凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

京のぶぶ漬け (続き)

2008-10-11 10:33:49 | 京都
過去のを読み直していたら、最初に「京のお茶漬け」のことを書いていた。あの頃は、最初にこの伝説ありき、で話を始めている。が、私がこのブログを始めたのは、京都人のメンタリティということがずっと、こだわりであったからだ。今日までの間に、「京のぶぶ漬け」について、ちょこちょこと考えたりしていて、相対化し始めているようだ、と思う。
 しかしまぁ、言説というものは、その時の真実を抱きながら、精一杯の正当性をもって論じられるが、いとも簡単に、前提からくつがえされることがある、と、他のことなども考え合わせて、つくづく思う。
 ネット上での発信は、そのあたり、かなり生の状態で提示されるということだろう。

京のぶぶ漬け

2008-10-10 23:18:13 | 京都
京都人は、言っていることと思っていることが違う、という京都人の意地の悪さを表現するときに、この「京のぶぶ漬け」が使われる。私は京都出身なのだが、この言い方が大嫌いだ。そして、この言い回しは、ずいぶん、成長してから他所で聞いた。当然のことながら、京都人は言わない。だから、その言い回しを聞いたとき、非常に違和感があった。なぜなら、まず、私の家では、客には「お茶漬け」など食べさせない。寿司をとるなり、もっと良い物を出す。子どものとき、母を見ていて「饗応婦人」という言葉が浮かんだが、それくらい、見栄っ張りで、よその人にごちそうしようとがんばる。昼時分になれば、「お昼を」ということは言い出すだろう。が、それは、「帰れ」という気持ちの裏返しではない。昼時になったが、あなたはどうするのか? という一つの質問の仕方ではあるかもしれない。昼食を出す気がないのに、どうか? とは尋ねない。食べないで帰るのなら帰るだろう、食べるのなら、食べてゆっくりするだろう、と、選択を相手に委ねる尋ね方の一方法だと思う。なぜなら、自分たちも食事はしたいのだが、相手がどうするかを尋ね、相手の出方で、昼の過ごし方を考えたいからだ。少なくとも、私の家ではそうだった。昼時分をはずす、という発想はないから(時計通りの暮らしだった)、昼食をどのようにするか、という決断を迫られるのだ。そのために、相手にお昼を勧め、「あ、もうこんな時間。ほな、失礼します」と言って腰を上げる人が多かった、ということだ。

 ある人に、この「京のぶぶ漬け」があたっていない、ということを言ったら、若いときに、京都に下宿していたという人が、私の家は京都の中心からはずれていたのだと言う。私の母方は、代々、西陣織を家業としてきた家なので、はずれているどころか、ずっと、京都に根を張って生きてきた人たちだ。私が幼い頃に住んでいたのは中京区だったが、それも「ちょっとはずれてる」と、その人は言う。他人の家のルーツを否定してまで、この「京のぶぶ漬け」の伝説を本当だと言い張りたい理由は何なのか? 単に京都人でもいろいろであり、それぞれのキャラクター、さらに京都市中でもローカルな風習が個々にあり、文化の多様性があった、というシンプルな事実だと思うのだが、それを決めつけたがるのは何なのだろう?