凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

なんだかなぁ

2012-12-29 11:56:44 | 日々の雑感
 某MLで議論が起こっていて、(まぁ、議論自体はよくあるのだけど)、私の守備範囲にも関わっているテーマなので、ちょっと興味を持って読んでいた。

 で、そのテーマ自体の展開よりも、気になったこと。

 ある人が、自論を展開するのに、「それについては、わたしの『○○』をお読みください」といったたぐいの言い方をしていて、そのすぐ後にまた同じような書き方をする人が続いて、気がつくと、そういうように、自分の著作の紹介をしている人が多い。まぁ、それぞれ、自著で論陣を張っているわけだから、そう言いたくなるのだろうけれど、そういう人が続くと、「要するに、あなたの本を買えってことね、そして勉強しろって、わけね」と返したくなる。(返さないけど)

 私には単著はないが、あちらこちらに書いた文章はある(まぁ、こういうのを断簡零墨というのだろう)。それを知っている人も多いグループで話し合いをしていて、私がすでに言及していることを一生懸命自分の説のように言い出す人、あるいは私が書いたものを読んでいたらそういうような意見は言えないだろう、というような展開をする人、などが多々いる。が、私は、「私もあそこでそのことを言っていますが、、、」とは、まず言わない。読んでいただけるほどの物ではないですよね、という卑屈な思いが漂っているのも事実だし、そこでひけらかすだけの自信も厚かましさもない。で、新たな議論の土俵として向き合うことにしている。たまにちゃんと読んでくれた人が、「虎之助さんもあそこで書いておられますよね」と言ってくれるが、共有者の方が少ない場面ではそれは通用しない。

 が、単著をものした人は、すでに上梓されたのだから、自分の意見が世間の共有物になっていてしかるべきである、と考えるようだ。また、研究者の世界では、読んでいないと話にならない、ということもある。だから、読んでいない者の意見など気にもかける必要がない、という共通した態度が見える。
 が、なんだかなぁ、、、、と思ってしまうのだ。学問の世界の権威主義を目の当たりに見るようで、やっぱりなんだかなぁと思ってしまう。権威主義に立たないための論陣を張っている人たちだらけのMLでこれはなんだかなぁと、、、、。

 ネットという公表ツールが出来たのは、よかったかもしれない。学問研究に依拠するだけの知的エリート集団の占有を許さない知的財産のありようを示す新たな可能性かもしれない。



なんかモヤモヤ・・・

2012-12-12 23:37:41 | 考え方
 ある人が自分の貧困を軸に、貧困問題について発言し続けている。いや、確かに貧困は問題だ。私も、そのワーキングプアの一人だ。

 が、その人の場合、友人曰く、すべて自分が選んだ道ではないのか、というのだ。言われてみればそうかも、、、。ずっと運動をしてきた人だ。ウーマン・リブに始まって、市民運動をしてきた。親はそれなりにお金も持っているらしいから、貧困と言っても最後は帰る家もある。そして、私立大学にも行かせてもらい、運動に身を投じ、旅行だの何だのと遊び回っても来た。要するに、結構、好きなように生きている人だ。
 そりゃあ、そんな生き方をしていれば、貧乏だろうさ、とつい意地悪な目で見てしまう。

 他に選択肢がなかったのではなく、選んで来た人だ。上手に持てる資源を使いながら、やりたいことをやって来た。大学院にも行き、遊びにも行き、まぁ、あれだけ好きなことをしながら「貧乏」って言うな、と思うのよね。

 自分の人生を振り返ると、神経を病むくらい選択肢がなかった。離人症になるくらい、私は私でなかった時期が長い。

 それに比べれば、ずいぶんやりたいことをやって、「貧乏」って言うな、とやっぱり思う。

 選択肢などないまま親の言いなりに結婚して、専業主婦となり、やがて夫の経済力を恃みにできなくなった女性は、本当に大変な目に遭っていると思う。そういう人が貧乏を嘆くのは、ほんとうに同情できる。

 それなのに、その人は、専業主婦を蔑む。専業主婦は選んでなったのではない。それ以外に生きる道はないと、脅迫され、首に縄をつけられて歩かされた道なのだ。
 リブ系の人は、どうも自己チューで思い込みの激しい人が多いように思う。

 だんだん私の考え方が変わってきたかも。

 汲々と生活の維持のために小市民の暮らしを生きた人は、苦労をしてその暮らしを獲得したのだ。本当なら、やりたくなかった行為を重ねて、「貧乏」ではない暮らしを手に入れただけの、忍従の人生を歩んだ人かもしれないのだ。 

 

望んだ通りになっている?!

2012-12-10 10:47:33 | 考え方
 ふと、そう思うことがある。

 中学生の頃に、大人になった自分のイメージを持つのは難しい。私のイメージも貧困だった。ただ一つ、私に想像できる大人になった私のイメージは、たった独りで本に囲まれて座っている姿だった。ふと、思う。想像した通りになった、と。今私は、独りで、本に囲まれて座っている。もちろん、猫がいたり、パソコンがあったりと、想像もしなかった物も周りにたくさんあるが、基本はそれなのだった。本だけは、手放したくなかったので、それだけは残った感じだ。

 5年前に病気で退職した職場のことも、そうだなと思う。私は就職してすぐに、その職場で極めて官僚的な人の事なかれ主義と対立した。その頃に強く思っていたのは、たとえ職を失っても、権力に屈するような動き方はしない、ということだった。結果的に、思ったようになった。権力にもおかしな勢力にも阿らず、屈しなかった。そして、職を失った。
 居残っているおかしな勢力を張っている人は、何よりも、自分の職の継続を望んでいたろうと思う。そして、その通りになったのだろうと思う。
 「おかしな」勢力に見えたのは、当時、その人たちの方針が読めなかったからだが、「保身」が至上目的だったのだろう。よもや、そこで働く人たちがそのような方針でいるとは思わなかった当時の私には、見当がつかなくて戸惑ったが、今はよくわかる。
 
 私の母もまた、望むような人生を送った人だ。あらゆるストレスを回避し、誰かの庇護を受けながら、無事な人生を全うしたいと、なぜかとても強く願い続けてきた人だ。私の幼い頃、まだ若い母がずっとそういうことを願い続けていたのは、今振り返ればよく見える。チャレンジ精神や好奇心は皆無の人だった。そして今もそのようだ。
 だから、今はつまらないだろうと思うが、テレビを友に、平和で退屈な日々を機嫌よく生きている。また、そういう母に対して、娘である私も私の子どもである孫も、心を配るように出来ている。何かと気をつけて、ランチやショッピングに連れて行くのが一週間以上途切れないように、気にかけている。とてもうまく、身近な人間を操る。
 達者ではなく、足も弱ってきているが(あそこまで鍛えなければ、当然だろう)、おしゃれだけは相変わらずで、化粧品を買い、白髪染めをスプレーしまくる。家の中がその染料で汚れることには目をつぶり、年末に私が何とかするだろうと高をくくっている。
 望んだ人生を生きている人だ。

 人は結局、望んだ通りに生きているのかもしれないと、ふと思うことがあるのだ。それは本人にとって、「望み」ですらない。自分の生きるよすがのようなもの。私の「良心に恥じない生き方」とか、「職の維持」とか、「無事平穏な人生」とか、それだけは得られている、という感じだ。そう考えると、私の「良心に恥じない生き方」というのが、最も抽象的で胡散臭く感じられるかもしれないな。
 でも、最低限、多くの人がそこだけは叶えているのかもしれない。行動の基盤はそこにあるだろうから、そこだけは堅持している。
 後は、周りの状況や回り合わせで翻弄される部分だ。

 不本意な人生を強いられていると思う人は、自分が持っているものを今一度、見つめた方がよい。定職を維持しているなら、それを自分は一番望んできたのだ。何を失っても、それだけは失うわけにいかないものだったのだ。
 私は正規職に就いたのはほんの短い期間だ。もちろん、職業生活のスタートが遅かったのだから仕方がないが、正規職を得るのが至上目的ではなかった。もちろん、安定した職を得たかったが、それにもまして自分の思想を裏切らない仕事をしたかった。考えてもいないことを言うような職には就きたくなかった。そのために、不安定ながら自分の考えていることをそのまま語ることのできる仕事を続けてきた。それで今の私なのだ。そして、働ける間は、やっぱりこの仕事は死守したい。

 誰も方向性は間違っていないのだろう。自分の傾向に沿った生き方を実現しているのだろう。