凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

雇用の問題

2010-02-07 16:30:09 | 考え方
 嘗て、知人の会社で、人を雇用したとき、トラブっていたことを思い出した。今、私の関わるNPOが労働争議をかかえてしまったことで、思い出したことだ。

 知人の会社は、私も立ち上げのときに関わり、その後も、何度か、いっしょに仕事をした。私自身は、経営に参画しなかったが、それは、当時、とびぬけて若かった私には、資本金を負担する力がなく、経営側に立つことはできず、他へ稼ぎにいかないといけない状況にあったためだ。そこで、時折、頼まれた執筆の仕事などを引き受けたり、友人としてのつきあいを続けていたが、その頃、「どんなに忙しくても、人は雇用しない」と、彼女たちは言っていた。で、ワーカーズ・コレクティブとしての動き方を続けていたのだが、彼女たちメンバーがそろそろ引退を考える年齢にさしかかった頃から、一世代、若い人の雇用を始めた。
 あるとき、その経営者の一人が、私にそっと嘆いた。やはり、私と同様、外部の友人の一人だった人を雇用したのだが、その人が「仕事ができないのだ」と。私は、そこの仕事を一緒にしてきて、そこの仕事の性質をよくわかっていたが、おそらくその人は、もっと違うタイプの人だったのだろう。その会社は、行政系の仕事を請け負うのだが、行政系というのは、独特の仕事の性質を持つ。その雇われた人は、とても活動的で、自分のカラーの強い人で、その会社の求めるタイプの人とは違ったのだろう。私に嘆いた経営者は、「なぜか、あの人の場合、どんな仕事をするか、全然試すこともしないで、雇ってしまったのよね」と。

 が、その雇われた方は、自分の能力に自信があるから、給料の低いことや、自分の仕事ぶりに対して評価の低いことが我慢がならない。結局、さんざんもめて、決裂したようだ。
 
 その時も、ちらりと思ったのだが、今回のNPOの争議でも思う。どちらも使用者側をよく知っているのだが、女性の労働力を搾取するような人たちではない。むしろ、女性の労働問題に、誰よりも、敏感な人たちでさえある。だからこそ、共に、がんばっていこう、と、仲間である女性たちを雇用したのだろう。が、その雇用した人が、使用者側から見て、「仕事ができない」人の場合、どうしたらいいのだろう。
 
 このたびの労働争議も、使用者側の人は、ほとほと、疲れ果てている。
 ずっと、話し合いをしようとしてきたのも知っている。が、仕事を頼んでも逆に叱りつけられ、言うことをきいてもらうどころか、反対に指示される始末だったのも、聞いている。 そして、それは、私にもわかる話だ。権力主義が嫌いな人は、自分よりも、立場の強い人の方に、強く出る。雇用される側であれば、使用者側に強く出る。結局、一般の社会とは、逆転現象が起こる。現場のことをよく知っているのは自分たちだ、という自負があったりするので、管理職の言うことをきいてくれない。むしろ、管理職が、気を使って、その指示で動くようなことになる。
 私も現場の人の裁量を強くすることについては、賛成だ。が、それは、組織としての指示系統がきちんと認識されていなければ、成り立たないのだろう。現場の裁量権は、裁量権を与えた側の権限に裏付けられている、という認識が、なぜ、忘れられるのか? あの人たちは、頭が悪いの? 裁量権が与えられているから、といって、何もかも自分の権利だと思うほど、組織というものを理解していないの?

 私の周辺の使用者は、使用者側に立つのも初めての、NPOで手弁当で、社会的に意義のある活動をしようとしてきた人たちだ。上からものを言う、というより、仲間意識でやっていこうとしてきた人たちだ。
 が、それは通用しなかった。 
 自分の利益ばかりをはかる私企業の社長も、組合などうまくあしらってしまおうとする公務員の役職者も、自腹を切ってボランティアで動いているNPOの活動家も、「使用者」であることに変わりはない。労働者は、使用者に対して、相手の事情など斟酌せずに、ただただ、自分たちの権利を主張すればいいのだろう。
 
 それなら、「仕事のできない」従業員をどうすればよいのだろう? 雇ったが最後、どれほど、不具合のある従業員でも、給料を払い続け、雇い続けなければならないのか。

 人を雇用することのむずかしさ、社会的責任、などをつくづく感じる今日この頃。資本制社会に生きることを、働いてその対価として賃金の支払いを受け、支払われたお金で商品を買って生活をすること、という労働者としての立場から見てきたが、その労働者の雇用を通して労働者の生活資金を供給する側に、自分も立つかもしれない、というような時代がくるとは思わなかった。雇用して、その人の生活が成り立つようにすることの責任、ということを考えると、資本のない我々は、雇用してはならない、ということでもある。

責任ということ

2010-02-05 11:00:46 | 組織・集団
民主主義は、構成員が、自立し、責任をとる姿勢ができているところでしか、成り立たない。責任をとりたくない人の群れでは、民主主義が根付こうはずがない。

 「平等」を教えられ、誰もが平等に幸福を享受できると、私などは思いこんできた。それぞれが多様であっても、それぞれが幸福感に満たされている社会。いつから、そのような幻想を持ち始めたのか。否、理想はそのように掲げられて、悪いはずがない。そうあるべきなのだろう。
 ただ、そういう社会を実現するためには、どのような努力が必要なのか、私たちは何をしないといけないのか、社会の成員としての責任を、あまりにも教えられなかった気がする。不当な扱いには、抗議する。満たされないことには怒りの声を上げる。それも、他人の不幸には目もくれず、自分自身が満たされない時に声が上がる。
 何かが違う。社会の成員としての責任というのは、自分のためだけに行動を起こすことではないだろう。

 まだ若い頃、反戦市民デモに参加して、その数の少なさに、こんなものか、と思った。が、それとは日を置かず、消費税引き上げ反対集会が行われ、その数の多さに驚いた。またもや、こんなものなのか、と思った。その後、預金額の目減りに対して、抗議している人をテレビで見て、なんか、脱力してしまったのを思い出す。

 社会全体に対して、構成員が責任を感じない社会。自分のところに不利益がくると、怒り狂うが、それ以外のことについては、すべて、他人任せの人々がこの社会をつくる。

 「男女共同参画社会基本法」について、人に教えるとき、いつも私は、「共に責任を担うべき」という部分を強調する。これまでの、女性たちの動きを見ていると、権利は主張するが責任を担う気は全くない、というような人が多かった。それでは、まるで子どもだ。自分の利益につながることしかしない、しんどいことは避けて通る、、、
 たぶん、戦前の非人道的な政策の反動で、民主主義が権利の獲得と保障だけのもののように、錯覚されてしまったのだ。民主主義の成立には、自らが責任を持つことだという根本が抜け落ちている。そして、それが教えられてこなかった。
 権利が保障されず、常に科は弱者に押しつけられてきた過酷な時代が続いたので、ずっと弱者であった人々に、「責任」を問うのは、憚られてきたのだろうか。
 が、それなしでは、民主主義は成り立たない。

 男女平等も同じなのだ。男性と同じ権利を主張するということは、男性と同じ責任も担うということなのだ。責任は男性に、権利は女性に、というような勘違いされたフェミニズムがまかり通ってきて、フェミニズムが誤解されてきた。フェミニズムが、大衆化されていく過程で、とても浅はかな思想のように誤解されてしまった。確かに、責任というものは、担い慣れていない人には、わけのわからないもののようだ。が、自分の発言に責任を持つこと、自分の責任は自分でとること、自分の行為、発言、立場は、他の誰でもない、自分のものであることを自覚することだ。

 そういう意味では、私も自分の影響力をわかっていないことが、これまで多々あったと思う。私だけではなく、通常、女性は、重い立場に就くことが少なかったので、自分の影響力を過小評価し過ぎてきたかもしれない。
 以前、勤めていた職場で、私が、具体的な企画以前の、単なる希望や理想を折に触れて語っていたら、「どこまでやったらいいかわからないので、疲れる」と、働いている人たちに言われた。私は、同じような立場で、その施設をどのようなものに仕立て上げていくか、希望を述べあっているつもりだったが、それをその人たちは、「指示」と受け取っていた。私はそれを聞いて驚いて、具体的な企画と指示は、企画会議を開いて決定するようにし、それ以外のことは、単なる思いつきを語り合っているだけだから、決定事項ではない、ということを明確にしたことがある。自分の立場に気づかされた初めだった。

 力がない間は、責任をとりたくてもとらせてもらえない。民主主義社会は、基本的に誰もが対等であり、責任も対等なのだという原則がある。対等感がなければ、責任感も生まれないだろう。
 よく、子どもの頃、大人たちから、「自由の履き違え」という言葉を聞かされた。意味がわからなかった。今ならわかる。そして、大人たちは、子どもたちに、自由には、責任が伴う、ということをきちんと教えないといけなかったのだ。無人島ではないこの社会で、人々と共存していくためには、自分の自由が他人への侵害にならない、という鉄則があるはずだ。他人の権利を脅かさない自らの自由、それは、社会を担う成員としての責任なのだが、他方で高度経済成長が進む中で、「自由」「幸福」のイメージが変容していった。そして、何よりも、子どもを導く大人たちが、自由の意味も、責任の意味も、そして、日本社会がどこに向かって進めばよいのかもわかっていなかった。それまでの締め付けられた不幸な社会のツケがきたのか、社会の対等な構成員としての資質を養っていなかったのだ。 

 だから、日本の民主主義はこれからだと思うのだ。過去の不幸な社会のツケが払われてしまった世代が、成員として、この社会を担う。やっとのことで、ここまできたのだ。

満たされない感じ

2010-02-04 22:13:07 | 考え方
 子どもの頃、よく大人から言われた。身の程を知れ、とか、分をわきまえろ、とか。その度に、不本意な思いを抱いたものだ。なぜ? あの人に与えられている物は、自分にも与えられて当然ではないのか。他の人に可能なものは、自分にも可能なのではないのか。「身の程」とか、わきまえなければならない「分」という観念は、戦後の民主教育を受けた私には、もはやそなわっていなかった。
 思えば、今は、私同様、多くの人々が、身の程知らずで、分をわきまえなくなった時代なのかもしれない。誰もが教育を受ける権利を持ち、働く権利があり、健康で文化的な生活を送る権利がある。一部の上流階級の子弟だけが、高等教育を受けて、知識や情報を独占していた時代とは違う。誰もが、社会でバリバリ活躍する可能性を秘めており、社会の良いポジションに就く道がある。それなのに、そのようになっていないとしたら、何か理不尽なことが自分に起こっているせいだ、と人々が思ってもおかしくない。親の扱いが悪かったのかもしれない、学校の先生に恵まれなかったせいかもしれない、世間やまわりの「見る目」がなさ過ぎるのかもしれない。とにかく、人は、誰でも、可能性を秘め、権利を持ち、いくらでも希望を現実に変えられるはずなのだ、という神話が生まれてはいないだろうか。

 人は、通常、手の届かない物を所有できないことに対して、諦めを持つ。が、手にはいったかも知れない、あるいは手に入ったに違いない物を所有できていないと、理不尽に感じるのではないか。不当だと感じるのではないか。くやしさ、うらめしさ、怒りの感情がわくかもしれない。

 今はひょっとすると、そういう時代なのだろうか。多くの、望み通りに生きていない人々が、不遇感を抱いて生きている。所有できたはずの良き物を不当に収奪された不満をかかえているような気がする。
 自分はそれを所有するに値すると、民主主義社会は教えてくれた。いろいろな物が手に入る。自分にも、手に入る。はずだ。が、今、自分はそれを手にしていない。魅力的な物をたくさん目の前にちらつかせ、「手に入るよ」と、甘い言葉を耳に吹き込みながら、実際は、十分に与えなかったのが、戦後日本の社会ではないのだろうか。自分はそれに値する、なのに、それを所有していない。なぜだ! 当然のことがかなえられないと、人は、怒りを感じる。不当感に圧倒される。人々の鬱屈した不満を醸成し、意地の悪い日本人のパーソナリティをうみだしてきた根底には、この、不満足感、不充足感が満ち溢れているように思える。いじめ、モラハラ、パワハラ社会は、そうして、形成されている。

 たまりにたまった憤懣は、お互いを巻き込みあいながら、あちらこちらで、幸せでない人々の群れをつくる。そして、ここまで、人々の要求水準が上がり、達成欲求が大きくなり、与えられない不満が政治や体制への攻撃にかわりはじめるとき、あるいは、新たな人々の模索が政治家の手に負えなくなると危惧されるとき、使われ始めたのは、「自己責任」ということば。
 戦後の民主主義の無責任な喧伝を顧みることなく、人々の責任に転嫁して、体制としての努力を放棄する。
 この国で、民主主義が成功していないことを、はっきりと認めるべきではないのか。民主主義が、ただのお題目であったこと、国民を、民主主義社会を担えるだけの自立した個人に育成することをさぼった、あるいは恐れて回避してきたツケが、今、露呈しているのではないか。日本の民主主義は、これからつくるのだ、という新たな宣言が必要な気がする。そして、人々が、真の民主主義社会を担うことができるように成熟するのは、これからなのだ、ということを認識するべきなのではないか。いったい、何を恐れて、それが言われないのだろう。この国は、まだ民主主義ができてはいない、という明白な事実が。


人との関係は難しい

2010-02-04 20:38:47 | 人間関係
 人間関係の難しさに、頭をかかえる。私は、これまで、あまり人とトラブらない方だったのだが、それでも、公的なポジション争いや訴訟という大騒ぎに巻き込まれたり、職場のパワハラ問題にからんで、管理職だったために、矢面に立たされることがあった。やっと、それらの魑魅魍魎のような世界から離れて、平和に暮らせると思っていたが、相変わらず、私のまわりは、いろいろな新たなトラブルや問題が生じて、嵐のようだ。ずっと仲の良かった人たちがつきあいをやめたという報告を聞いたり、長年信頼し合っていた友人の間に亀裂が入っていたり、私の窮状を共に支えてくれた人たちが仲たがいすると、どうしてよいかわからなくて、右往左往してしまう。

 何が問題なのか。

 多くは、悪意や敵意ではないところから発している。悪意に見えたとしたら、相手への悪意よりは、過剰な自己防衛だったりする。自分を守るのに、必死なのだ。で、相手がどのような迷惑を被るかが見えなくなっている。また、敵意に見えるときは、確かに攻撃ではあるが、それも、その人のかかえている問題から発している。その人には、正当防衛に近い感覚がある。相手が悪いから、応酬したのだというような理屈が成り立っている場合が多い。
 ま、どちらにしても、そこに居合わせた者には、はた迷惑この上ないのだけれど。

 そして、多くの人が、人間関係で悩んでいる。

 私は、八方美人は好きではない。どこにいても、風見鶏のような人は信用できない。が、感情の行き違いに、いちいち、反応したくもない。ムッとしているようだから、ちょっとさわらないでおこう、というような配慮はする。「ムッとされた」と、気を悪くしていると、関係がぎくしゃくしてくる。相手の虫の居所の悪い瞬間に居合わせただけだから、速やかにそのことは忘れてあげる方が、うまくいく。いわば、相手の間の悪い瞬間なのだから、相手自身も、その状況から早く抜け出したいと思っていることの方が多い。だから、こちらも早く忘れてあげるのがよい。
 機嫌の悪い相手に、同じように応じていると、相手は、自分の不機嫌を棚に上げて、こちらの態度が悪かった、と言い出しかねない。その前の自分の不機嫌な態度は無意識だったりすると、自分の方が感じの悪い態度をとられた被害者だと言いかねない。多くは、一瞬の不具合だ。とにかく、その不具合から、早く脱しよう。

 私は、かつて、信頼している人から、相手の誤解によって、電話でいきなり怒られたことが2回ある。あまりのことに呆然としながら、事実を一生懸命訴えるが、相手はしばらく怒っていた。怒りの言葉が止んだ時、私は、自分がそこまで叱られないといけない何をしたと言うの? と問いなおした。相手は、自分の方の間違いに気づいて、謝ってきた。もちろん、わかってくれたら、それ以上に何かを言うつもりはない。が、やはり、長い間、心の中に、しこっていた。
 他人の怒りをもろに受けるのは、相当ダメージが大きい。特に、信頼している人からの攻撃はつらいものだ。が、感情は誰にもあるもので、これは避けられない。自分にもあるものだ。感情は、一時的に高まることがある。ネガティブな感情の高まりは、どれくらい早く、広げずに処理するか、がポイントだろう。瞬間的なトラブルは、避けられる。

 が、恒常的に、不具合が続くこともある。それは、それぞれの「やり方」の違いなのだろう。私は、今でも親交のある人と、一緒に仕事をしたとき、実は二度と、その人と仕事はするまい、と心に決めた。平気で前言をひるがえす(前に言ったことを忘れたのか?)、どう見てもその人のミスに見えるのに、こちらのミスのように言う(それは、もう一人、一緒に仕事をしている人も、「あちらのミスではないのですか?」と首をひねっていた)、ものすごく仕事が遅れる、、、そういうことが多く、二度とその人と仕事をするまいと決心している。が、プライベートの遊びなどは、いつも機嫌よくつきあっている。仕事については、たぶん、自分の方針があって、何か、こちらには理解できない流れがあるのだろう。が、強く言いたてるその人に異議を申し立てると、ものすごく腹を立てそうな人なので、私はその人とそういうつきあいはしない。プライベートでつきあっている限り、とても親切で温情のある人だ。私は、その人の、その良いところとつきあっていきたいので、仕事については見切りをつけている。その人は、今も、仕事関係のトラブルは絶えないように見える。そして、愚痴を聞くこともあるが、いくら聞いても私にはよくわからないことで息巻いている。何かしら、その人の仕事の流儀があるらしい。が、仕事が途中でおかしくなるのは困るので、私はもう、そのあたりは近づかない。
 おかしくなると、そそくさと逃げる。何か、その人と違うものは感じるが、しかし、良いところもたくさんある。

 たぶん、人はそういうものなのだろう。その人の良いところを引き出せるか、悪いところを引き出してしまうか、ということも人間関係の作り方にはあるのだろうな。
 うまくいかない人間関係は、お互いに、悪い部分ばかりを引き出し合ってしまうような、そういうめぐりあわせになる。呼吸が合わない、というのだろうか。
 良い人間関係は、互いに相手の良いところを引き出し合っている。人と付き合うときは、相手の良いところを引き出せる関係の作り方を心掛けないといけないのだろうな。

 とは言っても、そのようなことは、全く通じない、別世界の人のような人もいるけれども。