凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

「被害者」「弱者」という切り札

2016-03-06 10:13:06 | 組織・集団
 以前、トップ管理職であったとき、職階から言えば、部下にあたる人にいじめられ尽くしたことがある。
私は新参者で、古参の中間管理職にとって、自分たちの言うことをきかない目障りな人間だったのだろう。
私の前任者は、行政からの派遣職員で、中間管理職を専門家としてうまく持ち上げていたようだ。
が、ヘッドハンティングされてその職に就いた私は、その分野では、それら中間管理職以上にキャリアがある。
だから、前任者のように、それらの人たちを見え透いたセリフで持ち上げたりはしなかった。
私には私の方針が明確にあった。
そして、それが、気に障ったのか、危機感を生んだのか、実にひどいいやがらせを受けた。

中間管理職の忠実な部下(力関係は、部下なのかどうかはわからない)は、私を責め上げ、
最後に「弱者」の態度を取る。

そうなのだ、私は管理職だから、絶大な「権力者」だ。(ということになっている)。
全てを私の責任に帰し、私が反論すると、「こわい」「気分が悪い」と弱弱しげになる。
今、良識のある管理職は、パワハラなどとそしられないために、極端に気を遣う。
あることになっている「権力」に縛られ、言うことも言えず、私は実にダメな管理職であった。
挙句に、大病をして退職しているのだが、
この経験で、職場のダイナミズムについて、ずっと考え続けることになった。

その後また、別の組織で、「被害者」を切り札にする人の感情の渦に巻き込まれたことがある。
それはNPO法人だったのだが、
事務局長が理事長にパワハラされた、ということになった。
嘘ではなく、ほんとうに理事長は、相手の立場を考慮する配慮に欠けた人だったかもしれない。
だから、私を含め、理事はそのことを解決しないといけないと思い定めていた。
理事長の問題にも気づいていた。
が、事態は、私たちの想定よりも早く進み、
パワハラ被害者の事務局長は、「傷つき」、理事長に反撃し、
私たち理事の名前を見るだけで「からだが震える」状態になり、
自ら辞めていった。

理事は茫然とした。
本人から「パワハラ」の訴えがきていない状態で、
どう対処するのか、理事長を抜いて、話し合った。
訴えがきていたらすぐに動けるのだが、
まだ私的に理事個人が愚痴をきいている段階で、理事会が動く理由が成立しない。
私的な会話はあくまで私的な会話であって、お酒を飲みながらの愚痴のレベルである。
事務局長の愚痴をたくさん聞いた私も、理事会として動く大義名分が要ると思っていた。
動き出すきっかけを探しているときに、
事務局長が、他の団体の会議の場で、「理事長のパワハラ」ということを言ったと知り、
それが正式な場での発言だと確認したうえで、
ニュースソースも確認して、それをきっかけとして動き出すことにした。
が、それに対して、事務局長は、
「他の団体で言われて、体面を保つために、理事会が動き出した」ということを言いだした。
この曲解に、理事たちは唖然としたが、
そう曲解したとたん、事務局長にとって、
理事会は自分の味方ではない、というように見え始めたのかもしれない。
一つの解釈が、その後のストーリーを決めてゆく。

そして、事務局長は退会し、
「被害者」として、さまざまな場で、発言をし始めた。
被害者意識が募り、ネガティブな感情を蓄積させた人には勝てない。

確かに理事長が職階上、事務局長の上司になる。
が、そうした運営体制をつくったのも、その理事長や理事に就任要請をしたのも全部、当の事務局長である。
実質は、事務局長の方がパワーを持っている。
そして、他の運営委員に対しては、文字通り、「パワハラ」的なきつい語調で対応していて、
みな、ピリピリしていた。
だから、事務局長が「辞める」と言ったとき、
ついていく人はわずかだった。
それにも事務局長は傷ついたようなのだが、
徹頭徹尾、自分が「被害者」でい続けるその人にとって、
世の中の風景は、「正しい」自分と、「正しくない」他人とで出来上がり、
自分の味方になってくれる他人だけが「正しい」のだろうか。
その「正しい」他人とも、ちょくちょく仲間割れしてきているのだけれど。

こうして、「弱者」「被害者」を装う人に出会うと、
額面では、確かにこちらが「権力者」であるので、
もう、勝ち目はない。

ほんとうに、「弱者」「被害者」としか言いようのない人たちもいるだろうに、
この、「権力」『パワー」を逆行使する人を何と言おうか。

無念過ぎて、情けなくて、
自分を襲った理不尽としか思えない過去の出来事の謎解きに、残りの人生を賭けたいくらいなのだ。





加害側は気づかない

2013-08-01 10:19:32 | 組織・集団
 私が整理しないといけないことは、いくつもある。が、なかなかはかどらないのは、思い出すと、常に痛みが伴い、冷静な思考が続けられなくなるからだ。

 最近、新聞報道された16歳の少女が集団暴行で殺された事件を読んでいて、ふと思った。

 表現にはさまざまな手法があるが、極端な表現手法を使えば、私のケースも「集団暴行」だったと言えなくもない。もちろん、直接、手を下されたわけではない。だから、通常、そのようには表現しない。が、された方の気分はそれだ。

 嘗て、某団体の事務局長が、事務局スタッフの夏休みをどうするか、ということを理事に同報メールで尋ねてきたことがある。理事それぞれが、「就業規則にないのか」「夏休みもまだ与えていなかったのか」というような、自分は何でもわかったふうの叱り口調の人もいたし、上から指図するふうの人もいた。いずれもそれぞれ1回ずつのメールによるレスポンスだった。私は、事務局長がなぜそのようなことを自分で判断しないのか、ということに戸惑い、レスしそびれていたが、他の理事の、よくわかっていないのに口々にエラソーに書いてくるメールに呆れ、事務局長がなすべきことだけを事務的に書いて送った。就業規則も私が作ったので、それについては何の問題もないものだった。それで、事務局長は私の書いた通りにシンプルに事を済ませたのだが、その時すでに、事務局長は疲労困憊して判断する力さえなかったのかもしれない。
 そして、その時のことを彼女は、「小突き回された」と、表現した。誰一人、彼女を小突いた、という意識はないだろう。でも、彼女は小突き回された、のだ。

 私の場合もそうなのだろう。誰一人、私に暴行を加えた、などと思っている人はいないだろう。が、私は集団でぼこぼこにされたのだ。私の気分は、まさにそんな気分だ。実際に、病気にもなった。と言うより、すでに病身で弱っていた私を、集団でぼこぼこにしたのだ、彼女たちは。

 「病気だなんて、知らなかった」「知らなかったんだから、仕方がない」という理屈になっているのだろう。
 自分は知らないけれど、人にはそれぞれ事情がある、だから、むやみに人を批判したり、攻撃するのはよくないのではないか、という配慮は要るのだろうが、自分がむしろ「被害者」だと思っている人、「被害者」を支援しているつもりの人は、もはやそれ以上の配慮も思考もしない。

 一人の善意の第三者を傷つけ、ぼこぼこにしてしまった事実を知らない。いわば、「善意の加害者」たち。

 考えれば考えるほどやりきれなくなって、まとまらなくなる。

 

昨日の日記で思ったこと

2013-07-01 10:32:08 | 組織・集団
 昨日の日記を読み返して、手を入れていて、ふと思った。

 友人を悩ませている人は、臨時職員だそうだ。だから、雇用期間が過ぎればそこを去ることになる人だ。その身分の問題は大きいような気がする。
 職場全体の仕事がうまくいくように振る舞うだけのモチベーションが生まれない。その人自身のありよう自体が、全く尊重されていない。ただ、産休だか育休だかの穴埋めなのだ。その人の立場がすでにそういう屈辱的な立場だ。

 私も産休の穴埋めに臨時講師に行ったことがある。本来の教員は、その科目の専門ではないので、自分の専門に引きつけてシラバスを作っていた。私はそのシラバスを見て茫然とし、私を呼んでくれた教員に確認をとって、最初の授業で自分の作成したシラバスを配布した。
 幸い学生たちには好評で、廊下ですれ違っても、「先生、授業、面白いです。楽しみです」などと声をかけてくれたりした。

 私は、元来この科目の専門だし、正規の教員が余技のようなかたちで教えるのとは違って、いい授業をするのになぁと、臨時雇用の身分が恨めしかった。そして、約束通り、半期で私は用済みとなった。(今は、その大学に非常勤講師として何年か勤めているけれども。)

 だから、友人を悩ませているその人の気持ちがわからないではない部分がある。友人によれば、その人はとてもプライドが高いのだそうだ。これまでの実績をひけらかしたりするそうだ。が、たぶん、それは認められない人の必死のパフォーマンスだ。
 「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」という箴言を、若い時は、「慢心してはいけない」という戒めとして心に留めていた。が、今は思う。一定の地位に上り詰めた人は、いくら頭を垂れても垂れた分だけ、さらに評価が上がる。が、地位を獲得していない者が頭を垂れたら、覇気がない、能力がない、として間引きされるのがオチだ。だからその人は、必死で自分をアピールしている。せめて、周りの「正当な」評価を得たいのだ。不当な身分に置かれたことに、たぶん理不尽さ、怒りを感じているのだろう。それを、反撃しないタイプの友人をターゲットに出しているのだろう。

 その人の専門は、その職場では活用度の高い分野だ。だから、本来なら、もっと活躍できるはずだと、本人は思っているだろう。それなのに、その職場では活用度の低い分野を専門とする私の友人が正規職員だ。その人が友人をターゲットにしたのは、それもあるだろうと思う。もともと友人が働いていた職場では、友人は本来の専門を生かした仕事をしていたが、現在の職場では、タイプの違う人材が求められている。論文作成機能や高度検索機能など文書処理能力の高いソフトが友人だとすれば、その職場では音楽ソフトが活用される場面が多いらしい。そして、自分はすぐれた音楽ソフトだと思っているその人は、不遇感で、心穏やかではないのだろう。

 心穏やかでない部分だけは、共感できる。ただし、誰かをターゲットにして、攻撃性を発揮する、という部分は、全く理解不能だ。不遇感、挫折感のようなものは、人は時として経験する。その経験が長く長く続くこともあるだろう。それでも、他者を攻撃しないタイプの人は、辛さを自分で何とかしようとする。が、その辛さを他者への攻撃のかたちで出すタイプの人がいるらしいのは確かだ。
 そういう人は、私が今不幸なのは、あの人には関係のないことだからなぁ、、、とは思わないのだろうか。その人が、自分を蹴落として不遇な環境に置いたのなら話は別だ。それなら、怒りや憎しみは、その人に向かうだろう。しかし、友人がその人を正職員にしないで臨時職員にしたのではない。友人はたまたま、配属された職場の正職員であっただけだ。それでも、攻撃のターゲットになるのか・・・。

 わからない。わからないが、確かにそういう人はいて、エライ目に合うことはある。でも、わからない。。。

受け身でついてくるだけの人たち

2012-02-16 09:50:49 | 組織・集団
 つくづく、何かイベントを行うというのは難しいな、と思う。今回、所属しているグループで、公開学習会を行う。確かに、私が先導している。

 が、何度も話し合いを重ね、皆に意見を求めながらやっているのに、どうでもいい話はいろいろするが、肝心の内容の構成について、完全に受け身なのだ。

 グループワークの経験が薄いから、あのようなおかしなことになるのか? 私の会じゃないよ、と言いたい。まるで私の会に、皆に協力して貰っているような状態で、すべてお任せ状態の上に、こちらが何か言うと、ちょっとムッとしているのがわかる。

 でも、主体的に関われないなら、下りてくれればよかった、とも言えない。その主体性のなさに乗っかって、私が今まで引っ張って来たのは確かだから。主体性があり過ぎて、今度は、船頭が多すぎるのも困るし、、、、。
 主体的に関わるが、先導する人の足を引っ張らないように配慮しながら、しかしここ一番、というときはちゃんと意見を言って軌道修正をする、決まったことについてはごちゃごちゃ言わず黙ってコマンドに徹して動き回る、、、。私はそうしてきたのだけどな、、、。だから、なのか。だから、私は、どんな会社に入っても組織に入っても、結局すぐに重い役に就いてきた。管理監督的立場になってきた。要するに、そういうことが出来る人が少ないということなのか。私から見れば当たり前と思う動き方のできない人が多すぎる。中に、的確に動くことが出来る人がいるが、結局、重用されるのはそういう人だ。
 どの組織に入っても、頭角を現す、というのは、そういう動き方が出来てきたからなのか、と、今、気づく。

 ずっと子ども時代からのコンプレックスが拭えず、すぐにくじけそうになるが、この部分は、自分を褒めてやってもいいことかもしれない。

 そうなると、そういうことが出来ないのは、女の人の特徴なのか、男の人でもそうなのか、そこが気になる。組織を動かす、組織で働く、ということが、裏で私情のレベルで機能する力関係に敏感であったり、うまくそこを泳ぐこと、ではないと私は思っている。組織で働くということは、組織の機構をよく理解して、その機構をよく機能させるために動くことだ。それでも不具合が生じるなら、機構を修正する必要があるということだ。すべて、表で、公的に事が運ぶことが、組織の動かせない特徴だと思っている。
 それをなかったことにするような、タテマエとホンネの二重基準を平気で持ち込む人が多すぎて、駆逐したい輩だ。





感情に感情で応酬する危険

2012-02-01 13:33:24 | 組織・集団
 何度か書いているが、男性が主導する組織がどういうものか私は知らない。ただ、女性たちの組織、集団は経験してきている。

 その中で思うのは、組織というのは、個々の構成員の「感情」の動きによって、非常に大きく左右されるということだ。個人の権勢欲のようなもの、自己中心的な解釈、個人的な義理人情、コネクション、その他諸々の感情、、、それらが組織には常に蠢いている。構成員の一人ひとりが、「これは自分の個人的な好悪の問題だから公的な場面では関係がない」「これは自分の感情の部分だから、とりあえず、感情は横に置いておこう」と、考えればもちろん、組織はもっとスムースに真っ当に進むだろう。

 しかし、感情というのものは意外に理性と区別がつかないものなのだ。理性的に判断して、仕事の優先順位をつけたつもりが、自分の嫌いな人への情報伝達を無意識に後回しにしていた、ということは往々にしてある。そして、そのために、肝心の情報がうまく伝わらなくて、組織的に大事になる、というようなことだってある。本人にすれば、情報を秘匿したわけではなく、単に後になっただけなのだ。しかし、その裏には、気に入らない相手に情報を伝えるのは気が進まなかった、相手に利することをしたくなかった、そのために情報を伝えるのが後回しになった、というようなことはあり得る。本人にすら、意識されない微妙な感情が動くのだ。

 だから、私は組織の運営は、組織の機構通りに指示系統を守り、職責を守るのが、一番よいと思っている。それ以外の指示や情報伝播は機能しない、という方がよいと思う。そうすれば、各ポジションの担当者が職責に沿って働かなければすぐに組織が機能停止になるので、担当者の責任もはっきりする。組織が機能するためには、システムが明瞭で且つ円滑に運ばなければならない。ましてや、機構を無視した指示や情報が行き交うような職場では、混乱するばかりで、組織はまともにそのミッションを果たせない。組織員は、個人であるよりもまず構成員であることの自覚が要るのだろう。
 などと言うと、これまで自分の考えていたことと逆のようだが、そして、「個人を潰す組織って何なのですか!」と、偉い人にくってかかったこともあったが、それは組織が個人を尊重しない、つまり本来のミッションを忘れてどうするのだ、という、組織のミッションを意識しての発言だった。私がいた組織は、常に人の幸福を目指すミッションを持っていたからこそ、そういう発言をしてきた。

 今、私が時々相談を受ける組織も、もう数年前から感情まみれだ。誰も彼もが、自分の感情に溺れてしまっていて、「あんなことを言うなんて許せない!」「わたしはあの人を許さない!」と、大騒ぎだが、正式の会議でそれは辞めた方がいい、というのが相談を受けた私の助言。
 ネガティブな感情は増殖しやすい。ある人に腹を立てていると、同じように腹を立てない人に対しても、恨みがましい気持ちになってくる。そこにその人とちょっとした対立が起こると、それまでのある人への怒りも加わって、怒りが倍増していくのだ。
 感情の噴出はろくなことがない。結局、他の人の感情も誘発して、誰もまともにものを考えられなくなる。

 できることなら、感情というものを自分から取り去りたい気分だ。





 

根回しということ

2012-01-30 15:17:12 | 組織・集団
 また、私のおバカぶりを露呈させるだけなのだけれど、自省も含めて振り返っておきたいとおもうことがあった。

 某組織では、私は相談役のような位置にあって、今は正式の役員ではない。そこは以前から内部トラブルが絶えない感じがあって、私自身は距離を置いているのだが、私がまだ役員だった頃から、組織の中枢にいる人が、自分の思うようにいかない事態になると、自分の味方になりそうな人を集めてその人たちだけで話し合いを持つ、ということをよくやっていた。1,2度、「そんなに、あの人をはずし、この人をはずし、というような水面下の話し合いばかりやっていたら、少しも前へ進めないから、話し合いはみんなで」と、助言したこともある。

 で、このたび、またもや私ともう1人の旧役員と3人で会いたいと言ってきた。組織のことで、、、と言ってきたので、またこの人の悪い癖が始まったか、と思った。こうして、個人的に根回しをするのがこの人のやり方なのだろう。また、私が、現在この人と対立している若い人から相談を受けて、単にその組織の仕組みを説明したのだが、急に賢い発言を始めたその人を見て、私が知恵をつけたと思ったのかもしれない。だから、私を牽制したいのかもしれない。が、私は単に、組織について全然知らなかった若手の新人に、この組織はこういう仕組みになっていて、あなたの場合はこういう権利と責任があるのですよ、と正式な組織のお約束事を教えただけだ。それくらい、その人もすぐに認識するようになるだろうことだ。

 組織に感情をからませると、どうしても分裂につながる。感情には善き感情と悪しき感情がついてくるので、感情を絡ませると、善い人、悪い人、というように対立の構図ができる。私はもう、感情のこもった組織観にはつきあいたくない。それで、集まりについては断った。もう1人の人がどういう反応をしたのかは知らないが。旧役員同士で秘密に話をするのもよくないように思えたので、相談はしていない。

 それで思い出したことがあった。友人の1人が職場の会議で提案したことについて、古参の職員から「そんなこと、急に言われても」と反発された、と言う。それは、会議にかける前に自分に相談せよ、ということだったらしい。
 その話を聞いて、私も自分の経験を思い出した。会議で皆の意見を問おうとすると、「急に言われても困る」と反発されたので、その後、会議に先立って、議題を書いた文書を配ることにした。急に言うと困るのなら、予め、議題をわかっておいてもらおうと思ったのだ。しかし、それでも風当たりはきつい。最後まで古参の部下からの風当たりがきつかったのだが、「あ、そうか」と、気づいた。私はその古参の部下に、「折り入って相談がある」と話をしに行く、つまり根回しをする、ということをしなかったので、ずっと反発され続けたのだ。
 私は在職中、ただの一度も、根回しをしていない。特にその古参の部下は信用できない人なので、個人的な気持ちでは会議からはずしたいくらいだった。意地悪で建設的な意見は出てこない。ただ、私が意見を求めていなくても、私に説教しに来るくらいだから、古参として立てて、他の誰よりも先に耳に入れておいたりすると、機嫌がよかったのだろう。機嫌良くさせておけば、ひょっとしたら時には、私の役に立ったかもしれない。
 私は何よりもそういうことが嫌いなので、その人に特別にお伺いを立てることは金輪際なかった。もう1人の部下がその人の意見を聞こうか、と私に言ってきたけど、反対した。が、今思えば、私も頑固者。あんな奴に相談したって、ろくなことは言わないだろうと、見込みをつけて、はなから相手にしていなかった。

 向こうもいやな奴だったけど、向こうからすれば、私は向こうの手腕も経験も威厳も認めないいやな奴だったのだろう。ただ、私はどれほどいけ好かない相手であっても、仕事のことは極めてニュートラルに行動するので、全く公正だったという自負はある。

 組織を運営する、ということが、そういう一癖も二癖もある相手をうまく籠絡する手腕にかかっているのだとしたら、真っ当に会議の場で民主的に決めてゆきたい、という私のような者のやり方は、あまりにも世間を知らなすぎるやり方なのだろう。そして、それが求められるなら、私はやはりそういうポジションに就くべきではなかったのだ、ということだな。


ある職場の話(2)

2011-12-04 10:15:39 | 組織・集団
 思い出すと、今も歯がみする悔しさがこみ上げる。だから、心の整理のつもりで、またここに書いておく。

 私がいた職場は、本当に不機嫌な職場だった。私は中途採用された管理職だったが、当然、その職場の歪みを最初は知らない。それまでの職場では、一緒に働いた人とはトラブルもなく良い人間関係をつくってきたので、全く無防備に、虚心にその新しい職場にも入っていった。そもそも、私のモットーは虚心坦懐であるから、初めから構えなどはない。機嫌良く出勤し始めた私に、最初におかしな働きかけをしてきたパート職員がいた。私を他の団体の総務課長と引き合わせたいと言い、夜に食事をしようと誘ってきた。その団体とは、私の所属する団体とはお隣さんのような団体
で、何も知らない私にはつながりをつくる好機に思えて、その指定された場所に行った。が、そもそも歓迎されていない感じであったし、不思議な感じがした。そこに私を誘ったパート職員とその上司にあたる主任がいた。どちらも私の部下だが、二人はプライベートにもとても仲良しなのがわかった。パーティの時の写真だかを見せられ、仕事以外でもつきあいがあるのだと思った。その他団体の総務課長は、私の存在など無視して、自分の今日してきたことがいかに大変かをまくしたて、かなり不機嫌な対応で、私は居場所がなくてこまった。そのうちに、パート職員が私に対して、役所の誰が情報を持っていて、誰から情報をとるのがよいか、見極めて情報を取りにいかないといけない、というような説教を始めた。私には、わけがわからなかった。パート職員は週3日勤務の非常勤で、私の職場ではその人だけがパート職員で、週4日勤務の嘱託職員よりもさらに位置づけは不安定な身分だ。その人がなぜか、ベテランのように振る舞っていて、主任すらその人に一目置いている。
 不思議な光景ではあったが、それよりも私が不快になったのは、その人の滔々と説教する偉そうな様子と押しつけがましさ、そして、言われている内容のわけのわからなさ、困難さだった。私は気分が悪くなってトイレに立ったが、体勢を整えて戻ると、「気分がよくないので、お先に失礼します」と言った。そして、そのパート職員に対して、「私は、必要だと自分が感じた時に、自分で考えて情報を取ります。最初からいろいろ言われてもわかりません。これから自分で考えてやっていくだけです」と、言い捨てた。主任は、その頃はまだ私におもねる気もあったのだろう、「わかるわ」と小さな声で言った。が、パート職員は呆気にとられた顔をして何も言わなかった。

 たぶん、その出来事は、その職場での私の最初のつまづきだったのだろう。後で知った情報では、そのパート職員は、元役所の職員で、何か思うところがあって退職したが、私の前任者(役所からの出向の管理職)のお気に入りだったそうだ。そして、後にパート職員として、その私と引き合わせたいと言った総務課長の団体で働き、新しく私が働くようになった団体が設立されるといつの間にかそちらに採用されて働いている、という謎のような人物だ。そして、私が中途採用で入った後も、ずっと、その役所の権力を持っている人たちと太いパイプを持ち続けていたのだった。

 その職場には派閥があって、私が入ったときは既に目に見えない抗争があった。それも、職場内を、敵と味方に分けて考えたがる一連の人たちがいて、常に場を分断していた。それが後でわかるのだが、そのパート職員を中心とする人たちだった。彼女たちに連ならない人は、浮動層と敵に分けられているようだった。浮動層は、取り込もうと思えば取り込めるが積極的に取り込むほどの立場ではない人、はっきり敵と見なしているのは、彼女たちとは反対の意見を持っている嘱託職員数名だった。
 今思えば、あのパート職員がトラブルメーカーだったのかもしれない。元公務員であり、今も内部に太いパイプを持っている、ということだけで、しかも非常に強いキャラクターの人なので、引っ張り込まれるタイプの人は引っ張り込まれるのだろう。主任を操って、中枢のトップシークレットまで入り込んでくるが、私が疑問に思って意見を言うと、「そんなこと私に言わないでください」と、急に責任をとれる身分ではない、とパート職員の身分の低さを盾にする。そうなのだ、身分が不安定で低い、ということは時に武器になるのだ。
 結局、私は二年目に私の右腕になってくれた総務課長と話し合って、そのパート職員を入れない形で、情報の階層化を実現した。私が就任した頃は、そのパート職員が情報の階層化システムの構築に携わることになっていたのだが、そうなるとトップシークレットまでそのパート職員が握ることになる。そんなおかしな構図はあるまい、と思って、情報システムの構築を懸案にしていたが、二年目に総務課長になってくれた人が、パソコンのネットワーク化をあっさりしたまともな形にしてくれたので、上手い具合に事が運んだ。
 しかし、今考えると、その情報の階層化構想は、もともとそのパート職員と仲の良い主任が言い出したことで、すべての情報がパソコンを通じて、嘱託職員にまで伝わるのはよくないから、と階層化しようということだった。それなのに、そのネットワーク構築には、そのパート職員を連れてきて、「この人は元役所の職員で信頼できるから」と彼女にさせるという話だった。すべては、私がまだ右も左もわからない時期に行われようとしていた。そのパート職員と主任の構想が奇妙だったので、私が疑問を呈したら、「そんなこと私に言わないでください」と、パート職員に怒られたのだ。
 結局、実現したネットワークは、そのパート職員が入らない形で、しかも、役職が上がるに連れて、見える情報が増える。つまり、私のパソコンでは、職場内のすべての情報が見える、というかたちになった。指示系統、責任構造から考えたら至極当然の真っ当な構築がなされた。
 が、それを実施する前に、総務課長が私のところにちゃんと見えるようになっているか、テスト期間を作った。すると、誰がどういうやり取りをメールで行っているかが、一目瞭然なのだ。で、唖然とした。件の主任とパート職員が入っている外部のグループの人とのやり取りが頻繁で、しかも、今度の宴会は鍋がいいかどうか、とか、宝塚のチケットがとれた、とか、遊びの情報交換ばかりで、職場の仕事におけるメールのやり取りが一切なかった。すべて、外部の人との遊びの相談に使われているありさまだった。
 これはいつから行われていることなのか、私は頭をかかえた。私の前任者時代からのことだろうから、前任者が一定の自由を認めていたとしたら、頭ごなしに叱責するわけにもいかないし、どういうふうに注意しようかと思案した。が、考えれば当たり前のことだが、このテスト期間が終わり、総務課長が新システムの説明をし、これから各セクションのやり取りは主任のところで把握できる、さらにすべてはトップのところで把握される、と発表したとたんに、遊びメールはぴたりと止んだ。

 今振り返って思うが、私の前任者は、役所からの出向職員だった。パート職員とその上司である主任と太いパイプを持っている人だった。が、その後任の私は、完全に外部の人間で、そのようなパイプと縁もゆかりもない。だから、そのままにしておいたら、情報は入って来なくなる。それで情報を得るパイプとして、私を引っ張り込む作戦に出たが、うまくいかなかったので、結局、私を蹴落としにかかったのだろう。
 総務課長がある日、ぽつんと、主任たちが私の失脚を狙っているのではないか、と言ったことがあった。「まさか」と思ったが、彼の観測は正しかったのかもしれない。
 お人好しで画策を好まない私が想像する以上に、彼女たちは策士だったのかもしれない。しかし、その工作があまりにもみみっちいのだ。そのような工作をして、何をしたいのか。行政の方向性は、大局的に見ないと、何が正しいのか測れない。ちまちました人間関係のコネを作って動いても、一部の人の利益にしかならない。

 それとも彼女たちは、一部の人の利益だけを考えて動いていたのだろうか? そんなに、絵に描いたような策士、エゴイストなんかがいるのだろうか?

 少なくとも、私は、人は社会の正義のために動くと思っている。ただ、その正義が人によって異なっていたり、方法論が違うだけだと思っているのだが、実は、一部の人の利益のために策を練る人が、ほんとうにいるのだろうか? 行政のシステムを、一部の人の利益のために方向付けようなどと、考える人が本当にいるのだろうか?




ある職場の話

2011-12-03 20:55:32 | 組織・集団
 私はある組織に、請われて、途中から管理職として入った。右も左もわからないが、職場のトップだ。いろいろ困難はあったが、その職場のうまくいかなさの一つの要因が、退職してから見通すことによってわかった。
 その職場には、古株の監督職にあたる人たちがいたが、それぞれ、外部にメンターと思しき人を持っていた。さらに、私の前任者も、外部にメンターを持っていた。内部で対立や不具合が生じた時に、自力で解決できない人たちは、外部のメンターにそれぞれ助言を仰ぐ。時には、その外部のメンターが持っている影響力や権力を恃む。もちろん、頼られている外部のメンターは、積極的に、快く、助言を与え、時には具体的な方針を授けるだろう。外部のメンターといっても、全くの門外漢ではもちろんなく、その職場と微妙に関係のある立場の人、時にはその職場に強い権力を行使できる立場の人だ。しかし、あくまで外部だ。

 私は、途中で入った新参者なので、そのような複雑な人間関係までは見えない。内部の指示系統に沿った仕事をしようとした。しかし、指示はうまく伝わらない。末端の職員に行くまでに曲がりくねる。指示したことが通っていない、指示しないことが私の指示になっている、というような奇妙なねじれが多々起こっていた。当然、職場はうまく機能しない。いったい、どうしてこのようなことが起こるのか、わからなかった。職場は紛糾し、絶えず紛争の種をはらんでいた。

 外部のメンターは、相談を受けるが、内部にいるわけではないから、全てを見通してはいない。相談者のフィルターのかかった見方を聞かされた上で、助言をする。が、相談した方は、自分が自分に都合の良い助言を誘導したとは思っていない。尊敬するメンターの言う通りだ、と、そこで力を得て、新参者の私の判断よりも、そちらを優先しようとする。内部の指示者である私は、自分の指示の通りの悪さに四苦八苦する、ということになる。私は、古参職員を特に優遇するわけではないので、せっかく自分たちに都合の良い職場を築き上げてきた古参職員は、私の動きに危機感を感じるのだろう。せっせと反トップの動きを作るのだが、それすら、私にはよくわからない。「あの人たちは何がしたいのだろう?」という疑問だらけになる。時には恭順になるその人達の動き方が、はっきり見えたのは、結局、退職してからだった。

 この人達には、自分たちが面従腹背だった、という自覚すらないだろう。外部のメンターの力を恃んで内部を混乱させた自覚もないだろう。

 そして、外部のメンターもまた、自分が所属しない組織を混乱させた、などとは知るよしもないだろう。自分は、相談されたから、相談に乗ってあげただけ、親切に助言しただけ、と思っているだろう。自分は外部の人間だから、内部のことはわからないから、内部のことは内部で解決しなさい、と突き放す人はいなかったようだ。みんな、頼られたら力になってあげようとするのだ。そして、自分の助言が、他人の組織を混乱させ、疲弊させ、そこのトップを病気にまでしてしまった、などとは思いもしない。
 
 その組織の初代のトップだった人は、途中で辞めさせられることになり、訴訟まで起こした。が、訴訟を起こされても、誰一人責任を感じる人はいない。なぜなら、事を推し進めた張本人などいないからだ。あれこれ、うまくいかないところを継ぎを当てながらやりくりをしていた、そのやりくりの中に何人もの外部の人の無責任な助言がからむ。提訴された中には、外部の助言者、メンターは当然含まれない。だから、提訴された後も、おそらく無責任なコメントを続けているだろう。余裕なく、アップアップしながら組織を運営する中で、内部で自力解決ができないために、外部のブレーンを恃む。それも、公式に恃めばややこしくならないが、それぞれの人が個人的な関係の中で、力を持っている人を頼みにするのだ。だから、どこまでも、個人的なアドバイス、何の責任も発生しない中で無責任な助言が繰り返される。

 テレビドラマのように、単独で、あるいは共犯でもいいが、意図的に悪意で仕組まれた事件の方がよほどわかりやくていいな、と思う。現実は、そういうものではない。本人には自覚がない。意図があったとしても、無意識の意図だ。誰かを排除しようと企んだのなら、犯人が存在するが、排除の願望があっただけで、誰も実際には排除の計画も相談もしていなかった、となると、犯人はいないことになる。
 そのようなものだ。組織のややこしさはそこにある。

 自分の位置がわからないで、無責任でいること、それが事件をつくる。誰一人として、(私も含めて、と敢えて自戒をこめよう)、この罠から自由な人はいない。時には助言者として、時には傍観者として、時には不作為の人として、この集団のからくりから自由な人はいない。




正義?

2011-06-13 10:33:58 | 組織・集団
 昨日は、私が関わっている団体の総会。次期役員を決める重要な会議。私は役員を下りると決めていたが、残る人もいる。そして、その残る人に役員を辞めろと主張し続けている人が、総会議決権のない会員二人を連れてやって来て、ことある毎に反対をする。

 本来なら、十分な議論を重ねて民主的な会議の運び方をするべきなのだろうが、既に、1年近く、その人をまじえた話し合いは重ねてきて、結局、その人の言い分は根本的には通っていない。多数のメンバーの考え方と、その人の考え方とは異なるのだ。

 多くのメンバーは、(私もそうだが)、意見の相違については自分の中で折り合いをつける。根本的な事項で自分の意見が団体の決定と異なるなら、自分が身を引くしかない。しかしその人は、自分の言い分が通るまでがんばる気らしい。そして、昨日の総会での決定で多数決を取って採決をしたが、その人の言い分は、「数の暴力」だ。多数決で採決を取る以外に方法のないこともある。議決権のない二人までも、反対意見に手を挙げ、メンバーの一人が、「あなた達に議決権はあるの?」と尋ねると、「会員だから」と言う。
 もともと、議決権のある会員とない会員との二重構造を作ったのは、その人達が支持する、今は退いた旧事務局長。その二重構造は理屈が成り立たないと私は指摘していたが、旧事務局長の説明では、会をつぶしに来るような人が議決権を持っていたら困るから、ということだった。
 旧事務局長が、ワンマンで仕切っていた会だったが、事務局長が変わったので、役員会議では体制について話し合い、この二重構造についても解決しないといけない、と話し合ってきて、継続審議事項だった。しかし、旧事務局長を支持する人で議決権のない会員であった人は、「この二重構造を旧事務局長が変えようとしていた」と言っていた。呆気にとられるようなストーリーに変わっている。

 すべてが、唖然となるようなストーリーに作り変えられている。これはよくあることだが、時間が経つと、ストーリーは変容していくのか。

 「数の暴力」を言い立てる人は、自分の主張が正義だから、それが通らないと、通らない世界は、すべて不正義な権力の世界になる。まさに昨日の友が今日の敵となっている状態だ。

 残念ながら、人権関係の運動では、この手のトラブルが多い。無理を通そうとする人の寄って立つ論理は、常に弱者の論理だ。弱者であることを武器に、攻撃を仕掛ける。自分の立ち位置を、弱者の位置に据えて一歩も動かない人は、自分が強者になる可能性というものから目をそらし続ける。誰でもが、弱者にも強者にもなり得る。「女」は、男性優位の社会の中で劣位に置かれている事実はあるが、また、違った局面では、いつでも強者の立場、上位の立場に立ちうる存在でもある。だからこそ、常に被害者であるわけではなく、加害者となる場合もあるのだ、ということは、フェミニズムの文脈でも、とっくに検証されてきたことだ。

 フェミニストを名乗る人にもいろいろいるが、常に「弱者」であることをアピールする人は、卑怯な気がする。常に、「被害者」になろうとする人は、その弱者の論理を歪めて利用する卑劣な人だ。「被害者」の皮をかぶった「卑怯者」だと言いたいくらい。

 昨日は、嫌悪感でいっぱいになった。ただ、その相手に堂々と抗弁した人は、ただ一人。ふだん、労働組合で闘っているから舌戦に強い。それに、自分のやっていることに自信があるから、ひるまない。
 実は、私はひるんでいた。なぜなら、相手の卑劣さ、浅はかさにはうんざりしているが、でも、その人を排除する(排除したい気持ちはわかるが)団体側の中枢の人の強引なやり方にも批判的だったからだ。実際、それについては、以前から意見を表明していた。しかし、その総会の場で、その反対者を勢いづかせることはしたくないし、その人は、私が団体のやり方について批判すれば勢いづいて、私の意見に乗っかってくるのは目に見えていたので、そこでは黙っていた。しかし、強引にその人の意見に振り回されないように会議を進めるやり方も、心地悪かった。一人、その日欠席した役員がいたが、実は私も出来ることなら欠席したかった。しかし、万が一、反対派がおかしなことをやり出した時に、役員が少ないのはまずいだろうと思って、気分を奮い立たせて出席した。
 案の定、その人が、わけもわからず味方についた議決権のない会員を伴って現れたとき、茫然とした。よくもわけがわからないまま、味方につくものだとは思うが、私も友人に「弱者」として頼られたら、守らないといけないと思って、同じ行動をとるかもしれない。

 まことに難しい問題だ。同じ志を持ち仲間であった人たちの分裂は悲しい。その日の夜、打ち上げに行った席で、「相手についてしまった、議決権のない会員二人は、これまで仲の良かった友だちだった」と嘆いている人たちを見て、フェミニズムもここまで来たのだ、と思った。もう、同じ敵と対峙して、一枚岩のように闘っていた時代とは違う。来るべき時代が来たのだろう。

 しかし、それにしても、この団体の騒動は、私の目からは、ヘゲモニー争いに負けた旧事務局長が、時代の変化に対応できず、自分の中で切り替えができず、自分は被害者だと主張して往生際悪く、外でおかしな画策を続けている図に見える。
 私が役員になったのは、その人に頼まれたからだが、その人にとって、頼みにしていた私にも裏切られた感が強いのだろう。しかし、筋の通らないことを指摘するのも、友だち甲斐だと思うのだが、その人は、自分のすべてを受け容れて支持するイエスマンしか要らなかった、ということのようだ。そして、それもまた、カリスマと呼ばれるリーダーにはありがちだ。こういう人は、回りが自分の言うことを聞いているうちに、自分の「正義」を相対化できなくなってしまうのだろうか。そして異なった言い分を抑え込んでいくうちに、いつの間にか、自分の回りには、イエスマンしかいない、という事態になってしまう。
 その団体でも、結局、旧事務局長側についたのは、実は旧事務局長自身が、決して頼みに思っていない、実は重要視していない、人たちだけだった。
 

攻撃の真相を考える

2011-01-11 10:45:43 | 組織・集団
 何度も何度も自分が管理職として苦しんだ組織のことを振り返るのだが、あの時の私に向けられた攻撃は、ほとんど、攻撃者には自覚のないことだったのだろうと思う。

 私が行く前から、組織内部は、荒れに荒れていたようだ。働いている人たちは疑心暗鬼になり、お互いに優しくはなく、多くが有期雇用の中で自分の仕事は大丈夫なのか、という不安に駆られていたようだ。多くの人が私を知らない中で、私のことを古くから知ってくれている人がいたことも、私を救ってくれたと思う。その人が私と仕事をして、この職場で初めて、仕事をして楽しいと思った、と言ってくれた。その人が、私のことをよく知らない人にも、伝えてくれた可能性はある。さらに、私が就任してしばらくして、声明のようなものを書いた。一部と二部に分けて書き、一部はその職場のミッションについて、二部でその職場内の民主化を目指すことを書いた。職場内の民主化はミッションと密接に関わりがあるので、まず「隗より始めよ」の気持ちで書いた。すでに、なんとなく、古くからいる正規職員の非正規職員への、そのような職場ではあるまじき圧力や力関係のありようが見え始めたこともあり、正したいと思って書いた。非正規職員のよくものを考える人たちは、その私の文書を評価してくれた。「そのお立場でよく、ここまで書いてくださいました」と礼を言ってくれた人もいる。
 が、しかしこれは、正規職員には不評だった。このことで、正規職員は、私への締め付けを始めたような気がする。今思えば、それは、彼女たちの不安感の表れだったのかもしれないと思う。非正規職員の方が数が多く、組合も結成されているから、しかも有能な人も多いから、何か脅かされる不安があったのかもしれない。それで、この正規職員たちは、非正規職員をなんとか押さえこんでいたのに、非正規側に立つトップがやって来たので、泡を食ったのかもしれない。この人たちの私への攻撃の仕方は、今思えば尋常ではない。早急に、潰しておかねば、というような緊迫感があったような感じだ。
 私には、わけのわからないこの人たちの攻撃は、上司とは言えど外部からやって来た新参者に対する「いじめ」そのものであったが、本人たちには、言葉には出来ない、すなわち正式の会議では口に出来ない、既存の秩序がかき乱される不安でたまらなかったのかもしれない。ただでさえ、非正規職員が組合を結成していることで、管理側は難儀していたようだから、そこへ持ってきて「組合側」(と、かれらは呼んでいたようだ)の上司がやって来たのだから、悪意や敵意ではなく、それ以上に困る事態を避けたかっただけなのかもしれない。

 今の私にすれば、外部から事情を知らない人間を連れて来て、トップに据えるようなやり方自体に問題があったのだろうと思う。最初から苦労をして現場を支えてきた人が、順調に昇進するようなシステムでなければ、その場の問題にうまく対処できない。
 もちろん、その職場で醸成された文化というものを一新するには新しい風を吹かせる必要があるのだが、そのためには、せめて、指示系統がきちんと機能する組織としての体をなしていないと、力関係が支配するだけの任意の集まりになってしまい、新しい風を吹かせに来た人間は、ただいじめにあって、排除されてしまうだけだ。
 私がいた職場も、まさにそういうところだった。生真面目に組織の職務分掌に従い、指示系統に則って仕事をしようとした私は、その裏の指示ルートにかきまわされてしまった。

 が、この人たちに、その自覚はないのだろう。もともとその力関係が支配する中で仕事をすることが、その職場のあり方であり、そうして長年やってきているのだから、他に方法はない。そして、自分たちが苦労して築き上げてきた職場の秩序を壊しに来たように見えた私の影響力を、極力おさえたかったのだろう。それも、正式の会議の場では公言しにくい類のことだということはわかっているので、(非正規の○○さんが生意気だ、とか、自分が非正規に舐められたくない、とか、、、)、私が仕切る会議では話題にするわけにはいかない。おのずと、陰で画策をするという、私から見れば極めて奇妙な歪んだ動きが作られていったのだろう。たぶん、この人たちは、良かれ、と思ってそうしていたのだろう。私のようなトップに好きなようにやらせていれば、ろくなことはない、非正規がますます力を持つ、だから、自分たちでなんとかうまく動きを変えよう、ということにもなったのだろう。

 私の側からは、裏で画策する卑怯な行為の連続であり、権力を恣にするとんでもない監督職の堕落した行為であったが、本人たちにはそれなりの理由と理屈があったのだろう。が、正面切って私に言って来なかったのは、私の理論には勝てないとわかっていたからだ。「理想と現実は違う」というような、私の親たちが言っていたようなことを口にする以外に、言い分は出てこなかった。それでも、「理想と現実、というその二元論がおかしいだろう、現実を理想に近づけるのが我々の仕事だろう」と私が言えば、もう言葉をなくすこの人たちは、私との議論は徹底的に避けた。議論できないとなると、他の方法、すなわち、裏の画策でなんとか自分たちの思うようにしようとした、というのが、その人たちの問題性なのだが、古参の者が情報も力も持っていたので、その職場ではそれが可能だった。明文化された職場内の指示系統よりも、そっちが機能したのだ。
 そして、この人たちに、何の呵責の念もない。自分たちが間違っていたとは、つゆほども思っていない。
 まともに議論をすれば、この人たちを論破することは簡単だったが、決して言語化されない不思議な感情のねじれが介在する奇妙な集団慣行の中で、私が生き残る道はなかった。

 私には卑怯な攻撃行動の数々としか言いようのない行為の連続だが、本人たちは、攻撃を仕掛けた意識は一切ないだろうと思う。
 これは、いつも思うことだが、DVの構造とよく似ている。DV夫の大半は、自分が暴力をふるったとは思っていない。妻があまりにも自分の気持ちをふみにじるので、つい、手が出てしまったことはあるが、自分こそ妻から精神的暴力を受けた被害者だ、と思っているケースが多い。そして、よくあるのは、妻に踏みにじられた自分の気持ちというのは、「妻が自分の気持ちを汲んで自分の思う通りに行動すること」だったりする。それをしないから「妻が悪い」のだ。
 私もまた、正規職員の「思い」を汲んで、正規職員の思い通りに行動しなかった「困った上司」だったのだ。だから、あの手この手で思い知らせようとしたが、最後には、出て行ってしまって、さらにかれらを困らせた、ということになるのだろう。

 この、「違い」をきちんと議論しない問題性をどうすれば克服できるのか、私にはまだまだわからないことだ。