凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

最近の悲しいこと

2010-11-15 23:05:49 | 人間関係
 古い友人の一人が、おかしい。人望のある人で、ずっと私も信頼しきっていた。私の苦境にはいつも傍にいてくれた。

 が、その人が、今は私から遠い。彼女の言い分は、わけがわからないほど、おかしい。誰一人、敵対している人がいない団体から自ら離れ、「追い出された」かのように事情を知らない人に伝えている。もともと、人望のある人なので、それを聞いた人は鵜呑みにするのだが、内部にいて様子を見てきた私には理解しがたい。彼女とずっと信頼関係にあった古い仲間が、彼女の言動に、戸惑い続けている。ひとり、「被害者」となった彼女は、どんどん、被害のストーリーを作り上げているが、実際とはまったく違うストーリーになっているようだ。残されたみんなは、唖然、茫然としている。

 彼女に何が起こったのだろう?

 一つ、わかることは、彼女は、自分の期待通りに事が運ばなかったらしいことだ。さらに、これまでの彼女の言動を振り返ってみると、常に、彼女の思い通りに運んできて、すべては彼女のシナリオ通りに動いていたことがわかった。もちろん、彼女のシナリオ通りに運ばなかったことはあるのだが、それはすべて相手が悪い、という彼女サイドのストーリーが流通していて、私も彼女は被害者だと思っていた。また、彼女の仲間であった人が、彼女の思い通りにならなかったこともあるのだが、その場合は、その人が一人寂しく彼女のもとを去っていったのだった。
 実は、私は彼女と、それほど近いところにいたことがなかった。彼女は私の窮地にはいつも駆けつけてくれたし、たまに会って彼女の話を聞くときは、彼女が、「悪い団体」に酷い目に遭って、被害を受けた話を聞くときだった。だから、今まで、彼女の心のからくりを知らなかったが、ここに来て、私は、「悪い団体」側の人間になったようだ。それで、これは何だ? とびっくりして、いろいろ考えた。古い仲間の人たちとも話し合った。そして、やっと見えてきた。やっと、彼女の心のからくりがわかってきた。

 彼女は、彼女の思い通りに物事が運ばないと、決裂する人だったのだ。それも、常に自分の問題とは自覚せず、常に、相手が悪く、彼女は「被害者」となる。そして、被害のストーリーが、とてもシリアスに、第三者に語られる。私はこれまで、その第三者だった。相手のことは全く知らないので、相手が悪いのだと思いこんできた。が、今度は違う。私は、その「悪い相手」側にいる。

 悲しいのは、今、彼女が自分の被害を訴えている第三者が、実は私の友人でもあることだ。そして、友人は、私よりも彼女を選んでいる。これは、とてつもなく悲しい。ま、私の方に、選んでもらえなかった不徳があり、彼女の方が人望があったということなのだろうが、それにしても、悲しい。まぁ、被害のストーリーをつくるのは、とびきり巧みな人だから、人をその気にさせるのは、苦もないことだろうが。

 しかし、私よりももっと、つきあいが密だった人たちが、彼女を追って、団体を辞めなかったこの事実を、第三者は、もう少しちゃんと見た方がよいのではないか。彼女は、私が、彼女と一緒に団体を辞めなかったことも、恨みに思っているらしい。
 彼女が辞めたときは、彼女の方から、すでに私を絶交していたことを忘れているのだろうか。しかも、私は団体の役員で、公的責任があって、子どもじゃあるまいし、「じゃあ、私も一緒にやめようっと」なんてわけにはいかないのは、大人であればわかることだろうし、、、。理解不能なのだ。彼女の古くて密だった友人の一人は、「ご乱心としか言いようがない」と、もうお手上げ状態だ。

 冷静な第三者が、問題をちゃんと見極めてくれることを願うばかりだ。団体側に残った人たちは、誰一人、彼女の悪口になることは言いたくなくて、じっと沈痛な面持ちで、この今の風評被害を耐えている。まるで、だだっ子に振り回されているような感じだ。
 私も、彼女には勝てない、と思えてきた。○○と地頭には勝てない、という、あれだ。

わたし、、、

2010-11-15 22:44:13 | 考え方
 辛いことが多すぎて、処理しきれない。わかったことは、日々、全てが移ろう、ということ。何一つ、安心して、身を委ねられない。

 そう言えば、昔、まだうんと若い頃、決心したことがあった。あまりにも、人の機嫌がころころ変わることに疲れ果て、せめて、自分くらい、いつも同じでいようと思った。状況がどんなに変わろうと、安定した人でいようと決めた。人は、それぞれ辛いことや、悲しいことに見舞われる。そんなときに、いつもと同じように、機嫌の良い顔を向けてくれる人が一人でもいれば、どんなに救われるだろう。子どもの頃からなじんだ児童文学などは、たいてい、そういう、近所のおじさんとかおばあさんなどがいて、過酷な状況にある主人公をふと救ってくれる場面があったりしたので、そういうおじさんやおばあさんのようになろうと決めた。大したことはできないが、それなら、出来そうな気がした。そうして、いつも変わらぬ情緒の安定した、優しいオアシスのような人になれれば、上出来と思っていた。

 私はオアシスになれたのだろうか。

 否、むしろ、オアシスのつもりが、筋を曲げない頑固者になってしまった。曲がった事の嫌いな、直情型の人間になってしまった。人は、これでは、安らぐどころか、気を張るのかもしれないな。
 ずるいのを許さない、ちょっとした画策もいやがる、本心は何だと迫る、、、きっと、弱い心の人は、しんどくなるのだろうな。私は、実は強靱なのか。
 古い友人が、「強い」と私のことを言う。確かに、よりかからず、一人で立とうとするのは、強さなのだろう。が、それほど丈夫ではないので、倒れそうなのだが、、、。それでも、寄りかかって立っているより、一人で倒れる方を選びそうな自分が、なんだか、悲しい。