凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

とにかく、何でもあり、だし、、、。

2016-06-13 19:08:29 | ハラスメント
モラル・ハラスメントの特徴の一つかもしれないが、
ターゲットになってしまった人以外にはわかりにくい場合がある。

他の人には「いい人」のように見えているので、
ターゲットになってしまった人だけが、相手の攻撃性を見ているために、
他の人に理解されない。
理解されないだけでなく、「攻撃された」ということを他の人に訴えると、
訴えた方が「被害妄想」であるように誤解されたり、ということも起こる。
つまり、DVと一緒で、ハラッサーは、攻撃する相手を選んでいるのだ。
被害者の方に問題があるように受け取られたりするのも、
DVという概念が流通する以前の世間の受け取り方に似ている。

要するに、
たとえ、自分がターゲットになっていないとしても、
被害を訴える人には、まじめに向き合うことだ。

ずいぶん以前のことだが、行政で電話相談を受けていたとき、
ある高齢者団体の世話役(60歳代の男性)からセクハラされた、と、
80歳代の女性からの訴えがあった。
正確には、その80歳代の女性の娘さんが、電話をかけてきた。
母親は、そのことがあって以来、鬱のようになり、外へも出なくなった。
娘さんがその60歳代の男性の家に電話をかけて、
その妻に事情を訴えたが、
「うちの夫が、そんなおばあさんにセクハラするわけないでしょ!」と、逆に切れられた、とのことだった。
まぁ、その反応もわからなくはない。
母親をかわいそうに思うその娘さんは困り果てて、電話相談をしてきたのだった。
私は、その高齢者団体は行政が把握している団体であることを知って、
庁内つながりで、行政の高齢者担当の顔見知りの職員にその団体の仕組みを尋ねた。
その職員は、すぐにこうきいてきた。
「そのおばあさん、ぼけてない?」

80歳代の女性が、60歳代の男性からセクハラされた、というような訴えが、
こうした反応を引き出したのは意外ではなかった。
「ぼけてるかどうか、わかりません」と私は答えた。
「男の方はそんなつもりでなくても、おばあさんがそう思いこんだかもしれんし、、、」
と彼はさらに言う。


「何があったかはわかりません。二人の間に起こったことで、誰も見た人はいなかったのですから、
事実を裁定することはできません」と私は答えた。
「でもおばあさんがひきこもりがちになって苦しんでいらっしゃる、ということなので、、、」と言うと、
「そのおばあさんの悩みを何とかしたげたいということなんやな」と、理解してくれた。
まぁ、まだその職員は、理解力のあるましな人なのだ。

そのおばあさんの事件は、その後も解決したとは言えないだろうが、
とりあえず、まわりの人が配慮して、団体の集まりに出て行かなくても寂しくないように、
女性のメンバーがたまに訪れたりしてくれたのだったと思う。

高齢女性だから、セクハラ被害に遭わないとは限らない。
それは確かだ。
高齢女性専門にホステスを募集する風俗などの求人募集を見たことがあるが、何軒も存在していてびっくりした。
個人の嗜好や考え方は、人の数だけあるのだから、
あり得ない、ということは、たぶん世の中にはないのだ。
何だって、起こりうる。

柔軟な思考力がないと、他人の相談には乗れないようだ。



ハラスメント覚え書き

2013-03-26 08:58:41 | ハラスメント
 パワハラを行う人の素質、というものがあるのかどうかはわからない。が、私のところに入ってきたエピソードの中で、共通したセリフというものがあると気づいてきたので、ここらで、メモしておく。

 最初に知ったのは、これはいずれも行政系の出先機関での出来事だが、イベント宣伝のためにスタッフが作製したチラシを、「イラストが大き過ぎる(あるいは場所が悪い)」「文字の位置が悪い(もっと右、あるいは下、など)」「デザインのことで何度も直しが入り、作成者を困らせる、というパターン。最初は、なぜそこにこだわるのかわからなかった。いずれも、チラシを作製するプロではない。アート集団でもない。イラストの大きさや文字の位置など、極端な場合は別として、通常、特に問題がない場合でも、何度も微妙な直しが入り、スタッフは困り果てていた。異なる職場でも、同じようなやり取りが展開されているのを知った。
 これは、上司に当たる人が、自分の権威を示すために指示を出す時に用いる常套手段なのだと気づいた。イラストの大きさや文字の位置など、特に決まりはない。感覚的なものだ。内容の訂正指示が出せない、つまり上司がその方面の知識や情報を持っていない場合、そこを指摘してくる。いずれも、内容に不案内な上司がやる、という共通性に気づいた。
 私がその企画を立てた場合は、企画には口を出せないから、私を飛び越えて出してくる訂正指示がそれだったし、私の部下だった中間管理職は、あまりにもその方面で素人だったので、イラストの大きさばかりにこだわって、部下に指示を出していた。が、私には、最初のイラストのサイズが不適当とは思えず、内心、「もっと他にこだわるところはあるだろう」と思うのだが、私はパワハラタイプではないので(そういう出来事を見ていると、断じて違うと思える)、その中間管理職の思惑を見守ることにしたことがある。まあ、見守るだけ無駄だったのだが、、、。

 もう一つは、部下について「仕事ができない」を連発する上司。部下の仕事力を引き出すのは上司の仕事であるが、そしてそれに難儀するのは確かだが、上司自身があれこれ思い悩むものであって、部下にレッテル貼りをしてしまっては、そこまでになってしまう。しかし、仕事ができない、あるいは仕事をさぼりたがる上司ほど、部下のことを「仕事ができない」と言う。これも常套句だ。自分がマネジメントのしんどさを引き受けずに、部下のせいにするのだ。

 パワハラをするタイプというのがあるのかどうかはわからない。状況によって、パワハラ上司になってしまう人はいるかもしれない。パワハラ上司の指示を受けて、さらに自分の部下にパワハラ的な指示を出さねばならない、という場合もあるかもしれない。あるいはいじめの構造と同じで、自分がパワハラを受けないためにパワハラ上司の懐に飛び込み、パワハラ上司の意を汲んだ言動に出てしまうタイプの人もいるかもしれない。
 気をしっかり持たないと、パワハラが蔓延する職場では、自分も加害側に回ってしまう。そうでなければ、ターゲットだ。パワハラ土壌というものがある。そこでは、もはや回復不能なほど、健康なコミュニケーションが失われている。そこにいる人は、皆、歪みをかかえている、ということがある。汚染されないうちに、早く去った方がよい場合が多い。そして、危険を察知して早く去った人は、今度は、そこにい続けてターゲットになってしまった人の苦悩を理解しないケースが多い。深刻な土壌について、そこまで強く認識しない。皮相的な部分しか見ていないが、危険を察知する能力に長けているので、さっさとその場を後にする。ターゲットになる逃げ足の遅いタイプは深く傷つく。どうせ逃げ足が遅いなら、そして傷ついてしまったなら、この土壌の問題性を公正に問う力をつけ、仕事、組織、集団の問題性をえぐり出す探求者になるのがよい。
 ただ、嘆くだけ、恨むだけの人になっては芸がなさ過ぎるだろう。
 


「被害者」という武装

2011-08-05 17:23:10 | ハラスメント
 かつて、女たちは二次的地位に置かれ、「女は黙ってろ!」などとはじき出され、意見を言うことも出来なかった時代は確かにある。だからこそ、女達は立ち上がったのだ。

 しかし、昨今の女たちの言動に、私は首をかしげざるを得ない。自分の気に入らないことが優先されること、自分の意見が容れられないこと、意見の違いのすりあわせがうまくいかないこと、そういうことに直面すると、たちどころに、ハラスメントの被害者になる、という人たちがいる。それは、議論に敗北したのであって、ハラスメントの被害者ではない。

 女たちは闘うことが苦手な人が多い。結局、武器は、「被害者」「弱者」という立場に立つこととなり、その立場から相手を攻撃することになるのか。
 
 おかしな論理を振り回して、自分の不安定な情緒を全開させている人の相手をするのは、確かに疲れる。冷静になってほしいなぁ、、、と思う。
 でも、「弱者」「被害者」の立場に立つのは卑怯だなぁと思うこともある。しかし、まともな議論を避けて裏で画策して、その人を排除する人も卑怯だなぁと思う。結局、そんな卑怯な人たちの駆け引きには巻き込まれたくないので、私は距離を置く。

 組織運営には、そういう手を汚すことも必要だ、と聞いたことがある。それなら、組織運営などするまい。正攻法でいきたい。正攻法でやれないことは、やらないことにするしかない。

 でも、組織って、みんなおかしくなるものなのか。狡猾に裏で画策するか、「被害者」で武装して攻撃するか、大声で力づくで人を圧制するか、それしかないのか。
 民主的な組織づくりって、ほんとうに絵空事なのか、、、。

思い出した、、、

2011-07-08 22:28:23 | ハラスメント
 セクハラについて書いていて、思い出した。もう少し若い頃、(今ではさすがに私も年をとったのでそれはないが)、学生からのセクハラもあったことを思い出した。セクシュアルなジョークで、教員をからかってくる。セクハラ・オヤジさながらだった。中には、レポートに、読むに堪えないセクハラ文言があった。

 私は「女」をアピールしないタイプだし、若い頃から、よく「色気がない」と言われることがあった。(ほっといてほしいけど、、、。)そのような私ですら、こんな経験が多々あるのだ。私よりも、女性であることをアピールするヘテロ女性はたくさんいるはずだから、もっと凄まじいいやがらせを受けてきているのだろう。

 そう言えば、私の友人の一人も、昔、上司からのセクハラで、結局仕事を辞めざるを得なくなったことがある。それは、絵に描いたようなセクハラだった。代表的なセクハラ事例、みたいな出来事で、呆れたものだ。

 男性のセクハラは、多くは、支配欲、征服欲と連動している。だから、性的なアプローチをして断られた上司が、断った女性をプロジェクトからはずしたりして、腹いせをすることはよくある。断られたら、ただがっかりして諦めればよいのに、報復をするのだ。セクハラ事件は、その報復から問題化されることがよくある。断られた時点で諦めればそれで済んだのに、報復に出たために、仕事上の不利益を被った女性が腹に据えかねて訴え出ることで、すべてが明るみに出る。男性の方は、仕事上の不利益が女性に与えるダメージを過小評価している。仕事に来ている女性をセクシュアルに扱い、それに失敗すると、仕事上で不利益を与える、という勘違いの連続。女性にすれば、セクシュアルに扱われたことは断ることで終わっているが、仕事上の不利益を被ればこれは我慢できない。なにしろ、「仕事」をしに職場に来ているのだから。

 そのあたりのことは、男性も同じ筈なのに、女性はやっぱり違う生き物だと思われているとしか、思えないのだ。早くそういう男性は、絶滅してほしいなあ、、、。



今一度、セクハラネタ

2011-07-08 21:34:11 | ハラスメント
 子どもの頃、おじいさんが好きだった。自分の祖父を慕っていたので、その延長上にあったと思うのだが、人間の中で一番好きなのが「おじいさん」だった。思春期の頃もそうだった。思春期の頃には、その理由を一応、言語化していた。「おじいさん」は、もう枯れていて、生臭い男ではない、からだった。祖父と同じように、痩せ型のおじいさんが特に好みだった。笠智衆なんて、もろ好みだった。今も、その好みは変わらないようだ。

 では、なぜ生臭い、男臭い男性がいやなのか。実はそういう女性は多い。今は、「草食系男子」という言い方をするが、昔は、「男らしくない」男と格下の扱いだった。しかし、実は、この、草食系を好む女性は、私にかぎらず結構多い。
 先日、友人二人と、NHKの朝の連続ドラマ『お陽さま』を見ていて、3人で一致したのは、主人公陽子の夫の父親がいいね、ということだった。おとなしくて明るくて、邪魔にならない、この人はいいね、と私が言ったら、二人ともそう思う、と、乗ってきた。私たちが変わり者、ということもあるのかもしれないが、、、、。
 あの人なら、セクハラもしないような気がする。

 ヘテロ男性の女性に向けるセクシュアルなジョークは聞くに堪えない。性的対象として、女性を絶えず値踏みする目で見ながら、気を引くようなきわどいジョークを出してくる。また別のオフ会では、もっと年齢が上だったので、私が一番若かった。私の次くらいに若い男性が私の隣に座ったが、他の人が自己紹介をしているのに、私だけに話しかけてくる。「とても60歳に見えない」「熟女が悶々としているように見えるよ」などと、ちょこちょこと二人だけの会話に持って行こうとする。私が悶々としているように見えたとしたら、その人のその言動にイライラしていただけなのだが。二次会をパスして帰ったが、帰りがたまたま一緒になった人は、小柄で、まさに草食系の、「おじいさん」。ホッとして、少しの間、話をした。もともと大学で教えていた人で、今も研究をしているらしく、私がわりに見慣れているタイプの人。セクシュアルな話題は当然一切ない。

 大学の非常勤講師の控え室で出会う講師仲間の男性も、皆そういう感じだ。もちろん、私生活になればそれぞれがセクシュアルな暮らしもあるだろうし、若い人も多いから「草食系」とは限らない。しかし、彼らの関心は一様に、研究テーマや知的好奇心の向かうところにあるので、相手が異性であるとか同性であるとか、そういうところに関心が向かない。

 最近は、マナーを教える科目などがあるらしく、時々企業から派遣されてきたような女性が来ることがある。だいたい、女性講師なんて、皆、地味な人種だ。「女」をアピールしている人は一人もいない。そこに企業から派遣されてきた女性が入ってくると、男性だけでなく、女性も、一瞬目を奪われる。華やかなのだ。同じスーツを着ていても、全く違う。彼女たちは美しく装うことを何よりも優先しているのだろう。しかし、講師控え室ではそれだけだ。一瞬目を奪われても、それ以上は何も起こらない。男性講師も、特に話しかけることもしない。女性達は、男性のセクシュアルな眼差しになれているとしたら、むしろ拍子抜けするだろう。セクシュアルな空気の漂わない場所なのだ。
 それが私の慣れている世界であるし、好む世界だ。

 いちいち、「女」を意識させられるのはうっとうしい。興味は他にある。

 ま、しかし、大学で教授によるセクハラが横行する現実もあるものな。たいていは、女子学生は、意識は私と似たようなものだろうと思う。教授の研究を尊敬している。できれば、自分もその研究世界に入りたい。教授にセクシュアルな興味は一切感じていない。それなのに、教授側は誤解をする。自分自身、あれだけ業績をあげることに血道を上げてきたのだから、相手もそこに興味があることくらいわかりそうなものなのに、なぜか、相手が女性の場合は、自分を「男」として慕っていると勘違いをする。女性とは、性的で恋愛に向いている生き物だと思いこんでいるせいなのか。自分の研究を尊敬して近づいてくる男子学生にはそのような誤解を起こさないのだから、女子学生も全く同じように扱って間違いはない。女性を何か、男性とは異なる生き物だと思いこんでいるから、そのような間違いを犯すのか。とにかく、大学の中でもセクハラは絶えないから、「草食系」に見えても、女性観は、多くのヘテロ男性と同じなのかもしれない。

 女性と言っても、いろいろだから、私や私の友人たちのような女の方が少数派なのかもしれないけれど、、、。


セクハラ文化?

2011-07-02 07:33:02 | ハラスメント
 SNSのオフ会というものに行ってみた。女性ばかりのに行って、悪くなかったので、今度は、男女混合の集まり。お酒が入るせいか、いや~、びっくり。年寄りが多いので、全く想像していなかったが、ヘテロの男女が秋波を送り合うムード満点。
 
 勘弁してよ~の状態で、早々に退散することにした。が、一人、一緒に帰ると言う男性が現れ、家の近くまで送ってくれたが、お腹が空いたから何かご飯食べよう、という再三のお誘い。幹事さんに挨拶して帰る前から、ご飯食べようと何度も誘われていたから、ご飯くらい、いいかなと思ってつきあうことにしたが、まぁ、ヘテロの男性というのはこういうもの?
今まで自分が、いかに特殊な世界に生きていたか、ということを思い知った夜だった。

 思えば、若い頃、なんかこういうのに嫌気がさして、男の人には次第に近づかなくなっていたのだったが、60にもなると、忘れてしまっていた。

 人と人としての交流というのは、やっぱり成り立たないのか? もう、枯れてきている年齢だから、やっとそういうめんどくさいことから抜けだしたと思っていたのだが、、、。誤算だった。

 いい人なのだろうと思う。乱暴なところもないし、優しいし、、、、でも、ヘテロの男性なのだとつくづく思い知る。
 いい人そうだから、悪く言いたくはない。思いたくもない。でも、ヘテロの男性の限界とはこういうものなのか。女はやっぱり「女」としか見えない。彼らにとって、女とは、男の性的対象である、ということに尽きるのだ。
 さんざん親切にしてもらっただけに辛いので、「ごめんなさい」という気持ちがわく。でも、勘弁してよ~、なのだ。

 この社会は、女にとって、セクハラ的ムードが蔓延した社会なのだ。一般の感覚から見れば、おそらく、「セクハラ」などという行為はなかったと思う。たぶん、彼(ら)は、セクハラオヤジではない、だろう。しかし、私には、限りなくセクハラに近い言動だらけだった。女の人もそれに麻痺している。人と人が普通に交流するのに、それはないよ、という言動に充ち満ちている。でもそれは空気のように普通にあるので、女性達も気づかないし、気にしない。
 この社会がセクハラ文化社会だということに、あらためて気づいた次第。

 特に団塊の世代は、性が解放された世代だから、性や恋愛にとりわけ思い入れが強いのかもしれない。

 う~、しんどかった~。せっかくの良い出会いなのに、残念だ。やっぱり、女の人だけのオフ会にしようと思う。女の人は、同じ世代でも、ほんとうにさわやかだ。
 
 







個人的な感情の問題なのに、組織のもめごととなっている、、、。

2011-05-05 18:44:48 | ハラスメント
明るくなりたいと思っても、明るくなる材料がない。

 昨日、久しぶりに数人の人と夕食をとり、アルコールも少しいただいたひととき。その集まりのすべては、良い雰囲気で、誰もが楽しそうで、良かったのだが、ただ、最後に一人の人と話したことは、私を落ち込ませた。

 その人は、私が関わっている団体の会員となっている人だが、その団体を辞めた人から団体の「酷い扱い」について聴き、怒りを持っていることがわかった。私は、団体の擁護をしようとしたが、すぐに無理だとわかった。一方的な情報だけを受け取り、それを信じて疑わないのは、辞めた人の持つ「力」だ。悪口力、というか、風評加害力、とでも言おうか、とても攻撃力のある人だと、あらためてその人の持つ力に驚く。
 尤も、昨夜私が話をした人は、私を責めたりはしない。むしろ、私がよく事情を知らないと思って、私に真実を伝えようとしたらしいのだ。

 こういうわけのわからない影響力に対抗するのは、無理だろう。団体内部では、その人の悪口を誰も言わず、みんなが疲弊しきっているのだが、そのことについては、噂だけを信じている人は知らないのだ。

 私も酷い目にあった組織について、匿名で告発文を書いたことがある。今でも、私の怒りはおさまらない。しかし、何が違うかと言うと、私の場合は、文書化された証拠があり、酷い目にあった人たちの訴えが正式にあり、ただの私人間の「悪口」や「風の噂」のレベルではない。しかも、私はそれでも、事実確認が未完に終わったその事件について、「パワハラ」という裁定はしていない。個人的には、パワハラと思っているが、公的立場としては、その用語を用いず、あくまでラベリングを回避した。

 しかし、今回の団体の事件は、被害者と称する人が、事実確認を拒否し、自分の気持ちの共有と、加害行為の認定を望み、且つ、そのことの正式な訴えもせずに、団体の悪い噂を流し続け、新たな人を味方に巻き込み、団体を風評被害に追いやっている。卑怯きわまりないとらえどころのないやり方である。

 しかし、その人はとても魅力的な人で、どこか心弱いところのある人は、みな、その人の魅力に惹きつけられる。弱いところのない人は、彼女の情緒性にむしろ引いてしまうのだが、弱みや悲しみを持っている人は、皆、彼女を頼りに思い、信頼し、「大好き」だと言う。また、そういう弱い人には、彼女は、限りなくやさしい。とろけるように優しいのだ。逆に、弱かった人が、本来の強さ、タフさを取り戻し始め、彼女と対等に自分の意見を言うようになり、彼女と時として対立する意見を言うようになると、彼女は許せなくなるようだ。自分に対して屈服することを望み、それがかなわないと排除の行動に出る。結局、彼女の下に侍るのは、自分の意見を持たない人、彼女に決めてもらいたい人、彼女を判断の基準にしている人、となる。
 そして、本人自身が、そのことに気づいていない。はじめから彼女から距離のある人は、彼女のそのような病理に気づくことはなく、彼女を支援する。彼女の優しさにとろけてしまった人たちは、彼女に従順だ。結局、彼女の傍にいて、彼女と対等となった人たち(極めて少数)だけが、彼女の病理に気づき、彼女から距離を置こうとし、そして、「裏切り者」呼ばわりをされるのだ。

 この悪夢のような風評被害はいつまで続くのか。そして、団体の側も、彼女の悪意に対抗するように、策を練る。こちらにも、至らぬところがあったのだ、という自省がないように見える。私には、もう、「どっちもどっち」に見えてくる。団体の役員を今年度で下りることにした。役員全員が、紛争を解決できなかった責任をとって、役員を下り、心機一転、会として出直す気でやればよいと思っていたが、(どうせ、担い手の実働部隊は変わらないのだし)、しかし、どうやら、役員を再度やりたい人がいるようだ。しかも、加害者呼ばわりされた当の団体トップが、このままやめたのでは加害行為を認めることになる、と、再任を望んでおり、実働部隊もそれに賛成したとか、、、、。唖然としたが、もう、私には言うべき言葉もない。加害行為は認定されない。被害者を名乗る彼女が出してきた文書では、情緒的な表現ばかりで、これといった加害行為は認められない。そして、彼女自身がそれをわかっているから、調査を拒否したのだろう。彼女の辛さ、苦しさは、誰も疑わない。が、加害行為があったか、と言われれば、それは疑わしい。彼女の文書には、彼女の思い込みの強さ、被害者意識の強さ、あまりにも情緒的な受け止め方などが表現されているが、加害者と名指された人の「加害行為」は読み取れない。センスの悪い言動はあったかもしれないが、「パワハラ」とまでは、誰の目にも見えない。そうして、客観的調査(外部弁護士による)を拒否し、明瞭な訴えもせずに、「悪口」を伝播させるかたちで、団体を孤立させ、窮地に陥れようとする。私には卑怯な行為としか見えない。

 しかし、彼女に魅了された弱みのある人たちは、彼女の正しさを信じて疑わないのだ。そして、彼女も、自分の正しさを信じてくれる、善良で、弱いところのある、コントロールしやすい人を実にうまく見分けて、使い分ける。見事な能力だ。
 彼女のように、人を説得する力も、魅力も、人望力も、コントロール力も持たない私は、ただただ、事態に唖然とし、もはや、どちらにつく気にもなれず、疲れ果てている。

 嘗て自分の所属した組織が、自分の前任者によって、訴訟を起こされた時、現職にありながら組織側につかず、運動側にありながら、原告側にもつかず、どっちの問題点も見えていたので、結局、「どっちもどっちだ」と、自分独自の立場を貫いた、その時と同じ状態になってしまった。どっちかにつくとそこで自分の判断はなくなるから、思考停止する。その、思考停止した人々が、原告側と被告側に別れて、争っていた。
 私の前任者が勝訴した。原告側が勝利にわき、被告側の組織が運営する公共施設のホールを使って、勝利集会をする、と言う。どこまでも、強気と言うか、いやがらせが強い、というか、厚顔無恥というか、もう、よくやるよ、という感じ。
 独自の立場を貫く私が、結局、それほど頑強な人間ではない、というところが実に悲しいけれど、、、。
 

親からのハラスメント

2010-05-29 21:40:03 | ハラスメント
 私は、あまり丈夫な子どもではなかった。いつも体調が悪かった。中学生になる頃には、ほとんど、鬱の症状を呈していた。
 今、思えば、それは当たり前だったかもしれない。私は、ほとんど毎日、朝から晩まで(正確には学校に行っている間は、違ったが)、親から叱られ続けていた。大人が、職場で朝から晩まで、上司から叱られてばかりいれば、当然、体調を崩し、鬱にもなるだろう。子どもだって、当然、朝から晩まで、叱られ続けていれば、不調をきたしてもおかしくはない。私の親は、注文した品が、思っていたのと違っていた、というような調子で、私に文句を言い続けた。私は、注文した品とは違っていたが、もはや返品はきかない、とても気に入らない品であったのだ。だから、ずっと、苦情を言われ続けた。
 一挙手一投足が、親の気に入らなかった。幼い子どもは、当然のことながら、何かと不器用だ。世間を知らないから、うまく世の中を渡れない。しかし、それらは、私の不具合であり、欠陥であり、私の親には許せないことだったようだ。
 ある程度の年齢になると、私は、理不尽な叱られ方に対して、抗議をする子どもになった。それはまた、親から見ると、注文通りの品でもないくせに、さらに逆切れするという、とんでもない不良品の子どもであったようだ。親は、私のような子どもを押し付けられた不運を嘆き、私を何とか矯正しようと躍起になり、私への不満を、息を吐くように言い続け、叱り続け、ストレス解消の方法として、私に説教し続けた。

 私は、鬱になり、表情が暗く、どんどん、心が病んでいった。しかし、私の親は、その私の暗さを、また、責め続けた。私は、もう、死ぬ以外に道はないような気がしていた。

 11歳の時に、初めて、死にたい、もう生きていたくない、という激しい自己憎悪の感情に駆られた。自分などは、ウジ虫のように殺されてしかるべきだ、誰かどうか、私を殺してほしいと、号泣した。生きる値打ちなど微塵もない、ウジ虫のような私。それが、私の自己意識だった。忘れもしない、11歳の時だ。

 生き延びたが、あの時、うまく自死していてもよかったのに、と思う。

 今も健在の母に、あの頃と同じような酷薄さを感じる時、あぁ、結局同じだった、と思う。何十年も生きたが、結局、私は不良品のままであるらしく、親と良い関係にはなれなかった。ただ、今はもう、母は、あの頃のようには、決して私を責めることはない。そろそろとしか歩けなくなった母をかばいながら歩く私を、母は、もう責めたりいじめたりはしない。と言うか、できない。頼らねばならないのだから。しかし、私の息子や娘が、頼りになると思える昨今、もう、私を選ばなくても済む、と思える昨今、私が彼らと結ぶ以上の絆を、彼らと結ぼうとする。

 私が大腸がんで入院したとき、私の娘に、「お母さんには悪いけど、また、ごちそうを食べに行こうね」と言った母だ。私の病気のことより、私に頼れなければ私の娘に頼ろうとする母だ。その話を聞いても、驚きはしない。そういう人だ。

 ただ、そういう親と一緒に暮さねばならない子どもは、救われない。からだを痛め、心を痛め、体調不良になり、人生を損なう。

 私は、親と完全に縁を切って暮らしていた頃、実は、人生で絶好調の体調であった。笑顔が出る、からだが軽い、どこもしんどくない、というような日々が、ほんのわずかの期間続いた。
 ひょっとして、人々は、このような軽い、どこも辛いところのない体で、日々を生きているのか、と思って、親しい友人に尋ねた。「そうよ」と、友人は答えた。私は、常時、どこかがだるかったり、痛かったり、重かったりしていた。絶えず、どこかに不調を抱えていた。人生のある時期、目がぱっと開かれた。友人に、「今日は目が大きい」と言われた。確かに、外界がいつもより明るかった。ぱあっと、目の前が開けていた。からだは軽く、どこも痛くも辛くもだるくもなく、飛び跳ねたいほど、元気な私がいた。これは、何だろう? と思った。もし、人々が、このような快適なからだで日々を生きているとしたら、私の今までの人生は何だったのだろう、と思った。私の丈夫で明るい時期は、短かったが、しばらく続いた。幸せだと思った。それは、何か良いことがあった、というようなことではなく、生命が味わうような幸福感だった。

 子どもの成育環境は、重要だろう。子どもとは、生きているだけで、幸福感に包まれているものだろうと思う。日々が生命エネルギーの躍動なのだ。それが、叱られたりすることで、暗雲がたれこめる。子どもは、一瞬、悲しみを覚え、泣くこともあろう。が、それはまた、次の瞬間には、からりと晴れて、本来の生きる喜びに浸されるものなのではないか。
 私にも、そのような幼い日々があったと思う。赤ん坊の、無邪気さが許される年ころまでは。
 しかし、それ以降、私の人生には暗雲が垂れこめていた。ずっと、叱られ、否定され、責められ、逃げ道なく、ただただ、泣き続ける日だった。
 子どもも鬱になる。体調不良になる。それは、当たり前の現象だ。放置してはならないと思うが、あまり気づかれてはいないと思う。






攻撃的な人(続き)

2009-06-06 10:08:14 | ハラスメント
 要するに、自分がなんとかいい目を見たい、自分を過剰に守ろう、などとする人というのは、はた迷惑な人達だということだ。
 組織や団体の意思というものが、このような自己愛行動を持つ人に牽引されていることがあったりするが、このメカニズムは団体のダイナミクスとして、研究されるべきだと思う。心理学を嫌う人もたくさんいるし、私も、事態の原因さがしを心理に収斂させることの空しさを感じてはいるのだが、しかし、無視できる領域でもない、という気はする。

攻撃的な人

2009-06-06 09:08:50 | ハラスメント
ここ数年、思いもかけぬ、他人からの攻撃を経験した。子ども時代に、「いじめ」というものがあったが、私はあまり集団から孤立するタイプではなかったので、経験したのは、特定の一人の少女がこっそり近づいてきては、いじめて去っていく、というパターン。どちらかと言うと、いじめる少女の方が孤立していて、私はクラスの中では支持されている子だった。当時も、その少女の行動がわけがわからず、たとえば、なぜいきなり私の手首を爪でひっかいて傷をつけたのか、なぜ、聞こえよがしに私の悪口を言うのか、なぜ、急に優しく近づいて来るのか、さっぱり理解ができず、その少女が近づいて来ても行動パターンがつかめず、全く無防備だった。今振り返れば、終始、私に様々な働きかけをしてきた少女に対して、どうしようもないほど、無関心な私がいた、ということがわかる。

 大人になってからのこのたびの攻撃も、思えば、わけのわからない攻撃なのだが、一つ言えることは、私があまりにも無関心であったことかもしれない。基本的に、関心のない人からの攻撃だという共通点がある。あちらさんは、私について、とにかく、とやかく批判をやり続け、私の方は、いやな目に遭って、初めて相手に目を向けるというパターンがある。
 興味がないから、基本的にこちらからは関わらない。すると、向こうからとんでもない攻撃が来る、というパターンだ。

 無関心だったのが、悪かったのだろうか。無関心だから、相手にとって大事なことに心を寄せない、相手に対して繊細ではない、空気のように無視している、ということだろうか。もちろん、私は、どなたにも基本的に礼儀正しく接している。今、攻撃してきている人達にだって、失礼なことはしたことがない。現職時代にも、届け物を郵送ではなく、わざわざ持参したりしたこともあり、相手も恐縮していて、それなりに礼を尽くしてきたつもりだ。しかし、だからと言って、簡単に彼女たちの傘下に入ったり、彼女たちの思い通りに動くことはない。しかし、それが攻撃を受ける理由になるだろうか?

 つまりは、つくづく考えるのだが、攻撃する人は攻撃しているつもりはないのではないだろうか。
 仲の良い友人で、悪意や敵意がないとわかっている友人からでも、何なのだ? 喧嘩を売っているのか? と思うような働きかけがあることがある。もちろん、気心の知れた仲だと、その場で問いただしたりする。すると、その相手は、私をどうこうしたいわけではなく、自分自身をどうかしたい、というときに、攻撃的なアクションに出るようだ、という共通点に気づく。
 そう思うと、これまで私を攻撃してきた人達の攻撃行動やハラスメントには、私を貶めたいとか、酷い目にあわせたいというような目的はないのかもしれない。だから、結果的に、彼女たちのアクションによって、私に難がふりかかっても、おそらく、自分のせいとは思わないだろう。彼女たちは、自分自身の気持ちを安定させたい、自分を救いたい、浮上させたい、という一心であったりするようだ。それは余裕のない必死な一瞬で、相手の状況が見えなくなっている。たいていは、自分が評価されたい、自分の功績を認めてもらいたい、自分が共感されたい、自分に同調してほしい、自分こそがその賞賛に値する、自分を正当化したい、自分が過小評価されるのは耐えられない、、、、等々、涙ぐましい自己防衛、自己アピールであったりするようだ。
 つまり、様々な攻撃、ハラスメントは、相手をどうこうしたい、というような攻撃目的で行われるのではなく、自分を守りたい、浮上させたい、という自己中心的な潜在欲望の結果なのだろう。しかし、この潜在欲望は、ターゲットを絞り込んでしまうことがある。要するに、私の場合は、邪魔な場所にできた目の上のたんこぶだった、ということなのか。
 どうして、そういう人達のターゲットになるような場所に、私はいてしまうのだろう。完全には退かない、彼女たちの目につかない所にひきこもっていはいない、しかし、ちょっとしたアクションで取り除けそうな風情ではある、が、結構、しぶとい、というところだろうか。
 なぜ、しぶといかは自分でもわかる。それだけはわかる。彼女たちが邪魔に思っていることに気づかないからだ。なぜなら、彼女たちに特別の関心がないから、一通りの配慮はするが、彼女たちのことをいつも考えてはいない。むしろ、攻撃されるまで、忘れている。だから、彼女たちの願望も欲望も、進もうとする方向もわからない。だから、何を怒っているのかさえ、わからない。結果的に、彼女たちの怒りを買うのだろうか。

 上に述べたのは、すべて、私の最近の推理。本当のところは、わかりましぇーん。だって、人を攻撃したいと思ったことがないのだもの。
 行く道に人が立ち塞がっていたら、そこをよけて歩く、ということしかしないのだもの。欲しいと思ったものが手に入りにくいとわかったら、すぐに諦めて、忘れちゃうもの。そんなに強引に自分の向上や成功を願ったことがないから、わけがわからないのが、本当のところ。