ふと、反省モードになって思うこと。
自分にとって、嫌な批評を聞いたとき。嫌な批判を受けたとき。ひどい! 誤解も甚だしい! 私はそんな人間じゃないのに! と思うことはよくある。思い当たるふしがあることならまだしも、とんでもない歪んだ自分イメージを他の人に持たれていると知ると、本当の自分を知って貰いたいと切望したり、自分の正当性をわかってもらおうと躍起になったりする。
が、反省モードに切り替えると、他人の目に映ったとんでもない私像も、実は私なのだ。本当の私なのだ。
心あたたかい私、と思っていたのに、冷たい人、と言われたとする。なんという言い方だと憤慨する。が、その人は、冷たい私を見たのかもしれないのだ。
ある友人が、昔、私が仲間とつくっていたグループに入りたいと言ったのに、私に拒否された、と後で恨みがましく言っていたことがある。そんなことがあるはずがない、とよくよく聞いてみると、記憶がよみがえってきた。確かに私は拒否したのだった。しかし、それには理由があった。仲間内で行うイベントのプロジェクトだったのだが、ゼロからのスタートというくらい何も蓄積のない状況で、無から有を創り出す苦労の最中にいた。お金も人手も情報自体がなかった。それでも、その時取り組もうというテーマは、他のどこのグループも手を出さず、手つかずの領域だったので、せめて問題提起のかたちでやってみようというチャレンジングなイベント企画だった。一人でも手を貸して欲しい、という状況の中、メンバーの誰もが労力を提供して手作りすることで乗り越えようと話し合っていた時に、その友人は「何もできないけど、また情報だけ欲しい」と申し出てきた。「何も提供しないけど、情報だけ欲しい」と望まれるような性質のグループではない、と私は断ったのだ。実際、一切の余力はなかった。皆が抜けて、最後は一人になってもやりきる気だと言い合ったもう一人の人との信頼関係でもっているような事態だった。公の助成金を受けて、途中で投げ出すわけにはいかない、しかし、他のメンバーはイマイチ受け身の、心許ない状況だった。結果的には、ほんとうに皆がよくやって、イベントそのものはうまくいったのだけれど、、、。
その友人は、しかし、自分が拒否された、ということだけをクローズアップして覚えている。私がどのようであったか、などには興味がない。そこだけをとれば、私は冷たく、仲間になりたいと言った人を拒否した、ということになる。そこだけを見れば、それは事実だ。しかし、私たちのような手作りの、一からすべてを作り上げようというような活動に、「何もしないが情報だけ欲しい」というような虫の良い申し出の人を、仲間に加えることはできない、と考える私は、たぶん今も変わらない。時間を戻しても、私は同じ行動を取るだろう。それは「冷たい人」なのかどうかわからないが、それをもって「冷たい人」という人がいるのも仕方がない。たぶん、そういう厳しい面があるのは事実だ。
昨夜、電話で話した古い知り合いは、私のことを「ふだんはふわふわと優しいけれど、言うべきことはぴしっと言う人でした」と言った。私も忘れている古いエピソードを覚えていて、「肝心な時は、きちんと言う人なんだと感心しました」と言ってもらえて、そういうような記憶を残してくれている人は少ないので、とても面はゆいが喜ばしいことだった。そのような私を見込んで、ある企画を持ちかけてきてくれたのだ。
他人の自分イメージは、自分が思って欲しいようなイメージではないことが多い。昨夜の電話は、希なケースだ。評価されると、自分のことをよくわかってくれる人、と思いがちだが、評価しない人も、実は自分の一面をちゃんと見て言っているのだ。
いやな批評も、聞くしかない。たいてい、当たっている。人間は様々な面があるので、どこをとっても、当たっているのだ。どこをクローズアップするかは、人によって、関係性によって、変わってくるのだろう。
私は基本的に、人の良いところを見ようとする傾向がある。だから、他人から認めて欲しいといつも願っているようなタイプの人に異常に好かれて、ストーカーのように追いかけられた過去もある。最近は、そういうタイプの人には、それなりの対応の仕方を心得たので、若い時のような慕われ方はなくなった。おかげで、割合、健康な精神力の人とのつきあいが増えた。追われたり好かれたり、異常に慕われるのも、こちらにも理由があると、最近はわかる。
愛情飢餓のようなタイプの人は、そういう「認めて欲しい症候群」のようなタイプの人にするりと入り込まれる隙があったりする。入り込まれても、余力があればそれでもいいだろう。余力がないとき、入り込まれると難儀をする。まぁ、それでもある程度健康な人は、最後は逃げ切る。健康を失った人は逃げられないから、入り込まれて侵食されきる。私などは、入り込まれても、一定のところから侵食されない健康さがあったようで、結局、相手が興味を失って離れていくパターンが多かった。
話が横道にそれたが、程度も含めて、人は多面的なものだから、どれもこれも、当たっているといえば当たっている。耳に痛いことも、自分の事実の一部だろうと受け取っておいた方がいい。もちろん、それを真に受けて、悩む必要もないだろう。相手の見る目の歪みもあるのだから。
自分にとって、嫌な批評を聞いたとき。嫌な批判を受けたとき。ひどい! 誤解も甚だしい! 私はそんな人間じゃないのに! と思うことはよくある。思い当たるふしがあることならまだしも、とんでもない歪んだ自分イメージを他の人に持たれていると知ると、本当の自分を知って貰いたいと切望したり、自分の正当性をわかってもらおうと躍起になったりする。
が、反省モードに切り替えると、他人の目に映ったとんでもない私像も、実は私なのだ。本当の私なのだ。
心あたたかい私、と思っていたのに、冷たい人、と言われたとする。なんという言い方だと憤慨する。が、その人は、冷たい私を見たのかもしれないのだ。
ある友人が、昔、私が仲間とつくっていたグループに入りたいと言ったのに、私に拒否された、と後で恨みがましく言っていたことがある。そんなことがあるはずがない、とよくよく聞いてみると、記憶がよみがえってきた。確かに私は拒否したのだった。しかし、それには理由があった。仲間内で行うイベントのプロジェクトだったのだが、ゼロからのスタートというくらい何も蓄積のない状況で、無から有を創り出す苦労の最中にいた。お金も人手も情報自体がなかった。それでも、その時取り組もうというテーマは、他のどこのグループも手を出さず、手つかずの領域だったので、せめて問題提起のかたちでやってみようというチャレンジングなイベント企画だった。一人でも手を貸して欲しい、という状況の中、メンバーの誰もが労力を提供して手作りすることで乗り越えようと話し合っていた時に、その友人は「何もできないけど、また情報だけ欲しい」と申し出てきた。「何も提供しないけど、情報だけ欲しい」と望まれるような性質のグループではない、と私は断ったのだ。実際、一切の余力はなかった。皆が抜けて、最後は一人になってもやりきる気だと言い合ったもう一人の人との信頼関係でもっているような事態だった。公の助成金を受けて、途中で投げ出すわけにはいかない、しかし、他のメンバーはイマイチ受け身の、心許ない状況だった。結果的には、ほんとうに皆がよくやって、イベントそのものはうまくいったのだけれど、、、。
その友人は、しかし、自分が拒否された、ということだけをクローズアップして覚えている。私がどのようであったか、などには興味がない。そこだけをとれば、私は冷たく、仲間になりたいと言った人を拒否した、ということになる。そこだけを見れば、それは事実だ。しかし、私たちのような手作りの、一からすべてを作り上げようというような活動に、「何もしないが情報だけ欲しい」というような虫の良い申し出の人を、仲間に加えることはできない、と考える私は、たぶん今も変わらない。時間を戻しても、私は同じ行動を取るだろう。それは「冷たい人」なのかどうかわからないが、それをもって「冷たい人」という人がいるのも仕方がない。たぶん、そういう厳しい面があるのは事実だ。
昨夜、電話で話した古い知り合いは、私のことを「ふだんはふわふわと優しいけれど、言うべきことはぴしっと言う人でした」と言った。私も忘れている古いエピソードを覚えていて、「肝心な時は、きちんと言う人なんだと感心しました」と言ってもらえて、そういうような記憶を残してくれている人は少ないので、とても面はゆいが喜ばしいことだった。そのような私を見込んで、ある企画を持ちかけてきてくれたのだ。
他人の自分イメージは、自分が思って欲しいようなイメージではないことが多い。昨夜の電話は、希なケースだ。評価されると、自分のことをよくわかってくれる人、と思いがちだが、評価しない人も、実は自分の一面をちゃんと見て言っているのだ。
いやな批評も、聞くしかない。たいてい、当たっている。人間は様々な面があるので、どこをとっても、当たっているのだ。どこをクローズアップするかは、人によって、関係性によって、変わってくるのだろう。
私は基本的に、人の良いところを見ようとする傾向がある。だから、他人から認めて欲しいといつも願っているようなタイプの人に異常に好かれて、ストーカーのように追いかけられた過去もある。最近は、そういうタイプの人には、それなりの対応の仕方を心得たので、若い時のような慕われ方はなくなった。おかげで、割合、健康な精神力の人とのつきあいが増えた。追われたり好かれたり、異常に慕われるのも、こちらにも理由があると、最近はわかる。
愛情飢餓のようなタイプの人は、そういう「認めて欲しい症候群」のようなタイプの人にするりと入り込まれる隙があったりする。入り込まれても、余力があればそれでもいいだろう。余力がないとき、入り込まれると難儀をする。まぁ、それでもある程度健康な人は、最後は逃げ切る。健康を失った人は逃げられないから、入り込まれて侵食されきる。私などは、入り込まれても、一定のところから侵食されない健康さがあったようで、結局、相手が興味を失って離れていくパターンが多かった。
話が横道にそれたが、程度も含めて、人は多面的なものだから、どれもこれも、当たっているといえば当たっている。耳に痛いことも、自分の事実の一部だろうと受け取っておいた方がいい。もちろん、それを真に受けて、悩む必要もないだろう。相手の見る目の歪みもあるのだから。