セクシュアルネタついでに、ちょっと浮き加減の話を。
私も、若い頃には、恋心というものを抱いたことが、もちろんある。この恋愛感情というものの解明はなかなか難しそうだ。若い頃に読んだイタリアの研究者の話だったかに、革命と恋愛の話があって、革命に身を捧げていると恋愛はあまりしなくて、それがないと、恋愛が増えるとかなんとか、、、、。もうずいぶん昔に読んだので、正確ではないと思うが、私なりに「なるほど」と思った。恋愛とは、心の空いている部分に起こるものなのか、と。
確かに、何かで必死の時に、そういう感情は起こらないような気がする。ふと心のゆるんだ時、何か満たされないとき、不覚にも陥るもののような気がする。
尤も、最近は、アセクシャル、というありようも認知されていて、誰にも恋愛や性的欲望を感じない人も結構いるのだということが認識されている。また、人は年をとると、アセクシャルになる傾向があるようだ。
私は、恋愛というものは、成就への希望が引き起こしているような気がしている。だから、多くの人が、ふられるとショックは受けるが、そのうち立ち直って、相手に執着しなくなる。手に入らない物を欲しがらなくなるのは、たぶん、何においても同じだろう。
私がある機関のトップ管理職として就任した時、「今度就任した人は、バイセクシュアルらしい」という噂が、その機関の外であったそうだ。内部でどう言われていたのかはわからない。それこそ、トラブルが激しくて、そのような浮いた噂をしているゆとりがなかったのかもしれない。
だいたい、フェミニストには、その傾向(つまりバイセクシュアル?)のある人が多い。もともとそうだったわけではなく、理屈で考えていくと、なぜ、女なら男と恋愛をする、ということになっているのか、わからなくなってくるのだ。海外の情報などに接すると、女性同士の恋愛もあり得るという選択肢の広がりができる。アメリカではリブ全盛のころ、レズビアン女性たちがフェミニズム運動を牽引していると言ってもいいほど、レズビアンに勢いがあった。また、フェミニズムを体現しようとすると、愛し合うのは女性同士の方が思想的にかなっている。シスターフッドとレズビアンの連続性を主張した本なども読まれ、「精神的レズビアン」を自称する女性たちもたくさんいた。
日本人のある女性は、ただの一度も女性とつきあったことも恋愛をしたこともないけれど、レズビアン宣言をした、という人がいる。そう言えば、私の知り合いの中にも、夫と子どもと共に暮らす主婦だが、そして女性と恋愛関係になったことはないが、レズビアン・アイデンティティを持っている人がいた。
無理やり自分をしつけ直してレズビアンになった、という人の著述もあったが、今の若い人たちから見れば、70年代のフェミニズムの珍妙さに笑えるだろうな。
何かにつけて、一途で必死だった時代だ。暴走もあったけれど。
で、私の正体は、と言えば、ここで詳しく書くつもりはないが、自分をレズビアンやバイセクシュアルや、ヘテロセクシュアル、というような類型にあてはめる気はない。
ただ、なんとなく惹かれる女性のことを書いてみよう。もう、60歳だし、今やアセクシャル的だけれど、思い出話とともに、自分の正体に自分でも興味があるので。
スカート派でショートカットの女の人に惹かれる傾向がある。それこそ、なぜだかわからない。しかも、比較的体格の良い人に。ある日、コトッと音がするように恋に落ちたのに気付いたことがある。しかし、その人は、仕事上しょっちゅうからまないといけない相手だ。そのような感情を持っていると、いちいちややこしい感情に翻弄されるのは目に見えていたので、気づくや否や、すぐさまその恋心をもみ消しにかかった。恋心というものは、私の経験上、必ず消える。火種を小さい間に消した、という感じだ。逆に放置していると育つ。しかもややこしく育つことが結構多い。
男の人に多いようだが、自分の恋心がかなわないとわかると、逆恨みする人がいるが、(その一つの厄介な表れがストーカーだ)、この手の感情のややこしさは、放置しておくと本人の制御不能になるところだ。
「恋のかけひき」などと、ドラマのネタになったりするが、話を余計ややこしくするだけだ。早いうちに何とかした方がいい、というのが私の持論。なぜなら、恋心は、全く根拠のない、一時的な気分の迷走だからだ。何かの脳内物質が、対象を自分の空き領域にはめ込んでしまうのだろう。
私は、長く一緒に住んでいて、やがて情を育んで仲の良い夫婦になっていった、昔の見合い結婚をした人たちの絆の方を、よほど信用する。今、そのような高齢者夫婦をよく見かけるようになった。お互いが頼りなくなればなるほど、お互いを大切にしあっているようなカップルを見ると、いいものだなと思う。むしろ、人間にはこういう絆しかないのかもしれないと思う。
で、私の好きなタイプの女性たちだが、比較的体格の良い、ショートカット、スカート派、という女性像が何を意味するのか、自分でもわからない。男の人みたいな女の人は苦手だ。長い間、私のことを好きだと言い続けていた人がいるが、誰もが男性と間違えるような人だ。今では良いパートナーを得て安定したので、私を見ると「ずっと惚れてたけど、相手にしてもらえなかった」と、笑って言うようになっている。良い友人の一人ではあるが、こういうタイプの人には、全くといっていいほど惹かれない。興味のかけらもわかない。それも何なのか。
レズビアンには、男のような人も多い。私は、そういうタイプの人に嫌悪感すら抱くこともある。私の外見がフェミニンに見られるので、男のようなタイプの人に好まれるのかもしれない。でも、ハンドルネームが虎之助であるように、私自身はアイデンティティがフェミニンな方向に傾いていない。私のことをよく知る友人たちは、「中身はおじさん」だと笑う。
類型化するとろくなことはない、ということがこの一事をもってしてもわかる。トートロジーに陥るのだ。が、男女の類型、セクシュアリティの類型、、、これらを離れて、私たち自身を語れない、という因果な話だ。
ため息。
やっぱり、あんまり浮いた話にはならなかった。
私も、若い頃には、恋心というものを抱いたことが、もちろんある。この恋愛感情というものの解明はなかなか難しそうだ。若い頃に読んだイタリアの研究者の話だったかに、革命と恋愛の話があって、革命に身を捧げていると恋愛はあまりしなくて、それがないと、恋愛が増えるとかなんとか、、、、。もうずいぶん昔に読んだので、正確ではないと思うが、私なりに「なるほど」と思った。恋愛とは、心の空いている部分に起こるものなのか、と。
確かに、何かで必死の時に、そういう感情は起こらないような気がする。ふと心のゆるんだ時、何か満たされないとき、不覚にも陥るもののような気がする。
尤も、最近は、アセクシャル、というありようも認知されていて、誰にも恋愛や性的欲望を感じない人も結構いるのだということが認識されている。また、人は年をとると、アセクシャルになる傾向があるようだ。
私は、恋愛というものは、成就への希望が引き起こしているような気がしている。だから、多くの人が、ふられるとショックは受けるが、そのうち立ち直って、相手に執着しなくなる。手に入らない物を欲しがらなくなるのは、たぶん、何においても同じだろう。
私がある機関のトップ管理職として就任した時、「今度就任した人は、バイセクシュアルらしい」という噂が、その機関の外であったそうだ。内部でどう言われていたのかはわからない。それこそ、トラブルが激しくて、そのような浮いた噂をしているゆとりがなかったのかもしれない。
だいたい、フェミニストには、その傾向(つまりバイセクシュアル?)のある人が多い。もともとそうだったわけではなく、理屈で考えていくと、なぜ、女なら男と恋愛をする、ということになっているのか、わからなくなってくるのだ。海外の情報などに接すると、女性同士の恋愛もあり得るという選択肢の広がりができる。アメリカではリブ全盛のころ、レズビアン女性たちがフェミニズム運動を牽引していると言ってもいいほど、レズビアンに勢いがあった。また、フェミニズムを体現しようとすると、愛し合うのは女性同士の方が思想的にかなっている。シスターフッドとレズビアンの連続性を主張した本なども読まれ、「精神的レズビアン」を自称する女性たちもたくさんいた。
日本人のある女性は、ただの一度も女性とつきあったことも恋愛をしたこともないけれど、レズビアン宣言をした、という人がいる。そう言えば、私の知り合いの中にも、夫と子どもと共に暮らす主婦だが、そして女性と恋愛関係になったことはないが、レズビアン・アイデンティティを持っている人がいた。
無理やり自分をしつけ直してレズビアンになった、という人の著述もあったが、今の若い人たちから見れば、70年代のフェミニズムの珍妙さに笑えるだろうな。
何かにつけて、一途で必死だった時代だ。暴走もあったけれど。
で、私の正体は、と言えば、ここで詳しく書くつもりはないが、自分をレズビアンやバイセクシュアルや、ヘテロセクシュアル、というような類型にあてはめる気はない。
ただ、なんとなく惹かれる女性のことを書いてみよう。もう、60歳だし、今やアセクシャル的だけれど、思い出話とともに、自分の正体に自分でも興味があるので。
スカート派でショートカットの女の人に惹かれる傾向がある。それこそ、なぜだかわからない。しかも、比較的体格の良い人に。ある日、コトッと音がするように恋に落ちたのに気付いたことがある。しかし、その人は、仕事上しょっちゅうからまないといけない相手だ。そのような感情を持っていると、いちいちややこしい感情に翻弄されるのは目に見えていたので、気づくや否や、すぐさまその恋心をもみ消しにかかった。恋心というものは、私の経験上、必ず消える。火種を小さい間に消した、という感じだ。逆に放置していると育つ。しかもややこしく育つことが結構多い。
男の人に多いようだが、自分の恋心がかなわないとわかると、逆恨みする人がいるが、(その一つの厄介な表れがストーカーだ)、この手の感情のややこしさは、放置しておくと本人の制御不能になるところだ。
「恋のかけひき」などと、ドラマのネタになったりするが、話を余計ややこしくするだけだ。早いうちに何とかした方がいい、というのが私の持論。なぜなら、恋心は、全く根拠のない、一時的な気分の迷走だからだ。何かの脳内物質が、対象を自分の空き領域にはめ込んでしまうのだろう。
私は、長く一緒に住んでいて、やがて情を育んで仲の良い夫婦になっていった、昔の見合い結婚をした人たちの絆の方を、よほど信用する。今、そのような高齢者夫婦をよく見かけるようになった。お互いが頼りなくなればなるほど、お互いを大切にしあっているようなカップルを見ると、いいものだなと思う。むしろ、人間にはこういう絆しかないのかもしれないと思う。
で、私の好きなタイプの女性たちだが、比較的体格の良い、ショートカット、スカート派、という女性像が何を意味するのか、自分でもわからない。男の人みたいな女の人は苦手だ。長い間、私のことを好きだと言い続けていた人がいるが、誰もが男性と間違えるような人だ。今では良いパートナーを得て安定したので、私を見ると「ずっと惚れてたけど、相手にしてもらえなかった」と、笑って言うようになっている。良い友人の一人ではあるが、こういうタイプの人には、全くといっていいほど惹かれない。興味のかけらもわかない。それも何なのか。
レズビアンには、男のような人も多い。私は、そういうタイプの人に嫌悪感すら抱くこともある。私の外見がフェミニンに見られるので、男のようなタイプの人に好まれるのかもしれない。でも、ハンドルネームが虎之助であるように、私自身はアイデンティティがフェミニンな方向に傾いていない。私のことをよく知る友人たちは、「中身はおじさん」だと笑う。
類型化するとろくなことはない、ということがこの一事をもってしてもわかる。トートロジーに陥るのだ。が、男女の類型、セクシュアリティの類型、、、これらを離れて、私たち自身を語れない、という因果な話だ。
ため息。
やっぱり、あんまり浮いた話にはならなかった。