネット上にふりまきながら、他人を「誹謗中傷」した、という自覚がない。
 そういうものだ。だから、反省もない。謝罪もない。

 どうすればよいのだろう。そういう状況で被害を受けた時、被害を受けた方はどうしたらよいのだろう。否、被害を受けないためにはどうしたらよいのだろう。

 攻撃癖のある人、というのがいるのは事実だ。私も、行政の人については、平気で攻撃していたかもしれない。個人を攻撃する気は毛頭ないのだが、行政を攻撃することは結局その成員である個人の攻撃になってしまう。「日本の行政」を撃つつもりで、実は大した権力もない小心な公務員を攻撃してしまい、恨みを買ったということはありそうだ。


 

母たちの文化

2012-11-27 10:28:46 | 京都
 私は、京都の小さな家で生まれ、育った。母方の親戚筋はほとんど商売人。西陣織を家業とする家も多かったようだ。私の母方の祖父も、西陣織の職人であり、若い頃は、職人をたくさんかかえて大きな商売をしていたと聞いている。商売に失敗したとかで、母の若い頃は、祖父は三叉神経痛を病んでかわいそうだったと母の述懐を聞いている。母自身は、家業が盛業であった頃に幼少期を過ごしているらしいが、ほとんどその記憶がなく、かと言って、貧しくて困っていたという述懐もなく、のほほんと大きくなったイメージの人である。苦悩と言えば、いつも人間関係の話で、意地悪な人に思いあまって仕返しをした話や、いやがらせを言われていやな思いをした話ばかり聞いてきた記憶がある。母の苦悩は周囲の人の心ない言葉やずるさに収斂している。「だから、友達は要らない」と、決意を込めて語っていたのは、私が小学生くらいの頃からだ。

 小学生くらいの頃、どうして私も、あのように、周囲の子どもの心ない言葉や扱いに苦しんだのだろうと、今思えば不思議なくらい苦悩はそこにあった。周囲の人が不可解で仕方がなかった。中には優しい友達もいて、その人と仲良くしているといやな思いはしないのだが、意地悪な子どもというのはいくらでもいたような気がする。
 今振り返れば、たぶん、母も私もきょうだいがいないので、子ども同士のせめぎ合いに慣れていなかったのだろう。おそらく、普通の子どもなら平気なことが、私や母のような子どもには異常なことだったのだろう。何気なく言われる「これはこうするねん、アホやなぁ」というような、口癖のように添えられる大阪的な「アホやな」にさえ傷ついていたのだろうと思う。今そういうもの言いをする人に出会えば、その「アホやな」に笑い出す私がいるだろうけれど、当時はそのようなもの言いにいちいち傷ついて、「○○さんが、アホやなって言わはった」と家に帰って母に嘆くが、母自身がそういう文化に慣れていないので、「友達てみんな意地悪なことを言うものやから、私は友だちつくらへん」と母は言うしかなかったのだろう。
 社会的に鍛えられていない母親は、子どもが傷つくことに、同じように傷つくしかない。

 もう私が中学生になっていた頃かもしれない。くっきりと一つの光景が記憶に刻まれている。母方の親戚が法事か何かで私の家に集まっており、2人のおばさんが火鉢をはさんで、ぼそぼそと小さな声で話し込んでいる。おばさんの一人が所在なくいた私に、「寒いさかい、こっちきて火鉢にあたりよし」と呼んでくれて間に入れてくれるが、だからと言って私に関心があるわけではないので、自分たちの会話に熱中する。誰それが何をしたの、何を言ったの、基本的にネガティブな情報が交わされる。私は何となくそれを聴きながら、大人の女の人はこういうふうに会話をするのか、と学んでいくのだ。日頃疎遠なので、親戚の人の名前もよく知っていないだろう私の存在にはかまわず、大人達は、ぼそぼそと噂話に終始する。京都なので、私が後年見聞きする大阪の人の「口の悪さ」はない。大阪の人は直截な表現力を持つ「口達者」な人が多いような気がするが、京都の人は少ないボキャブラリーを文脈で表現豊かにしていたような印象がある。京都人のコミュニケーションには、露骨な悪口表現はなく、持って回ったような語り口が多かったように思う。感情表現が語られるのは、「しんどかったえ」とか、「○○さんもえらい思いしゃはったわ」というような言語表現に終始しながら、万感の思いが伝わるようなコミュニケーションが成り立っていた気がする。たぶん、そこには、様々な言語化されない共通基盤があり、その上で意思の疎通が成立していたのだろう。感情が高ぶることもなく、ぼそぼそと小声で、愚痴なのかうわさ話なのか、とどまることを知らずに続く、おばさんたちの薄暗いシーンが記憶に残っている。

 私の育った文化は、愚痴がコミュニケーションだったのかもしれない。誰もが興奮するでもなく大きな声も出さず、いつもぐちぐちとうまくいかなさを語り合う風景が普通だった。母もまた、父に対して、愚痴の垂れ流しをしていた。実に細かな心のくさぐさを、商売をしているために常に家にいる父に、細かく細かく伝えていた。おそらく父は、ほとんどを聞き流していたのだろう。「ああ、そうか」「そうやな」と適当に相槌を打ちながら、細部について理解することはなかったのだろうが、逆らうことなく聞いていた。
 私の育った文化はそういうものだった。

 今思えば恥ずかしいが、成人しても、私の会話はこのように貧しかったはずだ。初めて、フェミニズム系の団体に顔を出し始めた頃、私は女の人との会話の仕方すらよく知らなかった。自分の見知った流儀でしかできなかった。だから、その頃知り合った人たちは、どこかで私をバカにしていたかもしれない。海外に留学していた人であったり、職業を持つ母親に育てられた人たちにとって、ぼそぼそと自分のしんどい話をし続ける私は、いかにもレベルの低い、友だちにはなりたくない人種であった可能性がある。

 私は母のようにはなりたくない、と思い続けていた。母や母に連なる親戚筋のおばさんと同じようにはなりたくないと思っていた。しかし、あれはあの文化の中に生き続けるなら、正しい振る舞い方だったのだ。日頃の鬱憤は爆発させずに、愚痴のかたちで垂れ流す。愚痴を言っている限り、不幸をアピールするから、誰の反感を買うこともない。誰にも反感を持たれず、自分の不幸せを程よく伝えることで、平和な人間関係は保たれるし、自分自身の憂さも少しは晴れるというもの。法事などで親戚が寄り集まると、ぼそぼそとネガティブな情報交換をし、常に自分を目立たさせず、大きな流れの中の一筋のように振る舞うことを心得ている。あの社会では、間違ってはいない。母は、その中で粗相のないように振る舞おうとしてきただけだ。だから、それ以外の振る舞い方、コミュニケーションの取り方を知らない。

 私が大人になって久しく、異なる文化に身を置いていると気づくまで、母は、そのコミュニケーション法をとろうとした。親戚筋、ご近所のネガティブ情報を私に与えようとする。「○○さんとこの△ちゃん、離婚しやはったんやて」と、私と同年齢の△ちゃんの離婚について何度聞いたかわからない。私の従兄で一番年の近い人が、若い頃に、比較的早く離婚した。しばらくして、再婚した相手が、年上らしく、紹介された父も「えらい年上の奥さんをもろたもんやな」と言っていた。が、その再婚からも既に30年ほど経っている。未だに母は、その再婚相手について噂話をする時、「今度の奥さん」と呼ぶ。30年も経っていて、「今度の奥さん」もないだろうと思うが、時間が止まったように母は、他人のネガティブな情報を手放さない。
 もう何年も前に、母が他人の離婚話ばかりするので(それも、私が全く知らない人のことまで)、「私はそういう話に興味がない」と言ったら、「私は興味がある」と返してきた。自分は興味があるからするのだ、聞く私に興味があろうとなかろうと関係がない、という言明だ。いかにも母らしい。
 母には母の文化が全宇宙であるから、そこから動くことはない。が、年をとって弱者になった母は、自分のやり方を貫こうとはしない。強い者には逆らわずに言葉を操るすべを心得ている。今では、そのようなコミュニケーションの取り方はしなくなった。信じられないほど耳が遠くなっているので、そのせいかもしれないが。

 そして、私の中にも確実に私を育んだ文化の匂いが残っている。そこを断ち切って、ルーツを消去するわけにはいかない。嫌悪しても断ち切れないものがある。

 が、それが人のキャラクターを形成し、ハビトゥスと化してきたものだ。もちろん、その後に浴した文化の影響もある。そこから逃れられないなら、やはり、相対化する作業を細々と続けていくしかない、と思う。
 


悲しみと寂しさと諦めと、、、、。

2012-11-25 21:01:05 | 日々の雑感
 ちょっと体調が悪い。5年前に癌にかかっているので、何かとつい、癌と結びつけてしまう。癌というものは、やっぱり死に近い感じがあるので、ともすれば、ふと、生命のはかなさを感じてしまう。

 まぁ、友人知人で、癌で亡くなった人は結構いるのだし、夫は悪性リンパ腫だったのだから、あんまり生きようとか、絶対生きるんだ、というような元気は出てこない。

 死を身近に感じると、悲しみ、寂しさはえもいわれぬものだが、諦めも生じる。この諦めというものが、どうも活力を失わせるような気がする。

 闘う気力のようなものがなくなるのだ。

 いろいろな人が、無意識に人を傷つける。その人が明日死ぬかもしれなくても、知らなければ平気で人を攻撃したり、批判したりする。死にゆく人になら、通常はしないようなこともする。

 批判や攻撃は、もう大概にして、なるべく穏やかに人を見つめた方がいい。殺したいとは思っていないはずだ、通常は。しかし、殺す力があったりするのが、攻撃や批判だ。

 自分を守らんがために、人に対して酷い仕打ちをしている人が多すぎる気がする。

 それだけ余裕のない社会なのか。なんだか、もう、この世から退場した方がよいような気がする昨日、今日。
 しかし、もう少しだけ生きたいような気もする。ちょっと、今のままでは寂しすぎるような。
 が、生きていっても、さらに寂しくなるだけかもしれないからな。

 体調が悪いと、どうも弱気になっていけない。

 人をネガティブに見つめれば、ネガティブな種はいくらでも見つかる。ポジティブに見つめれば、ポジティブな面がいくらでも見つけられる。人を批判する人は、批判の種を探すのだろう。
 人々が攻撃的になっているこの時代、人を見る目が優しくなるきっかけはないものか。

 今のまま寂しく死んでいくのは、ちと悲しい。





自己違和

2012-11-24 07:40:24 | 日々の雑感
 性別違和というものは、認知されて久しい。身体違和ということを言う人もいる。

 性別違和感に苦しみ続け、「性同一性障害」というアイデンティティ(と言えばよいのか)を獲得し、性別の変更まで辿り着いて、やっと本来の自分というものに落ち着けた、という人の語りもいくつか読んだり聞いたりした。それは語られた物語であるから、その物語が全てではないのだろうが、それで語り尽くした、と思える瞬間はあったかもしれない。

 その性別の違和を乗り越えて、初めて、普通の人の悩みを悩むことができる、という違和感の最中にいた人の落ち着かなさ、切迫した苦悩を知り、私は私で考える。では、この私の苦しみは何なのだろう、と。この落ち着かなさ、この違和感、この不安定な感じ、これは何なのか? 性別違和を抱いた人が、「性別違和」という状態を特定され、そこに説明される自分を置いてみることができるということは、苦悩の正体がつきとめられ、解決の道が探られるということだ。もちろん、その人の苦悩は並大抵のことではないのだろう。だから、自殺する人もいる。しかし、私が、性別違和を抱いた人の自己語りを読んで思ったのは、その説明を与えられた時から、解決は始まったのだなということだ。この人たちの苦悩は名づけられ、社会的に認知された。それはむしろ、類別可能な、社会的認知を得た希有な苦悩の例かもしれないと思う。
 説明可能な苦悩。

 そして、また私は自分に引き戻る。では、私の苦悩は何なのか? 説明する言葉を持たない限り、私の苦悩は終わらない。私の違和感は、性別に特化して強烈なものではない。否、嘗て強烈であったが、ずいぶん緩和されてきた。性別への違和はあるが、それなりにこの「女」というカテゴリーに埋もれてしまうことはできる。否、時には「女」というカテゴリーにいることが私を守ってさえいる。「女」に見えていて、「女」にカテゴライズされているなら、そこでなんとか生きられる私がいる。「女」アイデンティティは極めて薄い。しかし、「男」でなければ「女」というこの社会で、「女」の側に分類されたからと言って、それほども苦しまない。じゃ、それでいくか、という感じだ。

 私が落ち着かないのは、自己自身への違和であるような気がする。私は私を語る言葉を持たない気がする。出自を考えても違和感、嫌悪感で満たされるし、「あなたは○○ね」と言われる度に、他の人のことのような気がする。「違う、私はそうではない」と思うが、では、どうなのか、と問われても、そこに私自身を説明する言葉がない。

 自己チューの母を持ち、子どもに心などないと思いこんでいた父に悪態をつかれ、ただ茫然と、自分は生きていていいのかと迷いながら、大人になり、年を取った者だ。それ以外に私を語る言葉はない。そして、それはアイデンティティではない。
 この世に居場所がない、という言い方がある。居場所作りが試みられる。でも、私のこの世に居場所がない感じは、外部に居場所を作ることとは違う。私がこの世に居場所を持たないのは、外部に居場所がないからではなく、私の違和感でしかないからだ。

 自己への違和、落ち着かなさ、というようなものだ。これは言語化するのはほんとうに難しい。違う言葉に簡単に置き換えられそうな気もするが、あえてしないで、出してみる。

 
 

幸せの秘訣

2012-11-21 10:07:30 | 日々の雑感
 猫を飼っている。猫がこたつふとんの上で丸くなって寝ているのを見ると、そしてちょっとやそっとで起きないくらい熟睡していたりすると、この子は安心しきって、ここで眠ることができることを喜ばしく感じる。そして、そういう環境を提供できた自分の幸せをかみしめる。猫に、ありがとう、そこにいてくれてありがとう、と思う。

 もう子どもたちは大人になっているが、今でも幼い頃のイメージがダブることがある。幼い仕草や表情が思い出されて、無性に愛しい感情がこみ上げることがある。そして、ふと、他者をいとおしいと感じる感情を抱ける幸せに、何かに感謝したくなる。
 幼くてか弱い存在をいとおしいと感じる気持ちは、人に与えられた無上の贈り物のような気がする。このような美しい感情を与えられたことに感謝したくなる。

 子どもを持つことによって、私は、憎らしいことをされても言われても、それを乗り越えて、相手のために資することをしようとする心性を手に入れた気がする。もちろん、子どもを持たなくても、そのような寛容で他者思いの人はいるのだろうけれど、私は子どもを持つことによって得たような気がする。
 子どもは、薄情だったりする。親の苦しみなど考えてくれないし、自分勝手だ。反抗は凄まじかったりする。それでも、その自分に向けられた刃を見なかったふりをして、その相手の幸せを願うというのは、親の努めだと思う私がいる。そして、その親の義務感から、本当にそう思えるまでに自分をなんとか鍛錬する。もともとなかったのだから、鍛えて得るよりしかたがない。

 そして、子どもに対してそのように感じられるようになる頃には、それ以外の人の刃にも、思いが至るようにもなる。他者を攻撃する人の悲しさや苦しさがなんとなく想像できる。もちろん、赤の他人から自分に刃が向けられれば、身を守る。しかし、身を守った後で考えるのはその人の流す涙だ。
 憎しみではなく、共感の悲しみだ。

 「赦し」がもたらす癒しというのがある。生きている間に、そういう境地に行きたいものだ。

 そして、そういうことを考えるようになった状況に、感謝したい。

 時々、ふと、何気ない時にそんなことを考える。晩秋の日ざしを浴びながら、ベランダで洗濯物を干しているときなどに、、、。

 幸せ感というのは、自分を鍛えて、良き感情を残すように努めて、自らを幸せに導こうとする行為から得られるものなのだろう。

 19歳で結婚するとき、20歳の相手に、「幸せにしてね」と言った。周囲の先輩女たちの言動から、女は男によって幸せになれる、と思いこんでいた頃だ。すると彼は言った。「幸せは人にしてもらうものではなく、自分でなろうとしてなるものだ」と。20歳の、まだ学生だった男は、一人の人間の幸せに責任を持たされるのはたまらないと思ったのかもしれない。あるいは、20歳ながらに成熟した彼の人生観からの言葉かもしれない。それを年をとった私がかみしめる。誰も他人を幸せになど出来ない。自分で幸せになる人だけが、幸せを手に入れる。
 幸福感は「感」である。ほんとうに「気持ち」以外の何ものでもない。幼くてか弱いものを愛しいと感じる幸せ、朝日を美しいと感じる幸せ、何かしみじみしたものが幸福感につながる。そのような「感」を、自分の中にたくさん育む以外に、幸せになる手段はないような気がする。



 

宿命というのは、、、。

2012-11-14 15:57:25 | 日々の雑感
 自分の身にふりかかる違和感や理不尽さに苦しみ、その解決を望んで生きてきた。それは時には、人類史を貫通するような、いずれの人々も悩み苦しんだことであるような壮大なテーマであったかもしれないが、その解決を早急に望んできたような気がする。

 年を取って、やっと、自分の目の黒いうちにそれが解決することではないと気づき、自分一代で片の付かないことなのだと思い知って、初めて「これを宿命というのかも」と思う。生まれてから死ぬまでずっと背負わねばならないのなら、それは「宿命」と呼んでもいいのだろう。いつか解消され、もっと生きやすい時代が来るかもしれない。否、来させないといけない。そのための努力はしないといけないのだけれど、自分の生きているうちに来ることはない。わたし流に言葉の意味を置き直すならば、「宿命」とは、自分一代では解決できないことであるが、諦めることとは違う。私一人のレベルに限定すれば、宿命的なこと、でしかない。

 まぁ、そういう覚悟がやっとできるのも、年を取ったからだ。悩みながら、ちょっとため息などつきながら、人生の店じまいをしていく。
 それでも、前を向くことを忘れないで、ちょっと面白いことなども楽しみながら、年をとるのが、まぁ、いいのかなぁと思うこの頃。

散る桜 残る桜も 散る桜

2012-11-06 12:42:28 | 日々の雑感
 有名な良寛の句だ。戦時中、特攻隊員が好んだとか。

いや、なんでこの句に心惹かれるかと言うと、まぁ解釈はいろいろ出来るだろうし、私は私なりの読みをして、心を静めようとしているわけ。

 某法人では、エライ目に遭った。本当に、人々の敵意、攻撃を一身に受けたと思う。攻撃した人に自覚はない。それまでの派閥争いや力動によるストレスが蔓延した職場に、急に外部からトップとしてやって来た私がターゲットになっただけなのだ。その人達にとって、当初は期待だったのだろう。自分たちに活路となることを期待したのかもしれない。そして、活路として機能しなかった私は怒りや不満を一身に受けることになってしまった。
 誰一人、その自覚はない。なぜなら、誰かがシナリオを書いたわけではないから。その場の空気がそのように向かっただけだ。もちろん、その方向へと誘導した人は存在する。しかし、その人にも、私を苦しめた自覚はない。その人は自分が信じる方向へと行動しただけなのだ。それが、職場を混乱させ、トップを苦しめるとはゆめにも思わないのだろう。彼女たちは善意なのだ。

 私は挫折し、命からがら逃げ出すしかなかった。あの時、とどまっていては、今この世にいないだろう。私の身の内で、ストレスの固まりが病魔となって私を侵食していた。なんとか生き永らえたのは幸運でしかない。

 「自分ならもっとうまくやれる。」そう思うらしい人がなぜこんなにも多いのだろう? 私が去った職場も、そのような周辺の人で満ちあふれていた。うまくやれるのは、他を圧迫して、自分はそこで要領よく権勢をふるえる人だ。そして、その人は、今も確かに「うまくやっている」。代々のトップを病気にし、次々変わる中で、一人変わらず、力を持ち続けている。その人は、定年退職でうまく逃げ切るのだろう。確かにそういう人もいる。この人は、自分の娘を自殺で亡くしているそうだ。娘なら、確かに自死するしかないだろうと思う。私のように逃げ出せないから。
 それでも、この人もやがて、その職場を去る日が来る。やがて、この世から去る日もくるだろう。いくら生き延びても、最期はある。

 早くに散った者も、遅くまでうまくはびこった者も、やがては散る運命だ。

 悔しさの解消に、崇高な句を使うなんて、無礼かな? こんな愚鈍な者の愚挙など、やり過ごしてもらえるかな。