凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

思い定める日

2010-01-31 19:02:24 | 自分
 ものすごく孤独に死ぬのだろうな、と思うことがある。仕事も減ったし、友人も少しずつ減ってきた。年をとったことだけが、理由ではないだろう。年をとっても、豊かな人生を送っている人もいるだろうから、すべては、自分の不徳の致すところなのだろう。

 自説を曲げないし、人におもねらないし、自分から人とのつながりをつくりに行くだけのまめさもない。真っ正直に生きていたらそれでよい、というほど、甘い世の中ではないし、それでよし、とできるのは自分だけだ。仕方がない、それが私のキャパだろう。

 自分の器以上の生き方はできない。

建前と本音 ということ

2010-01-28 10:36:36 | 考え方
 ある若い人が、「人は正義で動かない。人とのつながりで動く」というようなことを言って、年配の人たちが、その奥の深そうなもの言いに感心したことがあるのだけど、私は「ん?」となった。一つは、その人が、ほんとうに正義で動いていなかった実態を知っていたこと。奥が深いも何も、そのまんまじゃないかと思った。が、その時の発言の場所は、正しいことを遂行していこうとする反体制の運動系の人間が集まっているところだった。掌中の珠のように大事にしている、しかし、手あかにまみれた「正義」という単語を冒頭に持ってきた、核心をつくようなもの言いに、その場にいた者は、ぐっと痛いところをつかれたように感じたのだ。私が「ん?」と思ったのは、その巧みさの背景を勘ぐったからでもある。

 その若い人の人脈には、私とは相容れない人々がいた。ものごとには建前と本音がある、ということで、決して、その乖離を埋めようとはしない人たち。自分たちの都合に応じて、それは人間の「本音」として押し通し、「建前」を早急だとか、理想主義だとか、実際的ではない、として排斥する人たちだ。私は、この「建前と本音」というレトリックになじめない人間だ。「建前と本音」というように対比したい二重の規範やものの考え方や、理想と現実の差異があるのは、知っている。が、それを、理想に向けて努力しない方便に使うやり方がいやなのだ。
 建前と本音を限りなく近づける方向性しか、私にはなくて、二重基準を放置してそこに安座しようとする人たちとは、金輪際、同じ土俵に立てそうもない。

 その「建前と本音」派に、その若い人は属していて、その人達の妨害で、私は、とても苦労させられた過去がある。

 が、その賢しげな発言は、愚直なまでに「正義」を追求してきた年配の運動家たちに刺激を与えたのだ。

 しかし、やはり「違う」と、私は思う。人は正義では動かない、などと言ってもらっては困るのだ。そこに、共感などしてはいられないのだ。
 正義で動くのだ、否、動かないといけない。やれないかもしれない、思うようには進まないかもしれない、正義の基準もずれていく、立場によって見え方も変わる、それでも、「何が正しいか」と追求する姿勢を失ってしまえば、おしまいのような気がする。

 その若い人の「人は正義では動かない。人とのつながりで動く」という発言は、あの運動体の中では、深淵な人生哲学のように聞こえたかもしれないが、一歩、世間に出ていけば、それが当たり前の社会だ。正義ではなく、義理や人情、時には有利な人間関係、コネなどで動いているのだ。運動体の中でそれを言うな、と思う。が、年をくっている割には、純朴な運動家の人たちには、そのようなもの言いをする人がいなかったので、とても新鮮に聞こえたのかもしれない。

 が、その若い人を見ていると、とても器用だ。純粋な運動家たちのネットワークを、長けた世間知をたずさえて、泳ぎ回っている。それを知っているから、私は「ん?」と思ったのだ。

 「正義」を守ろう。正義の内容は多様だ。しかし、正義を守る。建前と本音は違う、理想と現実は違う、と言って、現状を放置することはしない。本音を建て前に近づける、現実は理想に近づける。

 思えば、若い頃から、これで生きてきた。今更、変えられない。若い小器用な人間が、新保守をたずさえて、運動系の中にも侵入してきた、と考えた方がよいかもしれない。これも、ネオリベラルの不気味な足音かもしれない。


 

大義名分も、実は気持ちが先行しているだけかも。

2010-01-25 11:20:04 | 自分
 年明けに、頼まれて、コミュニケーションについて話をした。これまでとは違うテーマなので戸惑った。依頼してきた自治体の職員は、先に企画書を出して、講師を私に決めてしまってから、市民ボランティアの人たちと話し合ったようで、だんだん、主題が「コミュニケーション術」というようになってしまった。そのようなノウハウは持っていないし、私はカウンセリングとかコーチングを専門にしているわけではないので、そんなことは話せない。 話し合いを重ねて、なんとか、自分の土俵に引きつけつつ、相手の意向も汲みながら、落ち着き先をさがした。結局、女性達が人との関係に心くだくことがとても多く、コミュニケーションがうまくいく道をさがしているらしい、ということがわかってきたので、とにかく、「良い人間関係を築くためのコミュニケーション」ということについて話をした。

 後日、受講者の感想を送ってもらったが、皆さん、とても素直に、平たい心で受け止めてくれたようで、良い感想ばかりだった。コミュニケーションの基本は、「愛と共感」と、結論づけたのだが、それもとてもよく受け止めてくれた。

 が、人様にはそのようにエラソーなことを言いながら、自分がそれをできているかと言うと、なかなか難しい。理屈は成立するのに、気持ちは頑固だ。ほんとうは、皆が悩むのもそこなのだけど。
 
 が、私は、理屈で納得しようとする人間だ。理屈で、感情の理不尽さ、偏りを理解し、その理解の到達点から、自分を鍛錬するしかあるまい。

 が、自分が正しいと思っていると、なかなか、他の言い分というものは入りにくい。受け付けなくなる。時間を置いて、ゆっくり振り返ると、他の言い分も「なるほど」と思えるものなのに、その最中では、全く受け付けない。自分がとにかく正しいと思っている。そこで支配しているのは、たぶん、理屈ではなく、感情の方なのだろう。
 何かを一気に遂行したいときは、それを阻むような意見は、全部ノイズになる。「遂行」することが正しいのだから、それを推進する以外に、正義はない。が、それは、「遂行したい」という欲望や願望に支配されているだけかもしれない。つんのめっている。戻れないのだ。

 ずいぶん、時が経つと、その時の正義ですら、あやしくなることもある。長いスパンで見ると、正義が悪に変わることすらある。
 嘗て、労働組合は、労働者の権利を守るための、正しい運動をしているものだった。が、今、労働組合は、既得権を守るための、とても利己的な集団に見えたりする。特に、既存の大手の労働組合は、とてもじゃないが、弱い労働者の味方とは思えない。嘗てのプロレタリアートとプレカリアートは、全く違う地平にいる。

 日本の憲法24条に書き込まれた、「婚姻は両性の合意のみにもとづき、、、」というような条文も、当時の「家」のための結婚がおこなわれていた時代には、若い世代にとって、自由で平等をうたったすばらしいものだったのだろう。が、今や、「両性の合意」しか認めない偏った憲法だ。つまり、「両性」は法の体系からみて「男性と女性」と解釈されるが、
男性同士、女性同士の結婚は認められない、という差別的な制度をかたちづくっている。

 昔、いっしょに活動していた私より20歳くらい年上の人が、反戦・平和を唱えているのだが、人々のちょっとした言動にも厳格で、何一つ許さず、譲らず、結構まわりの柔軟な人たちを困らせていたことがある。同じくらいの年配の人が、たまりかねて尋ねた。
「あなたは、戦争中はどうしていたのか?」と。
すると、その人は、即答した。
「軍国少女だった」と。
それで、まわりは、すべてを了解した気になった。その人は、とにかく、信じる道一筋なのだ。信じると、それ以外を認めない。戦争中は、政府の代弁者のように、軍国少女として生き、戦後の平和な日本社会においては、息苦しいほどの平和・反戦論者になる。

 基本の価値観は確固としていても、それ以外を排除するというのではなく、他のものの見方、考え方を取り込む余裕は持っていたいものだ。
 なぜ、そのような考え方が成り立つのか、と、考察する余力は持ちたい。

 昔のリブの人が、嫌われるのも、そのあたりがあるのだろう。フェミニズム・ファシスト、と呼びたくなるような人たちがいる。

 価値観は変容する。私が出会ってきて、頭を悩ませてきた、一つの考え方一辺倒の人たちのことを他山の石としよう。そして、いかに拙速を回避して、思慮を深くしていけるか、を考えようと思う。

 話を元に戻そう。コミュニケーションは、「愛と共感」だと結論づけたのは、よかったと思っている。私は、人々に話しながら、自分にも言い聞かせていたと思う。
 たいていの人は、悪意ではない。たいていの人は、自分の気持ちをわかってもらいたいと望んでいるだけだ。気持ちに耳を傾け、たとえ、語法、価値観にずれがあっても、その人がわかってもらいたい気持ちをくみ取ることは、良い人間関係の形成につながるだろう。
 「気持ち」は、受け取ろう。
 結局、自分も、大義名分ではなく、「気持ち」に左右されているのだろうと思うから。

 今日も途中で、主旨の変わる文章を書いてしまった。頭が多動です!

 
 

違和感を放置すること、しないこと

2010-01-24 14:14:07 | 考え方
 自分のことを振り返って思うのだが、他人のことばに最後までひっかかることがある。たとえば、私が気になっていることを友人に打ち明けるとする。その友人は、私が気にすること自体を、「気にし過ぎ」だと指摘する。そうすると、私は、「気にし過ぎ」という指摘にひっかかる。なぜなら、私が気にしていることは、「絶対に」放置できないことであるから、気にしていると、自分では思っているからだ。そこで、それがいかに気にしないでは済まないたぐいのことであるかを、友人に強調する。友人は、また、違う方面から、私の「気にし過ぎ」を指摘する。つまり、友人にとっては、私の「気にしている」状態を緩和しようと、「気にする」ことはないと、手を変え品を変えて伝えようとするのだが、私の方は、自分の「気にし過ぎ」を指摘されるのが最も不本意なことなので、いつまでも、自分の「気にすること」の正当性の主張を繰り返し、最後は、わけのわからない言い合いになることがある。

 他人に何かを伝えたとき、その応答によって、自分が伝えたいことが伝わっていないと思うと、とにかく、伝わるまで、主張し続けることがある。今、批判してやまない一群の人の中には、その傾向がみてとれる人もいる。確かに、その人の言い分を、しっかり受け止めた反応はきていない。確かに言葉がずれる。が、それでは、その人は、伝わったという実感が得られないので、また、ずれたその言葉に反応してくる。その人は、たぶん、最後の一点まで、自分の思うことが伝わった、という事態に落ち着かなければ、攻撃はやめないのだろう。
 そして、その瞬間は、永遠にこないと思う。違うのだから。主張は正しくても、そして、概ね共通の価値観を持っていたとしても、思いの温度差、語感、収拾の仕方、すべてが違う。
 その違いが認められない。自分の言い分が、全部受け容れられ、すべてあなたのおっしゃる通りです、と、批判している相手が白旗を揚げなければ、批判はやまないだろう。

 自分の反省も込めて、これは考えるべきことだと思った。私もそうなりがちだから。自分が一番こだわっていることを、相手は受け止めていないと思うとき、どうしても、食い下がってしまう。食い下がれば食い下がるほど、相手も自説を繰り返すようになる。
 両者には、違いがあるのだ。どちらかが引き下がるより仕方がない。大きな共通の価値観はあっても、それぞれは微妙に違う。語感が違うので、自分の思うような言葉を相手は言ってくれないことが多い。自分にとって、ドンピシャの言葉は、相手からは決してこない。相手の世界の、相手のストーリーを私は知らないのだ。同様に、相手も私の世界の、私のストーリーを知らない。お互いに、ドンピシャの応答などできっこないのだ。

 諦めよう。どこかで、自分の言い分は通らない、自分の主張は自分のものでしかない、ということを思い定めよう。今ここで、相手を力でねじ伏せても、自分自身がいつか、その自分を裏切るかもしれないのだ。今日の自分の真実は、明日は、「若気のいたり」となる可能性がある。苦い思いで、過去の自分を振り返るときがくる。そのとき、自分が若さでねじ伏せてしまい、寂しげに自分に譲ってくれた相手への、取り返しのつかない悔恨が生まれる。自分の愚かさ、自分の視野の狭さ、自分の足りなさ、そういうものをいつか知る日がくるのだが、でも、たまに、いくら年をとっても、自分の正しさに酔い続ける人もいるからな、、、。そういう人に、このあいだまで、ハラスメントを受けていたことを思い出した。

 他人を思い通りにしよう、などという浅はかな欲望を捨てて、自分の道をきちんと歩くことをしたいものだ。一人で、寂しく、ひねくれずに、、、。

 どうしても拭えない違和感を、一度は解消しようとする努力は、今後もし続けるだろう。が、それがかなわないとき、それは語感や環境や立場の違いによるものかもしれない、という見極めをどこかでつけたいものだ。そして、その違和感を放置する、中途半端に耐える、という訓練もいる。
 プロセスに耐える、途上であることに耐える、未決の状態に耐える、、、それは、私にとても必要なことのようだ。

権力ということ

2010-01-21 16:27:08 | 組織・集団
 中心メンバーが著名な研究者がほとんど、というある団体に関わっている。私は、若い頃からこれらの人たちを知っているので、この人たちの人柄の良さ、正義感、公正さ、というような部分を多分にわかっていて、関わっている。が、少し遠い所から見ると、この人たちは、権力者に見えるのだろう。著作がたくさんあり、大学教授で、名前も業界では知られている。

 この団体への攻撃めいた言説が流布している。私もいささか、頭が痛い。攻撃している人も知らない人ではなく、攻撃されている人たちの苦悩は、とてもよくわかる位置にいる。

 個人攻撃ではなく、考え方、価値観等をもう少し、議論できないものだろうか。この人達は、傷つく心を持っていないと思われているのだろうか、というような攻撃ぶりだ。

 そう言えば、私がとあるブログ上で攻撃されたときも、私という人間には、「心」などないかのような扱いだった。言葉を極めて、攻撃してきた。それに対して抗議をしても、その当時の私は「公人」だったから、何を言われても仕方がない、というような攻撃側の言い分だった。

 有名人とか公人の立場にある人は、人間ではないような扱いを受けても仕方がないのだろうか。マスメディアの芸能人や政治家への言及の仕方は、ほんとうにおぞましいものがある。

 今、起こっていることもそれに近い。誹謗中傷の程度が度を超しているように思える。何か、論理的な主張ではなく、毒がある。憎悪のようないやなものがある。いったい、何がそんなに憎らしいのか。
 一つの見方は、この著名な研究者たちへの嫉妬。自分たちも権力が欲しい人が、ここまで力を持った人たちを攻撃するのではないか、と言っていた人もいる。
 研究や思想は、様々な成り立ち方をする。多様な展開がある時代だ。確かに主流となる勢力というのはあるかもしれないが、カウンター・グループもたくさん出てきている。思想闘争ならば、思想の部分でおこなわれるべきで、相手の一挙手一投足をあげつらうような毒々しい攻撃は読んでいても良い気分にはならない。

 私も、思想的には、この団体の中心となる人たちと、一線を画していると思っている。そして、その位置を堅持しようとしているし、そういう私の「バランス感覚」を重んじてくれている。この人たちは、決して、独善的でもなく、多様な価値観を尊重しようとしてきた先鋒であった人たちだ。ただ、ただ、この社会で、大学教授という特権的地位に就いてしまった。しかし、常に真摯で公正であろうとしているし、下積みの頃の志を持ち続けているように見える。そして、その地位に就いたために、なし得ること、というものもある。この人たちが、この地位に就いてくれたのはよかった、とは思えないものだろうか。辛抱強く、対話を続けて、この人達と共闘していくか、自分の立場から独自の発信をしていくか、しかないような気がする。

 攻撃して、応酬して、というようなことが何かを生み出すとは思えない。またもや、この争いに対して、高見の見物をするバックラッシャーが喜ぶことは目に見えている。内ゲバだと思われるのだ。

 権力者を許せない人、というのは、何なのだろう? 権力に敏感な人、というのは、ひょっとしたら、権力志向の人かもしれないと思い始めた。力学に敏感なのだ。

 映画「ミルク」で、主人公ミルクの恋人だった男性(スコットだったか)のせりふがいいね、と一緒に見た友人と語り合ったことがある。彼はこう言った。「政治はやらないが、ムーブメントはやる」と。政治家として立ち上がろうとして、票集めに奔走するミルクのもとを去ったが、市民運動は続けていた彼が、ミルクに言う言葉だ。

能力と適性

2010-01-12 16:20:20 | 考え方
 また、最近、一つ気づいたこと。思えば、気づくのが遅いのかも、、、。若い時に修羅場をくぐっていないので、年をとってから、いろいろ気づく。

 自分には苦もなくできる、というか、何気なくやっていることを、出来ない人がいる、ということは想像しにくい。人には得手不得手があって、あることで有能であっても、別のことでは、からきし駄目ということはあるだろう。が、そういうようには見えない場合、つまり、基本的に有能だと思いこんでいる人が、自分が苦もなくこなせることを、ちゃんとやらないとしたら、能力不足とは考えずに、何か別の理由を探してしまう。特に、人間関係がよくない場合、時に、それが何か意図があっての企みに見えたりする。

 昔、勤めていた民間会社では、私は講座の企画や運営を担当していた。そこの会社のマネージメントを任されている人は、もともと手仕事をする職人さんなのだが、女性で、ビジネスを立ち上げた人として、オーナーに見込まれて経営を任されたのだ。その人は気むずかしいところのある人だが、よく仕事をする人で、私とのペアはとてもうまくいっていた。お互いに、全くタイプが違うので、その人は、私とは違う場面で自分の本領を発揮していた。自分ではできない分を私に任せることに何のためらいもなかった。が、その人が病気に倒れ、その人の職人仲間の人が代わりに経営担当者としてやって来た時に様子が変わった。後から来た人は気むずかしいところのない人だと思っていたので、私は前の人よりもっとコミュニケーションがとれると思っていたのだが、期待は全くはずれてしまった。
 まず、その人がやったことは、私も参加していた経営担当者とオーナーとその他の役員で構成する企画会議から私を閉め出したことだ。そして、私に経営に関する情報を一切与えなくなった。そして、私を一事務員であるかのように扱おうとしたようだ。(実際には、それは無理だった。講座の企画や運営を一手に引き受けてやっていたので、私を一事務員にひきずりおろすことは出来なかった。)役員会議をおこなって、自分がそれを末端の者の会議に下ろす、というやり方をし始めたその人は、その末端の会議でも一方的に指示だけをしていた。もちろん、結果的には私が全部中身を裁量してやるのだが、その人は「自分の指示で任せる」という手続きを踏みたかったようだ。私は、その人のやり方に苦労して合わせながら、とにかく、仕事は続けていた。が、今思えば、パワハラ・モラハラと名付けられる典型のような仕打ちが多々あった。

 ある時、現場での会議の前に、「ぜひ、会議でこれだけは検討して欲しい」と、いつも自分本位に会議を進めるその人に頼んでおいた。本当に、それだけはやってもらわないと、次の仕事に差し支える、という事項だった。が、その人は、気をもむほど遅れてやって来て(いつものことだったのだが、その日は、その人は会議の後、用事があって出かけなければならず、早く会議を終わらないといけないのだった。だから、わずかの時間を見つけて会議をおこなうという、せっぱ詰まった状況だったのだ。)、しかも、時間いっぱい、くだらないおしゃべりをしていた。私は、いくら何でもあれだけ頼んでおいた事項を忘れることはあるまいと思っていたので、会議の後の用事はなくなって予定が変わったのかと思って、辛抱強く待った。予定など、ころころ平気で突然に変えられることが何度もあったからだ。が、その人は、予定通りの時間に、「あ、もう行かなくちゃ」と言って、立ち上がって、帰って行った。私はあっけにとられた。結局、あれほど頼み、念を押した大事な事項は取り上げられなかった。そして、逃げるようにあたふたと去って行った。
 私は、悪意にも程があると思った。その事項を決めてくれなければ、私は次の仕事にかかれないのだ。結局、いつものように、私は自分の判断だけで、すべてを首尾良く終わらせたと思う。その頃からの私を知っている親しい友人が、「いざという時に強い女」と、私のことを名指したことがあるが、そこでは「いざという非常時」ばかりが続発していた。思いあまって、オーナーに訴えたことがあるが、オーナーは、その時はとりあってくれなかった。ずっと後になって、私がとうとうそこに嫌気がさして辞めた後、その人とオーナーの間柄が悪くなり、オーナーもやっとその人の問題性に気づき、私に謝ってきたことがあるが、経営の中身が無茶苦茶だったのだと人づてに聞いた。

 私は、その人のことは、本当に悪意の人だとずっと思っていた。何かしら、ひどい仕打ちをされ続けたのだから。
 ずっと後に、その人と親しい人とたまたま話をすることがあって、私が辞めたわけを話したら「あの人、ものすごく仕事が出来ない人だよ」と言った。だから、今、別の人と仕事をしているが、その人もとても苦労をしている、と。あ、と思い当たることが、いくつもあった。言われてみれば、悪意だとばかり思っていたが、いくら何でも、あれはないだろう、と呆れるようなことが、とにかく多かった。理解不能だった。が、「仕事が出来ない」と言われれば、全くその通りだ。報告・連絡・相談が、見事にない。ないから、自分で考えてやっているのだろうと思うと、何一つ出来ていない。最後の最後の土壇場で、私にぽいっと投げてくる。(それは、てっきり意地悪だと思っていた。)なぜ、やらないのかわからなかった。「出来ない」と言われれば、まだ納得がいく。やらない理由はわからないが、出来ないのなら、無茶苦茶になっていても仕方がないと思える。もちろん、「出来ない」などとは、私には夢にも信じられないような仕事だ。しかし、考えてみれば、子どもの頃、九九が言えない生徒が同じ教室にいたではないか。国語の暗唱の宿題が出来ない子、ローマ字がいつまで経っても覚えられない子、教科書を訥々と詰まりながらしか読めない子、、、そのような子は結構いた。私の単純記憶力はまた卓越していて、一度聞いたり、目を通した事は、すぐに覚えてしまうような子だった。家では、どこか遅れているのではないかと心配されるほど、愚鈍な子どもに見えていたらしいが、勉強は出来るので、親自体が不思議がっていた。

 大人になると、そのような教室内での差はもちろん見えない。が、そのような能力、適性というものは、当然あるはずだ。私を苦しめたその人も、実は、悪意でやらないのではなく、やれなかったのかもしれないと、今、気づく。
 その人は職人さんなので、もともと事務的なことは苦手だったのだろう。デスクワークがとことん苦手だった可能性がある。その上に、様々な事務処理能力も訓練されていなかった可能性がある。だから、段取りができない、判断ができない、見通しを立てられない、想像力がない、、、と、ないない尽くしだった。が、私の机が西側の窓に接していて夕方など眩しくて仕事にならないほどだったとき、すぐに簾をとりつけてくれたこともある。もともと内装工なので、そういうのは得意なのだ。今思えば、たぶん、私とは、思考の巡る回路が違っていたのだろう。
 その人の場合、「小意地悪」な側面もあったのは否めない。その人の方が上司であるのに、顧客や取引先が皆、彼女をさしおいて私を頼って来るので、私が憎らしかった面もあったことはあったのだろう。それに、彼女がちゃんとやるべきことをやってくれないことについて、私は文句を言ったりもする。だから、その人にとっても、私はちょっと嫌な存在だった面もあるかもしれない。
 その業種では彼女が出来ないことが多すぎるので、結局、彼女は私を頼りにするしか仕方がなかった。そのために、イベントなどの時は、私の方が重要度の高いポジションにいてしまったりするが、それは我慢ならなかったかもしれない。悔しかったのかもしれない。それで、彼女は不得意な領域であるにも関わらず、足掻いていたのかもしれない。が、足掻いた結果も、私の仕事の足を引っ張るような事にしかならなかったのかもしれない。仕組んだ意地悪というより、結果的にそうなってしまったことがたくさんあったのかもしれないと、今思えばそのように思える。

 当然、相手が出来ることをしていない、ということになると、何か意図的なものがあると思えてしまう。しかし、実際は、単に能力不足、というようなことが多々あったかもしれない。それは、もちろん、領域が違えば、私がそう思われていたこともあるだろう、ということだ。そして、何か、人間関係と結びつけて、悪意のように思われていたことも、あったかもしれない。私は単に、やれていなかっただけで、もともと不得手な領域だから、やれていないことにも気づいていないだけだったのに、誰かの目からは、何か意図があっての振る舞いに見えていたかもしれない。

ごちゃごちゃ考えること

2010-01-12 08:35:08 | 人生
能力というのだろうか、性分というか、それとも傾向というのだろうか、人には、出来ることと出来ないことがある。私は、幼い頃から母に叱られ続けてきた子だが、その理由は、身の回りのことが母のようにきちんと出来ない、ということだ。母は、最近わかってきたのだが、非常にものぐさなところがある。料理好きだと思っていたが、実は炊飯器でご飯を炊くのも面倒らしい。掃除は大嫌いだ。これは、ほんとうに最近気づいたことだ。しかし、整理整頓だけはきちんとやれる。身についているのだろう、いつもかたづけてある。床も汚れているし、ダイニングの椅子など、大晦日に行った時に、あまりのことに私がぞうきんがけをしたのだが、そういうことは一切やらない。しかし、とにかく、かたづいている。母は、その性分から、私のような「かたづけられない女」は、理解不能なのだろう。とにかく、未だに小言が耳についているほどに叱られ続けた。

 そして、未だに私はかたづけられない。たまに大掃除をして、なんとか、部屋らしくしている。客が来るときは、とりあえず、見た目はましになる。もし、来客があるとわかっているのに、整理ができないとなると、事は深刻だ。が、考えてみれば、そういう人もいる。そして、私は、せめて来客の時くらい綺麗にしたら良さそうなのに、なぜやらないのだろう、と不思議になる。が、たぶん、その人は、それが出来ないのだ。
 思えば、そのような事はたくさんありそうだ。自分には苦もなくできる、というか、何気なくやっていることを、出来ない人がいる、ということは想像しにくい。紙の数を手際よく早く数えることの出来る人は、遅い人のことを、そんなに簡単なことも出来ない人、と見るだろう。私は動作が遅い目らしく、よく母をいらだたせた。が、頭の中はむしろ多動で、結構早く動いている。だから、動作の速い人は私を能力が低いと見るし、頭の回転の遅い人は、私を有能と見る。
 どの職場に入っても、常に管理的立場に立ってきたのは、人の指図で細々と動くより、物事を考えて判断することの方が適性があったために、自ずとそうなってきたのかもしれない。
 30歳代後半で就職した民間会社では、半年で中間管理職に抜擢されてしまった。そこには私より若い正社員が何人かいた。一人の総務担当の女性が、支社長の指示で、イベント会場に予定されているホールの下見に出かけた。彼女の書いてきた見取り図に沿って、会場設営を考え、決定したのだが、当日、会場に到着して、茫然と立ちすくんだことがある。どのように見れば、この見取り図が出来上がるのか、実物と見取り図は、完全に90度、ずれていた。激怒する支社長をなだめて、急遽、設営を変更して切り抜けた。そのイベントの間中、司会進行役の支社長は本社の社長や役員を迎えて緊張しており、私に「ずっと、傍についていて欲しい」「何かわからないことがあったら、隣で教えて欲しい」と言い、支社長の隣に座らされていたのを覚えている。
 その総務担当の人を、私はしばらく、ひょっとしてとても能力の低い人なのか、と疑うことがあった。支社長などは、完全にそのレッテルを貼っていた。しかし、その人は、人の名前と顔を覚えたりするのが非常に早い。私はそちらは苦手なので、感心することが多かった。やがて、その会社を辞めて他の会社に就職した彼女と話をする機会があった。今の会社ではとても評価されている、前の支社長の所ではすべてうまくいかなかった、と言っていた。
 適材適所、ということがあるが、人の適性を上手く掴んで、それを生かすようでないと、会社自体が非効率になる。簡単に人にレッテルを貼らないのは、私の長所でもあると思っているのだが、しかし、さっさと評価を下すタイプの人は、その私を優柔不断とかたづけていたかもしれない。そして、そのように簡単には人を断定しないタイプの私でも、自分が何気なくやっていることをやれない人を見ると、その能力自体を疑ってしまうことはあったのだ。また、能力を疑えないこと、つまり「誰が考えても、絶対に出来るはずのこと」(これも思いこみなのだが)をしない人を見ると、今度は、その人の何かねじけた意志のように感じる。悪意とか、反抗とか、そのように見えてしまう。しかし、それも、本当のところは、その人の適性のなさ、「出来ない」というところにあったりするのだ、ということが最近わかってきた。

 能力とか適性のことであるのに、「悪意」と受け取ってしまうことも多々あった気がする。しかし、案外そのケースは多い。会議の進行時に、「ぜひ、これだけは検討事項に入れて欲しい」と、何かと自分本位に会議を進める上司に頼んでおいたのに、またもや時間いっぱい、くだらないおしゃべりをして、結局、検討事項に入ってくれなかったときなど、普段から感じの悪い人であるので、完全に悪意だと受け取ってしまったことがあった。似たようなことが続いて、その人の悪意に嫌気がさして、その職場を辞めたのだが、ずっと後に、その人と親しい人と話をすることがあって、私が辞めたわけを話していたら、その人は、私のその元上司にあたる「悪意」の人を、「仕事ができない人だよ」と言った。そう言われてみれば、思い当たる。悪意だとばかり思っていたが、事務的なことは非常に苦手で段取りができない、判断ができない、見通しを立てられない、想像力がない、、、と、ないない尽くしなのだ。が、私の机が西側の窓に接していて夕方など眩しくて仕事にならないほどだったとき、すぐに簾をとりつけてくれた。もともと大工さんなので、そういうのは得意なのだ。おそらく、思考の巡る回路が違っていたのだろう。
 その人の場合は、「小意地悪」な側面もあったのは否めない。その人の方が上司であるのに、顧客や取引先が皆、彼女をさしおいて私を頼って来るので、私が憎らしかった面もあるかもしれない。その業種では彼女が出来ないことが多すぎるので、結局、彼女自身も私を頼りにするしか仕方がなかったのだが、私の方が注目度が高いことは我慢ならなかったかもしれない。悔しかったかもしれないが、彼女の不得意な領域だったので、結局、あがいた結果、私の仕事の足を引っ張るような事にしかならなかったのかもしれない。仕組んだ意地悪というより、結果的にそうなってしまったことがたくさんあったかもしれない、と、今思えばそのように思える。
 そして、そのように、職場では、常に頼りにされる位置に置かれ、すぐに昇進してしまってきた私だが、子ども時代から、母親からは、「鈍(どん)」「お薄(うす)」(頭の中が薄い、薄ぼんやりのことだと説明された)などと罵られてきた。母からは褒められたことが一度もない。まぁ、母の得意領域(家庭内の細々したこと)から逃れてきたのは正解だった。
 
 母の目からは、本当に何か、よほど頭の悪い、能力の低い子どもに見えたのだろう。それは、母が何気なく、軽々と出来ることが出来なかったからだろう。学校生活が始まってしばらくして、初めて一度だけ、褒めたわけではないが、告白されたことがある。「私も勉強ができたけど、あんたほどではなかった」と。ただの一度だが、それは甘美な言葉だった。母が、認めてくれたからだ。
 しかし、あまりにも親からの評価が低いと、自分の能力、適性というものが理性的にはかれなくなる。人には得手不得手があって、ある程度、それの見極めをしながら生きていければ、余計な劣等感も優越感も抱かなくて済むのだが、何かと人間「評価」につながりやすいこの社会では、普通の人が普通に心地よく生きるのさえ難しくなる。この社会は天才のものではなく、(たぶん、天才と呼ばれる人たちも、能力や環境や運などの複合的な結果だと思うのだが。)普通の平凡な人が心地よく生きられるべきものだと思う。

 

小意地悪

2010-01-10 12:02:47 | 人間関係
 ずいぶん以前のことだが、カウンセラーの友人から、「小意地悪」という言葉を聞いたことがある。なんか、うまいことを言うな、という感じだった。このカウンセラーは、リアリストで、実質主義で、妙に感傷的なところや同情的でないところが、すかっとしてよいなと思っていたのだが、なかなか表現も的を射ていた。

 人は、小さな意趣返しや小さな意地悪をして、日々のいらだちを放散させたりするようだ、ということを知った。それまでに経験した小さないやな出来事に答えを与えられたような気がした。
 
 幼い頃、まだ既製服がそれほど出回っていなかった。近所の子どもたちは、姉や兄のお下がりでサイズが合っていなかったり、自分用に買ってもらう服も、数年は着られるようにと、妙にだぶだぶの服を着せられていた。その頃に、一人っ子だった私は、洋裁をしていた母のお手製の、いつもジャストサイズでデザインに工夫を凝らした洋服を着ていて、「いつもかわいい服を着ている」子と言われていた。京都の小学校は、制服を採用していなかったので、毎朝、どの子どもも私服で登校する。母の趣味で、しばしば新調した洋服を着て登校する私を、憎らしく思う少女がいても不思議はなかったかもしれない。高学年にもなると、学校へ到着すれば、同級生が寄って来て、私の洋服を話題にする、というような風景もしばしばあった。
 ある夏休みの登校日の朝、私が学校へ行くために家を出ると、M子ちゃんが、ちょうど通りかかった。私はその日、新しい赤と白の小さな水玉のサンドレスにお揃いのボレロという、今思えば、やたらしゃれた服を着ていた。M子ちゃんは私を見るなり、ボレロを指さして、「ちんちくりんや」と言って笑った。私は、その日一日、その「ちんちくりん」の洋服に恥ずかしい思いで耐えながら、学校から帰ると、「ちんちくりん」と言われた、と言って急いでその服を脱ぎ、二度とその服には手を通さなかった。母は、「ボレロ」はこういうデザインの服なのだと説明し、私もそういう洋服が世の中にあるのは知っていた。が、小学生が学校に着ていく服ではなく、その地域の人たちには理解されないのだと、子ども心に思った。そして、そのような斬新なデザインの洋服を自分は着たくない、と強く思ったのだった。母は、「みんな、知らぁらへんねや。このへんは、まだ田舎やから」と、残念そうに言っていた。
 京都の市中から伏見という南部に転居して以来、文化の違いを嘆くことが多かった母だ。京都の旧市街地に住んでいる人たちからは、伏見などは「田舎」だったのだ。
 子どもであった私は、斬新なデザインよりも高級品よりも、まわりの子どもたちと同じ物を身につけたかった。伏見の「田舎」文化に同化したくない母と、回りから浮きたくない私は、何かとずれていたと思う。
 
 M子ちゃんは、その後何年にもわたって、私のささやかな人生に登場する。ネガティブなメッセージを持って、中学時代まで、消えたり現れたりする。最初は小学生の低学年からスタートする。私と仲良くなりたい、という彼女からのアプローチで始まるのだが、なぜか、奇妙なねじれたメッセージが、ずっとやって来続けた。彼女は、私を評価しており、特に私の容貌を褒める。が、次の瞬間には、肌の弱い私の吹き出物を認め、「肌はわたしの方がきれい」と誇らかに言い立てる。すべて、彼女の一人芝居のように、私を持ち上げ、突き落とし、何かと揺さぶりをかけようとしていたように思う。私の鈍さ、反応の悪さ、関心の薄さにいらだっていたのかもしれない。が、私には、彼女の私への介入、評価、いやなメッセージ、、すべてが理解を超えていて、茫然としていたような感じだ。ただ、総合的にいやなものがくる、ということについて、もちろん、私は悩んでいて、辛い思いをしていた。が、その場では、すぐに返すことができないようなアプローチなので、私は言われっぱなしになってしまうのだ。後で、いやな思いがじわじわとこみ上げてきて、苦しんだことがある。

 このM子ちゃんの屈折の深い原因は知らない。彼女は、母親は彼女が産まれるとすぐに亡くなり、父親と祖母と父親の妹と暮らしていた。遠足の時など、私の母の手の込んだ弁当と違って、彼女は、祖母が作った粗末な弁当を持ってきていたようだ。私は他人の弁当にも興味がなく、見たこともないのだが、ある日、彼女が白飯に大きな紅い生姜が一枚ぽんと乗っている弁当を見せ、「私はこれが好きだ」と強調した。それを聞いて、それはそんなに美味しいのか、と私は思い、「おいしそうだった」「私もあんなお弁当がほしい」と母に言った。すると、母はその弁当がいかに粗末かを強調した。そのような弁当しか持たせてもらえない、かわいそうな子なのだと。その頃には、あまり理解しなかったのだが、今思えば、M子ちゃんは、私の弁当と自分の弁当の差に気づき、自分は生姜が好きなのだと強調せずにはいられなかったのかもしれない。私の母のつくる弁当は、小さなおにぎりを海苔や薄焼き卵で巻いて、さらに肉やソーセージや野菜を彩りよく詰めたにぎやかな弁当だった。私の目には、M子ちゃんの弁当とあまりにも違うので、もはや質の違いとは思えなかったのかもしれない。ただただ、私の物とは異なる、違ったタイプの弁当にしか見えていなかったのだと思う。私自身は、そこに何かの格差を感じることはなかった。
 が、今思えば、いくら若くはない祖母で、20歳代の私の母のモダンさはなかったとしても、小学校の低学年の子どもに、あそこまで粗末な弁当を持たせるものだろうか、と不審に思う。M子ちゃんの家庭は、決して貧しくはなく、住まいも裕福そうだった。それを思うと、M子ちゃんは、ネグレクトの子どもだった可能性がある。弁当だけでなく、着る物も、決して手をかけられたものではなかった。おしゃれでおませだったM子ちゃんにはどうしようもなく、悲しいことだったかもしれない。実母は自分が生まれてすぐに死んだ、とM子ちゃんは言っていたが、私の母などは夫方の母親と小姑に追い出されたのだろう、と噂をしていた。しかも、父親の弟という怪しげな男性も出入りしていた。一度、この人にM子ちゃんと交代で部屋に呼ばれて、その人は私を自分の足に乗せ、何やら一人で興奮していた、という情景を覚えている。何をされたわけではなく、ただ、足の上に乗せられ、彼が一人で興奮していて、興奮が去ると帰された。今の私の思考、情報を動員して想像するなら、M子ちゃんはネグレクトや性的虐待など、大人による虐待を受けていた子どもだった可能性がある。不幸なM子ちゃんは、そのような不幸とは全く無縁そうな私を友人として選び、ほんとうに友人になりたかったのかもしれない。否、むしろ、私ののほほんとした平和さを自分のものとして求めたのかもしれない。そして、それは決して自分のものにならず、私のものであり続けることにいらだち、奇妙なねじれた攻撃をしていたのかもしれない。それは、もちろん、M子ちゃんの無意識の行動だろう。

 小学5,6年生になってまた同じクラスになったM子ちゃんは、また、仲良くしよう、あなたが好き、というように近づいてきた。もとより、私には断る理由もなく、いつものように受け身だった。が、屈折の度合いはひどくなっていたように思う。いつ頃だったか、お父さんが結婚してお母さんができた、ということを報告されたことがある。彼女は、お母さんができたことをとても喜んでいるふうだった。今の私が振り返れば、それはいじらしい子どもらしいM子ちゃんだった、と、涙さえ誘うような風情だった。が、あるお正月、彼女は私に何かプレゼントしたい、と言い出した。それで、日記帳をプレゼントしてくれることになった。「お母さんには?」と尋ねると、お母さんなんか、自分の物ばっかり買ってるから何もあげない、と言った。既に、期待した「お母さん」ではない、というようになったのかもしれない。彼女は、私にプレゼントしたいが、今はお金がないから貸してほしい、と言う。それで、私がお金を貸し、彼女からプレゼントをもらったが、そのお金は返って来なかったので、結局、私は自分の日記帳を自分のお金で買っただけなのだ。が、それも今振り返れば、M子ちゃんはほんとうに、私にプレゼントしたかったのかもしれないと思う。そういうことをしてみたかったのかもしれない。だが、彼女は十分なお小遣いを与えられていなかったので、私から借りるより他はなかったのだ。そして、返したかったのかもしれない。しかし、それも出来なかった可能性がある。

 幼かった私にはわけのわからないM子ちゃんで、中学生になった頃には、危機感を感じるようになって、あまり近づかなくなった。1~2度、露骨に意地の悪いことをしてきた。大したことではない。ただ、クラスが違うので、教室の外の廊下で見かけることがあるのだが、盛んに私を呼ぶことがあった。返事をして彼女の方を見ると、プイと向こうを向く、というようなことがあった。ある時も盛んに呼ばれたが、私は無視した。すると、事情を知らない同級生が「呼んでるよ」と、私に伝えてくれた。すると、「呼んでない」と、彼女はしらを切る。「え? 呼んでたやんか」と、その少女がびっくりする、というようなエピソードがあった。

 M子ちゃんは、とてもとても、屈折していたのだろう。とてもとても、不幸な子どもだったのだろう。本当に、私と友だちになろうとし、そして、本当に私のようなのほほんとした友だちが欲しくて、しかし、いくら私と遊んでも、少しも幸せにはなれなかったのだろう。誰を憎んでいいのか、誰に頼ってよいのかわからない非力な子どもが、一生懸命もがいていたのかもしれなかった。
 
 たぶん、意地悪はもがき。M子ちゃんのは、今思えば、ほんとに小さな意地悪、小さな攻撃だった。その合間に、切ないほどの求愛メッセージが織り込まれていた、と、大人になった私にはやっと読める。

長生きする、ということ

2010-01-09 14:08:34 | 考え方
 長生きすることが良い、という価値観は、いつから生まれたものなのだろう。人々が、病気や事故や戦争や、、、というさまざまな事情でもっと短命であったころ、長く生を享受することは、平和の象徴であり、健やかな日々の喜びとして歓迎されたのだろうか。とくに、子どもの間に亡くなる人が多い時代は、長命は悲願であったのだろう。

 しかし、この長寿時代にあって、80歳代の半ば以上生きることが普通になって、私などは、まだまだ余命があるとみなされる年齢であるのだが、ここしばらく、生きていてよかった、と思えることが極端に減った。と言うより、生きれば生きるほど、つらいことに遭遇する、という感じだ。一番、つらいのは、身近な人が亡くなっていくことだ。夫が死んだ。父も死んだ。愛猫も死んだ。母の年齢になると、人が死ぬのが当たり前になるのか、「親戚の○○さんが亡くなって、、、」と、世間話のように言う。「親戚の○○さんからお歳暮が届いた」という話題と、ほぼ同列に、同じトーンで語る。
 私の中で、夫が亡くなったことは、今でもざっくり傷口があいているような出来事だ。それでも、人に語る時は、「夫が亡くなった」という言葉よりほかにはない。このあいだ亡くなった猫のことも、「うちの猫が死んだ」という言葉しかない。が、一人でいると、嗚咽がこみ上げてくるほど、まだ、私にはきつい出来事だ。否、まだその事実を受け容れていない。しかし、普通に生きている。気も狂わずに、普通に生活をし、仕事をしている。

 どれほど、心傷ついて、消沈して、生きていけばよいのだろう。この先に、何か良いことがあるとは、思いにくい。それでも、まだ生きていく。命がある間は、生きていくのだろうが、長命が必ずしも良きこととは思えなくなっている。苦労するだけなのに、なぜ、生きようとするのか。なぜ、生かされるのか。
 
 尊厳死、という考え方をやっとわかり始めている。今まで興味がなかったが、自分で終止符を打てるのは、良いことかもしれない。

 ときどき、思ってきた。自殺はなぜ、いけないのか、と。以前、「死にたい」と言い続けている人の相談に乗っていたことがある。行政の仕事だったので、保健師などが、なんとかしようとむなしく動いているのだが、私は、「なぜ、あの人は自殺してはいけないのですか」と尋ねた。死んではいけない、ということをかたくなに言い続ける保健師がいやだった。死にたいと言い続ける女性が望む人生を、誰も用意してあげることができなかった。彼女は、婚約者に捨てられて、それをずっと恨みに思っていた。それ以来、鬱々とし続けていた。どのような励ましもエンパワーも、彼女にはむなしい。その婚約者を呼び戻すことは誰もできない。万が一、彼が戻ってきても、一度捨てられた彼女の心の傷は癒えないだろう。彼女の心の糧は、その心の傷であるかのように、癒しからは遠ざかる。癒されたくないのだ。思うようにならない世の中を生きている限り、彼女は癒されたくはない。癒されまい、と決心しているかのように、心の傷を生きがいにしているように見える。手放したくないのだ。そして、その手放したくない心の傷のために、死にたいのだ。誰に何ができる?

 死んでもよいのではないだろうか。もう、彼女に「死んでもいいよ」とゴーサインを出してあげた方がよいのではないだろうか。それでもすぐには彼女は死なないだろうと思う。が、いつか、自分で自分に結論を出すだろう。他人の人生に介入できないのだ、と、その人を見ていてそう思った。

 自分の人生にけりをつけるのは、自分だ。

はじめに結論ありき

2010-01-09 11:24:41 | 考え方
 多くの人にとって、わかりきったことであるようなのに、私には初めて知ること、というのが結構ある。以下のこともその類のことかもしれない。

 私は、常に、何が正しいかを考えてきたつもりだった。正しいことをしたい、と、愚直なまでに思ってきた。そして、誰もがそのように考えて行動しているのだと、思いこんでいた。しかし、どうもそうではないらしい、ということに、この年になって、やっと気づいてきた。
 最初に結論がある、ということが実に多い。プロセスは、その結論を導くための手段であって、どこに到達するかわからないが、筋道を追っていこう、というのとは違うのだ。そして、気づく。実は、自分もそのように、物事を考えてきた、ということに。

 裁判などを見ていると、まさにそのプロセスが見える。主張を補強するための証明であるから、最初に結論ありき、である。自分の主張に都合の悪いことは、黙殺される。私が巻き込まれた裁判でもそうだ。原告の支援者は、私の証言の、自分たちに都合の良いところは採用しながら、都合の悪いところは私の「虚言」のように扱う、ということをする。本当なら、自分にとって都合の良いところも悪いところもあるものなのだが、都合の悪いところを拒否し、否認することで、自分たちの主張の正当化をはかる。

 裁判はそういう側面がはっきり出るが、日常でも、実は同じ事をしているのだろう。私自身も例外ではないのだろう。自分を買ってくれる人などのことは、たとえ良くない評判を聞いても、無視する、あるいは、誤解だと認定することによって、その人が良き人である、という自分の評価を一貫させようとする。自分にとって不具合な人は、どのような評判を聞いても、私はマイナスの評価しか与えない。褒められていれば、「うまく取り入って、評価されているらしい」と思ったり、褒めた人を「人を見る目がない」として、その高評価は切り捨てる。悪い評判は、我が意を得たり、と、同調する。そのようなことは、日常的におこなっている。
 ニュートラルにプロセスを追う、というのは、どこからも等距離の第三者であっても、難しいように思う。

 昨年、既存の権威を批判するエッセイを書いた。評価してくれる人も、賛同してくれる人もいるが、これもねじまげて評価する人もいるのだろうな。一昨年に書いた匿名原稿を、裁判で利用した人は、今度こそ、私が実名で書いているので、裁判に利用したいだろうけれど、もう結審しているので、さぞかし悔しいことだろう。そして、そのタイミングのあわなさを、またもや悔し紛れに非難するかもしれない。こちらにはこちらのタイミングがあるだけなのだが、またもや、何か自分たちに不利益なタイミングを選んだと、曲解するかもしれない。
 一昨年の私の動きについても、たまたまその時機になってしまっただけなのだが、自分たちの裁判に不利益になるように時機を選んだと言われてしまい、驚いたことがあった。私には全くそのような意図もなく、そんなことを計算するタイプでもなく、私の病気や関わる人の個人的事情が重なっただけなのだが、自分たちが、策略家なので、同じように想像するのだろう。幸い、非常に冷徹に物事を見ようとする人が一人関わっていて、その人が、きちんとその時機になった理由を説明してくれて、曲解しようとする人たちの考え方の問題性を指摘してくれて、助かった。が、この人の冷静さ、理知的な分析力と姿勢は、常に誰かにとって「都合の悪さ」を含むので、全面賛同を求めるタイプの人からは、常に批判を受ける。この人は裁判原告のとても頼もしい賛同者であったにもかかわらず、同時に「苦言」を呈する人であったために、原告の支援者から、ひどい仕打ちを受けたようだ。
 この人は、誰にもおもねらず、常に何が正しいかを追求しようとする姿勢で一貫していて、その論究の周到さは頭が下がる。私もそうでありたかったが、自分をふりかえって、結構、情緒的に人に寄り添うところがあると気づいた。しかし、この人は、ほんとうにそれが徹底している。だから、私にも、決して愉快でない意見を持っている部分もある。それでも、不愉快だからといって、その主張に初めから耳をふさぐのではなく、とにかく、虚心に耳を傾けようと、この人の意見の前にはそう思える。それは、この人が徹頭徹尾、人への情緒で動かないとわかったからだ。
 私よりもかなり若い人だが、私もそのようでありたいと思う。そのかわり、徹底的に孤独である覚悟も要るだろう。

 私も友人に、辛口の意見を言ったことで、なんとなく疎遠になっている。彼女は、情緒の勝った人なので、とても情緒的に、人に寄り添える人だ。だから、情緒的な部分で、人は惹かれていく。辛いとき、悲しいとき、この人だけはわかってくれる、と思わせる人だ。そして、彼女は、自分の苦境にも、私がそのようであってほしいと願ったに違いない。もちろん、私も彼女に寄り添った。最後まで、味方であろうと思っていた。が、彼女の矛盾した行動には、それを指摘するしかなかったのだ。矛盾していると思える行動を、「全部、あなたが正しい」とは、決して言えない私がいる。矛盾しているよ、おかしいよ、でも、あなたをそうさせるのは、あなたが辛いからだよね、ということまでが、精一杯の私の寄り添い方だ。でも、その矛盾した行動は、「まずいよ、それは違うだろう」と、やっぱり言ってしまう。

 私が巻き込まれた裁判の原告支援団体の人たちのように、悪かろうが矛盾していようが、徹底的に支援する人の側につく、ということが、ほんとうに援助者としての正しい姿勢なのだろうか。少なくとも、支援される人はそれを望むだろう。
 しかし、私は、自分が間違っているときに、やっぱり、それを指摘してくれる人が欲しいような気がする。が、その間違いをやっているとき、というのは、他が見えない余裕のない時でもあるので、間違いの指摘は、不要な、自分の邪魔をする「苦言」としか思えなかったりする。驀進しているのに、その進路を邪魔するように見えてしまうのだ。そういう時は、ただただ前に進みたいので、自分でも気づいている自分の問題点に敢えて目をつぶっているのかもしれない。「今、それを言わないでくれ!」という心境だったりする。そして、あえて「苦言」を呈する支援者というものは、嫌われてしまう。が、味方からの「苦言」は、どこかで自分を救うだろう。
 冷静でありたい、と切に思う。が、苦境に立たされると、そうはなれないのが常だが。

 はじめに結論ありき、ということの方が、この世には多いようだ、という、当たり前の事に気づいただけの話、ね。