凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

発信力

2013-03-30 09:28:40 | ことば
 自分が考えていることを発信する、というのはとても必要なことなのだけれど、能力とエネルギーが要るなあと思う。

 某MLに、ある社会的課題について、新聞記事が紹介されていた。そして、それに対して、Twitterで多くの反応があり、それを集めたものも紹介されていて読んだ。

 Twitterでは、「知らなかった」「関係者が声を上げなかったから」などと、書かれている。少しがっかりする。
 私なりに、使える媒体を使って、声を上げてきたのだけれど、声が小さ過ぎたか。

 まあ、ネットを使うのは私には危険過ぎたから、ネットで個人や固有の団体が特定されないようにぼやかしたかたちでしか書けなかったから、これでは声にならないわなぁ。まだまだ自分には宿題という感じがしたままだから。

 が、今回のテーマへの問題提起としては、現職時代から声を上げているから、それなりに歴史があるのだが。

 問題が良い方向へ行けばいいだけで、おまえの名誉なんかどうでもいいだろう、という自分自身の内なる声が私を叱咤するが、完全に無視されると、あまりいい気分ではない。これは何なのだろう?
 思えば、そういうことは多い。現職時代にたちの悪い妨害に苦しみながら、後のために書き残した記録に基づいて改善されたことがあったが、私の努力や苦悩など一顧だにされないままだ。
 後の人ががんばったことになっている。あの記録に基づいたことはわかっているのに、それを書いた私については全く言及されない悲しさ。

 これは、何なのだろう? 他人の頑張ったその上澄みをすくって、自分の手柄にする人はたくさんいる。そんな目にはいろいろ遭ったはずだ。そして、巡り合わせで、意図せずにそうなることもあるだろう。たぶん、私もそういう恩恵に与ったことがあっただろう。
 責任がかかってくることは名前を出したがらず、名誉になることは自分がしゃしゃり出る、という人も結構いる。が、責任と名誉は表裏一体だ。下手をすれば破滅、うまくいけば名誉がついてくる。結果が見えてから、上澄みをすくうような人ではありたくない。

 ま、いいか。私が発信したものも埋もれながらも消えてはいないし、小さいことは、確かに小さいのだから。身の丈にあった仕事をしただけだから。
 それよりも、この新聞記事をきっかけに、まやかしの現状が改善されることを願えばいいかも。

辺境人って、、、

2011-02-19 14:01:11 | ことば
 誰かがどこかでは使っていそうな言葉だと思っていたが、ついこのあいだまで、書店で平積みになっていた内田樹さんの『日本辺境論』の中でも使われていると知った。一瞬買おうと思ったが、以前、この人の何かを読んで、自分とは違うとわかったので、やめにした。でも、タイトルから言っても、同じような関心領域なのだなぁと思う。いつも、この人にどこかで行き当たる。
 ま、そういう人はたくさんいるのだけれど。

 私の辺境人は、もう少し、「私的」なところからスタートしているが、ずっとそうだったのだろうな。自分の実感からしか出発できない私のような者と、常に天下国家がテーマである人との違い、、、。

 が、しかし、天下国家のことを論じるのに、「私」の「現場」を抜きにしては空疎な論理に過ぎず、自分自身の足下からこそ天下国家の問題に通じるのだということを喝破したのがフェミニズムだと思うが、、、。

 今の私の関心事の一つは、感情と組織。もう少し頭の中を緻密にして、考えたいが、年末から体調がイマイチなので、頭もろくに働かない。

 

「未亡人」って、、、

2009-06-13 16:30:20 | ことば
 今時、「未亡人」などということばは死語だろうと思いながら、あるSNSエリアでコミュニティを検索したら、あった。しかも、いくつも。おおかたは、怪しげなコミュニティだが、中に一つ、まともな、夫に先立たれた女性達の書き込みがあるコミュニティを見つけた。まだ若い人、赤ちゃんがいる人もいれば、夫が事故で亡くなった人、急病の人もいる。どの人の記事も、読むと切なくなる。せいいっぱいの今を生きている人たちの状況が垣間見える。
 でも、このコミュニティには入れない感じだ。どの人も「主人」ということばを多用する。「夫」は、何のためらいもなく、「主人」なのだ。かまわないのだけど、そんなことばの習慣に対して、難癖をつける気にはならないのだけど、でも、距離がある。

 悲しみは、ストーリーだ。語ろうとすれば、もはや、どこかで見知ったストーリーだ。言い習わされたことばが多用されればされるほど、それは、なじみのあるストーリーになる。それしかないかも、私たちは、見知ったストーリーや、言い習わされたことばに仮託するしか、自分のあふれる感情を語るすべはないのだろう。

 それでも苦しいのは、自分の内にわき起こる感情を処理する力が自分にはなく、あふれるつらさが私の許容量をオーバーフローしている状態が続いていること。あふれた感情は、拾う力もなく、置き去りにするしかない。ずっとずっと、置き去りにしている感情、、、。生き続けるには、それしかできない。この感情を受け止めることなどできないのだろう。
 たぶん、人はそうして、悲しみやつらさを置き去りにして、なかったものにして、生きていくものなのだろう。置き去りにしたものが何であるかを、心のどこかで認知しながら、生きるために、それを封印する。その封印は、たぶん、もう、解かれない。宿題をやり残したような感覚を、時折、年老いてからも、抱いてはいるが、その宿題が何であったかも思い出せない。たぶん、やり残した感覚を抱きながら、少しずつ、忘れていくのだろう。

 既存のことばで、自分の苦悩を語りたくない、という思い、見知ったようなストーリーに加工してしまいたくない、という思いで、先立たれた事実を、ことばを失ったまま、かかえている、、、。