凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

もう、誰とも縁を切りたいなぁと思う時

2013-01-29 17:11:36 | 自分
 もう、誰からも脅かされずに、人と縁を切って、心静かに生きていきたいと思う時、それが過去の自分と決別することを意味している、ということに私は気づいていない。自分を守るために、他人と縁を切るのだが、それはとりもなおさず、これまでの自分とも縁を切る、ということなのだろう。

 罪を犯して逃げている人が、顔を変え、名を変えて、見知らぬ街で長年別人として生きていた、という話が以前あったけれども、(結局、捕まった)、自分を捨てて新たな人として生きる時、それはどのような心地なのだろう。自分という者の、良きことも悪しきことも捨てることによって、(否、捨てるのだから、過去の自分は全部悪しきものとして総括されているのか)、より良い人生が開けるのだろうか。

 私を害した人の手柄話などもう聞きたくない、私を虚仮にした人が幸せになった話など知りたくない、私を大事に思ってくれる人などいないこんな人間関係などもう捨てたい、という思いがすることがある。それでも、ふと、私はまだ周りの人の役に立てていない、まだ大して何も貢献していない、と思うと、もうちょっとがんばって、少しは誰かのお役に立てるような人間になりたい、とも思う。
 でも、もう年だからなぁ、大して誰の役にも立たない間に老いてきたので、このままいくと、お荷物になりかねない。それも辛いなぁ、という感じもする。

 誰も私を愛してくれる人などいないから消えてしまいたい、と思う時と、誰の役にも立てないのだからもう少し何かに貢献したい、と思う気持ちが時折交代で起こる。

 身近な親しい人がいないと、人との距離がどうも遠くて、こんなふうにしか考えられない。家族を持っている人は、もっと日常的に、距離がわからないほど、人とつきあっているのだろうか。 

年をとってぼけると隠れていたものが出てくる?

2013-01-20 16:36:23 | 人生
 娘の母解釈と同様に、年寄りのぼけぶりへの解釈も、それを「本性」だとか、「抑制が取れて真のその人が出てくる」というようなふうに受け取ることにも慎重でありたい。

 確かに母を見ていると、その人なりの老い方をするのだなぁとは思う。外出先で老眼鏡をかげたがらない母は、「メガネをかけた女は魅力的ではない」という昔の女性イメージを未だに抱いているのかと思う。補聴器を試すことさえしない母は、他人の言うことに耳を傾けて来なかった姿勢そのままだ。自分の言いたいことが相手に伝わればそれでいい、と考えているのも、いかにも母らしい。
 基本的に、世話をされるのが当たり前であるから、私が母の世話をすることには当然期待している。何の躊躇もない。そのかわり、若い者に嫌われないように適度に距離を置いている。強引でもないし、うるさくもない。それとなく、弱さをアピールして、世話をさせるのがうまい。若い時の母の姿勢そのままだ。

 そういう面は、確かに生きたように老いるのかなと思う。まぁ、それは当然だろう。老いてから急に自立心が出たり、好奇心が旺盛になったりはしないだろう。
 それに、億劫そうなのは、体調が万全ではない、というところにもあるだろう。私も同様だから、それも勘定に入れておかなければならない。老いればますます、からだの不具合は増えるのだから、これも、年をとってから頑丈になるはずがない。

 そういったその人の傾向を押さえた上で考えると、ぼけてしまった後に残るのは、その人の真髄のように見えるかもしれない。しかし、年をとりながら、ぼけながらも、人はたぶんその人なりの適応をし続け、その人の文脈に沿った言動をするのだろうと思う。確かに抑制していたものがはずれるかもしれないが、だからと言って、それがその人の本性ということでもないのだろう。そもそも、人に「本性」などというものはあるのだろうか。おそらく、その時々の文脈で振る舞い方や解釈が生まれ、その時々の状況によって、人は自己表現をするものなのだろう。

 酒に酔った人が、自己統制をなくしたとしても、その人のすべてがさらけ出されるものではなく、整序機能が作動せずに世迷い言が増えるだけのように、ぼけた人も整序機能を失い、夢や願望と現実の世界が同レベルに浮上して、混淆するのだろう。それでも、外部の何かに反応し、外部状況にも影響されながら、現実感を失って、様々に言動を駆使していくのだろう。

 まぁ、ぼけたくはない、と祈るように思うけれども。

娘の母イメージ

2013-01-20 10:24:54 | 
 母娘関係というと、年配の女性であって成長した娘がいる人でも、多くが自分の娘との関係ではなく、自分と母親との関係について語るそうだ。

 かく言う私も例外ではない。娘との関係にはもちろん悩むことはあるが、今の自分を育成したのは母との関係においてであると思うので、自分についてあれこれ考えるのに、娘との関係については分析しようとしない傾向がある。

 しかし、私の娘にとって、母娘問題といえば、まさにこの私との関係のことなのである。

 私は、抑圧的な母親なのだろうかと自問することはずっとあった。そもそも「親」というだけで権力である。その権力が、実際にものを言い、指示を出し、時には格闘(精神上)をするのだから、娘側にはたまったものではない存在だろう。

 そもそも娘は私にとっては二番目の子どもなので、私という母親は「子ども」という不可思議な存在に少し慣れてから遭遇している。だから、息子の時とは違い、生まれた時の迎え方は、季節やその時の生活環境とも相俟って、全く異なる。息子の時は、私は幼い人間に不慣れでその行動の理不尽さにこちらがおかしくなりそうだったが、幸い両親と同居していたので、私自身は恐ろしく精神的に参っていたが、息子にとっては良かったろうと思う。多くの大人の目が子どもを見守るので、未熟な母親と密室に置かれなかった、という点ではほんとうに助かった。

 娘の時は、既に子どもにだいぶん慣れていたので、息子の時のように理不尽とも不可解とも思わなかった。「かわいがる」ということが当たり前のように出来ていたし、実際いとおしい存在だった。美人ではないかもしれないが、子どもらしいかわいらしさにあふれていて、なんともチャーミングな存在だった。その面影は今もある。ちょっと幼さの残るチャーミングなところのある娘だと私の目には見えている。ま、わがままなところもあって、それは私に向かって出やすいのかもしれないかな、と思うこともあるが。

 が、娘には私はどのように見えているのか。子どもは、子どもの目線で見えるところしか見ていない。
 娘がまだ子どもの頃、驚いたことがある。
 オイルショックで、トイレットペーパーがなくなる、という奇妙なパニック現象が世の中に起きたことがある。娘の年齢からいくと、第二次オイルショックの時だろうと思うのだが、第二次の時にも、田舎ではトイレットペーパーがなくなる、という噂が飛び交っていたのかもしれない。
 私は第一次も第二次も、トイレットペーパー騒ぎには動じなかった。トイレットペーパー如きで何をそんなに狂奔するのかと不思議だった。食糧が不足するなら深刻だが、トイレットペーパーくらい、何とかなるではないかと、二十歳代の私は泰然としていた。
 それにも関わらず、娘の数年後の記憶では、家の戸棚を開くとトイレットペーパーが落ちてくるほどに詰め込まれていた、というものなのだ。これには驚いた。そんな事実はない。私の推測では、当時、人なつっこくいろいろな家に遊びに行っていた子どもだったので、たぶんそのうちのどこかの家がそうだったのだろうということだ。が、娘の小学校時代の「私」像は、典型的な主婦像に合致するのだ。彼女が思い出に語る私は、「それ、誰?」と尋ねたくなるほどに、私の事実にはないことが織り込まれている。

 一つには娘の特性もあるかもしれない。早い時期から漫画にはまり、思いもかけない難解な言葉や社会的事象に通暁していたりするから、その世界で獲得した情報と現実との融合が起こっていたのかもしれない、ということがある。
 子どもの事実認識は時折、物語や想像の世界と混然一体となっていることがあるから、(私の場合もそうだったらしく、よく親に「そのような事実はない」と否定されて、きょとんとした覚えがある)、リアルと想定の世界との峻別は意識的に行われなければ、結構混淆するものなのかもしれない。だから、年をとって、この世に用事が減ってくると、またもやリアルと想像や夢の世界との峻別が行われなくなるのだろう。

 リアルの世界と四つに組んで日々の用事をこなし続けていくのは現役世代の特性なのだが、この現役世代の特性だけで人間を測ってはいけない。現役世代はリアルな社会を担う頼もしい人たちなのだが、それ以外の人々の特徴を軽視すると、「人」というものを見誤るような気がする。現役世代の厳密な現実認識は、必要に応じて身につけた能力であって、夢と現の境目など、実はなだらかなぼやけたものなのだろう。

 まぁ、だから思うのだが、娘は娘の文脈、記憶、感性、興味、理解力等々で世の中を見、その中の風景の一つとして私を見る。たぶん、私から見れば誤解だが、単に彼女の世界観で私を測っているのだろう。
 私が私の母を「誤解」もしくは「解釈」しているように、彼女も私を「誤解」もしくは「解釈」している、ということなのだろう。

 

トラブルの芽(続)

2013-01-16 09:11:00 | 日々の雑感
 前回の「トラブルの芽」が、解説不足の感じがするので、補足しておきたい。

 スタッフ6人の中で別格扱いであった人(仮にAさんとしよう)は、担当課の女性職員から何かお墨付きを与えられていた可能性が高い。また、その時の課長ともつながりがあって、何かと市職員とのパイプがあったようだ。
 それで、子どもの小さい人が夜勤ができないことについて、おそらく、市職員との私的な会話の中で、愚痴のかたちで出たのではないかというのが、今の私の推測だ。
 「働いてみて、どうですか? やりにくいことはない?」くらいの問いかけはあったのかもしれない。それに対して、Aさんは、愚痴をこぼしたのかもしれない。「あの人を辞めさせてくれ」などとは言わないにしても、「平等にシフトに入れない人がいるのは、しんどいんですよねぇ」とか、他の人とのうまくいかなさも含めて「もう、辞めようかな、と思う」あたりのことは言ったかもしれないのだ。もちろん、あくまで私の想像だ。

 市職員としては、それを聴いて、何とかしなければならない、と考えたかもしれない。市長とつながりのあるAさんに、不快な思いをして辞められては困る、と思ったかもしれない。Aさん自身は、自分が辞めたい、という意向を持っていた可能性はある。小さい子どもがいる若いスタッフを辞めさせようなどとはゆめにも思わず、他のスタッフとの関係などで、彼女の守備範囲とは異質なものを感じていて、自分が辞職しようと考えていることを市職員に伝えた可能性はありそうだ。が、市職員は、小さい子どものいるスタッフが夜勤をやりにくいことと、Aさんが辞めたいと考えていることを短絡的に結びつけ、小さい子どものいるスタッフの契約を更新しない、という方向へ持って行った可能性はあるのだ。もちろん、市職員は、Aさんに「彼女を辞めさせるから、あなたは残ってくれ」とダイレクトに言ったりはしていないだろう。

 だから、Aさんは、自分の注進で、そのスタッフが辞めさせられることになったとは、微塵も思っていない。彼女の中では、切り離された出来事だからだ。むしろ、その小さい子どものいるスタッフをかばって、夜勤を代わってあげる他のスタッフの過剰に思いやりのある、「優しさ」(一人、カウンセリングマインドを十全に発揮するスタッフがいたのは私も認識しているし、その人のカウンセラー資質を活かした企画もしていた)に違和感を感じていたのかもしれない。そのカウンセラー気質のスタッフは人を助けたいという思いに満ちあふれていて、施設内の優しい雰囲気作りに寄与しているのだが、政治的なことに関心のあるAさんは心のケアよりも国際政治やグローバリズムの問題に興味が強く、施設内の雰囲気全体に違和感を感じていたのかもしれない。だから、Aさんは、自分自身が他のスタッフから浮いているのを感じて、辞めたいという意向を持っていたとしても不思議ではない。
 私が他の職に移るためにそこを退職した時、Aさんもいっしょに辞めた。私は、自分が辞めた後も、Aさんは残って、リーダー的役割をするのかと思っていたので、意外だった。

 Aさんは、その小さな子どものいるスタッフが辞めた時も、全く悪びれた様子はなく、彼女を優しく送り出した。自分の発言が原因とは思っていないからだろう。むしろ、自分がそのスタッフについて言ったことも覚えていない可能性すらある。彼女はスタッフ内の複雑な人間関係について、たぶんちょっと「しんどいかも、、、」というように匂わせたくらいだろうからだ。そして、辞めたい気持ちもあるということを、軽く洩らしただけかもしれない。
 が、市職員はあわてたのだ。Aさんに辞められては困るので、小さい子どものいるスタッフの更新をせずに辞めさせた。そして、Aさんに継続を請うたのだ。それも、「○○さんが辞めて慣れない新しいスタッフが入ってくるのだから、あなたにいてもらわなくては困る」というような言い方だったと想像できる。だからAさんは、スタッフが入れ替わる原因を自分に帰することなど、全くなかったはずだ。市の意向だと思いこんでいただろうと想像する。なぜなら、Aさんはその若いスタッフを辞めさせることなど考えもしなかったからだ。
 
 私があれほど、その小さな子どものいるスタッフだけが更新されない理由を問うて、ぎりぎりと市職員に迫ったにもかかわらず、曖昧なまま終わってしまった後味の悪い出来事だった。
 話し合いの時に、「決められたシフトを代わるのは困る」と言い張る市に対して、私は「他のスタッフだって、今後、本人や家族の事情で、決められたシフトに入れない状況が生じるかもしれない。その時はどうするんですか?」と尋ねた。すると、「その時は、それぞれ助け合って、代わったりしてもらえばいい」ととぼけたことを言い出す市職員に、「だったら、なぜ、彼女だけはダメなんですか!」と私はほとんど吠えたような気がする。全く、市の主張は、理由になっていなかった。

 それは、たぶん、Aさんの何気ない愚痴から事態を勝手に解釈して、Aさんを引き留めるために市が講じた解決策だったのだろう。Aさんがあずかり知らない、Aさん引き留め策だったのだろうと思う。

 地方自治体の公務員というのは、玉石混淆だ。否、個人の資質というより、適材適所でないと、とんでもない不具合が起こる。なぜなら、一介の平職員でも、市民や外部職員に対しては、その力量を越えた権限が与えられてしまっているからだ。
 誰も、自覚的な悪意や敵意はない。与えられてしまった権限と責任の重さを自覚しないまま、事態を紛糾させることになる。

 ここまで書いて、自分もまた、同じ過ちを犯してきたのだろうと忸怩たる思いで振り返る。

 

お節介の限界

2013-01-09 09:37:55 | 日々の雑感
 私はお節介が苦手。するのもされるのも、好きではない。
が、お節介な人というのはいるものだ。若い頃は、近所の主婦たちと鍋を食べる時に、われがちにと箸が伸びる人たちの中で、私はゆっくりタイプなのだが、そうすると、いつの間にか、「はい」と私の分をよそったお椀を渡してくれる人がいる。「え? 入れてくださったんですか」と私は戸惑う。
 何も自分で取れないのではない。皆が一斉に箸を突き出すから、そのピークの後で、自分は取ろうと思っていただけなのだ。人に取ってもらうと、好きでない物や一度に食べる自分の適量ではない物がくるので、あまりうれしくはない。まぁ、でも、嫌悪するほどのことではないが、「なんだかなぁ」とは思う。

 この類のお節介は、女の人に多いのかもしれない。先回り先回りして、こまごまと世話を焼こうとする。
 
 そう言えば、以前、非常勤の仕事を一緒にしていた女性講師の人が、いつの間にか私の分もお昼を持って来てくれるようになった。これには戸惑った。自分の分と一緒におにぎりを握って来てくれる。私はびっくりしていたのだが、そのうち、習慣のようになっておにぎりは有難くいただき、一緒につけてくれるインスタントのおみそ汁の分はお金を返していた。
 いやではないので、断る、ということでもないのだが、恐縮はしてしまう。

 そんなに私のことを気にかけていただかなくても、自分で何でもやりますから、、、というのが私の本音。

 でも、優しい女の人の厚意は有難いので、基本的には受け取るようにしている。が、そのきめ細やかさが裏目に出ると、苛立つ。
 その極め付けが母だったのかもしれない。母に連れられて歩いていて、知り合いに会うと、たいていの人は、「いくつ?」と尋ねてくる。私は子どもなので、初めて会う人にそう尋ねられると一瞬戸惑う。が、一瞬だ。次の瞬間に答える用意を整える。が、母は、その時にはすでに、「この子はほんとうに、からだばかり大きくなって頼りなくて。○才ですの」と、答えている。答える気持ちはそこで折られてしまう。

 お節介な人というのは、他人のテンポを理解しないのだろうか。他人には自分とは違うリズムや呼吸があることをわかっていないのだろうか。

 が、お節介で助けられることも、確かにある。命拾いすることもある。だから、一概に否定する気も、拒否する気もない。それは良く機能することもあるのだ。

 私自身は全くお節介をしない。他人には他人の自由とリズムがあるのだろうと思うから、基本的に人にはかまいにいかない。ただ、グループ活動はする。それは1人の人をターゲットにしないので、相手も断りやすいだろうと思うからだ。だから、こんなことをしませんか?と複数の人に声かけをする。断って来る人もいるし、だんだん足が遠のく人もいる。それもOKだ。その人にはニーズがなかったのだと、考えることにしている。
 始める自由、加わる自由、辞める自由を織り込んだ上での活動をしたいと思っている。誰ひとり、応えなくなったら、それはその需要がなくなったということだ。

 その時は一人遊びをすることにする。誰も巻き込まない。ただ、この自分流の動き方は、時には人生の枯れていくような寂寥感も伴う。



トラブルの芽

2013-01-07 09:59:04 | 日々の雑感
 不器用な私が、様々な人々の複雑な関係に巻き込まれてダメージを受けた経験から、気づいた諸々を書きとめている。

 今日はその一つ。思い出したこと。

 私はある公的施設の専門職として勤務していた時期がある。管理職は市の課長職。私は委託を受けて、専門職として施設内の事業企画や市民研修、職員研修を中心に行う業務である。管理職ではないが、私が勤務していた当時、その施設で働く臨時職員6人の統括的なことも、なんとなく行わねばならない立場だった。机の位置も一番奥に、6人の人を見渡す配置である。6人の人たちはシフト勤務に縛られ、臨時職員という待遇でありながら、施設の鍵を預かる。私は鍵も持たない。彼女たちよりも遅く出勤し早く帰る仕様であり、勤務日も特に定められていない。
 臨時職員という軽い扱いでありながら、鍵を持たせ、施設のオープンからクローズまで、彼女たちに責任を負わせてしまう仕様はいかがなものかと思う。しかも、「ここに職を得たと思うな」と言い含められ、期限6カ月のアルバイト待遇である。
 市職員は、何かがある時にしか来ない。せめて引き継ぎのための会議は必要だとかけあって、彼女たち全員と私との定期会議を認めさせたが、「彼女たちに会議が要るのか?」と最後まで不本意だったらしい女性の市職員もいる。

 まぁ、自分たちの制度設計のまずさを棚に上げて、こちらにばかり努力と忠誠と便宜を要求してくるのは、市職員の常だけれども、たいがい私も頭に来ていて、結構たてついて市の職員(特に女性)からは嫌われていたようだ。権威を守りたい人からは、たいてい嫌われる。

 その頃、気づかなかったが、後で「あ、そうか」と思ったことがある。6人のうち1人の人が年齢も高く、元高校教師で、他の5人が一目置いていた人だった。後の方では、私には頼もしい右腕になってくれて、その職場を二人とも離れてからも、自分が移った他の公的施設の講師に呼んでくれたりして交流が続いた。
 が、当時は他の5人の人から、その人の悪口を聞くことが多かった。1人張り切っていて自分たちを指導しようとするだの、一人で決めてしまうだの、評判が悪かった。
 また、一人の若いスタッフが子どもが小さいため夜のシフトを引き受けられない、ということがあり、他のスタッフはなるべく夜の勤務を交代してあげていたが、そのようなことは困るとこの年長の人は市に注進していたとかで、市の方はそのためにその若い人だけ更新せずに辞めさせたことがある。

 そうしたことで、その人への不信感はなんとなく漂い、私もその若い人を辞めさせる方向に持っていった、という一事だけは理解できず、その人を見る目に一点の曇りがあった。

 が、後でいろいろつなぎ合わせてわかったことがある。その人は、市がその施設をオープンさせるときに、市の1人の担当の女性職員がその人を専門職にと話をふっていたふしがあるのだ。が、私は、その女性職員よりもっと上司にあたる女性幹部から招聘を受けていて、市の部長クラスにも話が通っていた。それで、表向き公募に応募した形だが、すでに私がその職に就くことは内定していた。
 私も当初、その人は私の職に就きたいのかなと訝ったことはあった。言動にそれらしい感じを持ったのだ。が、その専門分野に関しては、私から見ればその人は素人同然であるので(もちろん、優れた人であることは確かだと思うが)、一緒に仕事をする間に、その人は私の右腕となって協力してくれるようになった。専門というものは、ちょっとかじったくらいではわからない奥の深いものであるのだが、私が守備範囲とするところは誰でも取りつきやすい分野なので、入口あたりにいて、わかった気になる人は多い。市の女性職員もそうだ。それで、その女性職員は地域住民であるその人を専門職に、と考えたのだろうが、上層部がわけのわからない私という人間を連れてきたので、違和感があったのだろう。

 結局、その人は、他の6人の臨時職員と同じスタッフとなった。ただ、ここからは私の想像が働くが、おそらく件の女性職員から、その人は「皆のリーダーとしてよろしく」あたりのことを言われたのではないかと思う。それは、他の、似たような事例に遭遇し、そこからもめごとが起こっているのを見たために推察することなのだが。

 特に、その人は、当時の市長とつながりのある人で、首長格とつながっている人というのを、公務員は恐れてさえいる。市民の中でも別格である。私のようなよそものは全くその事実にひるまないが、その人は何かにつけて、そのために特別扱いだったのではないかと想像される。もちろん、ご本人はその上に胡坐をかくようなことはなく、ただ、期待にこたえるために頑張っていただけだろう。そういう、真面目でガンバリズムの人なのだ。

 しかし、その人を自分たちと同じ横並びのスタッフの一人と思っている(思って当然なのだが)他の5人のスタッフは、その人の何か特別な振舞い方が気に入らない。「一人で張り切っている」「皆を指導しようとする」「偉そうである」などと不満を溜めていく。
 似たようなことが他の職場でもあるのを知ったので、おそらく、この時のスタッフ同士の不和はこれが原因だろうと想像するのだ。

 要するに、担当者の勇み足だ。自分には権限がないと職務階層上はわかっているだろうが、下級公務員は担当となると、何か特別な権限を持ったかのように市民や非正規職員に向かって、指示的になる。市民や非正規職員を相手にする担当窓口となると、自分が市を代表していると考えてしまう。そして判断を誤り、市民を怒らせたり、非正規職員の不満を募らせたりする。また、そのような自主判断をしない人は、今度は、何一つ、自分には判断ができないとして、即答を避け、すべて上司の指示待ちになる。

 公務員の組織の問題性であるのだろうが、何も自分では判断しない人も困るし、自己判断で自分の偏りを押し付けてくる人も困る。

 私はその件の女性公務員に嫌われていたらしい。辞めさせられることになった若いスタッフの雇止め理由が納得がいかないとして、話し合いを要求したら、その時の課長は、課員全員を引き連れて、会議の場にやって来た。その時から明らかに件の女性職員に嫌われ、いやがらせをされた。
 私が専門職員として市の会議に出る時、その施設は市役所とは離れていて、私は自転車が得意ではなく移動をどうしようかと思案していたら、人事異動で新たにやってきた課長か係長の男性か、どちらかが公用車で迎えに来てくれるようになった。それはずっと続いたが、私もそれを当たり前と思う気持ちはなく、恐縮してはいた。が、いつも時間を見計らってちゃんと来てくれるので、有難く車に乗せてもらっていた。ある日、会議の前になっても、(たいていは課長か係長が○時頃に迎えに行きますと連絡をくれる)連絡がない。送迎がないのであれば早い目にバスで移動しないといけないので、確認の電話を市役所に入れた。すると、その女性職員が出て、確認をしようと用件を切り出したとたん、「誰でも自腹を切って移動しています。市役所でも職員はみなそうしています。それは服務規定に書かれています」とまくしたてた。

 服務規程はないだろう、と唖然とした。「迎えに来い」と言っているのではなく、今日は迎えがあるのかどうかを確認したかっただけなのに、と私も不快になった。それで、すぐに市役所の人事に電話を入れて、今こういうことを職員に言われたがそのような服務規定はあるのか、と尋ねた。当然のことながら、「そのような服務規定はありません、公務で移動するときは交通費が支弁されます」との返事。そこに、あわてたらしい課長から電話が入り、「すぐに迎えに行きます」とのことだった。
 これも後でわかるのだが、課長と件の女性職員とはとても仲が悪いらしいということだった。女性職員は以前からその部署の担当で古いので、経理を握っているとかで、課長もその経理の中身を把握できていなかったそうだ。課長が、私に予算を示さないで企画をせよと言うので、予算もわからないで企画はできない、と文句を言ったことがあるが、裏にはそのような事情があったようなのだ。

 実は、公務員と仕事をすると、こういうややこしいことがある。下級公務員ほど、ややこしい動き方をする。担当職員の勇み足で、私たちのような外部職員や非正規職員などは、そのとばっちりを受ける。
 外形的にはわかりにくいのだが、この担当職員の私情、価値観、牽強付会の言い分などが、そこに関わる人を翻弄し、トラブルの原因になっていることが多々あると私には見える。そうして無自覚であることが最大の問題だ。

 指示系統は守られねばならない。守れないような無理な指示、あるいは自分の重大な価値観に抵触すると思える指示に対しては、自分の立場を賭けて闘うしかない。闘うと言っても、別に喧嘩をするのではなく、その指示に対してきちんと自分の意見を言い、考え直してもらうよう提言したり、自分は何を問題と感じているのかを明示した上で協議してもらう。それでもうまくいかない時は、屈服して職務を全うするか、職を辞するか、を決断するしかない。
 が、自分の立場を守りながら、微妙に上からの指示を改竄したり、味方を作って自分の思う方向に恣意的に向けようとしたり、隠密な動き方をするから、話がややこしくなる。
組織は明示された指示系統に基づいて動くものであり、私的に動かしてはならないものなのだ。

 が、あちらこちらで、もめている。このようなもめごとは不毛だ。組織を機能不全に陥らせる。

 

 




生きるエネルギーが枯れそう

2013-01-04 15:23:09 | 日々の雑感
生きたいという欲求のようなものが、二日に一度は、ゼロ値を下回る。もう、生きていたくない、という思いがわいてきて、死にたいと思う。呟くように思う。

 それは、何か悪い出来事がきっかけというわけでもなさそうだ。昨日は、新年会で楽しい(筈の)ひとときを過ごした後、訪れた。今、自殺なんかすると、共に新年会を過ごした人は、「信じられない」「楽しそうに笑っていた」などと言うだろう。新年会の後に、電話で話した友人も、「楽しい会だったと言っていた」と、驚くだろう。
 楽しくなかったわけではない。みんな気持ちの良い人たちで、私に悪意や敵意を持っている人はいないと思う。
 
 楽しかったはずだ。悪くなかったはずだ。
それでも、私は生きていることの負担で、死にたくなる。

 大人になってから、いろいろな人と交流している忙しい時期に、とても疲れを覚えて、鬱に襲われるようになった。子どもの時は、ダイレクトに不幸感に押しつぶされて、鬱のようだったが、大人になってからは、様々な人と交流していることの空恐ろしさに、恐怖と不安で打ちのめされるようになった。

 が、しばらく、それらが消えていた。人を恐れない、堂々としていられる自分がいて、やっと人並みの自己肯定感を身につけたと思っていた。
 が、今はまた、苦しんでいる私がいる。このようなことは、他の人にも起こるのだろうか。あるいは、子ども時代から、否定的に遇されてきた者の自己肯定感の危うさがもたらす鬱状況だろうか。そういう人もいるが、そうではなくて、基本的に自己肯定的に生を享受できる人もたくさんいるのだろうか。

 自分がこの世にあることを良きことと思っていいのか悪いのか、それは賭けみたいなもので、良いことと思えるときと、悪しきことと思うときがある。
 死んだ方がまし、と思う時と、生きていこうと思える時がある。振れ幅の大きな振り子状態だ。振れながら疲れ果てる。エネルギーを失う。

 何か外から厳しいものが来ると、アッという間に、私のエネルギーは飛び去る。人々のエゴ、人々の欲望、それらに押しつぶされそうになる。
 自己防衛を攻撃に変える人がいる。無意識にたやすく、攻撃に変える。あるいは、些細な不快感を、すさまじい攻撃力に転換させ、自分の感情を守るために他者を踏みつぶす人もいる。そして、踏みつぶされる人もいる。

 昨年、世の中を騒がせた角田美代子という連続(殺人?)死体遺棄事件の主犯格の女性がいた。拘置所内で自殺してしまったが、私とおそらく同年くらいだ。自殺の報道に接して、どこまでも自己チューの人だったのだろうとしか想像が出来ない。自分の快楽追求のために行動していたのだろうとしか思えない。そして快楽追求の貪欲さは、おそらく不快の払拭ではなかったのか、と思う。不快感が続くと、私たちは蝕まれる。私は疲れ果てて生きたいという欲求を失う。その人は、もっとエネルギーが高くて、不快を払拭するために不快を上回る快楽を得ようとしていたのだろうと思う。そのための行動が、常軌を逸した他者への侵犯、物質的快楽と支配欲の充足だったのかと、想像する。
 その人に、行動の理由の説明を求めても無駄だったような気がする。被害を受けた人の被害の説明にはならないし、加害行動の理由が説明可能なはずがないと思う。
 カミュの『異邦人』のように、太陽が眩しかったから殺人を犯したのだ。不快の回避に過ぎない。しかし、不快は永遠に回避されない。自分を傷つけても、他者を傷つけても、その人の不快は回避されない。

 不快は、それを上回る快楽で置きかえる以外にないのだとしても、不快は次から次生まれるからだ。不快を生み出す装置によって生み出される不快は、その装置をこわさないことには終わることはない。不快を生み出す装置を何とかする以外にない。

 エネルギー値が下がっていることが多くなった。いつまで生きるのかなぁと思うと、少しは、実のある人生を送っておこうと思うのだが、、、、。
 

おばあさんは、男好き?

2013-01-02 22:00:03 | 日々の雑感
 年配の女性と関わる時によく思ったのは、ほんとうに男を大事にするなぁということだった。とにかく、男を立てる、男の言うことはよく聞く、男に褒められると喜ぶ、、、そして、同性である女のことはくそみそなのだ。

 そういう女性たちにたくさん遭遇してきた。逆に、リブ系は、必要以上に男の人を毛嫌いする。なんだか、男好きの裏返しであるかのように、ヒステリックに男を拒否してきた。

 自分の母親を見ていても、つくづく思う。次回のNHKの大河ドラマは、女性を主人公にしているので、魅力を感じないのだそうだ。スポーツ観戦がものすごく好きなのに、全くスポーツを見ない私でさえ興奮したなでしこジャパンは見ない。「女」嫌いを遺憾なく発揮している。

 この社会が女嫌いの社会なので、それをそのまま内面化してきた人たちだ。自らが女性であるにも関わらず、「女のくせに、、、」と他の女性に言ってきた人だ。女が女を貶める。男になりかわって、女を足蹴にしてきた女性がたくさんいる。そして、男の寵愛を求める。
 女に厳しく、男に甘い年配の女性たち。

 私にはきょうだいがいないが、子どもの時から、自分に男きょうだいがいれば、虐待に近い扱いを受けたのではないかと思ったものだ。もちろん、父自身が女である私をあまりにも軽んじていた、ということがある。
 子ども時代、何度も言われた。中学校から高校に進学する時、すでに世の中には高校進学するこどもが圧倒的に多かったにもかかわらず、「もし、お前に弟がいれば、お前は弟を高校に行かせるために中学校を卒業したら、働きにいかないといけない」と何度も言われた。私自身は当然のことながら、男女共学の学校に通っていたし、男子と机を並べて授業を受け、並みいる男子よりもよほど良い成績をとっていた。だから、男が勉学に向いているとか、賢いとか、微塵も思ってはいなかった。男子にせよ女子にせよ、いろいろな子がいる、としか思えない。しかし、父は、私が本来なら進学することはできない者である、ということを何度も言ってきかせた。

 大学に進学する時は、私は国立大にいけると言われていたにもかかわらず、父は、「もし、お前に弟がいたら、それほど勉強ができなくても、どんな私立大にでも行かせてやるが、お前が行くことはない」と、言明していた。

 当然のことながら、将来への展望を持てない私はノイローゼのようになっていた。否定され尽くして、生きていく気概がなかった。さすがに父は、私の消沈した様子に、「どこでも行けばいい」と最後には言ったが、子ども時代から積み上げられた私の空しさは、あまりにも根が深く、どのような希望もわいてこない状況にいた。
 
 父は女である私の将来像に「主婦」以外のイメージも興味もなく、母は基本的に女が嫌いだから、私を応援することはない。
 
 男は女に「女」として以外の期待はなく、女は「女」を厭う。母は、父が私を褒めるといやがったし、父が私を叩くことを望んでいた。「愛されるのは私だけ!」という母の強烈な思いがあった。父が私をひどく叱ると、やっと寛大になって母は私を慰めるのだ。とことん折檻されて打ちのめされていると、やっと母は慈母になる。その慈母を私は慕っていた。

 母は、私の息子の存在を喜ぶ。娘は「あの二人は相思相愛」と言うが、うまく言い当てている。
 医者に行けば、男性医師の存在を喜ぶ。

 この先、若い男性のヘルパーが増えて優しくしてくれれば、おばあさんたちは大喜びしてデイサービスでも何でも行くのではなかろうか。そんな気がする。高齢化社会は、おばあさん社会である。男性の介護士の需要は高いと思われる。

 母たちの世代は、同性の魅力を見出す機会があまりにもなかったのだろう。社会的地位を持つ女性も少ない。女性が魅力的に見えることが少なかったのだろう。もちろん、女性であっても、男性社会の中の女性像を好ましいと思う少数の人がいるのは事実だ。そこにはセクシュアルな欲求や志向も含まれる。性自認の問題もある。が、母のように、その社会の価値観を内面化し、自らが生き延びる道を探りながら、人生を送ってきた人たちには、他の選択肢はなかったのだろう。母が女嫌いであるのは、母自身の責任ではない。そのように仕組まれた社会を生き抜いてきたのだ。

 しかし、母と話していると、疲れる。娘の私に対して、魅力的であろうと全く努めない母は、ほんとうに魅力に欠ける。たくさんの美質を持っている人なのに、娘にはそれを示してくれない。