凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

私の問題なのだろうか、やっぱり。

2015-04-22 13:54:27 | 自分
 子どもが小さい頃、私が高熱を出した。激しい頭痛を我慢しながら、子ども達にご飯をつくり、「自分たちで食べて」(もう小学生と幼稚園の子どもだったので)と言い置いて、自分は布団を敷いて、隣の部屋で寝た。すさまじいしんどさだったのだけは覚えている。後で熱を測ったら、41~2度あった。

 その時の記憶にあるエピソード。息子が枕元に来て、何か用事を頼んできたのだったと思う。「もう、お母さん、死にそうなのよ、勘弁して」とうわごとのように言ったのだったと思う。何もしてくれなくても、せめて少しくらい心配してよ、という気持ちで「お母さん、死んじゃってもいいの?」とか何とか、言ったのだと思う。息子は向こうへ行ってしまった。ただ、私はじっと横になっているしかなかった。
 すると、息子が目に涙をいっぱいためて、またやって来た。ちょっと言い過ぎたか、とかわいそうになった。大丈夫よ、と言ってやらなければと思った。すると、息子がこう言った。
「お母さんが死んだら、誰が僕らのご飯をつくるの?」
自分のリアクションは覚えていない。その息子の言葉で、記憶の場面が凍結している。

 親しい友人がいつも言う。私が弱ったり、病気がちだったりすると、決まって言うのは、「あなたが死んだら、私はどうなるの?」「一人で生きないといけないの?」と。
だから、長生きしてくれ、と。どうやら、私が手厚く看病をして、心静かに満ち足りて、彼女が旅立つのを見送らないといけないらしいのだ。

 私にはずっと理解不能の考え方だ。先に死んだ人をかわいそうとは思ってきたけれど、一人残される自分がかわいそうとか、そうなったらどうしよう、とか思ったことがない。と言うより、いつも一人の気分でいる。

 母だけでなく、こういう人がまわりにいるのも、やはり私の問題なのだろうか?
どうも私は、人の甘えを引き出してしまうらしい。

 私に面倒を見てもらおうと思う人はまわりにいるが、私の面倒をみようという人はいない。また、私も誰かに面倒をみてもらおうと思ってはいない。母が亡くなったら、一人でどこかに行こうかとさえ思っている。子ども達の負担にならないように。

 嘗て、父親の墓前で自殺したタレントがいたが、その人のことを思い出す。介護ウツだったと言われている。そして今、私自身がそうなりそうなのだ。もう、自分の人生を生きる意欲がわかない。母に捧げるしかない。そして、それが幸せなこととは思えない。もう、終わりなのかなと思い始めている。

 子どもの頃から感じていた孤独と悲しみが、結局、人生の最後まで私の道連れなのかと思う。
  

権威に逆らうということ―「ある人」に嫌われたらしい話

2015-02-25 12:05:14 | 自分
 社会は、細かなコミュニティに分かれているので、社会全体を敵に回したとは思っていない。私の活動範囲の小さなコミュニティのことだ。しかし、社会全体に連動しているのも事実なので、コミュニティ内にとどまっている小さな出来事とも思いにくい。

 力を持っている人が力を発揮する。その時に、過去に逆らったかわいげのない私は、そういう力のある人から、第三者からはそれとわからない制裁を受ける。
 
 「ある人」は、ある著名な人に帰依し、その人が亡くなった後の遺産を任されたようで、コミュニティに数多ある小グループの活動基金に充てることにした。多くのグループが活動資金を必要としていて、本の出版、連続講座の実施、意識調査プロジェクトなど、さまざまな企画を持ち込んで、その基金からの助成金を獲得しようとする。
 私が所属するあるプロジェクトは、その選から漏れた。申請を担当したプロジェクトのメンバーは、「力足らずですみません」と皆に謝っていたが、私は自分が原因なのではないかと思っている。
 「ある人」は、私が直接、攻撃したわけではない。ただ、その人が懐に入れてかわいがっていた人を、私が職務上、問いただす羽目になった。問いただされた人が、自分になびかない私を敵視したために、どのように私のことを「ある人」に伝えたのかはわからないが、とにかく私はたぶんその「ある人」からも敵視されたようなのだ。もともと、その、「ある人」は私には気が合わないタイプの人だ。官僚的で生硬で、自分だけが正しいと思っているようなところがあり、しかも各界の超一流の人になびいていくタイプの人だ。まぁ、自分を一流だと思っているから、一流の人になびいているだけなのだろうけれども。で、そういうタイプの「ある人」に、私自身、初めから好感は持っていない。しかし、敵とも思っていない。仲良くならないタイプの人にすぎない。

 が、どうも嫌われ、悪口を言われているらしい、ということはなんとなくわかってきていた。そして、上記のプロジェクトに私が参加していることをその「ある人」は知った。私は表には出ていなかったが、そのプロジェクトで地域の報告会議を行った時、その「ある人」がやって来たのだ。私は、立って挨拶に行き、ご無沙汰していますと頭を下げ、その人はその時はとっさのことだったせいか、「あら~」とにこやかだった。 
 が、会議の後、その人は素早く立ち去り、その人の連れが、ばつが悪そうに私と少し話した。
 勘の悪い私でも、その人に快く思われていないことはわかった。

 そして私の所属するプロジェクトの基金への応募。通らなかった、ということを聞いたとき、私のせいだろうと思った。ただ、そのことはメンバーには言っていない。こういうことを説明すると、相手の悪口を言わねばならない状況になりそうで、いやなのだ。が、再度、応募した時にまた落選すれば、「なぜだろう?」ということにもなるだろう。なぜなら、その基金の性質から考えても亡くなった人の活動テーマから考えても、その「ある人」の活動範囲から考えても、どう考えても、私たちのプロジェクトは最も適しているテーマを持っているからだ。そして、いささかの偏りもなく、ニュートラルに事が進められている。ほんとのところ、通らないのがおかしいのだ。ただ一つの理由は、私だ。

 しかし、人というものは、どうしてこうも、私情に揺さぶられ、私情に身を任せて、公的な動きをつくるものなのだろう。
 考え方は違う、そのやり方はいやだと反対を表明する、その点については私はあなたについていかないと言明する、それでもその部分を除いて、私は明確に人を肯定するし、その相手の誠実さを疑わない。
 私はその「ある人」のことを、正直で悪いことは一切しない人だと信じている。策を練って、人を陥れる人ではないと思っている。でも、好きではない。尊敬もしていない。そういう人間関係というものはたくさんある。こっちではダメだけど、あっちではしっかりやっておられるから、良い仕事をされるだろう、などと評価はできる。
 そういうことは、そんなに困難なのだろうか。

 私は人の好悪が激しくないとは思う。そのせいか、こちらはそうでもないのに、異様に好かれることがある。異様に好いて来る人は、私をとらえて離そうとしない。自分だけのものにしたがる。たぶん、私の淡白さが、そういう人たちには心地よいのだろう。人の好悪が激しい人同士は、異常に仲良しか、うんと仲が悪いか、だ。
 私の目には過剰に見える。

 しかし、この私の線の引き方、距離の取り方、基本的にニュートラルな位置どりは、過剰な人たちから見ると、敵に見えたりずるく見えたりするのかもしれない。
 もう少し、理性的に、論理的になろうよ、と言いたい状況が展開している。

 が、そうして権力者にも逆らって、嫌われて、片隅でひっそりとしている私の生き方が賢いとは、どうも考えにくいのも事実。

愛の受容器

2014-01-18 23:10:17 | 自分
 愛情を受け取るには能力が要る。いくら愛をかけても、かけた対象にそれを受け取る力がなければ、愛は空振りだ。

 私の話だ。私には、人に愛される、という自信がない。それもまた、生育環境に起因するものなのか。何度もここには書いたような気がするが、私は、親から、「届いたのは、注文の品とは違った」と不満を言われ続けたような印象がある。親が望んだのは、もっと違う子どもだったのに、お前が来てしまった、返品がきかないから家に置いてやるが、ほんとうにお前は期待外れの子だ、と言われ続けた記憶が非常に強く残っている。「気に入らない」「気に入らない」と文句を言われ続け、私はどうしたら「良い子」になれるのかがわからないまま、年頭の祈りは、いつも、「良い子になれますように」だった。

 今思えば、父は全く無意識だったのだろう。彼自身、どのような子どもを望んでいたのかさえわかっていなかったと思う。ただ、私に驚き、想定外のことに出会うたびに、ただただ無意識に無自覚に、不満を垂れ流していたのだ。そして、私はそうした言葉の一つひとつを聞き流せない状況に置かれていた。他にきょうだいのいない私は、親とはっきり向かい合う位置に置かれ、自分への不満を聞き続けることになったのだ。時には、父は私を自分の前にきちんと座らせ、襟を正して聴くように命じ、延々と、いかに私が父の期待を裏切り、望ましい子どもではないか、ということについて説教を垂れた。
 親とはどういうものか、子どもとはどういうものか、女(の子ども)という存在がどういう存在か、そのようなことを一切問おうとしない多くの昔の親は、子どもに対して実に不躾で無礼極まる態度をとり続けていたのだろうが、私の場合、昔の親子であるにもかかわらず、一人っ子だった分だけ不運だったのだろうと思う。

 母もまた無意識の人だった。子どもに対して庇護者になれず、自分自身が少女のように、夫から庇護され、夫に称賛されることを願い続けた人だ。だから、彼女の眼中に私と言う存在はないに等しい。自分の卓越した美貌や女らしい弱弱しさを強調したい時に、私は母を引き立てる役割として機能した。

 「美女と野獣」のように周りから言われがちだった母と父。そして、母はさもうれしそうに、「あんたはお父さん似」ということを言い続けた。だから、子どもの頃の私の自分イメージは、『ノートルダムのせむし男』のまさにせむし男であるカジモド。私にとって、エスメラルダは、憧れても憧れても、少し情けをくれるだけの母―あるいは世間―だった。

 大学生の頃、隣家の幼児が私の家に遊びに来ていて、母と私を見比べて、突然その子が、「おねえちゃんの方がきれい!」と言った時、私はものすごくあわてたのを覚えている。そんなはずがない、何を言うの? とんでもない、という私の狼狽をよそに、母は泰然として、「ふふん、それはそうや。おねえちゃんの方が若いもん」と言い放った。まさに言い放つ、という感じだった。私は天地がひっくりかえってもここまで驚かないだろうと思うほど驚きあわて、母が憤怒で爆発するのではないかと思ったが、母は冷静だった。それでも不気味だった。あの子は間違っている、何を間違ってあのようなでたらめを言ったのだろう、と思った。
 その後、母の意趣返しはなかったが、事あるごとに、「若いうちは誰でもきれい」と言い続けていた。加齢が少しずつ自分の美貌を衰えさせていることに無念な思いを持っていたのだろう。それでも、私はただただ、「お母さんはまだまだ若い」だの「友だちがきれいって言ってたよ」だの「お母さんほどきれいな人はいないよ」だの、あながち嘘ではないが特にそこを強調することによって、母の意を迎えようとしてきた。

 が、思えば、母が私の気持ちを気にしたことはない。今となれば、母が気にするのは、私が母の世話をする気を失わないように、私の意をそらさないようにすることだ。母は自分が見捨てられないように努力をしている。ただただそれだけだ、ということが手に取るようにわかる。

 このような親との関係で、私が「愛の受容装置」を育めなかったのは仕方のないことではないのか?
 私に向けられた「愛」を信じるのはとても難しい。亡くなった夫が私を好んでくれていたのは今になればわかる。ずっと昔、私に愛を打ち明けてくれた人が、私を本当に好んでくれていたのも、今になればわかる。しかし、リアルタイムでそれを信じるのはとても難しい。今、私に「愛」を語ってくれる人がいても、私の受容器はなかなか作動しない。過去のことならなぜ受け容れられるのか? それはたぶん、過去はもう、今の私には何も機能しないからだろう。「愛」のある状態で凍結させることが私の良い総括に寄与するので、そのように解釈してめでたく過去に見送ることができる。
 しかしリアルタイムに起こっていることは今の私に機能する。信じることによって、「裏切り」や「落胆」を経験することになるかもしれないリスクを抱える。それはもう、回避したい。「もう」と言うのは、何かどこかで経験していることのような気がする。「もういやだ」「落胆させられるのはいやだ」「裏切られるのはもういやだ」と、私は思う。この「もう」は日々の小さな落胆や失望の経験から発する感情でもあるが、もっと根本にある経験がある。それがたぶん、親との関係なのだ。私が、私の親の私への感情を読み解いたのはずっと後のことだ。ある日、うすうす感づいていたことにはっきりと気付く。親たちの愛の欠如を。父は、子への愛情は母親の領分だと思っていただろう。そして、母にはその器量はなかった。「自分が一番」という、幼子のような人だった。ただそれだけのことだ。大した悲劇でもない。よくある親の姿だ。ただ、親の愛を無償の、無上のもののようにたたえる言説があまりにも広く深くしみわたるように流布しているので、その神話が私を苛んでいた。

 今なら言える。子どもが幼い頃、子が親を思い、親は自分のことを思う、というタイプの親子は結構いるのだ。親がまだ大人にならないケースで、そのような逆転関係は、それほどまれなことではないだろう。それなのに、親なら子どもを思うはず、という神話がまかり通り、それで傷つく子どもがたくさんいる。
 今なら、多くの傷ついている子どもに言うことができる。あなたの親はあなたを愛さないかもしれない。そして、自分の子どもを愛さない親は、たくさんいる。どこにでもいる。でも、それはあなたが愛される値打ちがないからではない。たまたま、そういう愛を知らない人が親であっただけだ。親のあたりが悪かっただけ。それとは無関係に、あなたは愛される価値がある。あなたへの愛は、親以外から来る。他の思いがけないところからいくらでも来る。愛は来る。この世には、他者を愛する人がたくさんいて、その人の愛が来る。親からたまたま来なかっただけ。それはたまたまそういう親にいきあたってしまっただけで、何一つあなたを損ねるものではない。少し憂いを含んだあなたを育んだかもしれないが、その憂いを含んだ風情さえ、時には魅力にすらなる。親の愛がないことはその程度のことで、あなたの人生の失敗ではない、と、私は自分に言い聞かせるように、子ども達に言いたいと思う。

 私もまた「親の愛は海より深い」などというような神話に侵され、その挙句に親に裏切られ、愛の受容器を発達し損ねた者だ。
 しかし、今少しでも自分に向かっている愛のようなものがあるなら、それは信じておくに限る。それはたとえ束の間であっても、良いものだからだ。明日失うことになっても、今日の愛をしっかり受容すればよい。一瞬であっても、愛は良いものだからだ。愛に永続性を期待する必要はない。もし期待するなら、永続するように努力するしかない。努力して愛を交わし合い、優しさを与えあい、愛の良さを思う存分享受することしかない。それが、この美しい発明品である「愛」という理念を長続きさせ、良いものに仕上げていく秘訣だろう。それ以外に、天与のものとしての「愛」などない、というのが、年をとってから「愛」の存在の可能性に気付いた私の考え。

元旦早々

2014-01-01 22:30:45 | 自分
 そう、元旦くらい、一年の計だから良いことを考えればよいのだが、一夜明ければ人間性が変わる、というわけにはいかないから、相変わらず、うっとうしいことを考えている。ただ、もう一つの、友人たちにも公開しているブログでは、明るい話題を提供するが。

 何を考えているかと言うと、私は、「女」というカテゴリーに属する側に生まれたことをまことに残念に思っている、ということを改めて確信して感じている、ということなのだ。FTMの問題に還元しようとは思っていない。FTMと、少し次元の異なる話なのではないかと(実は同じ構造上にある、という気はしているが)思っているので、同列に論じる気はない。

 女である、ということは、この世で、主体たりえない、ということではないのかと思っている。男が獲得し、男が築き上げたこの社会の秩序において、女の果たす役割は男のアイデンティティの強化、男の人生の果実、男の装飾品、男の癒しであって、女は「男の」何かであって同列にはいない。それはもちろん、これまでのフェミニズムが喝破してきたことだ。今さら、言うまでもない。が、今私が思うのは、その男優位の社会に女が乗り込んで来た第二波フェミニズム以降のことなのだ。
 確かに日本の政府ですら、「男女共同参画」というわけのわからない日本語を創作したにしても、「男女平等」を標榜するという時代にはなっている。とにかく、「平等」なのだ。それを盾に女たちは闘ってきた。

 しかし、法制度上の「平等」とは違う場面で、女たちは男の「対象」でしかない。もちろん、そのことも第二波フェミニズムは喝破してきた。しかし、しかしなのだ。ヘテロフェミニズムは、男を指向する女の物語だ。男を指向する時、これまで主体でなかった女はどこに位置づくのだろう。男にとっての「女」であることを、どのように主体化するのだろう。
 私にはわからないのだ。ヘテロフェミニズムが理解できない。男は「女」を得ることによって立つ。(勃つ、というようなしゃれを言いたいわけではない。)「女」は男を男たらしめる「道具」だ。ヘテロフェミニストは、その「道具」でありたいとは、微塵も思っていないだろう。が、ほんとうに、女は男と対を成しながら、自らがすっくと立っているのか?
 私には理解不能だ。

 私は、男といることによって、自分が何かの「手段」に落ちてしまったと感じる。いくら相手の男が私を望んだとしても、私が望まれた理由は相手の男が「男」であるために利するものに自分がなったのだと感じる。

 「性欲」などは信じにくい。それは、最も、様々な物語と結びついてきたものなので、この世の掟を反映していると思っている。

 だから、私は何か? と思うとき、男を喜ばせる、男を利する何かであるのはいやなのだ。「女」であることが、男の「手段」であるなら、私はそこから撤退するしかない。私は私でありたいからだ。
 (しかし、これはわがままなのだろうか。人はそもそも、誰かにとっての何かであるしか、愛される理由はないのだから、私が私であること、など、あまりにも無意味なのかもしれない。)

 私はこの世の主体でない生き物には生まれたくなかった、ようなのだ。だから、女であったことが頗る残念であるのだ。
 男と女のラブゲームなぞに、およそ参加したくない。
 じゃあ、どうするか? 女と女のラブゲームに逃げ込むか? それはしかし、この社会の「他者」と「他者」の出会いだ。この社会の「他者」である「女」には、「他者性」の美しさが確かにある。それを愛でることは不可能ではない。否、むしろ、好ましくさえ見える。しかし、「他者」と「他者」は出会うことに意味がない。「他者」は「主体」にとっての「他者」でしかない。ということは、「他者性」の美しさを賛美し、そこに関係性を見出すとすれば、それは、自分が「主体」性を帯びる、ということに他ならなくなる。つまり、私は「男」のアイデンティティを乗っ取ることによって、「他者性」の美を享受する側に回るのだ。
 男は、概念として主体だ。主体としてしか「男」というカテゴリーは成り立たない。そして、現実を主体として生きざるを得ない。
 自らの客体性に主体的人生を裏切られ続けた私は、主体としての男を指向するが、自分を愛玩する男を求めることができない。自分は愛玩されたくはない。では何を望むか? 愛玩されたくないが、誰かと関係をつくりたいと切望している。「愛」着し合う関係を得たい。では、客体として位置付けられた女性を指向する以外にないのではないか。男アイデンティティを乗っ取って、女性を対象とする以外に何ができるだろうか。
 否、もう一つの方法があるかもしれない。それは、男アイデンティティを乗っ取った自分が、対象も男に求めること。どちらにしても、自分が客体化された「女」であることから逃れられる。
 むしろ、女性を対象にする後ろめたさからも逃れられるから、男アイデンティティを乗っ取った自分が、男を対象にするのが一番楽な操作なのかもしれないと思う。
 
 ひょっとして、BLとは、そういう表れなのか?


全身疲労

2013-05-30 14:30:40 | 自分
 毎日、少しずつ毒を盛られていたら、こんなふうに少しずつ衰弱するのだろうか、と思えるような全身的な疲労感が尋常ではない。病院で検査を受けても、何も見つからない。が、どんどん衰弱する。友人にも、「とても弱っている、という感じだ」と言われた。その通り、まさに弱っている、という実感だ。

 で、思うに、これはやはり精神的な問題ではないかと。もちろん、6年ほど前、心療内科を受診して、精神的なものからきていると思いこんでいたら、大腸癌だったということがわかり、手術をして治ったというようなこともあるから、油断はできない。と言うより、精神的な弱りが、身体的な問題を生み出すのだろうと思う。

 私の今の弱りは、過去の亡霊に脅かされるせいだろうと思っている。ほんとうに辛い、いやな出来事の連続だった。だからこそ、大きな病気を引き起こしたのだが、身体の病が癒えて、今度は精神的に蝕まれている実感がある。
 私へのいやがらせ、故ない攻撃、八つ当たり、そのようなものにどっと見舞われた数年。そして、それをおこなった人たちは、全く自覚がない。なぜなら、彼女たちは、ただただ生き残るために必死だったり、ただただ自分が正しいと信じておこなっただけだからだ。だから、加害者意識はない。また、こういうタイプの人は、決して自分を省みない、という特徴がある。常に、自己肯定で生き抜く。この男社会で、自分は被害者であった、という一貫した信念で生き抜いてきているから、そこから一歩も出ない。自分に不都合な人は全員、批判、攻撃してかまわない相手になるのだ。だから、この人達が気づく事への期待は一切ない。決して、自分のしたことを振り返らない人たちに、何の希望も持っていない。

 だから、苦しい。絶望が私を苛む。誰も優しくない。誰も、私を理解しない、という孤独感、絶望感、無念に苦しむのだ。
 私が私のことばで自己弁明できる力があればやりたいのだけれども、その前に、体力が失われている。衰弱している。

 こういう経験をして、あらためて思いを馳せるのは、自己弁明できず、斃れていった人たち。埋もれていった人たち。生き延びて、自己主張を貫いて、勝利をかちっとった人たちは、やはり強者だ。

 親に侮られ、貶められ、攻撃を受けた子ども時代があって、(私が育ったのは、多くの親が子どもを理解せず、子どもに手厳しかった時代だが、それぞれの親の個性、組み合わせによって、死ぬか生きるかの闘いに至る親子もある。不幸な組み合わせ、タイミングだ)、そのせいで、今うまくいっていないと思うことが、さらに絶望感を強める。子ども時代はもう取り戻せないから。

 現状の既存の条件に、少ないストレスで適応できる人が、最も良く生きられるのだろう。厳しい時代に厳しい条件下で育ってしまった者が、自分の望む心地よさを得られない不遇感に参っている、というのが私の現状なのかもしれない。

自分が好き、という人

2013-03-31 18:18:33 | 自分
 先日、話をした友人は、誰よりも自分が好きなのだと言っていた。彼女は、パートナーがいないらしいのだが、「こんなにいい女はいないと思ってるから」と笑って言う。全然いやみに聞こえないのが、彼女のキャラクターの魅力なのだろうが、髪形がベリーショートで何十年と変わらないのも、「これが気に入っているから」とのこと。多くの人の髪質だと、ここまでベリーショートにすると髪が立ってしまって、男性の角刈りのようになるが、自分のはそうならなくて、程よいかたちになるから、ほら、と頭を指し示す。「こんなにいい女はいない、と思うから、恋愛とかはできないのかも」と言う。

 そんなに自分を気に入る、という感じがどういうものなのか、私には無縁過ぎて、全く理解が届かない。自分を気に入り過ぎると、パートナーが要らなくなるのかどうかもわからない。

 自分を気に入ったことがないのだけれど、昔、子ども時代、自分の顔がいやだと言っていたら、父に「では、かりに○○ちゃん(たとえば、近所の子ども)の顔と取り替えられたらいいのか?」と聞かれて、「それは困る」と思って答えられなかった。いや、この自分の顔は嫌いだが、だからと言って、近所の○○ちゃんや△△ちゃんの顔と取り替えたくはない。では、ほんとうは自分を気に入っているのか?
 自分のことを気に入らないのは、理想の自分ではないから、だろう。ありたい自分ではないので、いつも気に入らない。そして、その理想は誰の理想であるかと言うと、実は、自分の理想像ではなく、自分が育った価値観の中で良しとされる姿であるのだろう。

 私の母は、他人から「美人」と言われて来た人だ。そして、容貌について過剰に言及する癖があった。それも、母は、自分が「美人」と言われながら、一方でその容貌をけなされてきた不本意な過去があるらしく、コンプレックスも持っていたらしいと、私が少し大人に近づいた頃にわかった。母が生まれる前に7歳で夭折した兄がいたらしいのだが、早世した子どもを悼む親の主観に任せた言葉であるのだろうが、母は、その見たこともない兄について「お前など比べものにならないくらいきれいな子だった」と、折りに触れて言われていたようなのだ。
 まことに親というものは、無責任無自覚な言動に終始するものだと呆れてしまうが、母はそのために、「美人」と常に言われながら屈折した自己イメージを持っていた。そして、その無自覚無責任な主観的言説を子ども相手に垂れ流す、という世代間連鎖があった。
 母は過剰なほど、顔の美醜にこだわり、テレビや雑誌に登場する女性について、悉く、美しいか美しくないかをコメントする。父は、美人で都会的な母を妻にしたことで、男として、ある種の成功感を抱いていた。母が二枚目でない父を選んだのは、母の屈折の表れだろうと思う。父との組み合わせなら、絶対的には母は「美人」でいられるのだ。どんなことがあっても、母は、夭折した兄に比べられたような屈辱感を味わうことはない。どうひいき目に見ても、かっこよくも二枚目にもならない田舎育ちの野太いだけの父は、母より10歳も年上で、常に、「よくこんなきれいな人を娶ることができたものだ」という母への賞賛しかあり得ない組み合わせなのだ。お金もない、学歴もない、父はただ裸一貫で生きている田舎者の垢抜けない30男だった。美しい母とその母の賛美者でしかない父の間に私は生まれたわけだが、母に似ていない、ということはすでに幼い頃から、周りに言われてわかっていた。そして、父に似ていると言われ、母もまた「あんたは、お父さんにそっくり」と嬉しそうに言い、私は自分が醜いということが確定したことに絶望的な気分になっていた。
 小学生の時に児童文学全集の中の「ああ、無情」を読み、自分をカジモドだと感じた。「私は、醜い、怪物のような醜貌を持つカジモドだ」と。10歳頃の私だ。生きていたくなかった。死にたいと思い始めていた。
 私を完全な醜貌恐怖に陥れなかったのは、一方で、学校に行くと、私は男子に「もてる」子になるからだった。小学高学年にもなると、男子は女子を容貌で選り分け始め、私は「良い」方に分類された。悪い方に分類された女の子はさぞいやな気分だったろうと想像するが、とにかく、私はホッとしていた。「それほど、悪くはないのかも」という自己診断を可能にもしていた。心の奥底に、「カジモド」コンプレックスを抱きながら、今、仮にこの世に現れている私は、「それほど悪くない」女の子かもしれない、という自己認識を持っていた。
 その後、父に似たくない、似たくないという悲願を抱き続けた。

 思春期頃から、父に似ていると言われなくなった。多くの人が私を見て、「誰に似ているのだろう?」と言うようになった。父に似ていない、というだけで良かった。母の実父である祖父に似ている、という人もいた。祖父に似ているなら、上出来だ、と思った。都会的で男前の祖父に似ているなら、母のように美しい女の人になれなくても上出来だ。むしろ、女性アイデンティティが希薄だったので、男前の祖父に似ている方が好ましいくらいだった。
 父に似ている、と言う人は誰もいなくなり、私は命拾いをした気分だった。

 小学生、中学生と、私は「かわいい」と言われる少女になった。大人になったらきれいになりたいと言う私に、「え? それ以上にきれいになりたいの?」と言う男の子まで現れた。容貌というものは好みなのだと、うすうすわかってきた。私の顔を好む男子も少なからずいるのだと知った。
 学生結婚した夫は、一年下の男子に「きれいな人と結婚したんですね、学科ナンバー1じゃないですか」と言われたそうだ。他の同級生の女性からも、「きれいな人と結婚できてよかったね」と言われていた。そう、その頃、かわいいだの、きれいだのと、私はたくさんの賛辞を受けていた。そして、私は、長年のコンプレックスから賛辞を受けるようになるという転換を経験し、自分がどうであるのかわからなくなった。
 母は、「若いうちは、誰でもきれい」と、動じなかったが。

 年を取ってもなお、「きれい」と言われたり、不細工な女として扱われたり、というムラのあるコメントに一喜一憂して、相変わらず振り回され続ける。

 「顔がよく変わる」と言った人がいる。実はそれが私の実感に一番近い。自分でもいけてる時の私は、賛辞を受ける私だ。自分でもいやな顔をしていると思う時は、誰の目にも醜いようだ。ころころ変わる。容貌に対する過剰な意識が、私の人生力を翻弄してきたような気がする。

 こんなことで人生を左右させる必要はないのに、冒頭で語った友人のように、他人の評価など関係なく、自分を「いい女」だと思えれば人生の景色は変わるだろうに、そうではない人生を送ってきた。
 しかも「女」自認も怪しい。自分が女性であるというアイデンティティが揺らがない、というのはどういうことなのか、それも理解が難しい。

 うすうす感じるのは、幼い頃から、母が私と自分を重ね合わせなかったことが大きいのかもしれない、ということだ。母は、母のように美しくない私を、決して自分の分身のようにも、自分と同一視することもしなかった。おそらく、自分を見るようには私を見ることができなかったのだろうと思う。母は、私を父側に押しやっていて、私を他者として見ていた。それは私に、自分と母を同一視する機会を与えなかったような気がする。母と重なり合いたいが、母は他者である。父が母を見るように、私も母を見ていた。父は、ライバル以外の何者でもなかった。母が、父をではなく、私を愛してくれることを願っていた。幼い私は、父がいなくなることをずっと願っていた。

 性自認がどのように形成されるのかはわからない。が、私の女自認が希薄なのは、ここに鍵があるような気がする。そして、私が男の子なら、ごく「普通に」お母さんのような女の人と結婚したい、とかわいいことを言う少年であったろうし、長ずる間には母との距離を取り直して、母ほどに扱いにくくない女の人と結ばれたいと願ったかもしれない。私が男の子であったら、今の私のような屈折した悲しみを抱かずに、案外、単純で素直な男として、大人になったかもしれないのだ。これほど、自分嫌いにもならずに、済んだかもしれない。
 まあ、これは妄想に過ぎないけれども。


 

なりたい自分と他人が思う自分は違う

2013-03-15 16:26:30 | 自分
 なんだか、あまりにも当たり前なことを書いてしまった。
そう、誰でも自己イメージというか、ありたい自画像があるが、他人から見るイメージは大いに異なる場合がある。

 これが一致しているのは、とても心の安定することなのだろう。

 そして、案外(と言うか、私の場合だけか)、この自己イメージと他人が見る自分のイメージとのギャップに、折り合いがつかないものなのだ。おそらく、複数の他人が見る私のイメージが、流通する私の像なのだろう。私が望む私像は、誰も知らない私だけの「理想の」私に過ぎない。
 それでも、60歳を過ぎるまで、こういうことに諦めがつかないとは、、、。まあ、不幸であるとも言えるし、滑稽であるとも言える。

 私は背が高くない。すらりと細長いシルエットも持っていない。運動神経も良くない。きりっとした顔立ちでもない。それは、わかっているのに、私のありたい自分は、すっきりとした中性的な人なのだ。女の体イメージのあの、でこぼこがいやだ。棒みたいなシルエットに憧れる。が、実際は、私は比較的乳房が大きい。その自分のからだを、少女時代から嫌悪していた。だから、なるべく胸のふくらみをつぶすような服を着る。わざわざ胸を目立たせるファッションを選ぶ人、豊胸手術をする人を不思議で仕方がない。
 そして、少女時代から一つのイメージが貼り付いていた。私が若い頃に流行った言葉だが、「清純」とか「清楚」である。そもそも親が清楚な少女であることを願うので、着せられる服もそういうものである。また、たまに少しくだけた「不良っぽい」とでも言うのか、そういう出で立ちに挑戦してみるが、おそろしく似合わない。

 若い頃、女性達が煙草を吸い始めた頃、私も真似をしてみたが、仲の良い友だちに、「似合わない」と言われてしまった。
 50歳の頃に高校時代の同窓会があって、私はマニッシュな黒っぽいスーツで参加したが、当時の担任の先生はやはりこう言った。「清純な感じでしたね」「今も変わりませんね」と。

 もうそろそろ諦めた方がよいのだ。顔を見ただけで、「女らしい」というイメージを貼り付けてこられる。「家庭」のイメージではないらしいが、「優しい」キャラで話をよく聞いてくれる、というイメージらしい。会合の後、持ち込んだ備品などを撤収して花束だけが残ると、「一番似合う人に」と、私にくれる。実は内心、残念なような複雑な気持ちだ。

 ずっと自己イメージとは異なる自分イメージを貼り付けられてきた。清楚、繊細、上品、優しい、などなど、、、。ただ、少し親しくなると、「見かけと違う」「結構、はっきりものを言いますね」「実は男っぽいところがあるんですね」というような感想もくる。その感想を聞いて、あらためて、そうか、そんなふうに思われていたのか、と気づく。

 母はずっと、「年をとったら、かわいいおばあさんになりたい」と言っていたが、私は金輪際そんなことは思ったことがない。賢い、自立したおばあさんではいたいけれど、、、。

 もうこのからだと62年もつきあってきた。自分の望む人にはなれなかった。私の友人で、きりりとした顔立ちの人がいる。自分で「男顔」と言っているが、それがいやなようなのだ。私はどうしても「女顔」なので、それがいやだったのだが。

 まあ、それも年齢と共に変化して、やがて、女も男もない年寄りになるのだけれど。ホルモンの減少で、互いに歩み寄るようだ。野太いバスだった父も年をとったら、少し声が高めになったし、逆にソプラノ系の人も声がしゃがれてくる。年を取ってよいところは、見かけのジェンダーがはずれてくるところだろう、と私などはそれが怖いような楽しみなような。
 

私ってよくよく魅力がないのかなぁと思うとき

2013-03-12 11:00:23 | 自分
 SNSにつながっている、ちょっとお気楽めなブログを書いている、と以前にもここに書いた。そこで、SNSから、時々見に来てくれる人がいて、コメントなどを書いてくれる。たまに、リアルで知っている友人も書いてくれてたこともある。

 しかし、まあ、リアルの友人にブログを教えている人は少ないから、それはいいのだけど、SNSの人もどんどん見に来てくれなくなっている。
 
 何かが魅力ないのだろうなぁ。その人の日常をドラマを見るように活写している人のブログは人気があるようだ。

 今日はどこそこに行って誰に会った、というような具体的な話が受けるらしい。それも、その人物がどういう人物だとか、つまり近所の主婦で花を作っている50歳代のたおやかな人である、とか、離婚されてもがんばって子どもを育てておられた、とか、初恋の人に会ったことをきっかけに高校生の頃のことを思い出した話とか、なんとなく情景が浮かぶ文章だ。

 私のブログは情景が浮かばないのかもしれない。ブログというのは、その書き手にイメージを膨らませるところがあるかもしれない。

 だから、こたつライフについて写真をつけてその心地よさを書くと、すぐに反応がある。つまり、多くの知らない人たちとの共通点は、日常の誰でも経験する、食べる、寝る、着る、などの基本的な生活の出来事なので、その細々が話題であると、反応しやすくなる、ということか。

 心象風景は、ものすごく個人的なことで、想像力も好奇心も駆り立てることがない、ということかもしれない。

 私のは、どう気楽に書いても、最後は概念的総括に入るもんなぁ、、、、。納得したい、という癖が治らないからねぇ。

 つくづく、魅力のないブログなんだろうなぁと、ちょっと悲しい・・・。


 

もう、誰とも縁を切りたいなぁと思う時

2013-01-29 17:11:36 | 自分
 もう、誰からも脅かされずに、人と縁を切って、心静かに生きていきたいと思う時、それが過去の自分と決別することを意味している、ということに私は気づいていない。自分を守るために、他人と縁を切るのだが、それはとりもなおさず、これまでの自分とも縁を切る、ということなのだろう。

 罪を犯して逃げている人が、顔を変え、名を変えて、見知らぬ街で長年別人として生きていた、という話が以前あったけれども、(結局、捕まった)、自分を捨てて新たな人として生きる時、それはどのような心地なのだろう。自分という者の、良きことも悪しきことも捨てることによって、(否、捨てるのだから、過去の自分は全部悪しきものとして総括されているのか)、より良い人生が開けるのだろうか。

 私を害した人の手柄話などもう聞きたくない、私を虚仮にした人が幸せになった話など知りたくない、私を大事に思ってくれる人などいないこんな人間関係などもう捨てたい、という思いがすることがある。それでも、ふと、私はまだ周りの人の役に立てていない、まだ大して何も貢献していない、と思うと、もうちょっとがんばって、少しは誰かのお役に立てるような人間になりたい、とも思う。
 でも、もう年だからなぁ、大して誰の役にも立たない間に老いてきたので、このままいくと、お荷物になりかねない。それも辛いなぁ、という感じもする。

 誰も私を愛してくれる人などいないから消えてしまいたい、と思う時と、誰の役にも立てないのだからもう少し何かに貢献したい、と思う気持ちが時折交代で起こる。

 身近な親しい人がいないと、人との距離がどうも遠くて、こんなふうにしか考えられない。家族を持っている人は、もっと日常的に、距離がわからないほど、人とつきあっているのだろうか。 

自分の死に方

2011-08-15 12:36:59 | 自分
 子どもの頃、自殺願望にとりつかれていた。この世からいなくなりたい、あるいは、生きていくことが辛い、という気持ちをかかえ、死ぬことばかり考えていた。あれは、今思えば、鬱だったのだろう。子どもでも、自分について批判ばかりされていては、鬱になる。自分は生きていてはいけない人間なのかと落ち込んでしまう。まさに、それだったのだろう。批判され、落ち込んでいれば、またもやその落ち込んでいる姿を批判されるのだから、身の置き所がなかったのだ。

 しかし、そのような子ども時代・青年期を経て、30歳代になってから、初めてカウンセリングに通い、元気を取り戻した。カウンセリングの成果は、自己肯定ができるようになったことだ。根拠のない自己否定を捨て去った。親の呪縛を塗り替えることができた、ということだろう。
 親は、私について気に入らないことは、何のためらいもなく、存分に私を批判し尽くしたが、親の方は、生んだ子への絶対的支配性を信じて疑ったこともないので、自分の言葉が子どもを傷つけるなど、想像もしない。完全に、自分の支配下、保護下にある存在だから、自分の思うように子どもを方向づけることができると、全く無根拠に思いこんでいる。その無知な親の妄言に、ここまで深く傷ついていたのかと、自分自身に気づくことになった。
 無批判にただただ受け容れて深く傷ついていた親の批判的言動について、客観的に評価し直して、根拠のない自己卑下する気持ちから脱却した。
 自信過剰な人も根拠がなければ、劣等感も根拠はない。誰にどのように評価されてきたか、というところに、子どもの自尊感情は依拠している。
 カウンセリングは、それを教えてくれた場だった。

 それで、意味のない自殺念慮からも解放された。ようやく、元気で生意気なくらいの私を取り戻した。

 そして、今度は「癌」になった。医師から病名を告げられたとき、子どもたちには相変わらず冗談を言っていたが、子どもたちと離れた一瞬、泣いてしまった。が、それも一瞬だ。あとは、気持ちの整理にかかった。

 今は、病気もだいぶん遠ざかり、元気になって良いはずなのだが、今頃精神的に不安定になってきている。癌を発症した原因である職場でのいじめ、仕事がらみのハラスメントで受けたダメージが、今頃、心に作用しているようだ。からだの病気が治ってきて、今度はこちらのトラウマで、日々苦しんでいる。
 だいたいこういうダメージは、忘れた頃に出て来ることが多い。

 夫が亡くなった時から、度重なる様々な困難と境遇の変化に、なんとか耐えてきていて、からだは病んだけれど、精神的には結構健全だと思っていた。
 しかし、ここにきて、相当参っている私がいる。なんとか気持ちを浮上させようといろいろなことをしてみたが、結局、気持ちが救われない私が、死ぬことをふと考えるようになっている。

 いつの日か、自死を選ぶようなそんな気がする今日この頃。子どもの頃のままだと、最近思うことが多い。あの頃の鬱が、よみがえっているような気がする。