凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

ブランド大学を出ているということ

2018-02-23 00:15:44 | 日々の雑感
今日の食事会は、初めての人も多かった。
で、ブランド大学の出身者ばかり。

60歳にもなって、昨日のことのように大学時代の話をする。
考えてみれば、そういう人は多い。
三流大学を出て、昨日のことのように大学時代の話をする人はいない。
どちらかといえば、忘れたいことだから。

できれば、大学のことには触れたくない。
私もそうだ。
大学受験の頃まで、自分が大学に進学できるとは思っていなかった。
父親が、「お前を大学に行かせる金はない」と言っていたし、
中学生の頃から、大学なんか行くことはない、と言っていたし、
近所に、大学に通う女性なんかいなかったし、
しかし、学校に行けば成績は良いし、、、

どうしてよいか、将来像が結べなかった。
父は、高校を卒業すれば銀行に勤めて、見合い結婚させる、と確定事項のように語っていた。

私の心はうろうろしていた。
父の語る将来像は全く受け入れたくなかった。
しかし、それをはねかえすだけの馬力も、想像力も、自信もなかった。
親の言うことに背くだけの力はなかった。
親に背いて生きていけるとは思えなかった。
しかし、父の言う将来像は、私に何の喜びも与えなかった。
が、当時の親たちは、娘の将来に「喜び」など邪魔だと思っていた。
娘が喜ぶことなど、あってはならない。
忍耐して、苦労を堪え忍んで、良い子を産むこと、それが娘の務めだと思っていた。
子どもを幸福にしたい、などとは考えていなかった。

私が離人症のような状態になって、
母は、娘がおかしくなったのかとおろおろし、
父は、おかしくなるくらいなら、大学くらい、どこでも行け、と言い出した。

高校3年の最後の方である。
さんざん、自信をくだかれ、メンタルをやられてからの「許可」である。
私はとにかく、地元の国立大学に入った。
二流だが、進学率の低い、当時の私が住んでいた地域では、賢い子が行く大学なのだった。

しかし、私はそこに行く気はしなかった。
ちゃんと将来に向き合いたかった。
が、父の言うような生き方があまりにも無理そうだったので、モラトリアムで大学に入ったのだ。
もっと優秀と言われる大学に行けそうだったのに、全然、勉強などしていなかったし、
きっと、ブランド大学に行けたはずなのに。
絶対、行けたはずなのに。

そういう悔しさを抱えている。
無念で仕方がない。
娘の将来を、自分の古臭いイメージだけで判断し、振り回されて、人生を壊された私。

いつもいつもそう思っている。
だから、ブランド大学に無事に入り、卒業し、60歳になっても大学時代のことを話す人たちを見ていると、
屈託がないねえ、、、
結構だねぇ、、
と思う。

親の愛やら、大学の話やら、仲の良い夫の話やら、
結局、今日はつまらんかった・・・

へたれが本当にへたるとき、、、

2018-02-17 12:52:08 | 日々の雑感
老化が速度を増し、
あらゆる面で、劣化が著しいと感じると、
もう、人生の幕引きだなと思う。

病気になったり、精神的に参ったり、いろいろあったが、
その都度、浮上してきた。

病気は回復の可能性があり、気分の落ち込みはまた浮上できるが、
老いだけは、治らない。
不治の病だ。

これだけ長く生きることを想定して、人間はプログラムされていないのだろう。
生殖年齢を超えて女性が生きることも、
足腰が弱っていくことも、
想定外のような気がする。
まあ、早い話がポンコツだ。

年をとっても、元気な人、というのがTVなどではたくさん登場し、
そのための秘訣とかで、健康食品やサプリなどが宣伝される。
アンチエイジングのツールや化粧品もたくさん。

しかし、60歳は20歳ではない。
20歳の時の美も健康も力もない。
やっぱり、老朽化しているのはまぎれもない事実。

このまま老醜をさらして生きる意味はあるのか?
経験がものを言うような希少例は別として、
(たとえば、太平洋戦争をリアルに経験した記憶を持つ、とか)、
通常は、もう、この世の不要品だ。

もともとヘタレだった。
本当にヘタると、自死しかない。
自死の説明さえ、ちゃんと書き残せば、子どもたちも悲しまないだろう。

西部邁が自死したそうだが、わかるような気がする。
いや、思考レベルでわかるかどうかは自信がないが、気分がわかる。

セクマイ講座についてふと思ったこと

2017-10-19 08:51:23 | 考え方
あちらこちらで、LGBTの講演会が流行っている。
私が講師をした地味な講座も、それなりに盛り上がった。

同じ日に、トランスジェンダー当事者を呼んだ講演会もあったようだ。

で、思うのだが、
LGBT啓発講座と言うと、
際立った当事者を連れて来て、話をさせる、という手法がやたら多い。

カミングアウトしているゲイの芸能人、
ドラァグクィーン、トランスジェンダーなどを並べて、
講座の目的は何なのだろう?
私のように、見かけが「普通」の講師であると、
畢竟、地味なお勉強講座になる。
が、私の最後の落としどころは、セクシュアリティは他人ごとではないこと、
誰もが当事者である、ということ、
これは、長い間の私の持論だった。
今、やっと、「性の多様性」ということを誰もが言い始めたが、
私は最初に、ある本に書かせてもらってからずっと同じことを言っている。
私のその本をバイブルみたいに持っていて、支えだった、と言ってくれるMTFの人もいる。
その人も地味だ。

華々しい活躍をしている、テレビなどに露出度の高い、見た目の派手な当事者を呼んできて、
それで、セクシュアリティは、私たちみんなの問題、と言えるのだろうか。
壇上にいる人々を、
自分たちとは線を引いて、「特別な人」、でも「差別しちゃいけない人」というように
受け取る人も多いだろう。

以前、授業に、現役の大学生と卒業生の当事者がゲストとして、
話をしに来てくれた。
本人たちが「話をさせてほしい」と言ってきたのだ。
これはよかった。
あまりにもプリミティブな反応ではあるが、学生の反応はこうだった。
「トランスジェンダーとか、レズビアンとか言っても、
普通の人でした」と。

そう、彼らはあまりにも地味で、カミングアウトしなければ、
セクシュアル・マイノリティとは、誰も疑わない。
だからこそのインパクトがあり、学生たちは、自分のこととして、
家族のこととして、また友人のこととして、
リアリティをもって考えるきかけになるのだ。

それなのに、派手なパフォーマンスをや服装をするような人を連れて来て、
セクシュアル・マイノリティの陳列会になってはいないか。
登壇者は、そのことを抗議した方がいい。
自分たちは、「見世物」ではない、と。
あぁ、それでも説得力は薄いだろう。
見られること、注目されることが仕事である人に、
「目立たないで生きていきたい」人の代弁をするのは難しいのではないか。

もちろん、登壇する当事者の人の問題とは思わない。
彼らを並ばせて、インパクトを狙う、企画者の問題だ。
「みんな多様な一人です」といくら言われても、
フロアの人は、自分のこととして、そのテーマをくみ取るのは難しいだろう。

昔、FTMのすらりと背の高い、いかにも女性にモテそうなタイプの若者がいた。
彼に出演要請をしたら、断って来た。
当時、まだカミングアウトして、上手に話ができる人が少なかった時代だ。
黙っていればイケメンの彼が、元女性だという事実はインパクトがあるだろう。
そう思えた時代で、結構、あちこちのセクシュアリティ講座で引っ張りだこだった。
彼は疲れていた。
「見世物」にされるのに、おそらく参っていたのだろう。
精神的に不安定になっていって、病院に通っている、とのことで、
最初の頃の元気良さがなくなっていた。
事情がわかって、そっとしておく必要があるのだとわかり、静かな応援だけをしていこうと決めた。
その時は、他に勢いのある、新たな登壇者が見つかって、出てもらった。
たまにそういうことに出くわす。
セクシュアル・マイノリティとして、自己確立をしている人の中には(全員では、もちろんない)、
とても自分をアピールしたい時期と、そっとしておいてほしい時期があるような気がする。
華々しく元気よく登場して引っ張りだこになって、やがて暗くなっていく。
それはそうだろうとも思う。
世間とは無責任なものなのだ。
「セクマイ」の際物として消費し、その人のセクシュアリティ以外には興味を持たない。
全人格的に人生を生きている人たちにとって、いつか消耗する日が来る。

ずいぶん前のこういう状況を経験して来て、
今、私はブームのように、テレビによく登場する人を陳列品のように、
壇上に並べるLGBT講座とかいうやり方には批判的だ。

まぁ、やる人はやるだろうから、おやりになればいいのだけど。

私を学校教職員の研修に呼んでくれた友人は、
カミングアウトしている当事者の友人ではなく、私をあえて選んだ。
個性的過ぎる当事者を呼ぶと、一般の教職員は、またセクマイに特別なイメージを抱いてしまうから、
ちゃんと「多様性」を理論的に学習したいから、と言ってくれた。
まぁ、私は見た目は世の常識中の常識を体現している。
これは私のやり方、というだけだが。

だが、こういう私が、「シスジェンダーではない」というカミングアウトをすると、
風当たりはきつい。
「だって、あなた普通じゃないの!」とくる。
新たなカミングアウトの苦悩、とも言えるだろうか。
まぁ、めったにそんなカミングアウトはしない。
理解できるだろう相手に限っている。
それでも、一度は、反発がくる。
自分には偏見がないと思い込んでいる人の、それが、「偏見」なんだよ! といらつく。

ダメ男アイデンティティ

2017-09-28 14:13:02 | 日々の雑感
私は、女ではない、という実感を持っている。
女性としての性自認が非常に希薄だ。

これは、時々、周りの人に言っているが、
だいたい、最初は、ひっくり返らんばかりに驚かれる。
昔からつきあいの深い人は、わかっていたりするが、
そして、ジェンダーやセクシュアリティについてよく考えている人は理解が早いが、
多くは、信じられない、という反応をする。

なぜなら、私は「女らしい」からだそうだ。
私は、ずっと、「女らしい」と言われてきた経験を持っている。
自分では不本意でもあり、そう言われる理由をいくら説明されても納得しにくい。
先日も、私と共通する交友関係を持つ人から、私は最も「女らしい」と言われたばかりだ。

声が女らしい、そうだ。
確かに、だみ声ではない。
が、高い声でもないはずだ。
しかし、私の年齢になると、女性も貫録がついて、生活者としての「おばさん」イメージ全開の人もいるから、
そういう人に比べると、いわゆる「女らしさ」を残していると見えるのかもしれない。
話し方がおっとりしているそうで、それを「女らしさ」の材料の一つに数える人もいる。
顔つきが女らしい、と言われる。
確かに、オトコ顔ではない。(年齢と共に、おばあさん顔にはなっているが)。
色白で、からだも小さい。

私は、髪もロングやセミロングではないし、いつもパンツ姿で、アクセサリーをつけたこともない。
それなのに、「最も女らしいあなたに」と、
集会の後、持ち帰ることになった花束は私に回って来るし、
「貰い物だけど、あなたに似合いそうだから」と、ピンクのきらきら光るガラス玉のイヤホンジャックをくれたりする。
ピンクなんて色は、私のライフスタイルのどこにも存在しないにも関わらず、だ。
もらって茫然とする私に、相手は満足そうにしている。

私は私の交友関係の範囲の中で、誰よりも「女らしい」ようなのだ。
自分で、やはりその理由がわからない。

先日、古い友人に会ったとき、私が女アイデンティティが希薄だという話をしたら、
案の定、その人は私を「女らしい」と言い、むしろかなり抵抗を示す。
つまり、信じてくれないのだ。
抵抗すらする。不快感さえただよっている。

これは、何かある! と感じた。
それで、もう少し、具体的な話をした。
私は、体も小さいし、子どもの頃から運動神経も鈍いし、全然「男の子」のようではなかったこと、
しかし、気の強い女の子にやっつけられて悩んでいる、気の弱い情けないダメな男の子というアイデンティティがあったのだと言うと、
急に納得してくれたようなのだ。
のび太のようなだめな男の子だと言えば、受け入れられた感じがある。

この社会で、「男」は「女」より一段上に位置づく。
「男」アイデンティティがあると言えば、その上位へと位置づこうとする上昇志向に見えて、嫌悪がわくのかもしれない。
だから、それは違うのだと言わなければならない。
あんな男に生まれるくらいなら、女でよかった、と女性たちが思うような「男」であることを強調しないといけないのかもしれない。
実際、私自身が、子どもの頃にそう思った。
自分が「男」であろうとすれば、あまりにも「男らしさ」の理想像から遠すぎて、
このままの自分が生きていくには、「女」として生きていく方がはるかに楽で適合しているだろうと考えた。
体が小さい、運動ができない、気が弱い、からだつきもいかにも女の子だ。
自分の持っているものは、「女」に向いているのは明らかだ。

思春期のある時期に、「女」として生きることを思い定めた明確な記憶がある。

だから、女らしくしようと努めたし、女らしい装いを楽しんだ。

が、どこかでやはり自分は「女」ではないような気がしていた。
そして、次第にそれは強くなってきた。
やがて、そういうことを言っても「大丈夫」と思える時代になった。

そして、冒頭に戻る。
それを表明するたびに、相手からの抵抗を受ける。
「一番、女らしいのに、、、」と言われる。

だから、もっとちゃんと言わねばならないのだ。
いえいえ、私はずっと、ダメ男アイデンティティがあるのです、と。
かっこよくない、男らしくない、女の子にモテない、ダメダメな男なのですが、「男」ではあるのです、と。

様にならないけれども、アイデンティティは「女」ではなく「男」に近い、という感じだ。
が、何が何でも「男」でありたい、と幼い頃から思う強迫的な観念はなく、
あきらめて「女」であることを選択できたから、若い時に「性同一性障害」と診断される人たちと同じではないのだろう。
しかし、年齢を重ねて、初めて性を変更したいと望む人もいるから、全く違うとも言い切れない。

のび太のようなダメな男、というのが一番しっくりくるかも。
そう言えば、のび太は、何もかもダメなのだが、射撃だけはとてもうまい。
(私も射撃は好きだ。モデルガンで家の中でたまに遊ぶのではなく、もっと本格的に楽しみたいが、そういう環境にはいない。)

女性的に見えていても、女アイデンティティが希薄だという人はたくさんいるような気がする。
いわゆる「Xジェンダー」という表現ができてきたから、それを自分のアイデンティティだと感じる女性も多いのではないだろうか。

私の場合は、Xジェンダーという表現は魅力的だと思うが、ダメ男(オ)アイデンティティという方がもっと自分には合っている気がするが。




人との絆

2017-08-27 12:55:22 | 
何を読んでも、何を観ても、人とのつながりの大切さばかり。

救いを求めて何かに辿りついても、人とのつながりがうたわれている。

余計、寂しくなる。

私に誰がいる?

私とつながる誰がいる?

私は、誰にも絆を感じない。

ふだんは元気に暮らしている。友人たちもいるし、子どもたちもいる。
だが、私の凍てつくような孤独は癒されない。
私には誰もいない。

私には誰もいない。

もう生きていても仕方がないのだ。

誰かがいてくれるような、気配だけを信じて生きてきた。
でも、気配であって、錯覚であって、それだけだとわかった時から、
救いが消えた。

もう、気配すらないしね。

モテるとかモテないとか、、、

2017-08-27 09:40:02 | 考え方
もう一つ、よく更新しているブログがあるが、そちらは知り合いも読んでいるので、
さしさわりがあることは、こちらに書くことにしている。

そのさしさわりのある話とは、昨日、聞いた話で、新たに思ったこと。
あるSNSのサークルの女性Hさんから聞いたのだが、
男女混合でオフ会の飲み会で知り合ったうち、そのサークルの管理人から、
個人的にメールがあり、二人で会った、とのこと。
最初は、サークル内の相談事という口実なので、疑わずに会ったが、
連れて行ってくれたところが、とても素敵な店で恋人同士で行くような所であったこととか、
その後も二人で会おうというメールが来ることなどで、
次第に気が重くなってきた、というのだった。
私もそのサークルに参加していて、その管理人はなかなか節度のある男性だと思っていたので、
そうか、そういうやつだったのか、と改めてがっかり。

こちらはニュートラルに、礼儀正しくメールなどを返していたので、
その隠密行動に裏切られた感がある。
そして、興味深いのは、モテるとか、モテない、とか、それにまつわることだ。

昨日の話は、そのサークルの女性だけで集まる女子会(Hさん、私を含め4人)で、
Hさんが、言葉重めに言い始めた。
ほんとうは言うべきじゃないのだけど、と重い口を開き始めたHさんを見ていて、
これは、男がつけ入るだろうな、と思った。
Hさんには、妻帯者のその管理人と個人的に付き合う気はない。
だから、困っていて、だんだんサークルに行くのが気が重くなってきているのだ。

女性は、なんと気がいいのだろう、と改めて思う。
男は、こういうHさんだから、アプローチをするのだ。
秘め事を共有したい相手に、誰にでもあけっぴろげな女性は選ばないだろう。
誘った日に、「他の人も行かないかな」と言って皆に声をかけるようなタイプの人を誘ったりはしない。
Hさんには、ロマンチックな時間を共有できるかもしれない、と、期待させる風情がある。
いや、私だって、一緒にムードのあるバーで飲む相手を誘うとすれば、一番にHさんだろうと思う。
明るくて、かわいらしくて、女らしさを嫌味にならない程度に漂わせている。

断然、Hさんがモテるのはわかる。
4人のうち、Yさんはよくしゃべり、冗談を言い、「姉御」と呼ばれる。
この人は、共同管理人になってほしいと、声がかかっているそうだ。
Iさんは、女らしさをあまり出さず、だからと言って中性的でもなく、地味な服装に身を包み、程よい感じの女性だ。
ただ、Hさんのようなコケティッシュな感じがなく、地味めなので、男のロマンチシズムを刺激しないだろう。
で、私は、そのSNSでも、男性と間違われるハンドルネームをつけているし、基本、いつも仕事帰りでパンツスーツにパソコンリュック、話題は常に色気抜き、おそらく最も男性が敬遠する女だろう。

そうしたメンバーの中で、あらためてHさんを見ていて、
ある種の女性の典型かもしれないと思った。
かわいい、明るい、女らしい装いをして、男性との会話を楽しむことができる、
その上、個人的に誘われたことを他のメンバーになかなか言い出せない、言ってはいけないと思い込んでいる奥ゆかしさ、、、
実はこの奥ゆかしさが、問題なのだ。
男たちのセクハラがエスカレートするのは、女性たちのこの奥ゆかしさに元気づけられたためということがある。
最初は、男たちはセクハラをする気はない。
好意を持った女性とちょっと話をしたい、一緒にお酒を楽しみたい、という程度だ。
が、断わるどころか、相手も楽しんでいるように見えると、相手も自分との間柄を喜んでいる、と思うようになるようだ。
女性は、断っては悪いかもしれない、と気を使い、相手にも楽しい時間を持ってもらおうと努力をする。
が、相手に特別な興味はない、という場合がある。
むしろ、ただの友達同士でいられるなら、と望んでいる場合があるが、そういう場合は、本当は、そのことをすぐにメンバーに開いて、秘密の関係にしないことが肝要だ。
が、女性は相手の秘密を守ってあげよう、男性の面子を保ってあげようとする気遣いをしてしまう。

もちろん、その心理には、他の女性たちよりモテている自分を、ちょっと楽しんでいる部分もあるかもしれない。
モテないより、モテる方が気分はいいだろう。
女性の自己評価は、そういうところに依存していたりするので、無理もないかもしれない。
が、男たちはそこに乗じてくる。
自分との逢瀬を秘密にして守ってくれる女性を、ますます「もっとイケる」相手としてとらえるようになっていく。

Hさんは、管理人とのやり取りを皆にばらしてしまった自分に呵責を感じている。
だから、
「セクハラ男を守ってあげる必要はないよ」と伝えた。
管理人のプライバシーを言い触らしたのなら呵責に苦しんでも仕方がないが、これは管理人のプライバシーではない。
個人的に誘いをかけられて、本意ではない状況に持って行かれそうになった女性の悩みを仲間が聞いたという話でしかない。

どうして、こういう時に、黙っていないといけない、と思う女性が多いのだろう。
だから、男はさらに図に乗る。
二人だけの秘め事を進展させることができる、と踏むのだ。
二人の思いは、どんどん乖離する。
のっぴきならないセクハラ事件の多くがこういうところから始まる。

まぁ、私もわかったようなことは言えない。
職場に、病み上がりの私が久しぶりに出て行ったら、「よかった、よかった」と大感激して、
廊下で抱きしめてくる男性職員がいた。
この人は、二人きりだと私をファーストネームに「ちゃん」づけで呼び、人生の不幸に見舞われる度に、抱きしめてきた。
好意は確かにあって、他の人にもわかるようだったし、若い男性同僚たちが、「あの人は危ない」と私に言っていた。
が、私にはセクハラか本当に同情してくれているのかわからなかった。
この場合は、私はすでに年齢が高く(どうもそうは見えていなかったらしいが)、その男性がはるかに若いので、
まさか、そんな不埒な気持ちを抱かないだろう、セクハラのように言うのはかえって親切なあの人に悪いのではないか、と思って来た。
だから、抱きしめられたことが何度かあるのだとは誰にも言えなかった。

Hさんも、まだ個人的に誘いをかけてくる管理人男性を、セクハラ男と断じることにはためらいがあるだろう。
まだ、食事に誘われているだけで、抱きつかれたわけでもなく、紳士的な態度だから、セクハラ男呼ばわりするのはいけないと思っているだろう。
その気持ちの背景には、嫌われたくない、という思いもあるかもしれない。
興味を失われてしまうことへの寂しさもあるかもしれない。
そこが女性たちの弱点なのではないかと、私などは思う。(人のことは言えないけれど)
男に興味を持ってもらうことに未練がある間は、男に乗ぜられる。
男も女も関係なく友だちとしてやっていける仲間が欲しいの、とHさんは言うが、
男が自分に「女性として」興味を持つことをどこかで願っている間は、男の期待を引き寄せる。
そして、多くの女性はそのことを知っていて、且つ、相手が積極的にアプローチすると、困惑する。
男のまなざしがどこに向かっても興味がない、という女性には、男性は期待を持たない。
コケティッシュではなく、ニュートラルな女性は、男性の期待値を高めないのだ。

Hさんは、女性がおっさんになってはいけない、と言う。
女性らしさは残しつつ、男性と、男女を越えた友人関係を築きたいと言う。
まぁ、その関係のどっちつかずの危うさを楽しみたい、ということだろうが、それはいささか現実離れしている。

Hさんを見ていて、男に秋波を送ってしまう女性は、気構えがどうあろうとも、男に期待を抱かせてしまう、ということがよくわかる事例だ。
秘密を守ると、余計に男性を誤解させてしまうようだ、というのも改めてわかる。
だからと言って、男に秋波を送るな、とは言えない。
それが、彼女の魅力となっている。コケティッシュなのも、魅力だ。
コケティッシュに振舞いながら、男を誘惑しながら、男に誘われたら迷惑がるのも、こうしたタイプの女性たちの特権だろう。

尤も、全く女性としての色気のない女の人たちの集団に出かけるとき、全然喜びがわかなくて、
Hさんのような女性がいるグループには、つい胸がはずむという私のようなややこしい女もいるけれども。
そして、これも何らかの「期待」か「下心」かと言われれば、その管理人男性と近い心情があるのかもしれない。
くすんだ色の服を着て、化粧っ気もなく、美しさのかけらも感じない女性といると、何の楽しみもなく、早く帰りたくなる。
Hさんのような女性といる方が、心に活気が出てくるのは事実。
Yさんが、私たち4人を「みんないい女ばかり」と言っていたが、年齢の割には、確かに皆、おしゃれだ。
そして、それを喜び、味わう女たちが面白い。

自我って、何?

2017-07-19 12:47:05 | 考え方
 女の自我って、何なんだ? とは、よく思う。
いや、もちろん、脳のどこかで思考活動を行う人間として、「自我」意識は存在するのだけれど、
その「自我」の認識は、すでに、「女」という属性と切り離されないレベルで形成されてきたと思うと、
この社会の「女」が持つ「自我」とは何なのか? と問うてしまうのだ。

「女」という社会的存在が「自我」を持つ、などという状況は、すでに矛盾ではないのか。

こういう疑問を持つのは、もちろん、私の生育環境が大きいとは思う。
「女」の「子ども」が思考する、などということは、全く想定外であった父のような男に支配されてきたので、
自己肯定感を育成し損なった、という事情はあるだろう。
自己肯定感を育成し損なうと、「自我」という確固たる無前提の概念は、自分のものにしにくいのだ。

「自我」があるのはわかっているし、知識として認識できるが、
それが「主張」を持ったり、この社会での居場所を獲得しようとすると、
たちどころに、体感というか、実感というか、そういうレベルで理解しにくい。

だから、実は、私の中に、フェミニズムは根付かないのだ。
私が生きたいのであって、「女」の私が生きたい、という実感にはならない。

私は「女」ではないのか。
「女」とカテゴライズされて、「女」扱いされてきたが、
私の感覚的「自我」は、フェミニズムでは扱われないものなのだ。
それは、「女」を貶める価値観の中で、育み損ねた自我意識であり、
且つ、「女」の復権を目指すフェミニズムの中で、生きる場所を持たない自我意識なのだ。
「女」であることによって自己確立の機会を失い、失敗し、
「女」の復権を目指す価値観が広まった時には、もう、主張する「自己」を持たない。
「女」の自我の救済に、
私の自我は間に合わなかった。
それは、「女」だから貶められた悔しさを抱える女性たちとは違って、
「女」以前の自我の目覚めから、蹂躙された過去があるから。

かわいい娘として慈しまれながら、「女」だからお嫁さんにいきなさい、と親に言われた人は、
後の知識や情報をもとに、反発することができる。
しかし、慈しまれずに、自分の存在自体をうとましいと親に表明されてきた人は、
「女」だから貶められた、とは思えない。
「自分」だから疎ましいと思われたのだと、自己否定するより理解の手立てがない。

自分が貶められたのは、「女」だったから、という要素は多分にあったと思われる。
フェミニズムの文脈で、説明が可能な部分がある。
「女」だから、軽んじられ、将来への展望も閉ざされ、その気持ちなど一顧だにされなかったのは事実だ。
が、もう一つの要素がある。
「子ども」だから軽んじ、疎まれ、存在を否定されてきた。
さらに、「女」だったから、一層軽んじ、芽生え始めた「自我」をためらいもなく踏みにじられてきたのだ。

「女」である、という社会的立場の自覚以前に、蹂躙された「自我」は、フェミニズムでは救えない。

だから、私は、「女」である以前に、「人」として蹂躙されたと言えるのかもしれない。
と言うことは、
最初に立ち戻ると、「女」であって「自我」を持つ人は十分に存在し得ることになる。
否、そう感じている女性がいる、ということは想像し得る。
フェミニズムの担い手には、そういう人が多いような気がする。

が、それは、女たちの錯覚ではないだろうか。
この男たちの社会で、「女」の「自我」に用のある男はどれほどいるだろうか?
あるいは、「自我」を確立しそこなった、蹂躙されてきた男たちは、女の自我にも、畏敬の念を持つのだろうか?

健全な「それ」を持った自覚がない人は、男にもいるだろうし。

が、女は、男を救うために存在しているわけではないので、そういう男は、早晩、女にも裏切られるだろうけれど。

物心ついた時から、私は「女」だったが、
「女」の自覚なしに「女」だったが、
それ以前の自我など想像するべくもないが、
しかし、どうも、私の感覚では、
存在自体を否定され、蹂躙され、
「女」であることは、その理由づけに使われたような気がする。

憎しみを発散させるには、ターゲットが要る。
身近に、手のかかる子どもがいれば、ターゲットに定めやすい。
そしてそのターゲットを攻撃するには、理由が要る。
その理由の一つは、「女」であること。
主張する子どもは黙らせてよい。
ましてやその子どもが「女」であれば、徹底的に黙らせる必要がある。

私の「自我」の簒奪には二重の仕掛けがあるのではないか。
攻撃者にとって邪魔な存在であることと、それが「女」であることとは、二重構造になっている気がする。
私の自己確立は、二重に攻撃を受けて失敗し、「自我」というようなものが損なわれたのかな、と、そんな気がしてきた。

だから、確固たる「自我」というようなものが想定しにくく、
簡単に、その意味を無化できるのかもしれない。

まぁ、どうせ、出口のない愚痴なのだけれど。


愚痴なので、読んだ人が良い気持ちにならないブログを書く

2017-06-16 08:49:27 | 日々の雑感
年を取ってきて、仕事も減ってきて、
いろいろな面で劣化を自覚するようになって、
80歳を過ぎてから母が言っていた
「長く生き過ぎた」ということばを、もう、つぶやいている私。

そう。
もう、おまけの人生、という気がする。
お金もないし、仕事ももうなくなるし、
共に暮らす人もいないし、
今はすでに、余計な人生という気がしている。

まだ、時々必要とされることがある。
私を頼る人、時間潰しに誘えば断らない私を誘う人、
、、、 、、、 、、、
話を聞いてもらいたい人、
いざとなったら助けてもらえると思っている人、
そういう人ならいないわけではない。

そして、もうそろそろ、そういう役割も降りたいのだ。
親も、私から、
愛や尊敬や恭順や、そういうものを得ることを期待し、
自分たちの役に立つ子であれ、と望んでいた。
母の目論見は成功し、
私は寝たきりになった母に誠実に仕える娘だった。
母は、ケアマネに、
私のことを、
「わりに、ええ子に育ちましてん」と言っていた。
若いケアマネは、私のことを「子」と呼んだことの方に反応して笑っていたが、
私としては、
ほとんど生まれて初めて、褒められた、という感じだ。

正確には、もう少し前に一度。
父の葬儀の時に、遺族代表で挨拶をしたのだが、
後で、娘に、
「お母さん、挨拶、上手やねぇ。うれしかった」と、褒めていたことがある。
葬儀社の人に、
「マイクで挨拶してください」と言われていて、
母は、
「わたし、そんなんようせんわ。あんた、して」と私に言ったので、
ふだんから仕事で挨拶をしている私が引き受けたのだが、
母にとっては、自分に回ってくるところだった役割が私に回ったことで、
いつになく、注意深く、耳を傾けていたのだろう。

母に褒められたのはそれくらいだ。
子どもの頃に、褒められたことはない。
いつも叱られてばかりだった。
主に父からは文句ばかり言われていた。
父に言わせると、
「お前は不良品や。ほんとやったら、返品するとこやけど、
返すところがないから、家に置いてやってるんや」ということだった。
今思えば、なんという虐待的発言かと思うが、
それが通用してしまう養育環境だった。

だから、誰かから慈しまれた思い出がない。
ほんとうに幼い頃、母に抱っこされて守られていた記憶はある。
そのほんの幼い頃の記憶が、私を支えているらしい。
カウンセラーに言わせると、その愛は確かに受け取っている、とのことだった。

実際、後年、児童虐待などについて調べていると、
それさえ受け取ったことのない被虐待児がたくさんいることを知った。
そういう意味では、私はまだ受け取っている。
だから、共感能力も、弱い存在への情愛のようなものも、なんとかあるのかもしれない。
否、過剰なほどに、それを求めるために、通常よりそれに対する感応が強い気がする。

が、この年になって、
弱って来て、
新たに思う。
慈しまれた経験が少ない、
もはや慈しまれることはない、
与えるばかり、
与えられない、、、、
そんな感じが強まっている。

認識に歪みが生じているのだろうか?
そうかもしれない。
悲哀が止まらないのだが。


一人でいるということ

2017-02-06 08:23:46 | 日々の雑感
時折、首をくくりたくなる。

病気が治らない。

義姉がアルツハイマーになってしまい、私と一緒でないと、病院に行かない。
実の姉は口やかましくて支配的だとのことで、
拒否するので、
これまで病院で診察を受けることもできず、
明らかにおかしいのに手の打ちようもなかったので、
地域包括支援センターの方でも困っていたようなのだ。
私が介入し始めて、やっと、診察、検査、介護保険申請と、一気に進んだので、
今、私が手を放すことはできない。

しかし、私も病人である。
いや、体の方は私の方が重症だ。

が、緊急を要することの方が、いつも優先事項になるので、
緊急度が低いと後回しになる。
結局、私は、私自身の病気を後回しにしている。

つまり、締め切りの早い方の仕事を優先し、
締め切りの遅い方が後回しになり、
後から入ってきた締め切りの早い方の仕事を先にやる、というようなもの。
結局、後回しにした仕事のツケは大きいのだが。

義姉は、短期記憶ができないので、するすると、たった今の出来事が消えていく状態。
つきあった日は、疲労感でぐったりする。

先日は、ほぼ一日、義姉に付き添い、
一昨日の夜は自己中の友人の突然の夕食のお誘いに付き合い、
なんだか、全然自分を大事にできない感じで、
虚しさで、今日は茫然としている。

空しく悲しく、疲労感が漂っている。
それで、首をくくりたくなっている。

セクマイというアイデンティティ

2016-10-12 09:03:07 | 日々の雑感
ゲイの学生がいて、時々、相談に乗る。
彼の自認は、トランス寄りのゲイ、ということらしい。

嘗て、いじめに遭って、休学していたこともあるが、今は復活して、
なかなかやる気になっている。
年上の彼氏もいるし、単位も着実に取っているし、就活も順調そうだ。

セクマイでも、もちろん、人によるのだろうが、
彼の場合、ゲイである、ということがあまりにも重いのだろう。
何かにつけて、「僕はゲイだから」ということを言う。
いやいや、そこはゲイとかヘテロとか、関係ないだろう、と思うような場面でも、
「ゲイだから、、、」となる。
過剰なほどに、ヘテロでないセクシュアリティを意識させられている。
そのために、劣等感もセクシュアリティと結びつく。

サークルを立ち上げようとして、なかなか皆の気持ちをまとめられない。
すると、
「やっぱり、僕はゲイだから、コンプレックスがあって、、、」
などと言い出す。
指導教官も、「やはり、ゲイは、、、」などとそれに追い打ちをかけたそうだから、
そこは、私が強く否定した。
「ゲイだからじゃないよ。人をまとめていくなんていうのは、
ゲイだろうが、ヘテロだろうが、難しいものよ。
ゲイは関係ないよ。ヘテロの集団だって、年中、もめているんだから」と、最後は私の周囲の実態。

この社会の男女の二分法の価値体系では、
ゲイである彼も、男性の側に位置づいてきた。
いわゆる男のステレオタイプからそれていたとはいえ、彼は、まぎれもなく男の恩恵も受けてきたのだ。

ステレオタイプからずれると、
もちろん、苦悩が大きい。
悩んだ期間は長いだろう。
が、答えが出ると、案外楽になったりもする。
仲間ができ、仲間内で語り合う時間というものができると、それは生きる活力源にもなる。
それが外にもあふれるようなパワーになると、今度は、「選ばれし者」のような転倒した優越感にすらなる。

最近、彼には、
「ゲイだからって、特別だと思うなよ」といさめたくなる瞬間がある。
所詮、オトコ社会で、男として育った幅の取り方は、他のヘテロの男と同様、身につけているのだ。
そこは、女性とは完全に違う位置取りなのだ。

一般社会とは転倒した価値体系のコミュニティがある。
マイノリティのコミュニティには、独自の階層がある。
私が属するコミュニティは、そこに長くいると、
結婚して、夫の扶養家族でいることに、恬として恥じない女性を見ると、異人種のように感じてしまう。
非婚で子どもを産んだシングルマザーは、上位に位置づく。
離婚女性はその下に位置づけられる。
夫の遺族年金を受給しているような私などは、日陰でひっそりと息をひそめている。
が、異性愛者というわけでもない、ということを主張する機会があると、胸を張る。
新たに異性の恋人を得た人を見ると、なんだかんだ言っても、結局、男好きのヘテロじゃないか、と蔑む私の目がある。
ましてや、結婚までした人を見ると、
なんだそれ? ただのそのへんの女だったのか、と裏切られた気分にすらなる。

ひとたび、一般社会に出れば、転倒する価値基準だ。

肩に力を入れないで、ふうわりと、
その人のままで受け入れ、
自分のままで自己表現をしていたいが、
そうしようとすると、むしろ、ほぼ世捨て人のように、人に振り回されないで生きる必要がある。
人を欲し、人と共にありたいが、
様々な思惑をかかえた人に振り回されないでいたい、というのは難しい願いだ。

マイノリティであるというアイデンティティは、本人を苦しめるが、
「選良」された者のような優越意識に転換しやすいものでもある。
なだらかに、多様性を受け入れ合う、というのは、言うほどたやすいことではない。