友人と話をしていて、あらためて思ったのだが、私の知人で、すでに故人となった女性の何人か。結婚をしないで、そのために、年を取ってきた母親と同居して、結局、母親より先に亡くなった。3年ほど前に亡くなった人は、とても元気な人で口達者だったが、母親はそれを上回るのだと笑っていた。その人が亡くなったとき、私は、母親との同居によるストレスが大きかったのではないかと思った。娘は母に似る。エネルギッシュな娘の母親はたいていそれ以上にエネルギッシュだ。二人のパワーがぶつかりあえば、母が勝つ。なぜか、勝つのだ。
友人の母との関係を聞いていても、専業主婦で長年を生きてきて、娘よりもよほど教育も受けていないし社会的位置もないのに、なぜか娘を凌駕する迫力があるらしい。娘の方がよほど力を持っているのに、母は娘を組み敷いている。そして、娘は日々ストレスを溜めている。
よく、カウンセリングでは、「母殺し」というような物騒な言い方をする。自分の内面に根を張って、自分を攻撃したり支配し続ける「母」を、自分の中で駆逐する、ということだ。現実の母は年老いて、すでに弱者であるのに、幼い頃から支配され続けた関係を娘は脱することができない。
私の子どもの頃、趣味で猛獣を飼っているおじさんが近所にいた。そのおじさんは理髪店を営んでいて、動物のいる床屋さんというふれこみだったので、私も時々行って、ガラス越しに、檻の中の虎や熊を見ていた。そのおじさんが亡くなった時に、動物園だかに引き取って貰った、というような話であったが、私の子どもの頃は、そのおじさんはまだ元気で、「虎が子どもの頃から、檻に入るときは金槌を持って入り、それでしつけてきたので、大きくなっても、金槌を持って入ると、虎は怖がっておとなしい」とのことだった。成長した虎の前では、金槌など何ほどの武器にもならないだろう。しかし、虎は幼い頃から、それは怖い物として、自分が逆らえない物として、インプットしているので、その前では無力になるのだ。
母に組み敷かれる娘も、これに似ている。もはや、現実のパワーは逆転しているのに、インプットされた支配と被支配の関係から抜け出せない。
母親も、娘といさかいが生じた時は、命がけで闘うのだろう。決して負けてはならない相手なので、おそらく迫力が違うのだろう。勝たねばならない母と、服従が身についた娘なのだから、勝負は始めから決まっている。
私の母は、負けるが勝ち、の人だ。強い人、社会的な位置を持っている人の前で、いともたやすく屈服して見せる。あれほど、私に君臨した人とは思えないほど、さっさと私の上から下りた。
理由の一つは、私が母にあまりにも似ていなかった、からかもしれない。母の得意範囲から逸脱していた私は、母が調教する対象になり得なかった。私は母のようになれなかったし、またなりたいとも思わなかった。あまりにも異質であったから。男の子のような私をある程度矯正し得た母は、そこで終わりにしたのかもしれない。結婚して後も、私が母を頼り続けていれば、母は私の頭上に君臨したかもしれないが、私が母から独立してしまったので、そこで母の支配は終わったようだ。
友人は、何度も母親からの自立を図ったにもかかわらず、未亡人になった母を見捨てることができず、気づいたら、母親の傘下に入っていた、という感じだ。その友人の母親の強さは、私には理解不能だ。なぜ、恬として恥じずに、そうしていられるのか。私の母のように繋累に恵まれない人は、恃みにする後ろ盾がないために、目の前の人間と関係が悪くなるのは得策ではないと思うのかもしれない。友人の母親は、しっかり者の姉たちがいるために、それらを精神的後ろ盾にして、その世界の揺るぎない価値観を娘に押しつけるのかもしれない。むしろ、娘の価値観を受け容れれば、姉たちの世界から引き離されるので、それが怖いのかもしれない。自分のなじんだ世界の価値観を捨てるのは容易ではないのだろう。少なくともそこにとどまることが、自分の生きるすべだと思いこんでいれば、そこから出ることは決してないだろう。
友人がストレス死しないことを願うしか方法がないのが、なんとも悲しい。
友人の母との関係を聞いていても、専業主婦で長年を生きてきて、娘よりもよほど教育も受けていないし社会的位置もないのに、なぜか娘を凌駕する迫力があるらしい。娘の方がよほど力を持っているのに、母は娘を組み敷いている。そして、娘は日々ストレスを溜めている。
よく、カウンセリングでは、「母殺し」というような物騒な言い方をする。自分の内面に根を張って、自分を攻撃したり支配し続ける「母」を、自分の中で駆逐する、ということだ。現実の母は年老いて、すでに弱者であるのに、幼い頃から支配され続けた関係を娘は脱することができない。
私の子どもの頃、趣味で猛獣を飼っているおじさんが近所にいた。そのおじさんは理髪店を営んでいて、動物のいる床屋さんというふれこみだったので、私も時々行って、ガラス越しに、檻の中の虎や熊を見ていた。そのおじさんが亡くなった時に、動物園だかに引き取って貰った、というような話であったが、私の子どもの頃は、そのおじさんはまだ元気で、「虎が子どもの頃から、檻に入るときは金槌を持って入り、それでしつけてきたので、大きくなっても、金槌を持って入ると、虎は怖がっておとなしい」とのことだった。成長した虎の前では、金槌など何ほどの武器にもならないだろう。しかし、虎は幼い頃から、それは怖い物として、自分が逆らえない物として、インプットしているので、その前では無力になるのだ。
母に組み敷かれる娘も、これに似ている。もはや、現実のパワーは逆転しているのに、インプットされた支配と被支配の関係から抜け出せない。
母親も、娘といさかいが生じた時は、命がけで闘うのだろう。決して負けてはならない相手なので、おそらく迫力が違うのだろう。勝たねばならない母と、服従が身についた娘なのだから、勝負は始めから決まっている。
私の母は、負けるが勝ち、の人だ。強い人、社会的な位置を持っている人の前で、いともたやすく屈服して見せる。あれほど、私に君臨した人とは思えないほど、さっさと私の上から下りた。
理由の一つは、私が母にあまりにも似ていなかった、からかもしれない。母の得意範囲から逸脱していた私は、母が調教する対象になり得なかった。私は母のようになれなかったし、またなりたいとも思わなかった。あまりにも異質であったから。男の子のような私をある程度矯正し得た母は、そこで終わりにしたのかもしれない。結婚して後も、私が母を頼り続けていれば、母は私の頭上に君臨したかもしれないが、私が母から独立してしまったので、そこで母の支配は終わったようだ。
友人は、何度も母親からの自立を図ったにもかかわらず、未亡人になった母を見捨てることができず、気づいたら、母親の傘下に入っていた、という感じだ。その友人の母親の強さは、私には理解不能だ。なぜ、恬として恥じずに、そうしていられるのか。私の母のように繋累に恵まれない人は、恃みにする後ろ盾がないために、目の前の人間と関係が悪くなるのは得策ではないと思うのかもしれない。友人の母親は、しっかり者の姉たちがいるために、それらを精神的後ろ盾にして、その世界の揺るぎない価値観を娘に押しつけるのかもしれない。むしろ、娘の価値観を受け容れれば、姉たちの世界から引き離されるので、それが怖いのかもしれない。自分のなじんだ世界の価値観を捨てるのは容易ではないのだろう。少なくともそこにとどまることが、自分の生きるすべだと思いこんでいれば、そこから出ることは決してないだろう。
友人がストレス死しないことを願うしか方法がないのが、なんとも悲しい。