凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

誹謗中傷

2009-06-16 08:35:19 | 組織・集団
 一昨年、ひどい誹謗中傷をブログ上で受けた。ブログは、世界中の誰もが見ることのできる媒体だ。そこに実名で、私の人格を貶めるような書き込みがなされた。ある人物が起こした訴訟を支援する団体が、証言した私(その原告から見れば、一応、立場的には私は敵性証人)の証言が気に入らなかったらしく、私が嘘をついているかのような邪推に満ちたデマを流した。私は、私から見えたことをそのまま証言しただけなので、原告側に不利な点も有利な点も、両方あったはずだが、有利な点は採用しておいて、不利な点について、あたかも私が真実を言っていないかのような情報を、何人もの人が、ことば巧みに言い立てる、という構図だった。いろいろな表現法を駆使して、私が嘘つきであるかのような、被告の団体と手を組んでいる人間であるかのような人物像を作り上げていた。
 私は嘘がつけない、友人に言わせれば「正直だけが取り柄のような」人間である上に、被告団体の圧力にもめげず闘い続けたので、あまりの悔しさで、昏倒しそうだった。
 原告が被告団体に在職していた当時は、私などよりよほどうまい関係を作っていたと思えるが、それが組織の体制変更のために契約更新なし、ということになり、後任についた私が憎かったのだろう、と今になれば思う。しかし、そのようなことはつゆ知らず、私は原告を気の毒だとさえ思っていた。

 証言の直後、裁判所の庭で偶然、支援団体とは別行動の原告と出会った。原告は駆け寄ってきて、私をぎゅっと抱きしめた。私は、自分にとって正しいと思える証言をしただけなので、その相手の感情の表現にとまどっていたが、相手は、「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。私は「あれでよかったの?」と聞いた。なぜなら、被告側にも原告側にも、一切肩入れをしていないからだ。原告に喜ばれるつもりもなかった。「いいの、いいの、あれで良かったのよ」と、相手は感激しているのか、何なのか、ぎゅっと私を抱きしめ続けた。そして、突然「あ、こんなところを見られては、、、」と、私から離れると、足早に立ち去った。
 茫然と見送る私に近づいてきた友人たちが、「急に襲われたの?」と笑っていた。

 そのような出来事の後で、誹謗中傷記事がブログに出始めた。私は、その頃、心身に不調を来して入院していたので、そのような情報を入れないようにと、ドクターストップがかかっており、詳しい展開は知らなかった。退職してから後、次第にひどい事が書かれている事を知ったのだった。

 その後もすさまじい展開があり、人づてに聞くと、まだ私の悪口を言っている人がいるらしいが、まんざら知らない人たちではなかっただけに、私には悲しみが強い。要するに、私は嫌われていたのだな、とは思う。結構、機嫌良く関係を持っていた頃から、私は嫌われていたとしか思えない。中には、やたら親切で、いろいろな物をくれたり、私が入っているグループにはほとんど全部入っていた人もいる。その人などは、私がその人の過剰な優しさに、その人ほどの温度で答えなかったのが悪かったのかな、と思う。
 尤も、原告自身からは、とっくに、ブログ上の誹謗中傷記事についての謝罪文が送られてきており、その様子を見ると、完全に支援団体の一人歩きなのだが、そのあたりの内部関係は私にはわからない。

 ブログも閉鎖されたし、もう無関係に生きたいとは思うが、しかし、この奇妙な集団心理は、興味がわくものでもある。私の生きがたさの謎がここで解けるのでは、という変な期待だ。支援団体の人々の怒りや敵意の高まらせ方を見ていると、個人と個人がどのようなもので結びつくのか、個人のコンプレックスや私情がどんなふうに組織化されるのか、見えるような気がする。

 今、ニュースで騒がれている、厚労省の雇用均等・児童家庭局の女性局長が、なぜ、その違法とされる行為に至ったか、ということもまた、組織集団のからくりのなせるわざだろう。
「組織は魔物」というのが、私の実感だ。

「未亡人」って、、、

2009-06-13 16:30:20 | ことば
 今時、「未亡人」などということばは死語だろうと思いながら、あるSNSエリアでコミュニティを検索したら、あった。しかも、いくつも。おおかたは、怪しげなコミュニティだが、中に一つ、まともな、夫に先立たれた女性達の書き込みがあるコミュニティを見つけた。まだ若い人、赤ちゃんがいる人もいれば、夫が事故で亡くなった人、急病の人もいる。どの人の記事も、読むと切なくなる。せいいっぱいの今を生きている人たちの状況が垣間見える。
 でも、このコミュニティには入れない感じだ。どの人も「主人」ということばを多用する。「夫」は、何のためらいもなく、「主人」なのだ。かまわないのだけど、そんなことばの習慣に対して、難癖をつける気にはならないのだけど、でも、距離がある。

 悲しみは、ストーリーだ。語ろうとすれば、もはや、どこかで見知ったストーリーだ。言い習わされたことばが多用されればされるほど、それは、なじみのあるストーリーになる。それしかないかも、私たちは、見知ったストーリーや、言い習わされたことばに仮託するしか、自分のあふれる感情を語るすべはないのだろう。

 それでも苦しいのは、自分の内にわき起こる感情を処理する力が自分にはなく、あふれるつらさが私の許容量をオーバーフローしている状態が続いていること。あふれた感情は、拾う力もなく、置き去りにするしかない。ずっとずっと、置き去りにしている感情、、、。生き続けるには、それしかできない。この感情を受け止めることなどできないのだろう。
 たぶん、人はそうして、悲しみやつらさを置き去りにして、なかったものにして、生きていくものなのだろう。置き去りにしたものが何であるかを、心のどこかで認知しながら、生きるために、それを封印する。その封印は、たぶん、もう、解かれない。宿題をやり残したような感覚を、時折、年老いてからも、抱いてはいるが、その宿題が何であったかも思い出せない。たぶん、やり残した感覚を抱きながら、少しずつ、忘れていくのだろう。

 既存のことばで、自分の苦悩を語りたくない、という思い、見知ったようなストーリーに加工してしまいたくない、という思いで、先立たれた事実を、ことばを失ったまま、かかえている、、、。 
 

暗い日記だが、私は暗くない

2009-06-10 21:24:14 | 人生
もともと、暗い日記を書くつもりで始めている。暗いのを目的にしたのではないが、自分の昔からのひっかかりとは、世の中から理不尽な扱いを受けた経験のことで、自分なりにその理由を解明したいという欲求なのだから、暗いには違いない。

ただ、私はもともと暗い人間ではない。実は、脳天気なばかりに、冷たい扱いを受けたのだろうと思う。気が回らない、カリカリしている人におもねらない、他人に無関心である、マイペースである、というようなところが、あるタイプの人にとっては、気に入らないことであったのだろう。

その最初の人が、母だった、ということだろう。母の不幸感を共有せずに、一人、脳天気であったから、母は、幼い私を許さなかったのだろうし、父は、商売を始めたばかりで経済的に大変な時期に、10歳に満たない私が、家計には何も貢献しないくせに口だけは達者で、いらついたのだろう。

母は、今や81歳になり、昔のきりきりした鋭さはなくなり、動きもゆっくりで、おっとりとしたおばあさんになっている。人間がこのように老いていくものなら、幼い子どもがぐずぐずしているのを、あまり叱るべきではないな、と思う。やがて、自分自身が、そのように、ぐずぐずとしか行動できなくなるのだから。そして、ぐずぐずするな!と、叱りつけた娘に、今では、歩みを合わせてもらい、ゆっくりとした動きに合わせてもらうことになるのだから。

 子ども叱るな、来た道じゃ。年寄り叱るな、行く道じゃ。
というような名言は、ほんとうに人生を深く味わった人の教訓なのだろうな。
若い人と一緒に何かをすると、こういうような深い人間観は望むべくもない、他人に想像力のない人が、この社会を中堅として担っているのか、と思って暗然となる。

 私は基本的に、のんびりした性格だ。しかし、それゆえに叱られて叱られて、ずいぶん、人生観を暗くして大きくなってしまった。しかし、根が暗くないので、やはり、お笑いなどを見て、大笑い(しかも一人っきりで)したりは、今もする。この、本来それなりに機嫌良く過ごせるはずの他人の人生を、暗くしたり、不幸に落とし込む、他罰型の攻撃型の人がいることで、ずいぶん、世の中は生きづらくなる。私の、あの人の、この人の、人生を返して! と言いたいような人が世の中にはたくさんいる。

 それとも、それが人間というもの? 自分が生き延びるために、他人の人生に介入し、害することをしてしまうのが、普通なの? 私も、意識的にではないが、全く無意識無自覚に、誰かの人生を損なっているのだろうか。
 

自己愛パーソナリティ

2009-06-10 11:21:45 | 人間関係
 元衆議院議員で、精神科医の水島広子さんが、『国会議員を精神分析する』という著書の中で、自己愛パーソナリティという言葉を使っている。たぶん、私が自己中的な潜在欲望を持つ人として理解しているタイプの人と同じような内容を言っているようだ。この本は、私が2004年4月から2007年3月まで在籍していた行政の出先機関で、あまりにもわけのわからない人々に遭遇し、苦しんでいた時期に読んだのだが、ここに登場する人物像とそっくりなのに、かえって呆れたものだ。
 就職した当時は、口やかましいお母さんがたくさんいるような職場だ、と、部下にあたる女性達の干渉ぶりに辟易していたが、それがだんだん、モラルハラスメントの様相を呈してくる。あらためて、今、水島さんの本をぱらぱらと見返していて、国会議員の「嫉妬」というところにいきあたった。ある部門の責任者に抜擢されたJ議員が座長をしている会議で、I議員が「もっと皆の意見を聞いて話を進めるべきだ」と批判をした。水島さんは最初、もっともな意見だとうなずいていたが、だんだん、おかしいと感じ始めた。「だから、今皆さんに意見をお聞きしている」と答えるJ議員に対して、I議員は「今急に意見を聞きたいと言われても皆が困る」とまた、反論する。J議員を困らせるためだけの意見に、J議員は真っ当に答えつつ困惑している。最後は、「では、意見のある人は後から私の方へ」というJ議員の結論で一同は賛成するのだが、I議員はまだいちゃもんとしか思えない、反論にもならない反論を言う、というエピソードが紹介されている。そして、水島さんは、そのことについて、I議員は自分の方がそのポストにふさわしいと思っているのに、J議員が選ばれたので、気に入らなかった、だから、J議員をこきおろしたかったのだろう、I議員の批判は、「ためにする批判」だった、というように解説している。それは、「嫉妬」の感情が隠蔽された行為だったらしい。
 これとそっくりな事が、私のいた職場で起こっていたので、そういうことだったのか、と今は冷静にわかる。全体会議の場で、突然、「皆の意見を聞くべきだ」という批判をするかと思えば、意見を聞こうとすると、「急に聞かれても困る」と言い、では前もって意見を聴取しようとすると、「そんなことは自分たちが考えることではない。館長がリーダーシップを持って判断することだ」と矛盾したことを平気で言う。そういう批判的な態度は、いつも、ある人物をリーダーとするグループの二人ほどだった。では、どうすればよいのか、私は困惑の極みだったが、今思えば、相手の意図が、私をただ困らせ、批判することにあったのだとしたら、まともに対応してもどうしようもなかったのだ。
 水島さんも、個人的な自己愛的感情が、正論に聞こえるような言葉ですり替えられる場面を紹介しているが、ほんとに、これではたまらない。普通に仕事をしようとする者には迷惑甚だしいし、組織運営にとっても非効率であるばかりだ。
 これがモラルハラスメントというものだろう。個人的ないじめは、個人で対処するが、組織運営に関わったことだから、私は今でも許せない感じが残っている。つまり、公職に就いた者として、果たすべき責任を果たそうとしたのにも関わらず、私的な自己愛感情などに阻まれ、公務を妨害され退職を余儀なくされた悔しさだから、尾を引いている。
 そうだろう、私が許せないのはそれだろう。それまでの人生でも、個人的な嫉妬か何か知らないが、奇妙ないやがらせは経験してきている。しかし、それは私が、その人から距離を置くことによって、終わらせてきた。そのような場所に固執する気はないから、さっさとそこを離れればよかった。仕事を辞めたこともあったが、後で、そのいやがらせをした人のお粗末さが露呈して、なんだ、そういう人だったのかと、かえって、どうでもいいや、と気が済んだ。
 しかし、2007年まで在籍した職場では、一応、公職と呼ばれる立場であり、私には果たすべきミッションがあった。そこにおける、嫉妬や不満などの私的感情からくる公務の妨害など、許せないではないか。私は、まだしつこく引きずっている。なぜなら、この、とんでもない部下たちが生き残っているから。生き残って、この、市民の税金を投入した行政機関に居座って、ミッションを腐らせているから。
 水島広子さんの本のサブタイトルは、「「ヘンな人たち」が生き残る理由」だ。
 

未完

2009-06-10 10:56:09 | 人生
自分の人生を未完だと、常に感じている。成し遂げたことがない。いつも、先送りしていて、今の勝負を逃げているのだろうか。

が、これが自分なのだろう。未完のまま、終わるのだろう。

自分に起こる理不尽さを解明したいと思っていたが、もう、それについては、読めている気がする。理不尽さを不本意であると思っている間は、その理由を問い続けるが、私にとっての不本意が、私の内部から生じたものではなく、外部から訪れたものであって、他者の必然だったのだと思うと、もう、解き明かしたいという情熱は失せる。他人のわけのわからなさは、謎が深まりすぎて、わかろうとする思いが持続しない。第一、他人の自己中欲望などにつきあう気もないし。


攻撃的な人(続き)

2009-06-06 10:08:14 | ハラスメント
 要するに、自分がなんとかいい目を見たい、自分を過剰に守ろう、などとする人というのは、はた迷惑な人達だということだ。
 組織や団体の意思というものが、このような自己愛行動を持つ人に牽引されていることがあったりするが、このメカニズムは団体のダイナミクスとして、研究されるべきだと思う。心理学を嫌う人もたくさんいるし、私も、事態の原因さがしを心理に収斂させることの空しさを感じてはいるのだが、しかし、無視できる領域でもない、という気はする。

攻撃的な人

2009-06-06 09:08:50 | ハラスメント
ここ数年、思いもかけぬ、他人からの攻撃を経験した。子ども時代に、「いじめ」というものがあったが、私はあまり集団から孤立するタイプではなかったので、経験したのは、特定の一人の少女がこっそり近づいてきては、いじめて去っていく、というパターン。どちらかと言うと、いじめる少女の方が孤立していて、私はクラスの中では支持されている子だった。当時も、その少女の行動がわけがわからず、たとえば、なぜいきなり私の手首を爪でひっかいて傷をつけたのか、なぜ、聞こえよがしに私の悪口を言うのか、なぜ、急に優しく近づいて来るのか、さっぱり理解ができず、その少女が近づいて来ても行動パターンがつかめず、全く無防備だった。今振り返れば、終始、私に様々な働きかけをしてきた少女に対して、どうしようもないほど、無関心な私がいた、ということがわかる。

 大人になってからのこのたびの攻撃も、思えば、わけのわからない攻撃なのだが、一つ言えることは、私があまりにも無関心であったことかもしれない。基本的に、関心のない人からの攻撃だという共通点がある。あちらさんは、私について、とにかく、とやかく批判をやり続け、私の方は、いやな目に遭って、初めて相手に目を向けるというパターンがある。
 興味がないから、基本的にこちらからは関わらない。すると、向こうからとんでもない攻撃が来る、というパターンだ。

 無関心だったのが、悪かったのだろうか。無関心だから、相手にとって大事なことに心を寄せない、相手に対して繊細ではない、空気のように無視している、ということだろうか。もちろん、私は、どなたにも基本的に礼儀正しく接している。今、攻撃してきている人達にだって、失礼なことはしたことがない。現職時代にも、届け物を郵送ではなく、わざわざ持参したりしたこともあり、相手も恐縮していて、それなりに礼を尽くしてきたつもりだ。しかし、だからと言って、簡単に彼女たちの傘下に入ったり、彼女たちの思い通りに動くことはない。しかし、それが攻撃を受ける理由になるだろうか?

 つまりは、つくづく考えるのだが、攻撃する人は攻撃しているつもりはないのではないだろうか。
 仲の良い友人で、悪意や敵意がないとわかっている友人からでも、何なのだ? 喧嘩を売っているのか? と思うような働きかけがあることがある。もちろん、気心の知れた仲だと、その場で問いただしたりする。すると、その相手は、私をどうこうしたいわけではなく、自分自身をどうかしたい、というときに、攻撃的なアクションに出るようだ、という共通点に気づく。
 そう思うと、これまで私を攻撃してきた人達の攻撃行動やハラスメントには、私を貶めたいとか、酷い目にあわせたいというような目的はないのかもしれない。だから、結果的に、彼女たちのアクションによって、私に難がふりかかっても、おそらく、自分のせいとは思わないだろう。彼女たちは、自分自身の気持ちを安定させたい、自分を救いたい、浮上させたい、という一心であったりするようだ。それは余裕のない必死な一瞬で、相手の状況が見えなくなっている。たいていは、自分が評価されたい、自分の功績を認めてもらいたい、自分が共感されたい、自分に同調してほしい、自分こそがその賞賛に値する、自分を正当化したい、自分が過小評価されるのは耐えられない、、、、等々、涙ぐましい自己防衛、自己アピールであったりするようだ。
 つまり、様々な攻撃、ハラスメントは、相手をどうこうしたい、というような攻撃目的で行われるのではなく、自分を守りたい、浮上させたい、という自己中心的な潜在欲望の結果なのだろう。しかし、この潜在欲望は、ターゲットを絞り込んでしまうことがある。要するに、私の場合は、邪魔な場所にできた目の上のたんこぶだった、ということなのか。
 どうして、そういう人達のターゲットになるような場所に、私はいてしまうのだろう。完全には退かない、彼女たちの目につかない所にひきこもっていはいない、しかし、ちょっとしたアクションで取り除けそうな風情ではある、が、結構、しぶとい、というところだろうか。
 なぜ、しぶといかは自分でもわかる。それだけはわかる。彼女たちが邪魔に思っていることに気づかないからだ。なぜなら、彼女たちに特別の関心がないから、一通りの配慮はするが、彼女たちのことをいつも考えてはいない。むしろ、攻撃されるまで、忘れている。だから、彼女たちの願望も欲望も、進もうとする方向もわからない。だから、何を怒っているのかさえ、わからない。結果的に、彼女たちの怒りを買うのだろうか。

 上に述べたのは、すべて、私の最近の推理。本当のところは、わかりましぇーん。だって、人を攻撃したいと思ったことがないのだもの。
 行く道に人が立ち塞がっていたら、そこをよけて歩く、ということしかしないのだもの。欲しいと思ったものが手に入りにくいとわかったら、すぐに諦めて、忘れちゃうもの。そんなに強引に自分の向上や成功を願ったことがないから、わけがわからないのが、本当のところ。
 

人のあたたかみ

2009-06-01 13:16:44 | 人間関係
 久しぶりに、研究会系のイベントに出た。私は、この数年、職場と職場がらみの団体から、理不尽なハラスメントを受けていて、病気にもなり、とても困難な日々だったので、ずっとひきこもっていた。
 でも、このまま、ひきこもっていじけていても、良い方向に物事が動くわけはないと思い、とにかくがんばって行くことにした。
 ハラスメントを受けるまでは、とても脳天気に、「自分さえ、間違ったことをしなければよいのだ」という両親の教えを純朴に信じていたが、そのようなナイーブな認識で生きていける世間ではなかった。遅すぎる気づきだ。自分さえ間違っていなければ、なんて、成り立つはずもないのに。私の正しさは私独自の正しさで、他の人にとって、正しいわけはない。その愚直な人生観を組み直して、また、一から生きていくことにした。
 自分が間違ったことをしないという決意は変わらないが、その自分の正しさが他の人の境界を浸食していないだろうか、他の人には迷惑行為ではないだろうか、というような配慮を入れることを心がけないといけない。バランスを取りながら、正しさを追求する知恵が要るのだろう。

 久しぶりに出て行ったら、どの人も優しかった。「元気になったね、よかったね」と、心から喜んでくれる人達に出会って、私は幸せ者だとつくづく思った。

 ありがとう、皆さん。
 そして、私を元気づけて寄り添ってくれていた親友に感謝!