凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

自己実現

2011-01-29 20:27:12 | 考え方
 昔、「自己実現」という言葉がはやった。あれは、何だったのだろう? と思う。主婦の自己実現、とか、なにげなく使っていたような気がするが、いったいどういうことを指していたのだろう? 今になるとわからない。何か、妄言に近い言葉のようだ。
 なんか、わかってる気がしていた。自己実現すればどうなるのか、ということはよくわかっていなかったと思うが、自己実現していない状態だと感じていたのは事実だ。何が欠落していたのだろう? 自分の人生を生きていない感じ、自分が自分でないような感じ、自分を誰かに明け渡している感じ、というようなそのような空虚感が支配していた。

 思えば、若い頃、ふと夜中に目を覚ますと、自分の状態が一瞬わからなくて、自分のそれまでの人生を頭の中でおさらいして、自分のその時の状態を確認する、ということが何度もあった。
 夜中に薄ぼんやりと浮かび上がる天井を見つめて、そこがどこであるかを知ろうとする。そして、あぁ、私は、結婚して、子どもを二人産んで、今こうして、子どもと一緒に寝ているのだ、と思い出す。そして、横に眠る子どもの寝顔を見て、自分の認識が間違っていないことを確認する。子どもを一人、二人と数えて、そして、また眠りにつく、というような出来事が何度もあった。
 朝も、ふと目覚めて、自分がどこにいるかを知ろうとする。そして、起き出すまでの間に、自分の今の状態を思い出す。やはり、一瞬のうちに、それまでの人生をおさらいする。結婚して、子どもを産んで、引っ越して来て、今私は、夫と子どものいる暮らしをしているのだ、と、状況確認をする。

 なぜ、そのようなことが必要だったのだろう。何度も何度も、そのような瞬間が訪れた。それをやらないで、当たり前のように存在することはできなかった。年齢や身の上を何度も何度も確認して、自分に覚えさせようとしていた。まるで、記憶喪失の人みたいに。

 記憶喪失の人は思い出すこともないのだろうが、私は常に、おさらいをすることで、思い出すことはできた。でも、まるで他人事のように、いちいち確認作業をする必要はあった。結婚したんだよ、子どもを産んだんだよ、それで引っ越しをしたんだよ、今○○歳になっているんだよ、と、常に常に、確認を必要とした。それなしに、自分がどこの誰であるかを、「自然に」わかっている、というようではなかった。

 たぶん、私が自分の人生を、自らの意志で生きていなかったからだろう。私は自分の人生にコミットする感じを持っていなかった。誰かに生かされていた。誰か、私ではない人の意志と欲望が、私の人生を支配していた。それがずっと続いていた。
 ある日、自分の望む生き方をしたいと、無謀な行動に出た。それは無謀だった。夫だった人も巻き込んで、とてもはた迷惑な、しかし、私自身はそれ以外に自分の人生を生きられない気がして、えいやっと飛び出した。
 それから、自分の今の状態を確認する、という作業を必要としなくなった。目が覚めたとき、自分がいる場所を思い出す、という作業がなくなった。私はとても意志的に生き始めた。覚醒した自分がいるように思えた。

 最近は、目覚めた時に、自分自身の確認作業ではないが、これまでの総括を短い時間にやっていることがある。たいていは、夫に死なれたことをまず確認する。あぁ、死んじゃったんだ、と、確認する。死んじゃったんだ、、、夢ではないんだ、、、という確認だ。そういうときは、少しずつこちらも年をとり、少しずつ、あの世に近づくのだな、と思うことが救いになる。
 
 私の若い時の「自己実現」という謂は、厳しい自己確認に結びついたのだろう。良くも悪くも、自分の意志で生きる、ということが何よりも大事に思えていた。どんなに困難な人生でも、自分の意志で生きたい、という身のうちから湧き上がる欲望があった。
 昔、箙田鶴子さんだったかが、障害者施設から出るときに、「例え一日で死んでもいいから、施設の外で自分で生きたい」と言って、施設を出たことを書いていた感じが痛いほどわかったように、私もまた、自分の意志で自分の人生を生きられるなら、例えすぐに死んでしまってもいい、とまで思い詰めていた。
 自己実現とは、そういう思いを表現したものだったのだろう。

 そういう意味では、厳しい人生も快い。誰かに明け渡さない人生は私の誇りかもしれない。同じような年頃の女性が、同じような感じでなく、あまりこういうことに共感者が身近にいない、ということだけがちょっと頼りないのだが。



 

理解し合うということは?

2011-01-11 14:45:59 | コミュニケーション
 言葉は空しいことが多い。言葉では語りつくせないことの方が多い。言葉を使っていても、真意は別のところにある、という場合は多い。
 しかし、だからと言って、言語化を怠ってしまえば、もはやコミュニケーションの成り立ちようがない。

 何も言わないで、「ね、わかるでしょ?」と、相槌を求める、あの感じが私はものすごく苦手だ。もちろん、わかると思う場合もあるが、皆目わからない場合もある。

 私の接した、「ずるい」と感じる人は、この「察し」を要求する人が多かったように思う。「ね、わかってるでしょ?」と同意を強要して、自分の土俵に相手を引きずりこむ。そこへ入ってしまったら、もう相手の術中に落ちている。気がついた時はもう遅い。でも、そういうことを、無意識にやっている人がいる。無意識だから強い。何のためらいも呵責もないから、隙もない。こういう人がたまにいて、なんか、やりこめられたなぁ、という感じが残っている。

 また、ひがみや悪意や敵意や、そういうことをこよなく憎み、自分にはそういうものがないと思い込んでいる人もいる。私の古い友人で、最近、絶交状態になってしまった人がそれだ。いつも自分は正しいと思っているので、自己イメージが立派だ。が、生身の人間は、それほど立派なだけではないのが通常だ。やっかみもわく、自分が人に認められたいと願う、いい思いをしたいとも思う、、、、そういう俗人的な欲望が自分にはなく、常に抑圧された他人のために闘う、という自己イメージでいるから、そして、人々が自分についてくるはずだ、と思いこんでいるから、自分についてこない人に驚き、裏切りと感じ、自分は正義だから相手は不正義と断じる。とんでもない短絡が起こっている。自分の中のネガティブな感情を認めないからそれを覆い隠したことしか言わない。で、どうしても話を聞いていても、しっくり来ない。「怒りがあるね」と言っても、肯定しない。きれい事だけを言い続ける。で、「本心は何?」と尋ねることになるのだが、その質問には傷つくのだ。まるで、自分が裏表のある人間のように言われた、と。裏表ではなく、自分でも否認している感情があるのではないか、と、さらに問うたら、絶交された。それは、自分にそのような俗物の感情などあるはずがない、と思いこんでいるから、そこを見させられるのがいやだったのだろう。
 しかし、ここをきちんと見つめて話し合わなければ、どうしようもない。彼女には、自分についてこない人は、みんな「敵」となった。現在は、その状況だ。

 平たく、言語化しつつ、行きつ戻りつしながらも、やり取りをする以外に、わかり合う方法はないと思うのだが、それ以前に、わかり合いたい、と思っていない人には通用しないということだろうか。
 わかり合う、ということではなく、一方的に相手が自分の言い分だけをわかるべき、と考えていたら、確かに議論は成り立たない。

疲れる、、、


攻撃の真相を考える

2011-01-11 10:45:43 | 組織・集団
 何度も何度も自分が管理職として苦しんだ組織のことを振り返るのだが、あの時の私に向けられた攻撃は、ほとんど、攻撃者には自覚のないことだったのだろうと思う。

 私が行く前から、組織内部は、荒れに荒れていたようだ。働いている人たちは疑心暗鬼になり、お互いに優しくはなく、多くが有期雇用の中で自分の仕事は大丈夫なのか、という不安に駆られていたようだ。多くの人が私を知らない中で、私のことを古くから知ってくれている人がいたことも、私を救ってくれたと思う。その人が私と仕事をして、この職場で初めて、仕事をして楽しいと思った、と言ってくれた。その人が、私のことをよく知らない人にも、伝えてくれた可能性はある。さらに、私が就任してしばらくして、声明のようなものを書いた。一部と二部に分けて書き、一部はその職場のミッションについて、二部でその職場内の民主化を目指すことを書いた。職場内の民主化はミッションと密接に関わりがあるので、まず「隗より始めよ」の気持ちで書いた。すでに、なんとなく、古くからいる正規職員の非正規職員への、そのような職場ではあるまじき圧力や力関係のありようが見え始めたこともあり、正したいと思って書いた。非正規職員のよくものを考える人たちは、その私の文書を評価してくれた。「そのお立場でよく、ここまで書いてくださいました」と礼を言ってくれた人もいる。
 が、しかしこれは、正規職員には不評だった。このことで、正規職員は、私への締め付けを始めたような気がする。今思えば、それは、彼女たちの不安感の表れだったのかもしれないと思う。非正規職員の方が数が多く、組合も結成されているから、しかも有能な人も多いから、何か脅かされる不安があったのかもしれない。それで、この正規職員たちは、非正規職員をなんとか押さえこんでいたのに、非正規側に立つトップがやって来たので、泡を食ったのかもしれない。この人たちの私への攻撃の仕方は、今思えば尋常ではない。早急に、潰しておかねば、というような緊迫感があったような感じだ。
 私には、わけのわからないこの人たちの攻撃は、上司とは言えど外部からやって来た新参者に対する「いじめ」そのものであったが、本人たちには、言葉には出来ない、すなわち正式の会議では口に出来ない、既存の秩序がかき乱される不安でたまらなかったのかもしれない。ただでさえ、非正規職員が組合を結成していることで、管理側は難儀していたようだから、そこへ持ってきて「組合側」(と、かれらは呼んでいたようだ)の上司がやって来たのだから、悪意や敵意ではなく、それ以上に困る事態を避けたかっただけなのかもしれない。

 今の私にすれば、外部から事情を知らない人間を連れて来て、トップに据えるようなやり方自体に問題があったのだろうと思う。最初から苦労をして現場を支えてきた人が、順調に昇進するようなシステムでなければ、その場の問題にうまく対処できない。
 もちろん、その職場で醸成された文化というものを一新するには新しい風を吹かせる必要があるのだが、そのためには、せめて、指示系統がきちんと機能する組織としての体をなしていないと、力関係が支配するだけの任意の集まりになってしまい、新しい風を吹かせに来た人間は、ただいじめにあって、排除されてしまうだけだ。
 私がいた職場も、まさにそういうところだった。生真面目に組織の職務分掌に従い、指示系統に則って仕事をしようとした私は、その裏の指示ルートにかきまわされてしまった。

 が、この人たちに、その自覚はないのだろう。もともとその力関係が支配する中で仕事をすることが、その職場のあり方であり、そうして長年やってきているのだから、他に方法はない。そして、自分たちが苦労して築き上げてきた職場の秩序を壊しに来たように見えた私の影響力を、極力おさえたかったのだろう。それも、正式の会議の場では公言しにくい類のことだということはわかっているので、(非正規の○○さんが生意気だ、とか、自分が非正規に舐められたくない、とか、、、)、私が仕切る会議では話題にするわけにはいかない。おのずと、陰で画策をするという、私から見れば極めて奇妙な歪んだ動きが作られていったのだろう。たぶん、この人たちは、良かれ、と思ってそうしていたのだろう。私のようなトップに好きなようにやらせていれば、ろくなことはない、非正規がますます力を持つ、だから、自分たちでなんとかうまく動きを変えよう、ということにもなったのだろう。

 私の側からは、裏で画策する卑怯な行為の連続であり、権力を恣にするとんでもない監督職の堕落した行為であったが、本人たちにはそれなりの理由と理屈があったのだろう。が、正面切って私に言って来なかったのは、私の理論には勝てないとわかっていたからだ。「理想と現実は違う」というような、私の親たちが言っていたようなことを口にする以外に、言い分は出てこなかった。それでも、「理想と現実、というその二元論がおかしいだろう、現実を理想に近づけるのが我々の仕事だろう」と私が言えば、もう言葉をなくすこの人たちは、私との議論は徹底的に避けた。議論できないとなると、他の方法、すなわち、裏の画策でなんとか自分たちの思うようにしようとした、というのが、その人たちの問題性なのだが、古参の者が情報も力も持っていたので、その職場ではそれが可能だった。明文化された職場内の指示系統よりも、そっちが機能したのだ。
 そして、この人たちに、何の呵責の念もない。自分たちが間違っていたとは、つゆほども思っていない。
 まともに議論をすれば、この人たちを論破することは簡単だったが、決して言語化されない不思議な感情のねじれが介在する奇妙な集団慣行の中で、私が生き残る道はなかった。

 私には卑怯な攻撃行動の数々としか言いようのない行為の連続だが、本人たちは、攻撃を仕掛けた意識は一切ないだろうと思う。
 これは、いつも思うことだが、DVの構造とよく似ている。DV夫の大半は、自分が暴力をふるったとは思っていない。妻があまりにも自分の気持ちをふみにじるので、つい、手が出てしまったことはあるが、自分こそ妻から精神的暴力を受けた被害者だ、と思っているケースが多い。そして、よくあるのは、妻に踏みにじられた自分の気持ちというのは、「妻が自分の気持ちを汲んで自分の思う通りに行動すること」だったりする。それをしないから「妻が悪い」のだ。
 私もまた、正規職員の「思い」を汲んで、正規職員の思い通りに行動しなかった「困った上司」だったのだ。だから、あの手この手で思い知らせようとしたが、最後には、出て行ってしまって、さらにかれらを困らせた、ということになるのだろう。

 この、「違い」をきちんと議論しない問題性をどうすれば克服できるのか、私にはまだまだわからないことだ。

京都人

2011-01-10 01:48:48 | 京都
 私は、やっぱり、京都人なのだそうだ。「大阪のおばちゃん」の乗りにはなれないのだそうだ。親しい友人に言われて、そうかも、、と思う。確かに、何かが違う、とはいつも思う。なんというのだろう、あの、押し付けがましいような感じ、あの世話好きそうな感じ、あの高らかに笑う感じ、あの自分のスタンダードを信じて疑わない感じ、、、、それらに私は距離を置いてしまう。
 私の知っている京都の親せき筋の女性たちは、小さな声でものを言っていた。あまり笑わなかった。法事などの厳かな席で出会うから、特にそうだっただけかもしれないのだが、いつも真面目な顔をして、小さな声でものを言っているおばさん達ばかりを見ていた気がする。誰も、自分の感情をあらわにする人はいなかった。だから、子どもの頃、大人になると、いつもきちんと礼儀正しくしていなければならないと思っていた。大人になることは、楽しいことではないらしい、と思っていた。
 が、結婚した相手が大阪の人だったので、初めて大阪の大人の女性に出会い、その人たちが、実に愉快そうで、若い私たちとあまり変わらない感性でいるようなので、これなら大丈夫と、ホッとした記憶がある。爾来、窮屈な京都より、気さくな大阪の方を好きだと思うようになった。

 が、近年「大阪のおばちゃん」の騒々しさが、ちょっと苦手になってきた。思えば、夫方の親せき筋もそれほど、けたたましくはない。京都よりも気さくだが、最近よく見かける女性たちの騒々しさ、押しの強さ、恬として恥じない感じは、ないように思う。最近の女性たちの、何か一線を越えたような感じは、近年の特徴かもしれないと思う。ある意味、下品になった気がする。それとも、そういうタイプの人が、テレビ等に露出するようになっただけなのだろうか。

 正直なところ、私は苦手なので、あまりそういう人には近づかない。押し付けがましく、「やっぱり、男は男らしないとなぁ、、、」「うちの娘は、全然女らしのうて、どないなるんやと思うわ」などなど、独特の人生哲学を開陳されて同意を求められたりすると、逃げ出してしまう。
 夫が亡くなってしばらくして、近所の主婦の一人に久しぶりに会うと、「大変やったなぁ。そやけど、若いんやから、また、ええ人できるわ」と言われた時は、言葉を失って、茫然とした。さすがに私のその反応に、その人も「冗談やがな」と、すぐに撤回していたが、良き主婦像を体現しているようなその人の人生観は、ある意味、興味深くもあり、さりとて突き詰めるのは空しそうで、つながるきっかけを失ったまま終わっている。

 親しい友人に「あなたは、話をすると、そうでもないが、一見ツンとしているように見えて、嫌う人はいると思う」と、言われたこともある。それは、自分でもなんとなく感じることがある。初対面から好かれていない、と感じることがたまにある。うちとけない感じが、だめなのだろう。最も親しい友人からさえ、「時々よそよそしい」と言われる。精いっぱい、うちとけていてもそう言われる。これ以上ないくらい、心を開いているのに、それでもそう言われると、何をすればいいのかと思う。
 この世の「しきたり」や「常識」を共有していない何かが、醸し出されているのだろうか。それでも、それは私一人がそのようになってきたわけではない。
 
 思えば、母の文化がそうだったのかもしれない。母と私の関係も、友人に言わせると、他人行儀に見えるそうだから、そのような間柄を常態とする文化の中で生長したのだろう。生育環境の影響の大きさを感じることは多々ある。自分の意志の及ばないところで、産み落とされた文化的環境の影響を感じることが多い。生まれてからの影響だけではなく、母が既にその文化を身につけているのだから、それは長く根付いたものだ。尤も、母の場合は、自分自身の友人を持つこともなく、夫と子どもという、家族内の関係だけに生きて、それで事足れりとした人だから、特に葛藤もないのだろう。(そのために、私や私の子どもは、母を寂しくさせないように、気配りを続ける日々だが、、、。)

 私はずっと、人との関係に葛藤して生きてきた。だからこそ、単独で生きることのできない苦悩をかかえ続けているのだが、だからこそ、さまざまな問題意識が立ち上がるわけだ。

 人間は、ネットワークする生き物だ、ということを最近はとても強く感じるが、それはまた、後日、書くことにする。

 それと、「京都人」というカテゴリーも、そろそろ、検証を加えた方がよさそうだ。一定の文化風土を共有する人、というような意味合いで用いてきたが、もう少し厳密にしていきたい感じが生まれている。
 それもまた、いずれ、、、。

生きる目的

2011-01-02 23:33:18 | 人生
 癌という病気は、今でも死を連想させる病気だ。私がまだ若い頃は、癌にかかった人というのは、遠い親戚あたりにはいるけれども、自分の身内にはまだ癌の人はいない、という状況だった。が、今では、父が癌でなくなり、母が12年前に癌の手術をしている。そして、何よりも、夫が悪性リンパ腫で亡くなった。今もこの病名は、私を苦しめる。ここに書くことさえ、ためらわれるほどだ。何か、封印してきたものを解いてしまう感じがする。もう、なかったことには出来ないのに、、、、。

 そして、自分自身も、3年前に癌の手術をした。もう早期癌ではない、という段階だった。私の癌を見つけた医者は、「あなたの場合は重かったので、術後5年ではなく、6年は診ていきたい」と言った。その医師は、内視鏡検査に卓越した人で、たぶん、検査の段階で見つかる人は、早期癌の人が多いのだろう。
 それでも、とりあえずは、転移がないようだと見込みの立つ状態で退院できて、3年が過ぎた。

 が、やはり、癌のイメージは重い。多くの同じ経験をした人がいるだろうが、ちょっと体調が悪いと、再発なのか、と落ち込むことを繰り返す。私の知人で、早期癌の手術をした人も、からだに異変を感じると、再発への恐怖で立ちあがれないほどになる。しかし、これらは、当人以外にはわからないことだろう。私は冗談をまじえて、「ガン友」などと呼んでいるが、この病気になると、「全快」の実感を持つのはかなり難しいようだ。夫の従妹は、夫よりも先に癌になり、いとこたちに自分の病気を伝えてきたとき、ほんとうに身も世もないほど嘆き悲しんでいた。夫も、彼女に同情し、いとこを集めていとこ会を企画した。が、結局、そのいとこ会に夫は行くことがなかった。夫が先に逝き、重い癌を宣告された従妹は、医師に生きているのが不思議と言われながら、もう10年近く経つ。
 昨日、親戚の新年会で会ったら、明るくころころとよく笑い、人柄のやさしさが変わらない。それでも、いつも心のどこかに、病気への不安を抱え続けているのはよくわかる。医師からは、決して「治った」と言われず、癌とともに生き続けている。足がむくんできているのを隠して、仕事に行くのだそうだ。仕事が楽しく、生きがいだと言う。パートとして、図書館の司書の仕事を始めてから、張り合いが出たようだ。仕事が何よりも優先だと言う。

 仕事が自分を助ける、と思うことがある。私の罹患は、過酷な仕事によるものだったと思うが、その仕事のかたわら、それまでの非常勤の仕事を細々と続けていて、一時期は、ものすごくハードな二足のわらじ生活だった。結局、激務である組織の管理職を退職し、非常勤の仕事だけは辞めないでいた。
 そして、癌。さすがに仕事は休まざるを得なかった。が、一か月ほどで復帰した。退院後、早く仕事に戻りたくて、医師に尋ねると、せめてもう一週間は仕事を休んで家で養生してくださいと言われ、言われたぎりぎりだけを休んで復帰。
 さすがに重い荷物は持てず、息子が車で送ってくれた。
 何よりも途方に暮れたのは、たった数週間前まで通っていた教室の場所がわからなくなっていたことだった。前日には、授業の内容をちゃんと準備していた。学校に着くと、事務局の人がとてもいたわってくれた。が、いざ、授業に向かおうとして、教室がわからなくなっていた。その頃、通っていた二つの学校のどちらでも、私は、教室の場所がわからなくなって、校舎の前で途方に暮れた。息子が、びっくりしていた。

 思えば、私は一旦、すべて、自分の未来を手放していたのだった。リセットしていたのだ。講義中も、ふと、頭の中の情報が出てこなくなって困った。いつもいつも、繰り返しいていた情報なのに、急に、頭の中の整序機能が壊れたかのように、最新の情報ではなく、その前の情報が出てきてしまう、というありさまで、次の週に訂正を行わねばならない、というような状況だった。
 それでも、仕事が私を支えてくれたのだと思う。私はその学期の残りの授業を全うし、いつものように試験をし、単位をつけ、仕事を無事に終えた。
 養生に専念するのではなく、仕事をすることが私を回復させたのだと思う。もし、他に仕事を持っていなかったら、私は、回復しなかったのではないかと思う。なぜか、管理職の仕事に就いたにも関わらず、私は一校だけ、非常勤の仕事を残した。複数の学校に通うのは不可能だったので、他は辞めたけれど、。一つの仕事に自分を預けることが不安だったのか、あるいは、管理職の仕事の危うさに何か予感があったのかもしれない。そして、結果、それで命拾いをしたのだと思う。

 この三年の間に、何度も何度も、数えきれないほど落ち込んだ。からだのことだけではなく、管理職を辞めざるを得なかったもろもろの出来事に傷つき、ほとんどPTSDの症状を呈していた。それでも、細々と続けてきた仕事が私を救ってくれたのだと思う。

 人は、人生を続けるために生きるのではなく、生きるための手段として選んだことのために、生きるのかもしれない。手段の目的化だ、こればかりは。ただ「生きろ!」と言われても、どうしようもない。何のために生きるのか、という目的は要るのだろう。

 笑い話のように、当時の私を振り返って、友人や子どもたちと話すのは、私が、食事のことばかりを言っていたこと。元来、グルメでもなんでもないのに、しばらく固形物が食べられなくなって、すっかり参っていた。手術の前は、ほんとうに元気がなくなってしまっていた。見舞いに来てくれる友人たちとは陽気に話し、元気そうな私の写真が残っているが、内心ではほんとうに落ち込んでいた。「死ぬ」ことへの覚悟をつくろうとしていたが、当然のことながら朗らかな気分にはならない。が、そのときふと思いついて、付き添ってくれる友人に言った。
「ねぇ、手術が終わったら、また、ちゃんとご飯が食べられるよね。それは、楽しみにしていいよね」と。友人は、そんなことが希望になるのか、と思ったのだろうが、それでも「そうよ、美味しい物がまた食べられるのよ」と同調した。私は、「じゃあ、手術が終わったら、また美味しい物が食べられることに希望を持つことにするわ」と、心からそこに希望をつないだ。「おいしい物が食べられる」ということが、生きる希望になるなどとは、それまでの私の人生にはあり得ないことだった。食べることはもちろん楽しみの一つではあるが、人生の喜びに置かれることとは思っていなかった。「私って、食いしん坊だったんだ!」と、まわりの人たちと笑い合った。手術が成功するか否か、手術が終わってから自分の命が続くのかどうなのか、そんなことはわからない。それを考えると、不安に押しつぶされそうだったが、その前に、手術が終わればちゃんとご飯が食べられる、ということが楽しみになった。そして、やっと、気持ちの落ち着きどころを見出した。

 退院しても、もちろん、食養生は続いた。鳥の餌ほどしか食べられなかったが、ずいぶん、旅行をした。今思えば、よくもあのような病後のからだで旅行にばかり行っていたな、と思うが、友人が本当に献身的に付き添ってくれたので、行くことができた。後から聞くと、病中病後の私は、とてもしおらしくて、労わってあげたくなったそうだ。元気になると、もとの意気盛んな私が戻って来て、「生意気」らしいが、、、。

 そして、仕事を再開して、仕事をすることが生きがいだった自分が少しずつ戻ってきた。何が自分の身に起こったのか、を文章化したり、問題意識を断片的に書きつけて、私が関わることのできる媒体に発表した。やっぱり、これをやっていかねば、、、と、運動体のプロジェクトなどを始めた。

 単に「生きる」ということが目的にはならない、ということを身を持って実感する。嘗て、神経科に入院した時、明らかに自殺未遂で助かった後、入院させられたのだろうと思える人がたくさんいた。礼儀正しく、良識があり、孤独そうで、覇気がなかった。本人が見切りをつけたこの社会に、「生きろ!」と無理やり連れ戻された人たちだ。彼らが生きるための目的を見つけなければ、また、いずれ、自殺を企てるだろう。人は、単に命をつなぐためには生きられない。イベントを企画したり実行したり、家族を養うために働いたり、課題解決のために奔走したり、論文を完成させたり、研究発表をしたり、、、そのような具体的な目的なしに生きるのは難しいような気がする。

 私は仕事をし、旅行をし、活動をし、そのような具体的な行動を継続して、生き続けてきた。中でも、たとえ細々とではあっても、仕事の継続は私を支えた。今度の授業では何を教えよう、タイムリーに新聞記事が出ていたからこれを授業資料に加えようか、レポートを増やそうか、授業の仕方の工夫をどうしようか、どのレベルで教えようか、この資料は難しいだろうか、など、いろいろ考える。私は講義ノートを作って、通り一遍の授業をしたくなく、自分自身にとってもヴィヴィッドな授業展開をしたいたちなので、毎回準備をする。忙しい時は、だから準備が苦痛になったりもするが、それが実は私を支えているのだろう。

 人は、単に「生きる」ためには、生きられない。人生は目的にはならない、ような気がする。自分とは異質の人もいるだろうと思うので、断言はやめておくけれど、、、。
 少なくとも、私には、「目的」が要った。目的があって、初めて、生きる意味が見出され、希望となって活力が生まれた。
 
 こんな誰でも知っている、とても単純なわかりきったことを、年を重ねて少しずつ理解していくのが、愚かな私という者の歩み方らしい。