凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

全身疲労

2013-05-30 14:30:40 | 自分
 毎日、少しずつ毒を盛られていたら、こんなふうに少しずつ衰弱するのだろうか、と思えるような全身的な疲労感が尋常ではない。病院で検査を受けても、何も見つからない。が、どんどん衰弱する。友人にも、「とても弱っている、という感じだ」と言われた。その通り、まさに弱っている、という実感だ。

 で、思うに、これはやはり精神的な問題ではないかと。もちろん、6年ほど前、心療内科を受診して、精神的なものからきていると思いこんでいたら、大腸癌だったということがわかり、手術をして治ったというようなこともあるから、油断はできない。と言うより、精神的な弱りが、身体的な問題を生み出すのだろうと思う。

 私の今の弱りは、過去の亡霊に脅かされるせいだろうと思っている。ほんとうに辛い、いやな出来事の連続だった。だからこそ、大きな病気を引き起こしたのだが、身体の病が癒えて、今度は精神的に蝕まれている実感がある。
 私へのいやがらせ、故ない攻撃、八つ当たり、そのようなものにどっと見舞われた数年。そして、それをおこなった人たちは、全く自覚がない。なぜなら、彼女たちは、ただただ生き残るために必死だったり、ただただ自分が正しいと信じておこなっただけだからだ。だから、加害者意識はない。また、こういうタイプの人は、決して自分を省みない、という特徴がある。常に、自己肯定で生き抜く。この男社会で、自分は被害者であった、という一貫した信念で生き抜いてきているから、そこから一歩も出ない。自分に不都合な人は全員、批判、攻撃してかまわない相手になるのだ。だから、この人達が気づく事への期待は一切ない。決して、自分のしたことを振り返らない人たちに、何の希望も持っていない。

 だから、苦しい。絶望が私を苛む。誰も優しくない。誰も、私を理解しない、という孤独感、絶望感、無念に苦しむのだ。
 私が私のことばで自己弁明できる力があればやりたいのだけれども、その前に、体力が失われている。衰弱している。

 こういう経験をして、あらためて思いを馳せるのは、自己弁明できず、斃れていった人たち。埋もれていった人たち。生き延びて、自己主張を貫いて、勝利をかちっとった人たちは、やはり強者だ。

 親に侮られ、貶められ、攻撃を受けた子ども時代があって、(私が育ったのは、多くの親が子どもを理解せず、子どもに手厳しかった時代だが、それぞれの親の個性、組み合わせによって、死ぬか生きるかの闘いに至る親子もある。不幸な組み合わせ、タイミングだ)、そのせいで、今うまくいっていないと思うことが、さらに絶望感を強める。子ども時代はもう取り戻せないから。

 現状の既存の条件に、少ないストレスで適応できる人が、最も良く生きられるのだろう。厳しい時代に厳しい条件下で育ってしまった者が、自分の望む心地よさを得られない不遇感に参っている、というのが私の現状なのかもしれない。

若い人に見るものは、、、

2013-05-25 11:55:23 | 人生
 年を取ってくると、若い人とは対等につきあえなくなる。向こうが、こちらを異文化の人のように敬遠してくるので、だんだん戦列からはずれていく。
 それでも仕方がないとは思う。自分も若い頃にそうだったから。

 若い人に気後れせずに、自分の話を滔々と始める人って、やっぱりすごい。こういう人は、相手の思惑にかかわらず、常に自分を打ち出す人なのだろう。

 そして、私のような者が、若い人に抱く思いは、やはり自分がいなくなった後もこの社会を生きるであろう人たちへの、自分が共有しなくなった時間への思いのような気がする。私がいない未来、その未来を、今私と同じ時を共有する若者たちが生きる。私は生きられないが、あなたたちは生きる。それは、希望なのだ。私の関与しない時間へのはろぼろとした思いだ。

 なぜ、悠久の時というものに、人は、否、私は憧れてしまうのだろうか。気の遠くなるような過去を生きたとされる恐竜の化石の展示を見ると、何かかき立てられるものがある。私は関与しない、私という個体とは無縁の時間なのに、生命があったという証拠を見せられただけで、私は「個」を超えた夢の世界に浸ることができる。

 そして、私が生きない未来に、きっと生きるであろう若い人にも、その生命のつながりだけで、私は希望を感じてしまう。

 確実に私はいないのに。でも、未来を考えるだけで、悠久の時への憧れが胸中に広がる。でも、生命が存在しない可能性を示唆されたら、私の躍動する生命感も止まる。私という個体が生きなくても、生き物の仲間がまだ生き延びるのであるなら、生き物としての私には生命がつながる感覚がわく。

 だから、若者に希望をつなぐ。だから、その若者がうちひしがれ、数々の社会の過ちに潰されたりしたら、たまらなく辛い。若者を苦しめるのは、今を担う大人の責任だ。若者を誤導するのも、今の時代を仕切る大人の蒙昧な言動の結果だ。それには怒りを覚える。仕切る力もなく、先導する能力もないが、若者が生きやすく次の時代に向かえるように、ただただそこを応援したいと思っている私は、若者の未来を祈るように思う私だ。
 

疲れてきた理由

2013-05-13 12:35:35 | 人生
 60年以上も生きてきたのだから、人生に疲れてくるのも仕方がないか、とも思う。自分にも飽きたような気がする。

 人生の疲れ。しかし、それは、長さのせいばかりではないのだろう。

 友人が、PTSDではないか、と、珍しく優しいことを言ってくれた。あれほど辛いことが続いたのだから、傷ついていて、まだ癒されないのだろう、と。
 それもあたっている気がする。傷は癒えない。そして、癒えない理由に、思い当たることもある。それは、適切な傷の手当てができていないからだ。友人もそこまでは見通してはいないと思うが、「他人にどう思われるか」ということは、相当人間を疲弊させる原因になるような気がする。「他人にどう思われてもよいではないか」という意見は、果たして正しいのか。人の存在基盤は、自分が自分のことを正しく認識できていればそれでよい、というような構造にはなっていない。他からの認識が自己認識をつくり、自己評価にも影響を与える。他者の目のないところで、私たちは自我形成はしないものだ。自己意識は、他者からの目によって規定されているのだ。だから、「他人にどう思われてもよいではないか」というのは、無責任で雑な意見だ。もう少し丁寧に言うならば、「どう思われてもよいとこちらも思える、どうでもよい他人がいる」というに過ぎない。「どう思われるか、とても気になる」他人が確かに存在して、その他者の目によって、私たちは自分を成立させるのだ。

 そして、その他者の目が厳しかったり、誤解に満ちていると感じると、どっと疲れる。

 つまり、こういうことだ。結婚したから、子どもを生んだから、と言って、私がヘテロセクシュアルである、という証にはならない。夫が亡くなったことにいつまでも傷つき、身を切られるほど辛いからと言って、それがわたしのヘテロセクシュアリティを証明するわけではない。夫の住む家を出たからといって、夫を嫌いになったわけでもないし、女性と一緒に住んでいたからレズビアンになったという決めつけも困る。夫とも仲がよく、女性のパートナーもいたから、バイセクシュアルだと決めつけられても困る。別れたら不仲だと決めつけ、離婚しないと中途半端だと罵り、一緒に住んでいた女性といつまでも仲の良い友人同士だと「二人はまだ終わっていないのね」と、、、。
 え~かげんにせえよ! 他人は自分に理解可能なストーリーで、こちらの身の上を推し測る。あなたの理解力なんて、たかがしれているんだよ! あなたの想像力なんて、貧しい貧しいものなんだよ! 人は、自分の知らないことについては、存在しないことと思うもののようだ。

 幼い頃、五十音を教えてもらい、それ以外の音はないのかと不思議だった。私の世界のすべてであった五十音図に存在しない音を、発音してみるのだけど、誰もそのような音を教えてくれない。文字も存在しない。もう少し大きくなって英語を学ぶまで、五十音図が音と文字のすべてだった子どもには、そこから逸脱する言語は存在しない。聞き慣れない外国語の歌を聴いても、自分の知っている世界の音に読み替えて記憶した。

 そのようなもの。自分の概念系統に存在しない新たな概念を受容するには、知識も想像力もなさ過ぎる人々にとって、自分のなじんだストーリーですべてを解釈する以外にないのだ。そして、他人の生き様を見誤る。

 見誤られて、さまざまに評論されて60年以上も生きてきた私は、今や疲れ果ててきたのだ。くたびれる。もう、いやだ。そんな感じである。
 

 

老いの寂しさ

2013-05-13 10:26:24 | 人生
 誰が悪いのでもない。出入りしているサークルのどの人も性格の良い人ばかりだし、礼儀正しく能力の高い人たちだ。

 ただ、私が最年長で、週に2~3日のパートであるという身分で、もはや隠居さんに近い位置にいる、ということだけだ。それで、私が勝手に寂しいのだ。

 程よい敬意をもって遇されると、距離を感じる。寂しい。現職でばりばりの人や、これから職を得ようとする若い人は、勢いもあるし、なにしろ将来に向かって歩いているので元気だ。いや、私も若い時は、今思えば、元気だった。若い人の間では、元気がない方だったけれど、自分の中ではやはり元気な時代だった。

 年寄りで、それなりの実績を積んできた人なら、もっとそれにふさわしい敬意を払われ、重んじられ意見を求めてもらえるのだろうけど、私如きではそれは望めない。大した実績も積んでいない、重職にあったとしても短期で倒れたし、今のサークルには大して意味のない職であったし、要するに取り柄のない年寄りなのだ。

 居場所がだんだん寂しくなる。

 困ったねぇ、根が遊び人だから、しかも大して遊ぶこともできなかった遊び人だから、若い人に伝授するものを持っていない。

 困った老人だ。ほんとうに、始末の悪い老人だ。自分で自分がいやになるよ。

娘の母イメージ(2)

2013-05-08 10:56:37 | 
 時々、娘と話をしていて、こんなにも理解されていないのかと驚く事が多い。ということは、私も、母を理解していない可能性が高い、ということだろう。

 昨夜、娘と話したとき、娘は、仕事があればどこへでも行く、と言った。つまり、今私の住まいの近くに住んでいるが、そこを離れて遠くへ行く気持ちがある、という意味だ。そう言ったとき、私は、当然そうだろう、と思った。現役世代でない私でもそう思っているからだ。が、娘は、「仕事があれば、どこでも行くよ」と言った後、「ごめんね」と付け加えた。それに驚いた。娘は何を謝ったのか。傍を離れる意思がある、と言明したことが、私を悲しませるとでも思ったのだろうか。
 私が、若くてエネルギーのある間に、できることは何でもやって、行きたい所にはどこでも行った方がよい、といつも言っているにもかかわらず? 娘の中には、私の実像よりも、常に「母親」「女性」というもののステレオタイプがあるのかもしれない、と思うと、やはりちょっとがっかりする。

 まぁ、娘が母親を自分の願望を入れ込んで見ている可能性はあるし、自己イメージを裏切っているパフォーマンスを、こちらがやっている可能性もあるけれども。母親らしくしなければ、とどこかで思っている私がいるのも確かで、その意識があるために、どこかで常識的であろうとする私がいるのは確か。こう生きてしまったので、来世でもなければ、ありたい私にはなれない。

 女でありたくなかった、とか、結婚したり子どもを生んだり、そんなことはしたくなかった、とか、、、そんなことを思っていてもね、、、。でも、案外、そういう女性は多いと思う。「もし、生まれ変わるなら男性と女性とどちらがいい?」という質問に対して、「生まれ変わるなら男性」と答える女性が、1960年代なら90%を超えていた。その後、だんだん「生まれ変わっても女性がいい」という回答が増えていくから、女性でも居心地が良いという環境が整いつつある、ということだろうけれども。
 私はやはり、女でありたくない、と今も思う。が、今では、男でなくて、命拾いした、という思いもある。男の世界は過酷そうだ。そこでサバイブするのは、なかなか厳しそうだ。男の寿命が短いのは、男の方が女性に比べて苦労しているせいだとか、よく言われるけれど、私はそれは男社会の問題だろうと思っている。女性は守られる側で、男性が守る側だから厳しい生き方を要請されているのではなく、男達は互いに競い合い、息が抜けない環境に身を置いているからだ。男性同士のやり取りを見ていて、唖然とすることがある。女性の私が問いかけたことに対して、とても優しい返答をしていたにこやかな男性が、同じ問いかけを男性からされた時、イライラした様子でにべもなくはねつけているのを見て、男達は互いに受容し合わないものらしいと感じた。利害がからむと態度は変わるのだろうが、利害が関わらない相手には、基本的に友好的ではないような気がする。(無論、例外はたくさんあるとしても、だ。)サバイブするには、それなりの苦労がありそうだ。
 一方、多くの女性は、どういう相手にも互いに友好的で互助的だ。これは、オンナ社会での生きやすさをつくる。サバイブしやすい環境だ。

 事あらば一戦交えんと肩をいからせて歩いている人たちと、機会さえあれば友好関係を築こうとキャンディをバッグに入れて歩いている人たちとの、ストレスの違いは大きいだろう。

 それでも、私はなんとなく、キャンディを持ち歩く人ではないような自己イメージがある。が、肩をいからせて歩く人にはなれないとも思う。それは怖い。ジェンダーのステレオタイプから限りなく遠ざかりたい感じだ。
 突き詰めれば、そんな気分の人の方が多いようには思うけれども。

 しかし、ジェンダーステレオタイプをなぞろうとする人が多いのは、それが安全で安直だからだろう。思考が単純になって、そこにエネルギーをとられないで済む。

 娘相手に、それほど込み入った話をしないので、娘もステレオティピカルな話題に終始する。母娘というのはそんなものなのか、、、。
 
 

人のエネルギー

2013-05-01 09:55:11 | 性格
 どうしても、人が持っているエネルギーというところに関心が向く。義姉がこのあいだ言っていた。「胃腸の弱い人は、頭も弱いような気がするねん」と。胃腸と直結するかどうかはわからないが、確かに体調と頭脳活動は、我々凡人は密接につながっている印象がある。体調が悪いと、体調の管理だけで精一杯、それ以上の頭脳活動はできない。だから、天才と呼ばれる人のことはわからないが、多くの頭脳活動の活発な人は丈夫な人が多い。少なくとも私の知っている人たちはそうだ。

 才色兼備などと言うが、文化的な環境があまり変わらないなら、確かに、美と健康と才知は相関関係があるような気がする。健康な人の健康美と才知は結びついている。だから、虐待を受けて育った人は、自分の生存条件を整えることに多大なエネルギーを使うから、余力があまりない。当然、学力にも響いてくる。

 偶然、ジョン・バロウマンというイギリスの俳優でミュージシャンというタレントを知った。陽気でパワフルなイケメンで、オープンリー・ゲイだ。これほどの陽気でパワフルなゲイを見るのは初めてかもしれない。否、ここまでエネルギッシュな人は、日本人にはいないだろう。
 何を言いたいかと言うと、パワーは自信から来ると思っていて、自己肯定感が強くなければ、エネルギッシュになれないと思っているのだが、そして、それはこの世のメインストリームを歩けるヘテロセクシュアルでなければ獲得するのは難しいと思っていたので、このジョン・バロウマンのエネルギッシュな態度に驚愕し、且つ、感動したのだ。

 日本のTVに登場するゲイは、たいていおネエ系タレントだ。彼らは、そのいかつい容貌にミスマッチな過剰な女言葉と仕草で笑わせる。ゲイは、芸ネタだ。それら一つのキャラクターとして売り出している人以外に、日本のTVでゲイ男性を見ることはほとんどない。実際は、映画評論家やお笑いタレントやミュージシャンなど、特におネエ系キャラではないゲイは結構存在すると思うが、ほとんどがクローゼットだ。レズビアンも、笹野みちるのようにカミングアウトした人は既に芸能界から消えていて、ローカルな活動をしている。カミングアウトしたら終わり、と思えるような状況だ。だから、多くのゲイと思しきタレント、レズビアンと思しき女優は、セクマイの人たちの間ではそれなりに有名だったりするが、決して公言しない。むしろ、ネタとしてバラエティ番組でつつかれても、否定したり、ジョークにしてしまうことで、結果的にはクローゼットにこもることになる。

 そういう日本にいて、ジョン・バロウマンを見ると、ヘテロ男性と同様の行動様式を身につけているイケメンがゲイセクシュアリティ全開でハイテンションのパフォーマンスを繰り広げることに、ただただ驚愕する。歌も上手い、顔もいい、そして役者としても成功している。彼が持たないものは何もない、というように思えるマルチタレントだ。それがあのエネルギーを生み出すのだろうか。だからこそ、セクシュアル・マイノリティであって、あれほどステージの真ん中で光り輝くことができるのだろうか。さらに、少し年上のパートナーは、彼に劣らぬ美形で、すでにイギリスでシビル・ユニオン(異性間の結婚と同様の法的権利を与える制度)に署名し、結婚式も行ったとか。
 セクマイカップルに制度的承認を与えるのは、今の社会には必要かもしれない。異性愛だけが正統だという思い込みを再生産しないだけでも、制度化の意味はあるような気がする。私自身は、性愛を法的制度に持ち込むこと自体全く賛同できないのだが、今の日本の状況を打破するには必要かもしれないと思う。
 ジョン・バロウマンは、ある種、セクマイの希望の星、というところだろうか。おそらく、英米のセクマイにとって、ジョン・バロウマンは大きな光となっていることだろう。彼自身、そういう社会的意義も感じているように見える。
 フリークではないセクマイ、、、その社会的印象づけのためには、美貌の、社会的ステータスのある、人々の尊敬を集めることのできるセクマイが要るのだ。

 昔、私がセクマイの活動をしていた頃、ヘテロの女性から何度かアプローチされた。「わたし、レズビアンに対してずっと偏見を持っていたのだけど、虎之助さんとならつきあってみたい」などと。私が誰よりも良識的で、フリークではなかったからだろう。確かに、私がセクマイの活動をすると、ある種の効果があるだろうというのは想像できる。ヘテロセクシュアル文化に、適応しきっていたからだ。「女らしい」女として、良識のある言動に終始する社会人として、生きていたからだ。
 今、疲れてきたから、それをやめようとしているけれど。でもまぁ、長年培った行動様式が突然変わることはないだろう。私が男性ホルモンを投与して、髭でもはやさないかぎり、今のままだろう。そして、その私が果たせる役割はあるのだろうという気はするが、、、。

 しかし、ジョン・バロウマンのようなエネルギーはないからな。この人の映像を見ていて、でも、切なくなる瞬間があった。ある女性のインタビュアーの質問がセクシュアルマイノリティのことに及んだとき、説明する彼の目は少し翳り、シリアスになったように見えた。いつもジョークで相手を笑わせ、自身もはしゃぎ回っている陽気な人なのに、一瞬、哀愁をたたえたように、真面目に少しも笑わずに話し始めた。「誰でも、他の人間(another person)と恋に落ちるでしょ?」というような感じのことを答えていたと記憶している。この期に及んで、まだ説明を求められる苛立ちもあったかもしれない。相手の中年女性に興味がなさ過ぎたか、嫌いだったか、そういうこともあるかもしれない。いつも楽しそうな彼には、珍しい映像だった。

 多くのセクマイは、このトーンダウンする瞬間が、ずっと続くのだ。時々、何かのきっかけで鼓舞されて、立ち上がる意欲に襲われるが、すぐに冷や水を浴びせられる瞬間が来る。
 この遠い国の、このエラくテンションの高い男が、とにかくセクマイのイコンとして健在であり続けることを願ってしまう。