私の行動範囲がおそらく特殊で、社会全体から見ると少数派なのだろう。しかし、日々、その中で暮らしていると、そこの常識が社会全体の常識と思えてしまっている。その、相対的な視点を忘れないようにしたいと思いつつ、繰り返し、思うところを書くと、、、。
私の動く業界では、広い社会全体とは逆の価値体系に貫かれている。まず何よりも、「不幸」を背負っている人が「幸福」な人に比べて、地位が高い。当然、稼ぎ手の夫がいて子どもや孫のいる人は、シングルマザーで貧乏な人の前に出ると、肩身が狭い。年金額の高い人は、年金額の低い人の前で身を縮める。フルタイムの職を持っている人は、非常勤職の人の前では、無口になってうなだれている。
私は、嘗て働いていた職場で、管理職、常勤、当然その職場では高給取り、だった。そして、一番頭が上がらないのは、その職場で一番不安定な身分のパートの人。パートの人は、思う存分、私を罵り、ターゲットにし続けた。なぜなら、権力を持っている人はいくら攻撃しても良い、という暗黙の了解があって、容赦ない怒りを全部こちらにぶつけてくるからだ。そして、こちらは一切の抵抗ができない。抵抗しようものなら、パワハラと言われてさらに糾弾される羽目になりかねないからだ。
こうした価値観の世界では、最も強いのは、「被害者」の立場になること。パワハラは、その立場に立つのに、すっかり便利なツールになってしまった。
一つ前の記事に書いた、団体を辞めた人の手法もこれだ。その人は事務局長。パワハラをした、と名指しされたのは理事長。団体の職制から言えば、確かに理事長は団体の責任者でトップ、事務局長は理事長の命を受けて事務局の業務を行う立場だ。見かけ上の権力は、理事長にある。しかし、実態は、事務局長がその人の名前を利用するために理事長を招聘したのだし、実権はすべて事務局長が握っている。それでも、その理事長がやる気を出して、あれこれ、アイデアを出し、提案していたことで、事務局長は追い詰められていった。「それは、出来ません」「人手が足りません」と言えばいいものを、理事長の提案に応えないといけないと思ったのか、自分もやりたいのに出来ない苛立ちがあったのか、とにかく、提案型の理事長は「パワハラをした」ということになった。事務局長の彼女は、パワハラの被害者になったのだ。
そこからの彼女の言動の不思議さは書いている通りだが、それまで普通に起こっていた出来事が、すべて、彼女の被害事実として跡づけられていった。自分を被害者として位置づけることによって、すべてそのことを証明する出来事として、解釈し直されていったのだ。
過去の出来事は、現在にとって「解釈された」出来事に過ぎない。解釈抜きの過去などないのだ。そして、一旦「被害者」としての現在から振り返ると、すべて「被害事実」を構成する過去物語となる。
裁判に巻き込まれて知った。裁判で争われる「事実」とは、原告と被告の主張を補強するためのツールだから、どれだけ整合性をもって解釈を展開できるか、にかかっている。「正義」が追求されるのではなく、言い分がどれだけ「尤もだ」と思われるか、ということだ。だから、舌戦、論戦だ。そこでは「正義」など証明されないし、そこで「正義」を信じているのは、自己検証をしない思い込みの人だけだ。
思考とは、解釈のことだ。学問が、客観性を追求することを至上価値とするのはわかる。所詮、全き客観性などないけれども、限りなく客観性を追い求める領域というのはここにしかないのだろう。
とにかく、「被害者」になる、ということは、私の動いている業界では、最強の立場になる、ということだ。誰も「被害者」になった人を責めたり攻撃したりは出来ない。だから、と言うべきかどうかわからないが、もともと武器を持たない女性たちは、「被害者」という武器を持つ。「女の涙は武器になる」という言い方、私は大嫌いだが、まぁ、真理ではある。
でも、これを武器にする女、嫌いだなぁ。私自身、実際に「被害」を受けた時に、まわりが腫れ物にさわるように大事にしてくれて、その心地よさは知っている。そこに行きたい気持ちもわかる。が、それを武器に使う女を見ると、やっぱりいやだと思う。
私の動く業界では、広い社会全体とは逆の価値体系に貫かれている。まず何よりも、「不幸」を背負っている人が「幸福」な人に比べて、地位が高い。当然、稼ぎ手の夫がいて子どもや孫のいる人は、シングルマザーで貧乏な人の前に出ると、肩身が狭い。年金額の高い人は、年金額の低い人の前で身を縮める。フルタイムの職を持っている人は、非常勤職の人の前では、無口になってうなだれている。
私は、嘗て働いていた職場で、管理職、常勤、当然その職場では高給取り、だった。そして、一番頭が上がらないのは、その職場で一番不安定な身分のパートの人。パートの人は、思う存分、私を罵り、ターゲットにし続けた。なぜなら、権力を持っている人はいくら攻撃しても良い、という暗黙の了解があって、容赦ない怒りを全部こちらにぶつけてくるからだ。そして、こちらは一切の抵抗ができない。抵抗しようものなら、パワハラと言われてさらに糾弾される羽目になりかねないからだ。
こうした価値観の世界では、最も強いのは、「被害者」の立場になること。パワハラは、その立場に立つのに、すっかり便利なツールになってしまった。
一つ前の記事に書いた、団体を辞めた人の手法もこれだ。その人は事務局長。パワハラをした、と名指しされたのは理事長。団体の職制から言えば、確かに理事長は団体の責任者でトップ、事務局長は理事長の命を受けて事務局の業務を行う立場だ。見かけ上の権力は、理事長にある。しかし、実態は、事務局長がその人の名前を利用するために理事長を招聘したのだし、実権はすべて事務局長が握っている。それでも、その理事長がやる気を出して、あれこれ、アイデアを出し、提案していたことで、事務局長は追い詰められていった。「それは、出来ません」「人手が足りません」と言えばいいものを、理事長の提案に応えないといけないと思ったのか、自分もやりたいのに出来ない苛立ちがあったのか、とにかく、提案型の理事長は「パワハラをした」ということになった。事務局長の彼女は、パワハラの被害者になったのだ。
そこからの彼女の言動の不思議さは書いている通りだが、それまで普通に起こっていた出来事が、すべて、彼女の被害事実として跡づけられていった。自分を被害者として位置づけることによって、すべてそのことを証明する出来事として、解釈し直されていったのだ。
過去の出来事は、現在にとって「解釈された」出来事に過ぎない。解釈抜きの過去などないのだ。そして、一旦「被害者」としての現在から振り返ると、すべて「被害事実」を構成する過去物語となる。
裁判に巻き込まれて知った。裁判で争われる「事実」とは、原告と被告の主張を補強するためのツールだから、どれだけ整合性をもって解釈を展開できるか、にかかっている。「正義」が追求されるのではなく、言い分がどれだけ「尤もだ」と思われるか、ということだ。だから、舌戦、論戦だ。そこでは「正義」など証明されないし、そこで「正義」を信じているのは、自己検証をしない思い込みの人だけだ。
思考とは、解釈のことだ。学問が、客観性を追求することを至上価値とするのはわかる。所詮、全き客観性などないけれども、限りなく客観性を追い求める領域というのはここにしかないのだろう。
とにかく、「被害者」になる、ということは、私の動いている業界では、最強の立場になる、ということだ。誰も「被害者」になった人を責めたり攻撃したりは出来ない。だから、と言うべきかどうかわからないが、もともと武器を持たない女性たちは、「被害者」という武器を持つ。「女の涙は武器になる」という言い方、私は大嫌いだが、まぁ、真理ではある。
でも、これを武器にする女、嫌いだなぁ。私自身、実際に「被害」を受けた時に、まわりが腫れ物にさわるように大事にしてくれて、その心地よさは知っている。そこに行きたい気持ちもわかる。が、それを武器に使う女を見ると、やっぱりいやだと思う。