凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

いらちな人

2014-03-31 10:16:53 | 人間関係
 関西には「いらち」という言葉がある。「せっかち」というのとは、ニュアンスが違うような気がする。「せっかち」というのは、本人の気質にのみ言及しているニュアンスがあるが、「いらち」というのは、その人の周りにいる人に、何らかの影響を与えるものという語感がある。その影響も、良い影響というよりは、その人の性急な行動様式のために、周囲がなんとなくせきたてられる感じを持ったり、落ち着いてゆっくり取り組めない雰囲気を作っている、というようないささか「ハタ迷惑」なイメージがついている。

 で、その自他ともに「いらち」を認める人と一緒に、一台のパソコンで作業をしていた。最初は彼女が、よくわからないから一緒に、ということで、私が付き合うことになったのだが、その作業は私も初めてのこと。二人でああでもない、こうでもない、と試行錯誤していたのだが、基本的に彼女がパソコンを触っているときは、私が横にいて、一緒にディスプレイを覗き込む感じだ。彼女がよくわからないまま作業をするときは、私の方は「あ、今のところではなく、もう一度戻れる?」というように、彼女のペースを崩さないで口をはさむので、おそらく彼女はストレスを感じないだろう。「あなたはつきあってて楽」と言ってくれるが、ほんとにそうだろうと思う。が、立場が変わって彼女が横に、私がパソコンを触りだすと、とたんに彼女は口やかましくなる。私がキーを押し間違えて違った操作をしてしまった時、すでに私はそのことに気づいているが、機械というものは次の操作に移るのに一定の時間を必要とする。その隙ですら彼女は、「今のはこうしたらよかったのに」「こうしたらああなるのに」と、口数が多い。いや、わかっているが、この場面になってしまったのだ、操作のやり直しには数秒と言えど、時間はかかる。

 この彼女は、会議でも口数が多い。早口で常に動いていないと気が済まない感じだ。
 彼女は、私には遠慮しているところがあるが、若い人で、自分が何かを教える立場の相手であると、かなり口うるさい。その若い人が自分の机に自分の資料を置く場所ですら、「そこに置いたらやりにくいでしょ。こっちっ!」と、かなり難儀な先輩になる。以前、ある事務所では、とうとうこの人からパワハラを受けたと、若い人が辞めて行ったことがある。「そんな細かいことは、本人がやりながら、自分でわかっていくことだから」と忠告したが、なぜか、彼女には自分のやり方が正しいと信じているところがあって、そこには反省がなかった。

 で、今回、この彼女とパソコン作業をしていて、実にやりにくかったのだが、それで考えたこと。
 「いらち」な人というのは、その場の文脈をリードする人なのかもしれないと思った。頭の回転が速く見えるのは、この場の文脈をリードしているからなのだ。自分の文脈で場を進めているから、自分の想定内の展開になっている。だから、いつでも即応可能なのだ。相手が文脈に乗り切れないで応答に一瞬戸惑ったりすると、その人はのろい人に見える。しかし、そうではなく、多くの場合、他の人の文脈に沿わないといけないという一段階余計に手続きを踏んでいるのだ。
 この彼女も、文脈を支配してしまうタイプの人だ。場を自分の文脈にしっかり引きつけてしまう能力がある。だから、よく喋り、自分の知識を存分に開陳し、場をコントロールしていく。

 私は、他の人の文脈を探すタイプだ。だから、常に他の人の文脈で場をつくる。そのことで、「私のことをよくわかってくれている」だの、「とてもいい人」だのと好かれることもある。だが、自分で文脈を支配するのは苦手だ。そういう者同士が会話をすると、全然話がはずまない。

 「いらち」な人は自分がその場の文脈を支配しているとは気づいていない。自分のペースで、他人を若干巻き込みながら、走り続ける人たちだ。そして、それは変わらないのだろう。この彼女は、年齢的なものもあるのか、たまに相手に文脈を譲る場合もあるし、基本的に悪意がないのが見えるので、同輩には単に「いらち」な人で通っている。嫌われている感じはない。ただ、「かなわんなぁ」と思っている人の愚痴はちょくちょく聞く。

心折れることが多い

2014-03-28 22:04:38 | 人生
 ほんとうに人生とは困難なものだ、としみじみ思うことがある。

 今日たまたま観ていたテレビ番組で、「人生に全勝はあり得ない」というような言葉を聞いた。確かに、どれほど成功しているように見える人でも、様々な苦労をしているのだろうと思う。弱みは見せないが、人はいろいろなところで、苦汁を舐めている。おそらく、一人残らず、、、。

 私の人生の不具合は自分で引き受けるより仕方がない。時々、ほんとうに心折れる。悲しくてたまらなくなる。が、それもまた、私が一人で引き受ける。私の不幸を引き受ける人はいないし、また、他の人に引き受けさせてはならないと思う。一人で苦悩の夜を過ごす。一人で空しい朝を迎える。

 それしかない。それしかないが、ほんのたまに、空しい繰り言を、優しく鷹揚に聞いてくれる人が隣にいるといいなとは思う。細かいことは聞き流してくれてもいいから、私が苦しんでいることだけは、私が辛いということだけは受け取ってくれる人がいてくれるといいなとは思う。
 人はそういう誰かを持っていたりするのだろうか。ただ、それだけでいいのだけれど、そういう人を獲得するのは、私には困難だ。

 まぁ、これも自分の不徳の致すところなのだろう。

やるせない

2014-03-20 15:57:47 | 考え方
 入っているSNSのある人のブログをなんとなく読んでいた。上品で美しく、知的な、私と同年輩の女性のブログ。書かれている生活風景とか、関心を寄せている植物や人の描写とか、私にはないものをたくさん持っている人らしい。ご立派そうで、あんまり関心を惹かれるタイプではない。

 が、一つの記事を読んで、愕然とした。数日前からニュースになっている、ネットで知ったベビーシッターの男に二歳と八カ月の子どもを二泊三日で預けたら、その子どもが一人は死亡し、一人(赤ちゃんの方)は低体重症を引き起こしていた、という話に言及していた。そして、母親が攻撃の的。ブログを書いている人も、コメントを書いている人も、母親の愚挙を責め、母親の資格なんかない、と容赦なし。大阪での子ども置き去り餓死事件にも言及して、鬼畜親だと、罵っている。

 こういう年配女性たちの若い女性への容赦のなさは、今に始まったことではないが、なんだかなぁ、という感じだ。私も、インターネットで知った素性もわからない男性に幼い子どもを預けた、ということには驚愕した。考えられないことだ。しかし、そのような愚挙に至った事情があるのだろうと、想像することはする。

 母親を責めるのは最も安直で、楽だ。そして、母親を責め、「鬼畜」と呼んで心痛まない人たちが、子どもの命だの、子どもがかわいそうだのと言っている。
 この若い母親たちをここまで追い込むのは、このような女性たちが「正しい」という顔をして恬として恥じない社会であるからだ。子どもを見知らぬ男に二泊三日も預けるというようなリスクをおかさねばならない状況に追い込まれている女性に、おそらく、このような人たちは助けの手を差し伸べたりはしないのだろう。自分たちは、「正しい」場所に安座して、批判だけをしているのだから。

 「母親としてがんばりなさい」「そんなことでいいと思ってるの?」などと説教されたり、批判的なまなざしばかり受けていたら、見知らぬ、うるさいことをごちゃごちゃ言わないネット上の伝手を頼りたくなるのかもしれない。お金さえ払えば、黙って必要を満たしてくれる相手を選んだのだろう。子どもの不幸な事件は、結果だ。

 こういうおばさん連中って、やっぱり苦手だなぁ。自分は、どんな状況にあっても、間違ったことはしないと思い込んでいる想像力のない女たち。また、こういう人は、そこまで自分が追い込まれる前に、確かにちゃっかりと、身の安全を確保する才覚がある。その際に、少々他人を踏みつけても気には留めない。かなわんなぁ。こういう人たちがいるから、生きづらいのだ、と、やるせない思いだ。