凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

最近思うことの一つ

2012-03-16 13:30:09 | 日々の雑感
 もう久しく思っていること。
たとえば、電気屋に行く。すると、嘗ての電気屋の店員さんというものは、こちらのニーズを汲み取ると、それならこれを、と適切な商品を薦めてきたように思う。商品知識のない私たちにとって、店員のアドバイスは唯一の商品選択の決め手だから、適切なアドバイスをしてくれる店員は有り難かった。しかし、今、電気屋に行くと、特に量販店には、やたらオタクっぽく、こちらのニーズ以上の説明をしてくる者、全く商品知識のない者に分かれるような気がする。だいたい、そういうのは若い人に多い。年配の店員は、今でも、余計なことは言わず、適切に商品を薦めてくれる。こちらの許容できる価格ラインも、会話の中で汲み取っているので、バカ高い商品も薦めない。「その使い方なら、この商品で十分ですよ」と言う。そう、私のような消費者は、自分の使い方にとって使い勝手がよいかどうか、だけを知りたいのだ。後は、価格だけ。仕組みがどうであるか、というようなことは教えてもらってもわからない。そのあたりのことを、昔の電気屋さんはよく了解していたような気がする。

 もちろん、商品自体が、過当競争の中で、微妙な違いをつけてくるから、説明する方もその微妙な差異を伝える必要が出てくるのかもしれないが、私が良好と思う電気屋の店員は、「こんな付加機能は、なくても全然大丈夫ですよ」と言ってくれたりする。こういう人は、電気製品が、通常、家庭ではどのように使われているかを熟知しているから、不要な付加機能というものもわかっている。その付加機能のために価格がアップしているとすれば、それがいかに日常生活において不要であるかもわかっている。だから、適切にさりげなく、アドバイスしてくるのだ。その店員自身が、目くらましのようにつけてくる新商品の意味のない機能、デザイン、というようなものを苦々しく思っているのかもしれない。そういう生活者としての実感を共有している人が、店員であったりすると、とても助かるアドバイザーだ。だから、私は、昔からある店に行くことにしている。若いオタクっぽい店員がうろうろしているような店で、家電製品は買わない。苛つくからだ。

 しかし、これは電気店だけではないような気がしている。本について知らない本屋の店員、イタリア料理のことを知らないイタリアンレストランの接客係、ワインについて全く知らないカフェバーの接客係、、、こうした人たちに日々出くわす。低賃金不安定雇用を繰り返す結果、その業界に熟練しない、知識を蓄えようという意欲もない人たちが、働いている風景が当たり前になった。当然、人は次々に代わる。そして、毎日、ビギナーが接客をしている。客もこうした店員からは何も教わらないし、期待もなくなる。客も店員も、素人で無知という、とてもお粗末な風景が展開されている。
 この社会の様々な力の低下は、こうした雇用の問題と密接につながっているのだろう。

 私が関わっている業界もそういうことかもしれない。

ちょっと鬱っぽい

2012-03-14 22:39:22 | 日々の雑感
 季節のせいか、ここ一ヶ月近く、あんまり精神状態がよろしくない。とてもけだるい。何をしても気分が盛り上がらない。それなりに、することはあるのだけれど、、、、。否、やらないといけない事務仕事が一つ、お尻に火がついているけれど、どうも打ち込めない。何が悪いのか、、、、。

 講演の仕事や人を束ねる仕事などをやりつつ、全然うまくいかない感じが残る。以前は、もう少し、達成感が残ったのだけど、今度はなんだかイマイチ。たぶん、集中力がなくて、緻密に考えられなくて、整理してものが考えられないせいで、だらだらしたもの言いしかできなくなっているのが理由で、やり終えた感じがしないのだろう。

 何がしたいのか、、、。いつも、今自分がしたいことは、今自分がしていることではない、という感じが拭えない。これではない、という感じ。ここにいるのは違う、という感じ。

 だからと言って、他に何があるわけでもない。今やらないといけないことが、今私がしたいことのはずだったのだ。

 それなのに、始末の悪い私。

 空しく、アンニュイな気分で、とろんとしている。

 ホイットニー・ヒューストンがなくなって、多くのこれまでの芸能人やアーティストの時のように、またもやオーバードーズのような噂があって、ふと思う。私とはもちろん比較にならないあの成功した人たちだけれど、でも、結局、自分のテンションを維持するために何かを必要とするのかなと思う。
 特に日本の若い芸能人がドラッグなどで逮捕されたり、という事件を聞くと、舞台などで多くの観客を前にして、その人達を引っ張っていって盛り上げる状況を創り出していくとき、自分が沈んではいられないわけだから、時には無理矢理、自分を引き上げ、テンションを高くするための方法が要るのだろう。それが、目の前にドラッグなどが手に入れやすい状況で現れたら、そしてその効能を聞かされたら、手を出してしまった、ということがあるのかもしれないと想像する。
 多くは、普通の、時には気の弱い、劣等感もある、一つ違えば引きこもりになったかもしれない若者だったりするのだ。かれらが、空恐ろしい大人数の人々に慕われ、憧れられ、自分たちをいい気分にしてほしい、という期待を持って待ち受けているのだ。その期待にこたえるために、自分を高みに引き上げたり、テンションを無理に上げたり、様々な工夫をしながら、時には苦しむだろうと思う。

 それは誰にもあることなのではないだろうか。私も、内気でコンプレックスの固まりだった子ども時代のことを考えると、気がついたら、人前で講演をしたりするのが仕事になり、評判を聞いて講演の仕事を頼んで来る所などが増えていた。期待にこたえなければ、時にはおもしろがってもらわなくては、とプレッシャーがかかる。
 テーマによって、とても笑わせてしまった講演の後、「面白かったから」と、また頼まれる、というようなことがあって、しかし別にお笑いの仕事ではないのだから、それが得意というわけではないので、プレッシャーがきついことがある。それでも、自分自身がそれなりのテンションを維持している時は、なんとかやりこなす。

 が、ひとたび、今のように、仕事が少なくなり、自省する時間の方がやたら増えると、テンションが下がり始め、以前のように仕事に向かえない感じがある。人前に出るということは、自分の中に一定のテンションが必要なのだ。ハイな時は、調子が良くてどんどん盛り上げることができて、自分でも信じられないくらい、人々がついて来る。
 人というのは、相手のテンション、士気、気概、といったようなものを受け取って、自分もそれに呼応したテンションを持てたりするのかもしれない。そして、私はその先導役だから、自分自身でテンションを維持する必要がある。

 事件を起こす人たちの中には、そういった時にドラッグなどに手を出す人がいるのだろうと思う。ちょっと落ち目の人がそういう事件を起こすことが多いようなのは、そのせいなのかなと。

 まぁ、私はそういうものに手を出すわけもないし、どうして浮上するか考えないと、このまま鬱になってしまいそうだ。


 




 

一人でいるということ(2)

2012-03-11 13:16:14 | 日々の雑感
   咳をしてもひとり
   こんなよい月を一人で見て寝る
   一人の道が暮れて来た

 尾崎放哉のこんな句が、一人でいると、浮かんでくる。
 
 夏のある日にふと書いた私の拙い句
   蝉しぐれどんなふうに死ぬるやら

 今、思いつきで書いてみる    
   テレビだけはしゃいでいる昼下がり
   外の風連れ込んでくる友を待つ

 そうだった、もうすぐ友人が来るのだった。私の鬱を知らぬ友が、ひょっとしたら一層の鬱を伴って来るのかもしれない。
 所在なく待つ。掃除を適当に済ませて所在なく待つ。





御神酒徳利

2012-03-10 15:24:06 | 人間関係
 女子だけにある現象なのか、よく言われることがある。女子中学生とか女子高校生とかに見られる現象として、休み時間にトイレに行くのも一緒、という現象。とにかく、どこにも連れ立っていく現象がある、と言われる。
 確かに、そういう「現象」は見たことがあるような気がする。私はどちらかと言うと、あまりつるまないので、そこまでの関係には至らないが、女子学生の一種異様なつながりはなじみがあるような気がする。

 そして、大人になって、フェミの世界に入ってから見る現象に、それが重なることがある。女性二人のカップルに見られるのだが、どこに行くのもとにかく二人セット、という現象だ。バラバラで行動するのが不安なのか、とにもかくにも、一緒なのだ。

 ある日、カップルの人たちに愚痴を言われたことがある。ある団体の遠足で、ボランティアとして大型の車の運転を頼まれた。女性で大型を運転出来る人はあまりいないので頼まれたのだが、そこにパートナーの彼女もついて行くことになった。すると、パートナーの方には参加費の請求が来た、というのだ。パートナーはすごく怒っていて、「私が一緒にいたいから行きたがると思っているのよ。家族なのだから、仕事を共にするのに、、、」と息巻いているのだが、私にはその怒りの理由がさっぱりわからない。普通、家族は仕事について行かないだろう、と思うのだが、、、。どうも、ドライバーを頼まれた方が、「一緒に来て」と頼んだらしいのだが、それもなんだかなぁという感じ。
 ただ、完全に無償のボランティアというのを聞いて、それはあんまりだろうと思ったので、ドライバーについては世話役の人に連絡をして、謝礼を出して貰った。が、ついて行く彼女の方の理屈はさっぱりわからないので、放置した。

 単独で行動するのが不安なのか、フェミの世界は女性ばかりなので、要らぬ詮索をされてパートナーともめるのがいやで一緒に行こう、ということになったのか、よくわからないが、こういう人たちとは、だんだんつきあいが疎遠になる。一対一で向き合えない人と、まともな関係を築く気になれないのだ。

 人里離れて二人きりで暮らして来たカップルもいるが、どうも二人だけのローカルコードが出来上がっているようで、なかなかコミュニケーションが難しい。二人でいることのメリットとデメリットを考えると、私などは、閉塞したカップル関係はつくらない方がよい、という結論になってしまう。
 
 二人関係というのは、特にフェミを経由したカップルは、互いをエンパワーし合い、受容し合い、高め合う、というメリットがある。が、一方で、二人の間にある隙間を埋めたり二人きりの価値観を共有し合ったりしている間に、二人以外の人との関係がつくりにくくなる。二人で盛り上がって、外部の感覚とずれていくこともある。

 私はどこに行くにも一緒、というカップルを、御神酒徳利カップルとひそかに呼んでいるが、何か、子ども時代の、トイレに行くのも一緒、というあれを思い出して仕方がない。

 女子は、単独で行動するのが怖いのだろうか? 不安なのだろうか?

 確かにいろいろ仕事等で悩んでいるとき、一人きりで晩ご飯を食べていると、寂しくて辛くて、たまらない時がある。人はそういう寂しさを経験して、誰かと住みたくなったりするのかもしれない。
 この孤独の辛さはなんとかしたいが、しかし、SNSに来るようなおじさんは金輪際いやだし、御神酒徳利もいいとは思えず、解決策はない。

 そのうち、母のことを気にしないでよい時がきたら、まずは、孤独なシングルのためのネットワークづくりあたりをやりたいと、ずっと思っているが、、、、。
 
 

全能感に満ちたお年頃?

2012-03-08 11:49:19 | 日々の雑感
 久しぶりに昔、私の講座に来ていた若い人にあった。

 一時期、とても落ち込んでいて、自信なさげで、引きこもるような感じだった。

 が、久しぶりに会うと、元気そうで何よりだった。

 が、びっくりした。全能感に充ち満ちている、とでも言おうか。自分は何でもわかっている、という状態になっていて、一緒に働いている人のことをくそみそ。誰それはここが変、あれはこれが足りない、あいつはこういうダメな奴、、、、という感じで、一緒に過ごした後、ちょっとこちらも疲れた感じ。

 一緒に食事を、と言ってくれるのだから、私のことまでくそみそに他で言っているとは考えたくないのだけど、なんだかな~。まぁ、口で言うほど悪くは思っていない、ということもあるから、割り引いて考えてもいいのだけど、他の人がそれほど能力が低く見えるというのは、自分の能力がそれほど高いと思っている、ということか?

 嘗て、私の講座に来ていて刺激的だと言ってくれていた人だから、当時は初心者であったのだろうけれど、長い間には勉強して知識を身につけたのだろう。それでも、あの他人への厳しさには、う~んと唸ってしまう。

 でも、確かに若いとき、全能感に満たされる感じの時はある気がする。もっと若い時とは違って、いろいろなものが見えてくる、酸いも甘いもわかってくる、知識も増える、という時期がある。知識の使い処もわかってくるし、とても偉く見えていた上司や先輩などがやっと普通の人だとわかってくる。その頃に、ある程度能力があると、なんだか自分が一番何でも見えているように思える時期があったりするのだ。私もおそらくそういう時期はあったのだろう。ただ、キャラクター的にエラソーに見えないタイプだったとは思うので、そうそう他人に「エラソーに!」と思われることはなかったのかもしれない。
 私の場合、仕事を始めたのが遅く40歳くらいなので、その後になるが、多くの順調に来た人は20歳代~30歳代でそのような時期を過ごすのかもしれない。
 私は、人の紹介で出会った人から、次に会った時に、「すごい方だったんですね。失礼しました」などと言われた。たぶん、権威のある本などで私の名前を見つけた人などがそういう言い方をしたのだろう。まぁ、それくらいでいいのだ。ノっている時には結構目立つ仕事もできるが、また時代の要請で変化も起こる。時代が後押ししたり、阻んだりする。自分一人の力ではないのだ。

 が、全能感に満たされていると、どうも自分の力と錯覚するらしい。特に、劣等感が強い人の場合、その落差が大きい。最初から尊大で最後までエラソーな人はそういうキャラなのだろうけれど、激しく上下する人は、キャラの変化が目立つ。
 先日会ったその人に、いささか驚いてしまったのだが、人とはまことに厄介なもの、という感じがした。

 人よりも劣っている自分に嘆く時期が過ぎて、人よりも優れている自分に酔う時期がくる。埋め込まれた自我意識の面倒くささに、なんだかなぁ、と思う感じ。

一人でいるということ

2012-03-05 10:34:42 | 日々の雑感
 何度か、これまでもプロジェクトをやって来た。私のやることだから、大したことではないが、公開集会を企画したり、冊子を作ったり、なんとなく私が音頭を取ることがよくあった。やるたびに、達成感よりも、疲労感が大きい。うまくやれた感覚がいつも持てない。上手くやれなかった感が残る。

 一つは、誰にも弱音を吐けないことがあるだろう。うまくいくだろうか、不安だ、最後はちゃんと閉めなきゃ、、、と、あれこれ思いが動くが、それを言う相手はいない。一緒にやっている人たちは、たいてい、ついてくる人たちだし、頼りにしたい人は遠方にいて、メールを送っても全然レスをくれなかったりして、こちらはやたら心が疲れてしまう。一人、空回りをしているような気分、誰も私の苦労を知らない辛さ、自分が主体的に関わる気がないから、「言ってくれたらやるよ~」レベルで暢気にいる。

 私自身も立場が変わればそんなものだから、文句を言うつもりはない。しかし、疲れるのだ。中に、あら探しするだけの人が混じっていたりすると、もうアウトだ。

 今回も、昨年からずっとやって来たことの一応の区切りをつけて終わったのだが、なんか徒労感が大きい。集まりがいやなら来なければいいのに、来てはくれるので気に入っているのかと思えば、そうでもない。招集をかけるととりあえず来ているらしい。なんだかなぁ~。しかし、区切りの学習会をやったので、それはよかったらしく、いい機会だったと言ってくれる。それはよかったけど、私の苦労はかなりなものだったんだけどね。複数の人との調整は本当に難しい。腹が立っても、ぐっと押さえる。私が不安がっているわけにはいかないから、それは見せない。同じトーンでずっと準備をしていくのだが、相当苦しかった。

 鬱のようになってしまった。感情をおさえるのはなかなか負担だ。それをただ聞くだけでも聞いてもらうと気分が救われるのだろうけれど、そういう相手がいない。
 遠隔地にいる人は、同じプロジェクトの人と同居しているので、二人でいろいろ話し合い、協働し合っているから、こちらと連絡をとれなくても全然困らないのだろう。一人であれこれ考えたり作業をしている者の気持ちなどわかるはずもない。

 プロジェクトのメンバーは協力者というより、私がメンバーに活躍の場、癒しの場をつくって提供した、という感じだから、それは私自身が企図したことである。私が彼女たちをエンカレッジしたかった、そのために企てたプロジェクトだ。だから、それでいいのだけど、結果的にその役目を果たせたのだったらそれでいいのだけど、、、。

 なんか、挫けている。ひとりぼっちで、他の人のエンカレッジのために、様々なストレスを経験して、今、こうして鬱っぽくなっている。
 自分のことなど顧みないで動くのだけど、最後に残っているのが、砂をかむような孤独感、不充足感、小さな悔恨、というのはどういうことか、、、。

 まだ、私の覚悟の足りないところなのかな。見返りを期待したことなどないのだけど、報われなさが残る。
 にもかかわらず、また次に、別のステージで人をエンカレッジするために動く準備をしているのだけど。


いつか自分は失敗するのではないか

2012-03-02 20:47:23 | 考え方
 世の中には、自分の人生に幸せを感じにくい人と、基本的に幸せ感が漂っている人といるような気がする。

 特に、標題に書いたような、常に不安が拭えない人は結構多い。何かにつけて自信がない。いつも何をやっても、自分はうまくいかないのではないか、ここで失敗するのではないか、という不安がつきまとうので、うまくいっていても、そこに安心できない。今、うまくいっているのはたまたまだ。今に大変な目に合うのではないか、、、、。そのような不安がつきまとうので、うまくいっていても、それで幸せにはなれない。満足感もない。むしろ、うまくいくのはおかしい、今に何かあるに違いない、と思ってしまうから、幸福感とは無縁なのだ。

 世の中の人の自信は、多くは根拠はない。それと同じように、劣等感も根拠はない。根拠がないのに、自信たっぷりな人と、根拠もなく劣等感にさいなまれている人がいる。どっちも大した根拠はないが、それを裏付ける何かを持っている。自信たっぷりな人は、少々何かが人より出来ることがあるかもしれない。褒められたことがあるかもしれない。そういったことの一つひとつが、その人の自信をさらに裏付け、ますます自信たっぷりになる。一方、劣等感を持っている人は、失敗した経験、人から評価を受けなかった経験を全部、自分の能力のなさの証拠、自分の劣等の証拠として、さらに劣等感を積み重ねていく。 
 興味深いことに、その二人を並べて客観的に見ると、劣等感の強い人の方が、よほど優れたものを持っていたりすることがある。容姿も美しく、知性も高く、すべてにおいて優れていても、自信がなく、劣等感を深めている人がいる。

 そのネガティブな自己意識は、どこで培われてきたのか。
私は、以前、自分のポジションの前任者に比べられたことがある。否、比べられるのではないかと、ただただ萎縮していたのだ。私はその人に比べると、自分はカスみたいなものかと思っていた。でも、考えてみよう。その人と私は、あまりにも似ていないので、全く違うタイプであったのだが、私は後任として選ばれたのだ。その人のような知名度はないが、その人とは異なる難しい仕事をした。その人の愚かさはもうはっきりしている。自分の立場を良くするためなら、なりふりかまわぬその人の行動も垣間見えている。大輪の花のようなその人は、イベントには女王さま然としていた。私は、ずっと、その人のことを「子ども時代にいつも主役を張っていた目立つ子」と形容せざるを得なかった。美貌で知性があって、世界的に活躍するその人。
 後任の私は、自分の役どころを、足下をしっかり見る者として位置づけ、光の当たらない人に光を当てることに心血を注ごうと思っていた。それを自分の持ち分にしていた。勿論、それは私のポリシーだから、そのこと自体を間違っているとは思っていないし、今後もそうしていくと思うが、しかし私は、それを大輪の花と日陰の雑草というようなイメージで考えていたような気がする。
 が、今、思う。それは何の違いなのか。私はそんなに卑屈にならないといけなかったのか。

 ある人が、私とその人について言及してこう言った。「前の人も、今度の人も、どちらもビジュアル系ですね」と。つまり、私のこともビジュアル系だと言ったのだった。しかし、前任者は、本当に自信たっぷりだが、そして、自分の右に出る人はいない、と思っているようだが、私は、足下にも及ばないと思っていた。
 でも、実はそんなに月とすっぽんほど、変わるわけではないのかもしれない。

 変わるとすれば、自信たっぷりなその人と、劣等感に時に苦しむ私との、自己意識の違いだろう。それは、月とすっぽんほども違う。

 そして、その自己意識の違いは、その後の結果の違いにつながる。自信たっぷりな人にはそれに見合った成果が待っている。自分の自信に見合った成果を引き寄せる力がある。
 自信のない人は、良い結果に対して尻込みをしたり、良い結果に懐疑的であるから、一定以上の成果は来ない。悪い場合には、失敗を呼び込んでいる人もいる。失敗して、ホッとする、というような人さえいる。それが自分らしいからだ。ちょっと不幸程度であることが、その人をホッとさせるからだ。自分の劣等感に見合った成果を、求めてしまうのだ。

 客観的には何もその人に悪いものはない。むしろ、良い資質に恵まれているケースもある。「あなたは幸せになっていいのだ」「あなたは、もっと良い人生を送ってよいのだ」と、言ってきかせないといけない女性たちに、たくさん出会ってきた。
 いつ、その人の劣等感が育まれたのかはわからない。親が自分を否定ばかりした、と思っている人もいるだろう。しかし、その親も自信がなかった、というケースが多い。親自身が、自信がなく、自分たちの子どもにそんな良い人生が待っているはずがない、まずはただただ無事な人生を、、、と、願う消極的な親もいる。まぁ、私の親がそういう親だったから、親の呪詛から解き放たれるのはほとんど一生の半分以上かかった感じだ。が、根拠のない呪詛だから、解かれる可能性はある。

 親の呪詛はかなぐり捨てよう。彼ら自身が不安だったので、その不安を自分の子どもにも分け与えたのだ。が、子どもはもっと力がある。親の不安は親に返そう。
 余分な根拠のない自信過剰も困ったものだが、不安過剰も始末が悪い。

 自分ががんばった分だけ、成果はある。もちろん理不尽な出来事にやっつけられる事はある。長い人生、そういうことはある。しかし、それは外から来ること。自分の内部にあるものではない。自分自身に問題があるわけではないのだから、ただ立ち上がるだけだ。立ち上がって、また頑張るだけだ。
 自分の内部にネガティブなものを溜め込んで、それに負けてしまうようなバカなことは避けよう。それは外に放り出そう。あなたは、ただ、自分の持っている良き力を出すだけだよ。