ある若い人が、「人は正義で動かない。人とのつながりで動く」というようなことを言って、年配の人たちが、その奥の深そうなもの言いに感心したことがあるのだけど、私は「ん?」となった。一つは、その人が、ほんとうに正義で動いていなかった実態を知っていたこと。奥が深いも何も、そのまんまじゃないかと思った。が、その時の発言の場所は、正しいことを遂行していこうとする反体制の運動系の人間が集まっているところだった。掌中の珠のように大事にしている、しかし、手あかにまみれた「正義」という単語を冒頭に持ってきた、核心をつくようなもの言いに、その場にいた者は、ぐっと痛いところをつかれたように感じたのだ。私が「ん?」と思ったのは、その巧みさの背景を勘ぐったからでもある。
その若い人の人脈には、私とは相容れない人々がいた。ものごとには建前と本音がある、ということで、決して、その乖離を埋めようとはしない人たち。自分たちの都合に応じて、それは人間の「本音」として押し通し、「建前」を早急だとか、理想主義だとか、実際的ではない、として排斥する人たちだ。私は、この「建前と本音」というレトリックになじめない人間だ。「建前と本音」というように対比したい二重の規範やものの考え方や、理想と現実の差異があるのは、知っている。が、それを、理想に向けて努力しない方便に使うやり方がいやなのだ。
建前と本音を限りなく近づける方向性しか、私にはなくて、二重基準を放置してそこに安座しようとする人たちとは、金輪際、同じ土俵に立てそうもない。
その「建前と本音」派に、その若い人は属していて、その人達の妨害で、私は、とても苦労させられた過去がある。
が、その賢しげな発言は、愚直なまでに「正義」を追求してきた年配の運動家たちに刺激を与えたのだ。
しかし、やはり「違う」と、私は思う。人は正義では動かない、などと言ってもらっては困るのだ。そこに、共感などしてはいられないのだ。
正義で動くのだ、否、動かないといけない。やれないかもしれない、思うようには進まないかもしれない、正義の基準もずれていく、立場によって見え方も変わる、それでも、「何が正しいか」と追求する姿勢を失ってしまえば、おしまいのような気がする。
その若い人の「人は正義では動かない。人とのつながりで動く」という発言は、あの運動体の中では、深淵な人生哲学のように聞こえたかもしれないが、一歩、世間に出ていけば、それが当たり前の社会だ。正義ではなく、義理や人情、時には有利な人間関係、コネなどで動いているのだ。運動体の中でそれを言うな、と思う。が、年をくっている割には、純朴な運動家の人たちには、そのようなもの言いをする人がいなかったので、とても新鮮に聞こえたのかもしれない。
が、その若い人を見ていると、とても器用だ。純粋な運動家たちのネットワークを、長けた世間知をたずさえて、泳ぎ回っている。それを知っているから、私は「ん?」と思ったのだ。
「正義」を守ろう。正義の内容は多様だ。しかし、正義を守る。建前と本音は違う、理想と現実は違う、と言って、現状を放置することはしない。本音を建て前に近づける、現実は理想に近づける。
思えば、若い頃から、これで生きてきた。今更、変えられない。若い小器用な人間が、新保守をたずさえて、運動系の中にも侵入してきた、と考えた方がよいかもしれない。これも、ネオリベラルの不気味な足音かもしれない。