凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

ADD診断

2009-07-14 11:45:36 | 性格
 友人が、以前から、私のことをADDではないか、と言っていた。複数の人にそう言われてきた。一番目立つのは、私が「かたづけられない女」であること。私の仕事場の机の上は、目に余るものらしい。立場上、私の机は、他の人と並んでいなくて、奥まった所にどんと大きな机を置いてもらって目立つので、さぞかし、顰蹙ものであったろうと、今思えば恥ずかしい。いっそ、専用の部屋を与えてもらったらよかったのだが、そこまでは偉くない。中途半端な人間だったのだ。

 最も親しい友人のNが、私をネットのADD診断表を使って診断してくれた。20問中、15問が当てはまるとADDだそうだ。私の場合、14問が○で、4問が△だった。1問だけ、全く当てはまらない項目があった。
 いくつか、思い当たることがあった。集中力が持続しない、ということ。これが病的だと、自分でも感じたことが何度もある。どんなに重要な会議でも、対話でも、途中で避けがたく頭の中が他方面へ浮遊し始めることがある。今この場では絶対だめだという場面で、集中力が切れる。肝心の大事な話を聞き逃す。何を言われていたかが、そこで空白になる。何をしているわけでもない、ただ、頭が逃げていくのだ。これは、辛かった。
 責任のあるポジションにいて、ここで責任を果たさなければならない、という時に、それまで集中していた神経が突然眠ってしまうかのようになる。高校のときなど、先生の説教を聞いているときにこれが起こって、非常に辛い思い出があったりする。だいたい先生の話は前置きが長い。最後の方で、結論を言う。前置きの段階ではちゃんと集中して聞いているのに、結論の頃に突然、神経が逃げる。そして、肝心の話を聞き逃す、というような悲劇があった。
 これを克服することができはじめたのは、最近のことだ。自分のその傾向がわかってきたので、(あまりにも避けがたく起こるので、単に私の怠慢ではないと気づいたのだ)、できるだけ集中するように努力している。ある程度、努力は効果がある。それでも、ほんの一瞬、意識がなくなったかのように空白になる。が、取り返しのつく程度の空白で済んでいるように思う。

 もう一つ、これは結構早い間に克服したのだが、階段を最後まで下りられなかった。子どもの頃、家は平屋だったので、階段はあまり経験がなかった。学校や、他人の二階建ての家で、階段を下りていて、しょっちゅう踏み外して落ちていた。それも、もう階段が終わる頃に、踏み外す。上から落ちる、ということはあまりない。幼い頃は、そのままころんで、泣いていたこともある。大きくなると、高い所からでなくてよかった、という程度のアクシデントだった。しかし、それでも落ちることは落ちるのだから、中学校だったか、高校だったか、このままではまずいと思った。そして、なぜ落ちるのか考えた。そして、階段を下りるリズムが、一定続くと、必ず狂ってしまう、ということに気づいた。一定のリズムが続く作業は、必ず、リズムが狂う瞬間が来る。持続できない。その私の「癖」のようなものだけはわかったので、階段が終わる頃に神経を集中させる、ということを必ずするようになった。それで、階段を落ちる、という障害を克服した。今でも、階段は、一定のところから緊張して、精神を集中させる。無意識には下りられない。

 思えば、これまでの自分の生きがたさは、こういうところにあったのかもしれない。障害を負っている人の生きがたさは、障害そのものではなく、障害がもたらす人間関係の困難さ、そのことからくる苦悩など、二次障害とよばれる部分が大きいだろう。

 最近、アスペルガーだと思える人と話をした。明らかに変わっているのだが、でもその人は、とても優れた知能によって、ずいぶん、克服したのだろうと思えた。それでも、変さは残る。変さは残るが、その人の、裏表のなさ、真面目さ、優しさには感動さえ覚える。しかも、非常に優れた記憶力、思考力の持ち主だ。この人は、「忘れる」ということがないのか、と思うほど、知識がため込まれ、無限に出てくる。この人の良いところが、活かされることを願わずにはいられない。

 Nも言う。私が、彼女と話していると、いつの間にか聞いていない、ということがあって、ずっと不思議だった、と。でも、私の分析というか、検証を終えて、やっと納得できた、と言っていた。
 私は、自分がなぜ、一定のリズムを突然失ってしまうのか、なぜ、何もないのにいきなり自転車でバランスを失うのか、なぜ、突然頭の中が空白になるのか、わからなかったが、これが一つの、器質的傾向だと思うと、納得がいく。
 ADDは障害の一つのタイプとして名付けられた。私は、このような発達障害の類型は、細分化して、これからもどんどん、生まれてくると思う。早い話が、細分化した究極は、すべての人の「発達障害」化だ。が、世の中はそうはならないだろう。たまたま、器質的に、この社会が求めるものを具備している人は、健常者の位置を占有するだろう。
 器質的に傾向があるのは、その通りだと思う。その傾向の強い人が「障害」として、ラベリングされるのだろう。この類型を増やすことがよいのかどうか、私にはわからない。

 恰も、インターセックスのタイプを次から次に名付けてきたように、特殊化していくやり方が、あたっているのだろうか。おそらく、男と女とインターセックスの境界など永遠に見いだせないように(全部、地続きなのだから)、発達障害を特化していく作業も空しい気がする。「健常」と「障害」の線引きなど不可能なのだから。