凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

母と娘の話をまた、、、

2013-04-25 21:49:39 | 
 友人と話をしていて、あらためて思ったのだが、私の知人で、すでに故人となった女性の何人か。結婚をしないで、そのために、年を取ってきた母親と同居して、結局、母親より先に亡くなった。3年ほど前に亡くなった人は、とても元気な人で口達者だったが、母親はそれを上回るのだと笑っていた。その人が亡くなったとき、私は、母親との同居によるストレスが大きかったのではないかと思った。娘は母に似る。エネルギッシュな娘の母親はたいていそれ以上にエネルギッシュだ。二人のパワーがぶつかりあえば、母が勝つ。なぜか、勝つのだ。

 友人の母との関係を聞いていても、専業主婦で長年を生きてきて、娘よりもよほど教育も受けていないし社会的位置もないのに、なぜか娘を凌駕する迫力があるらしい。娘の方がよほど力を持っているのに、母は娘を組み敷いている。そして、娘は日々ストレスを溜めている。

 よく、カウンセリングでは、「母殺し」というような物騒な言い方をする。自分の内面に根を張って、自分を攻撃したり支配し続ける「母」を、自分の中で駆逐する、ということだ。現実の母は年老いて、すでに弱者であるのに、幼い頃から支配され続けた関係を娘は脱することができない。

 私の子どもの頃、趣味で猛獣を飼っているおじさんが近所にいた。そのおじさんは理髪店を営んでいて、動物のいる床屋さんというふれこみだったので、私も時々行って、ガラス越しに、檻の中の虎や熊を見ていた。そのおじさんが亡くなった時に、動物園だかに引き取って貰った、というような話であったが、私の子どもの頃は、そのおじさんはまだ元気で、「虎が子どもの頃から、檻に入るときは金槌を持って入り、それでしつけてきたので、大きくなっても、金槌を持って入ると、虎は怖がっておとなしい」とのことだった。成長した虎の前では、金槌など何ほどの武器にもならないだろう。しかし、虎は幼い頃から、それは怖い物として、自分が逆らえない物として、インプットしているので、その前では無力になるのだ。
 母に組み敷かれる娘も、これに似ている。もはや、現実のパワーは逆転しているのに、インプットされた支配と被支配の関係から抜け出せない。

 母親も、娘といさかいが生じた時は、命がけで闘うのだろう。決して負けてはならない相手なので、おそらく迫力が違うのだろう。勝たねばならない母と、服従が身についた娘なのだから、勝負は始めから決まっている。

 私の母は、負けるが勝ち、の人だ。強い人、社会的な位置を持っている人の前で、いともたやすく屈服して見せる。あれほど、私に君臨した人とは思えないほど、さっさと私の上から下りた。
 理由の一つは、私が母にあまりにも似ていなかった、からかもしれない。母の得意範囲から逸脱していた私は、母が調教する対象になり得なかった。私は母のようになれなかったし、またなりたいとも思わなかった。あまりにも異質であったから。男の子のような私をある程度矯正し得た母は、そこで終わりにしたのかもしれない。結婚して後も、私が母を頼り続けていれば、母は私の頭上に君臨したかもしれないが、私が母から独立してしまったので、そこで母の支配は終わったようだ。
 友人は、何度も母親からの自立を図ったにもかかわらず、未亡人になった母を見捨てることができず、気づいたら、母親の傘下に入っていた、という感じだ。その友人の母親の強さは、私には理解不能だ。なぜ、恬として恥じずに、そうしていられるのか。私の母のように繋累に恵まれない人は、恃みにする後ろ盾がないために、目の前の人間と関係が悪くなるのは得策ではないと思うのかもしれない。友人の母親は、しっかり者の姉たちがいるために、それらを精神的後ろ盾にして、その世界の揺るぎない価値観を娘に押しつけるのかもしれない。むしろ、娘の価値観を受け容れれば、姉たちの世界から引き離されるので、それが怖いのかもしれない。自分のなじんだ世界の価値観を捨てるのは容易ではないのだろう。少なくともそこにとどまることが、自分の生きるすべだと思いこんでいれば、そこから出ることは決してないだろう。

 友人がストレス死しないことを願うしか方法がないのが、なんとも悲しい。
 
 

わがままになってきたので

2013-04-23 23:37:11 | 考え方
 もう若い時のように、将来のために今がまんする、ということはなくなったので、今が良い状態であることを望むので、わがままになっているかもしれない。

 でも、もうなんだかつくづくいやになってしまったのだ。まわりに合わせることに疲れてきたのだ。

 無理をして、気の進まない所に行く必要もないし、いやな人に会う必要もない。今、やりたいことをやろう、という気になってきたのだ。

 もちろん、お金もないので、大したことはできない。自分の出来る範囲で、自分の気に入った行動をしておこうと、思うようになってきたのだ。

 つくづくいやになった一つは、ヘテロの文化。もう、見たくない。もう聞きたくもない。

 ずっと思ってきたことだけど、この際だから、言う。
 男と女のカップルって、どうしてあんなに気持ち悪いものなのか。どうして、あんな気持ちの悪い趣味の人たちがたくさんいるのか? ゲッとなるほどいやだ。
 映画でもテレビでも、ヘテロカップルのベッドシーンやキスシーンを、いやになるくらい見させられてきた。げんなりしながら、我慢してきた。これが「普通」らしいと、受け容れようとしてきた。しかし、無理なのだ。嫌いなのだ。気持ち悪いのだ。
 世の中の文化では、ますますヘテロカップルの濡れ場が露出する。これを見させられる者の苦痛を考えてみろよ。ゲイやレズビアンを気持ち悪いと平気で言う人間がいるが、実は、自分たちも気持ち悪いと思われている、ということには気づかない。気持ち悪いが、がまんしてきただけなのに。がまんして、あまり見ないようにして、許容してきたのに。鈍感なヘテロは、相変わらず、自分たちの正統性を信じて疑わない。気持ち悪い!

 ヘテロの文化に疲れてきた。かと言って、今更、自分が何をしようと思っているわけではない。自分らしいセクシュアリティの発見、というには、私は年をとり過ぎ、エネルギーが枯渇してきた。
 が、ただ、ヘテロ文化はいやだと言いたいだけ。見るのも聞くのもいやだと。合わせすぎて疲れてしまった。もちろん今までも、妥協して、話題を合わせたことはほとんどない。が、嫌悪を隠してきた。拒否感を封殺してきた。が、もうやめよう。「ごめん、ヘテロの話に興味がない」と言おうか。そう言えば、きっと、「え~、虎之助さんって何?」とか、絶対聞いてくるんだろうな。「何でもない」と答えようか。少なくとも「どヘテロではない」と言おうか。「ヘテロ嫌い」だと答えようか。
 ホモフォビアならぬヘテロフォビアだと答えようか。

 案外、女性には多いと思う。ヘテロフォビアって。
 

ヘテロな文化のダサイ日常

2013-04-15 13:17:14 | 人生
 女性の中には、ヘテロセクシズムに深く傷ついてきている人が結構いる気がする。セクシズムはもとより、ヘテロセクシュアルが主流の文化であるこの社会では、女性は常に男性の視線の対象として、値踏みされ、存在価値を決められる。

 女性のBLへの傾きは、男性にはない、この文化の中での自己客体化の深さ、傷の深さの表れのような気がする。

 もちろん、ヘテロ文化の中で、大した屈折もしないで順応していく女性もたくさんいるから、たぶん、ヘテロ文化に違和感を抱いている女性は少数派であるのかもしれないけれど。

 そして、映画を見ても、テレビドラマを見ても、本を読んでも、「えーかげんにせーよ」というくらい、ヘテロのオンパレードだ。
 先日、連続ドラマを見ていて、途中で見るのをやめた「シェアハウスの恋人」という番組があった。舞台は、実際に横浜にあるシェアハウスでロケをしている。そして、男性の同性愛というアイテムも登場しているので、ちょっと数回追いかけてみた。が、あまりの陳腐さにがまんできなくなり、見るのをやめた。出ている俳優も結構好きだし、舞台もいいのに、なぜここまでダサくできるのか、と思うほどに陳腐で見るに堪えない。なんだかわけがわからなかったが、主人公の男性が「宇宙人」とかいう設定(?)で、その「宇宙人」の男性に思いを寄せる年上のイケメン男性に、「宇宙人」は同性愛ということにドン引きするのだけど、同性愛は宇宙人より珍しいのか、と、呆れてしまうのだ。

 宇宙人の存在があり得て、同性愛はあり得ない、というこの設定の歪み。あまりのアホらしさに、つまらなさを通り越して、腹が立ってきた。

 NHKのドラマでも、先日まで連続放送されていた「純と愛」と題されたドラマ、人の本性が見えてしまう男とか、腹黒い人間の匂いが「臭い」とマスクを離せない女とかが登場するなど非現実的な設定のその単純な人間観に呆れていたが、ゲイ男性の取り上げ方にもうんざりした。明らかに中年オカマという典型的な人物像を描き出し、同性愛の戯画化に一役買っている。同じNHKの「ハートをつなごう」で、あれほど、性の多様性を打ち出し、当たり前の性のありようの中に同性愛もトランスジェンダーも組み込んでいく努力をしているのに、一方でこのお粗末さかげん。

 なんだか、どれもこれも、ヘテロセクシズムが推進される材料となっていて、そこに傷ついて相対化を試みてきた人たちの努力が全く報われないことに、苛立ちを通り越して絶望的になる。

 マイノリティの感覚で生きて長いので、私の目には、どれもこれもダサイ。陳腐で魅力的ではない。なんだかな~、という感じだ。
 
 権力の所在が、民主主義社会では、マジョリティに移ったということか。

 性の多様なありようが、普通に物語に組み込まれていくような、洗練された社会はまだまだ来ないのだろうか。

 フランスの連続テレビドラマに「Les Bleus」という、若き警官たちを描いた面白いドラマがあったのを見つけた。既に2年ほど前に終わっているシリーズだ。Youtubeでは、フルストーリーは見られない。しかし、断片的なシーンを拾ってみた。主人公なのか、主人公の一人なのかわからないが、若い新米警官のケヴィンは、ゲイという設定。そして、同じ警察組織の中に恋人ができ、彼とのやり取りを巡って、苦悩したりハッピーになったりを展開する。どちらも極めてルックスの優れた俳優が演じている。ゲイがフリーク扱いどころか、むしろヒーローとしての役割も果たしている。年上の男性ヤンは、マッチョな気質の敏腕警官だ。若いケヴィンは、同僚から、「キングコングとハルクを除けば、君が一番ごっつい」と言われる筋肉質。二人とも、マスキュリニティを遺憾なく発揮する。そうした人物造型をベースに、様々な事件が展開し、若い警官たちの若さ故の失敗や苦悩を描く。社会正義や組織に所属して働くというテーマも登場する。終わり方が切なくてつらいのだが、美学として成功しているように思う。断片しか拾えていないので、レズビアンが登場するかどうかは見えない。
 日本で言えば、人気刑事ものドラマの二枚目主人公がゲイという設定、というところか。

 アメリカのドラマでも、今やフリークではないゲイが種々登場するようになっている。シリアスなドラマの中で、当たり前のようにゲイやレズビアンが存在する。ごく普通に、ヘテロの役と同じように、ルックスの良い俳優が演じるようになってきている。

 ゲイたちの裏側は、私は知るよしもないが、少なくとも、私の知るかぎりのゲイ男性は、日本のテレビドラマに登場するような「おねえ」ではない。そういう人は私の周辺にはいない。レズビアンはもっとたくさん見てきたが、あまりにも「普通」の人が多い。
 シナリオ作家は、自らの陳腐な感性を恥じた方がよいと思う。それとも、放映側の規制が強く働くのだろうか。

 とにかく、つまらない作品が多いのよ。
 

かけがえのないあなた

2013-04-08 12:01:52 | 考え方
 それは、魔法のような言葉だ。

 他の人は知らない。そんなことを言ってほしい、なんて思っていないのかもしれない。しかし、私はずっとそれを望んでいたのだろうと思う。なにしろ、親からそのメッセージを貰っていない(ように思っている)から、自分がただ存在するだけでいい、というメッセージを他者から受け取れたら、さぞ、人生は肯定的に見えるだろう、などと夢想してきた。

 恋愛幻想は、それに基づいていたような気がする。

 が、意外とそのメッセージは受け取れないものだ。ハリウッド映画に見られるような、恋愛する人々の常套句が、私の人生には無に等しい。
 こういうことは、結婚詐欺師くらいしか言わないものなのだろうか。

 もう亡くなってしまったが、生前その生活をドキュメンタリー映画に残したロバート・イーズというアメリカのFTMの人がいる。唯一残った女性の部分、子宮癌で亡くなってしまった。その人が、MTFの恋人、ローラのことを「こんなに素晴らしい女性はいない」とベタ褒めだった。「男はみんなローラに夢中になる」と。ローラは、仕事をするときはまだ男性として仕事をしている人であるから、一般の女性とはだいぶん異なる。それでも、ロバートは、ローラを完璧な女性として遇し、一貫してこの世の最高の美女を恋人にした男として振るまい続けた。
 本当にそう思っていたのか、アメリカ文化の中にある、自分の恋人、あるいは子ども、親、そういった立場の人々を「この世で最高」というように讃える習慣のせいなのか、わからない。もし、それが文化習慣であるなら、人がそのように遇されたい、そうであることによってエンカレッジされる、ということをよく知っている文化である、という気がする。

 日本人は、自分の身内については謙遜することを美徳としていた、とはよく言われる。私は子どもの頃、他人に褒められる私を、母がそれを打ち消すようにけなしていた場面を(そういう場面しかなかったのだが)、とても悲しい思いで聞いていたのを覚えている。そして、それは自分はやめようと決めていた。子どもは褒める、他人の前でも褒める、それしかない。そして、子どもをエンカレッジする。それが、親にできる子ども孝行の最たるもの、という気がしていた。

 こんな古いエピソードがある。アメリカ人の男性と日本人の女性が結婚することになり、それぞれの親が顔合わせをした。アメリカ人の親は自分の息子を世界一自慢の息子だというように褒めそやす。が、日本人の親は、娘をひたすらけなす。アメリカ人の親が次第に困惑し始めた、という話だ。それほど、ひどい娘なのか? 親がそれを言うのか? と顔色が変わっていった、という話なのだ。

 そういうエピソードを見ると、文化的な習慣なのだろう。日本人には、自分の子どもを良く思っていないはずがない、という大前提がある。私の親もそうだった。だから、いつでも私を低く評価した。が、その親の大前提を、子どもは共有していない。低く評価されれば、それが自己評価とつながる。
 いったいいつから、親は自分の子どもを良く思っていないはずがない、という大前提ができたのだろう。

 親密な相手には、かけがえのないあなた、と言い続ける方がよいような気がする。その時点で、それが嘘ではないなら。
 恋人に、「誰でも良かった。偶然、あなただった」と言われるなら、それは恋人の意味がないような気さえする。その相手くらい、自分の良いところを認めてくれる人でなければ、親密な関係が成立しない気がする。
 恋愛くらい、過酷な人生の良きものでないと、人はいくらでも萎縮する気がする。

 私はいつも他人の良いところを見ようとする癖がある。だから、基本的に私の他人に対する評価は高めだ。それがもちろん、誤解も生む。「わかってくれるのは、虎之助さんだけ」などと言われて、妙に慕われてしまうことも起こる。そして、それが私の癖だとわかると、裏切られたような気持ちになって、勝手に恨まれたりするので、困ることもある。文化的習慣ではなく、個人的な癖なので、誤解が起こるのだ。
 もちろん、「あなたは私にとってかけがえのない人」などと、結婚詐欺師みたいなことは言わない。しかし、この世にあなたという人はたった一人、かけがえのない存在だ、という意識でいることは事実。誰に対してもそうだし、また、それには嘘はない。

 やっと、ナンバー1よりオンリー1という考え方が始まった。しかし、文化に根付いていないこの考え方は、どんなふうに意味を歪めていくのだろう、と心配の種は山ほどある。すでにもう、若い人の間では、他の人にはない自分独自のものを身につけなくては、というプレッシャーが始まっているようだ。
 この国に生まれながら、この国の厄介な風土に、いつも悩まされて生きてきた気がする。
 
 

カップル関係について

2013-04-03 12:10:38 | 考え方
 いくつも、よくわからないことがあるのだが、その一つ。

 昔、上野千鶴子さんが、確か「恋愛はアイデンティティの交換だ」というようなことを書いていた記憶がある。私はずっとこの人のファンであるのだけれど、この「恋愛論」だけはわからなかった。吉本の「対幻想論」をベースにした論考だったか、とうっすら記憶がある。

 間違った記憶かもしれないので、ここからは、私の考えを。

 世間には「浮気」という概念があって、正当な性愛関係以外の性愛関係を結ぶことを言うようだ。それは、婚姻届を出した関係だけではなく、ステディと見なされる関係にも適用される概念のようだ。

 そして、浮気は、不道徳、ルール違反といった意味合いを含んでいる言葉である。で、それが何なのか? ということであるのだが、婚姻関係は制度の問題なので、財産関係に関わってきそうだから、とりあえず除外して考える。つまり、心理的な意味合いのようなことだけを、今は考えたいのだ。

 それは、もう何年も前のことになるが、少人数で女性同士のカップルについて話していたときだった。私はあるカップルのことを思い出して、女性には「私だけを見てほしい」「私だけを愛してほしい」という欲求が強く、相手の過去の人の影もいやだ、ということがあるようだという話をした。実際、カップル女性で、絶対に単独では会うことが出来ない人たちがいて、まともな一対一の人間関係を築きにくい、という印象を持っていたからだ。
 すると、ゲイの若い男性が、「ゲイとは違いますね」と言った。ゲイの場合、「もっと経験を積んで来い」と言われる、と。

 それが気になっていた。確かに、知り合いの他のゲイも、相手がモノガミーではないということを了解の上、つきあっていた。彼らには独占欲はないのか? 
 しかし、ことヘテロの男性になると、独占欲は強そうだ。ジェラシーは強そうだ。それはたぶん、所有欲の表れだろうと私は考えている。自分の「持ち物」を勝手に使われるなんてとんでもない、という発想のような気がする。男性にとって、女性は自分に帰属する「所有」のものなのだろう。
 が、ゲイの場合は、相手も男性であるので、「所有」とは異なってくる。男性にとって他の男性は、自分と同等の人格であるので、男女のような不均衡な関係とは異質な関係になるのではないか。だからと言って、そこに相手の人格を尊重した「良い」関係が築かれるとは思っていない。むしろ、人格全体を関わらせない、というかたちで関係が成り立つ気がするのだ。尤も、女性の場合は、性愛関係に人格全体を関わらせるからこそ厄介、という感じもするけれども。

 女性の場合は、相手に対して「所有」という感じを持つのとは少し違う気がする。相手にとってたった一人の女性でありたい、という悲痛な願いのような気がする。自分にとって相手が何か、という以上に、相手にとって自分が何か、ということが気になるような気がする。それは、嘗ての私にもあった感情なので、そのように想像するのだけれども、今のこの関係が相手にとってかけがえのないものであってほしい、それが満たされないということは人生に裏切られるようなことなのだ、という悲壮感があった。
 時間軸をいくら辿っても、自分がたった一人の人でありたい、というのは、それが冒頭のアイデンティティと関わってくるのかと思うのだ。私という人間の価値がそこで決定するような、悲痛なポイントなのだ。

 恋愛にはそういう幻想がついてくる。「浮気」という単語は、自分がコミットしているその関係の正当性を主張するためには、相手が自分以外と築く関係は一時的なもの、重要でないもの、というニュアンスを強調するためにある。自分のアイデンティティを賭けるに値する関係か否か、ということが重要事なのだ。

 見合い結婚した年輩の人たちは、そのあたりがあっさりしている人が多い。幻想がないからだろう。自分が相手の生涯にとってたった一人での人であるかどうかは、関知しない。生活上のメリットを享受する間柄として、極めてリアリスティックに生きている。そして、長年にわたって築き上げた信頼関係と情愛は、決して浅くはない。そんなものか、、、と挫折したロマンティストの私などは、茫然としてしまうのだ。

 ゲイの男性にとって、相手は自分のアイデンティティを賭ける相手ではないのかもしれない。アイデンティティは、仕事やこの人生の自分の使命など、様々な社会的位置に賭けていて、相手は、情欲の対象というシンプルなものなのかもしれない。特に婚姻関係を結ばない前提であるから、生活の糧、日々の暮らしの張り合いのようなものを相手に期待しない。それらは彼らなりの工夫で過ごしていて、性的な欲求の対象としてのみ相手があるのかもしれない。
 ゲイの人は関係が長続きしない、というが、初めからそういうシンプルな欲望の対象に過ぎないものを、既存のカップルの形態や、恋愛というものへの過剰な粉飾のために、むしろ、それらをモデル化してしまって、ややこしくなっているのかもしれない。
 ある若いゲイは、「今度の人こそ」と思うのだけれど、やはりダメになる、と言っていた。初めから、世に流通する恋愛幻想をモデルとしなければ、起こらなかった破局かもしれない。つまり、破局などない、初めから関係がなかったのだから、ということだ。