こんな言葉をたまに思い出す。いや、別に、「悪妻」を「悪夫」に置き換えてもよいし、「悪パートナー」に置き換えてもよいのだが、要するに、切っても切れない間柄になった相手に悩まされるときに、実感する言葉なのだろうと思う。
簡単に縁を切れない、むしろ、親密で互いに信頼し合えるはずの相手が、どうも自分に良いものをもたらさない、それどころか害をなす、と気づいたとき、この感慨がわくのだろう。
なにしろ、人生を左右される。単なる友人関係なら遠ざかればよい。会わなくなれば、なんとかなる。職場の人間関係でも、プライベートな領域に侵入させないという自衛はできるだろう。
が、プライベートな領域で、何もかも明け渡した相手が自分に害をなす、とわかるということは厳しい。別れるというのは最後の手段であるから、それまでに何とか、良い関係に変えようと努力をするだろう。そして、その努力の過程でも、疲弊してしまう。なにしろ、相手から良きものは来ないのだから。むしろ、努力をすればするほど相手は図に乗って来るし、もし捨てられるかもしれないという危機感を抱いたら、相手はもっとしがみついてくる可能性が高い。
DV夫は、まさに一生の不作だ。妻側に何のメリットもない、どころか、人生を損なわれる。一度きりの人生を、相手に蹂躙され、台無しにされる。
そのような関係をさっさと見切る人もいるし、なかなか見切れない人もいる。見切れない人というのは、要するに、もともと不幸感に堪え易い傾向がある。そういう人は、たいてい、幼少期の生育環境であまり幸福ではなかったので、不幸な環境に慣れている。少々の相手の理不尽さには、気づかないのだ。相手が厚かましくても、自分を侵犯してきても、あまり苦にならない。なんとなく、乗り越えて行く。あまりにもひどい状況になったり、その人と一緒にいることで不幸感ばかりが続くことに気づいたとき、つまり耐性が限界に達した時、やっと関係のおかしさに気づく。この関係は不幸な関係だ、ということに気づいてしまう。それから、逃げ出す方向に切り替えても、その関係で良い思いをしてすっかり図に乗っている相手は、そう簡単には放してくれない。
それでも決意堅固に、逃げ出すしかない。不幸な環境に鈍い人は、相手にほだされやすいが、もとに戻ればまた不幸な毎日だ。とにかく、逃げることなのだ。
不幸な環境で育って来た人は、不幸の中にも小さな幸福を見つけ、自分を励まして生きてきたようなところがある。DV夫から逃げ出さない妻も同じだろう。彼の良いところを探して、彼をなかなか見捨てられない。DV夫もたいてい悲しみをかかえているから、そこに同調してしまうと、なかなか見限れない。で、自分の人生を差し出して、相手の束の間の感情のはけ口になってしまう。が、それで彼は悲しみを払拭できるわけではない。いくら、夫を見限らずに夫を支えようとしても、彼は決して幸せになれたりはしない。相手の憂さ晴らしのためだけに、自分の人生をささげるのはやめた方がよい。それは不毛な忍耐だ。
「感謝している」と、相手は時に言うかもしれない。その一言を聞くためにだけ、自分の人生を捧げるのは、文学のネタとしては妖しくて美しいが、現実にはあまりにもバランスの悪い話だ。「感謝している」というDV夫の一言は嘘ではないだろう。しかし、気まぐれな一言でもある。すぐに別の感情に支配されるに違いない束の間のため息のようなものだ。その一言にすがりついても、意味はない。
DV夫や悪妻という言葉を、パートナーに置き換えてもよいし、同性間の親密な間柄に置き換えても、同じことが言える。
不幸に慣れていると、相手の理不尽さにはなかなか気づかない。が、気づいたら、距離を置いた方がよい。いつまでがんばっても、その相手と共にいて、幸せになれないのは確かだ。
これは、今、この瞬間の私自身の心境だ。