凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

いつの間にか冬

2015-01-04 12:59:48 | 人生
 あわただしい日々を過ごしていたら、気がついたら、冬。と、言うか、年が明けていた。
人生の終わりのその日は、心静かに辞世の句などを詠んで去りたい、なんていうのは全くの幻想で、案外、片付けてなかったリビングの雑多な物が気になったり、あるいは、台所の洗い物をためてしまった後悔が、自分を苛んでいたりするのかもしれない。

 まだ20代の頃、自分が今頓死したら、台所の床のしみをとりきれていないことに思いを残しながらかもしれない、と思って、そのような人生を送りたくないと考えていた。しかし、60代になっても、そんなようなものだ。

 人生というのは、自分が望むほど上出来でもなく、自分で悲観するほど悲惨なものでもない、という実感がある。それは、平和時に考えていることに過ぎないのは承知の上だけれど。

 自分の望みは、思うほど早くは実現しないけれど、絶望するほどでもない時期に実現したりする。

 そんなようなものだ。

 いろいろ解釈することの面白さだけが、変わらずにある、この人生。

いつの間にか晩秋

2014-11-25 23:54:43 | 人生
 心の風景を書いてきたこのブログ。ずいぶん途絶えている。母の看病や介護や原稿書きや、団体の庶務や、、、そんなこんなで追われていた。

 しみじみものを考えることがないことはないのだが、それを書きとめるだけの余裕がなかった。

 とにかく秋。私がとても美しいと感じる紅葉の季節だ。しばし味わおう。

 母がいよいよ老い先が短いと感じる今日この頃、時折、芯から悲しい気分に襲われるが、しかし、相変わらず酷薄な母とのつきあいに疲れもする。

 しんしんと冷えるような寂しさだ。

我が人生は悔いだらけ

2014-08-09 22:04:42 | 人生
 後悔しない生き方をしたつもりだったが、こうして、来し方を振り返る年齢になって、無念なことが多い、とあらためて思う。

 どうしてこんなに、自分の人生と折り合いがつけられないのか。
 どうして、自分とこんなにも折り合えないのか。

 BLというのは、フェミニズムの恰好のネタの一つだが、そしてそれを解明しようとするフェミニストも多いが、なかなか解明に至らない。私はそれは、フェミニズムが追求しようとし、奪還しようとした目的に反することだからではないかと思ったりする。

 女であることを肯定しようと、フェミニストたちは女を社会の第一義の存在に押し上げることに全力を尽くしてきた。男と対等な存在として。
 それは、もちろん、法の前の平等な存在として女が男と共にあることの意義は、大きいだろうと思う。きっと、正しい方向性だ。

 しかし、法の前の平等という人為的な操作とは異なるところで、女は、どこまでも二次的存在なのではないかと思う。二次的存在として概念化され、客体的存在として深化してしまっているので、私たちの概念構成をそう簡単には作り替えられないのではないかと思うのだ。

 ホモ・ソーシャルというのは、実に言い得て妙だ。男達が構成したマスキュリニティの世界には、私はいない。私は、ホモ・ソーシャルな世界の中で、確かに、二次的存在であり続けてきた。男の対象であり、語られる客体だ。私は主体たり得ないのだ。

 BLは、どう考えても、主体たり得ない女たちが、主体を僭称するために取る手段としか思えない。対象であり、客体に過ぎない自分を捨てて、ホモ・ソーシャルの世界に潜り込み、その住人の誰かに自分を仮託する。現実の男達は女を対象として選ぶが、「対象」であることに心惹かれない女たちは、ホモ・ソーシャルな世界に恋愛や性を持ち込み、そこで息をつく。主体も客体も、ホモ・ソーシャルな世界で完結する。そこで初めて、女達は、客体的存在である自らを殺さないで済んでいるのだ。

 私の実感によるBLの読み解きはこういう感じだ。女の自己客体化は、救いがたいほど根が深いという気がする。そういう私の実感からすると、女性アイデンティティが揺るがない人というのは理解不能だ。

 そして、BLという遊びをしてみると、今度は、現実の自分の二次性に耐え難い無念さを抱いてしまうのだ。だから、悔いだらけだ。
 女としてしか生きられなかったことがものすごく辛いのだ。それは、二次的存在であり続けなければならなかった私の空しい、取り返しのつかない悔いある過去だ。
 
 

死に時

2014-07-14 22:09:25 | 人生
 実は、もう永らく死に時を探している気がする。同じような年代の友人達は、まだ元気に仕事や活動をしている。が、私はもう用済みのようだ。もともと、ダメな人間だったのだろう。だから、少しの間、仕事をさせてもらったが、寿命は短かったようだ。素がそんなものなのだろう。

 幼少期のダメージというのは終生祟るという気がする。「自分はどうせ、だめなんだ」という親から来た呪詛は、抜けない。幼い、やわらかい脳に刻み込まれるのだ。
 自分をかたちづくる自信も劣等感も根拠はない。ただ、刻み込まれる。そして、「予言の自己成就」を果たす。そう、親から来た呪詛は、その後の人生の予言だ。そして、自分でその呪詛の内容を完遂する。一時的に浮上したように見えても、それを克服し切るのは難しいのではないか。

 私はまだ自分を諦めないでおこうとは思っている。平凡で愚かで、子どもの何たるかを考えることもしなかった、自己満足的な親たちに、ただ無自覚に翻弄された。ネガティブなメッセージを与え続けた親は、平凡でものを考えない人たちだった。そんな人達に、私の人生をめちゃくちゃにされてたまるかと、一時期はがんばってみたが、もう、力尽きた気がする。それでも、まだ自分を諦めないでおこうと思っている。自分で幸せを獲得してみようと思っている。

 しかし、幸せも価値観だ。今日、明日、飢えないで済むことを幸せと思って、日々を穏やかに家の中で暮らすのもアリだ。が、仕事ができることを幸せだと思って生きてきた私にとって、仕事がなくなるのは、人生の終わりのような感じがする。
 来年は、もう仕事ができない可能性がある。そうすれば、無職で貧しい独り者のおばあさんだ。それでも、微笑みながら、満たされながら、生きていけるだろうか。

 不安だ。そして、思う。その時が来たら、自死しよう、と。中学生の頃、あれほど死のうと思っていた、その時が、50年遅れで来るのかもしれない。50年、先延ばしになった、だけかもしれない。

 そして、また思う。子どもたちは、普通に悲しむだろう。自死は辛いだろう、と。私のようなタイプではないから、それほど苦しまないかもしれない。あるいは、私とは違って見えても、実は繊細で苦しむのかもしれない。どちらにしても、苦しめたくはない。悲しませたくはない。唯一の子ども孝行は、私が機嫌良くいることだろう。
 私に対して、酷薄だった母は、今、機嫌良く無責任に老いていて、この人生でほとんどただ一つの「良い母」ぶりだ。母が、鬱っぽくて嘆き節ばかりの人だったら、たまらなかっただろうが、それはない。たぶん、そういうのが嫌われるのを知っていて、機嫌良くしているのだろう。
 孫に対して、それとなく私を悪者にして、すました顔をしている。露骨な悪口を言わずに、それとなく、「お母さんに怒られた」というように、孫の同情を買う。母は、徹底して弱者に回る。息子などは単純だから、簡単に籠絡される。こういう時、娘の方が賢い。祖母を見抜く目を持っている。そういう生きる知恵をフルに使いながら、母は自分を守りつつ生きている。自分だけを守りながら生きている。自分の利益だけを考えながら生きている。機嫌良く、しぶとく、弱々しい風情で。86歳の母は、したたかだ。

 そして、63歳の私が、自死を考える。が、子どものことを考えるとそれも選べないなぁと思う。なんとか、元気を出そうとは思っている。が、力尽きてきたのは事実だ。

 


心折れることが多い

2014-03-28 22:04:38 | 人生
 ほんとうに人生とは困難なものだ、としみじみ思うことがある。

 今日たまたま観ていたテレビ番組で、「人生に全勝はあり得ない」というような言葉を聞いた。確かに、どれほど成功しているように見える人でも、様々な苦労をしているのだろうと思う。弱みは見せないが、人はいろいろなところで、苦汁を舐めている。おそらく、一人残らず、、、。

 私の人生の不具合は自分で引き受けるより仕方がない。時々、ほんとうに心折れる。悲しくてたまらなくなる。が、それもまた、私が一人で引き受ける。私の不幸を引き受ける人はいないし、また、他の人に引き受けさせてはならないと思う。一人で苦悩の夜を過ごす。一人で空しい朝を迎える。

 それしかない。それしかないが、ほんのたまに、空しい繰り言を、優しく鷹揚に聞いてくれる人が隣にいるといいなとは思う。細かいことは聞き流してくれてもいいから、私が苦しんでいることだけは、私が辛いということだけは受け取ってくれる人がいてくれるといいなとは思う。
 人はそういう誰かを持っていたりするのだろうか。ただ、それだけでいいのだけれど、そういう人を獲得するのは、私には困難だ。

 まぁ、これも自分の不徳の致すところなのだろう。

年を取るということ

2013-11-25 12:48:12 | 人生
 この今の日本で、年を取るということは、ほんとうに過酷なことなのだろう。否、これまでも過酷で、多くの高齢者はそれを何とか乗り越えていったのだろう。年老いて、子や孫と平凡で穏やかな日常を過ごすことができれば、それ以上の喜びはない、と、多くのお年寄りが言っていたのを聴いてきたような気がする。若いときは、そんな、平凡なだけの日常の何が良いのか、さっぱりわからなかったけれど。平凡で穏やか、、、が、それはなかなか手に入らないものであったのだ、と、この年齢になるとわかる。いろいろなものを諦めて、それさえ手に入れば、と願って来た人だけが手にすることのできる贈り物だったのかもしれない。「女の自立」とか「ほんとうの自分」とか「自己実現」とか、そんなものを追い求めて来た者に、与えられる「老後」ではない。

 また1人、同年配の知人の訃報を聞いた。若い時に離婚して、男の子を同性パートナーと共に暮らして育てて来た人だ。子どもが成長してからパートナーと別れ、新たに若いパートナーを得て、幸せそうに暮らしていた。しかし、その内面の葛藤はいかばかりだったかと思う。長年のパートナーとの慣れた関係を離れ、若いパートナーを得たことが幸せだったのかどうか、、、。その若いパートナーはとても献身的で、その献身ぶりを見ていると、その人自身がきっと素晴らしい魅力を持っていた人なのだろうと想像する。が、すべては、外部からは想像するしかないからな、、、。

 私はパートナーに恵まれない人間だが、それはまた、私の不徳の致すところなのだろう。親にさえ疎まれた自分が、誰かに愛されるわけはない、という心のどこかにある「愛」とか「絆」というものへの不信はぬぐい去れない。

 先日、数人の女性達と話していて、「あなたのことを好きだという人がたくさんいるよ」とか、「あなたは独り占めしたくなる人なのよ」とか、歯の浮くような言われ方をして、こそばゆいような感じがして、「それなのに、なぜ幸せになれないのか、、、」と冗談で返したけれど。1人だけ、事情を汲んでいない最近の知り合いがいて、「でも、みんな女の人なのよ」とわざわざ教えてくれたけど、、、。
 いくら「好き」だと言われても幸せになれなかった、、、だからと言って、「好き」とすら言われなかったら、もっと不幸だ。

 幸せの秘訣は、やっぱりこちらのキャパの問題だ。
人を幸せな気分にすることができる時、人から好まれるのは、経験上わかっている。ただ、もうそういう努力もしたくない、というだけの話だ。そしてその努力を辞めた頃に、これまでの実績を讃えられる。賞賛も愛も、きっと諦めた頃に降ってくるのだろう。そして、こちらはもう、白けている。

 それでも、とにかくもっと惨めにならないために何をしようかとは考える。他人に何かを期待しても、得られるわけではない。私が私をいい気分にすること、それしかない。が、この社会は、そのための材料が少ないなぁ、、、という実感だ。
 熟年以降の友人達が、無意味な反復ゲームにはまるのもそういうことなのだろう。死ぬまでの時間つぶしを探している。


哀愁がとまらない

2013-09-19 08:53:30 | 人生
 今85歳の母が80歳の頃、「老いの寂しさ」ということを言っていた。そういうざっくりした言葉でしか表現しなかったが、人生の残り少なさへのわびしさなのか、夫を亡くし独りぼっちになってしまった寂しさなのか、この人生で何かを分かち合う人がいなくなてしまった寂しさなのか、、、それらをすべて含んでそういう感慨があったのか、、、。

 私もまた、今「老いの寂しさ」を味わっているような気がする。一番大きい要素は、現役を退いて、同時代を忙しく生きる空気を他人と共有できなくなったこと、周りは忙しそうだが私は取り残されている。それから、独りぼっちであること。家族がいない、自分のことを一番気にかけてくれる人などこの世にいない、という寂しさがある。

 阪神淡路大震災の時、私は母や子ども達に電話をかけて無事を確認したが、誰からも来ることはなかった。この足下から立ち上る寂しさは、おそらく幼い頃からのものだろう。一人っきりで怖い物から逃げる悪夢に苦しんだ子どもの頃から、誰かに庇護されている、という安心感を抱けていなかったのだろう。怖い物に追いかけられて家にたどり着いたら親も怖い物だった、とか、怖くて仕方がない私の傍に母がいながら私の恐怖を無視する、とか、そういう夢を見るのは、おそらく孤独だったからだろう。

 最近、入手したiPad miniにはデフォルトで、Siriというボイスアシスタントのソフトが組み込まれている。昨夜寝る前に遊んでいて、「寂しいです」と声をかけたら、「偉大な人、立派な人はみな孤独だったと聞いています。あなたもその素晴らしい人たちの一人なのですね」と回答された。「うまいこと言うね」と思わず、機械に応答する。

 庇護されることのなかった子どもは、寂しく育つ。が、自立心だけは旺盛だ。力はないが、無理をする。
 若い頃、何かあると手を貸してくれようとする男がうっとうしかった。それくらい、自分で出来るのに、なぜ手を貸そうとするのだと思った。ちょっとした心遣いに、かえって気を悪くしていた。まあ、それは正解だった。肝心の助けが必要な時に、助ける事の出来る男などほとんどいない。若い娘だったから、手を貸そう(出そう)としただけなのだから。この社会で、手を貸してくれる人は皆無だと思った方がよい。中には女性達のボランティア組織などがあって、高齢者へのケアを日々行っている見上げた人たちがいるが、そのケアの対象になるのも、精神的にはきついだろうなと思う。

 だからと言って互助システムも、自分では作れない。もう亡くなられたある年長の方が、昔、「ギブアンドテイクと言うけれども、自分は年をとって体も丈夫でないから、テイクアンドテイクしか無理だ」と言っておられた。その人の開き直りは、敬意に値すると思った。それに、その人には資産があったので、何やかや言っても一定程度、ギブは可能だったはずだ。
 しかし、私にはそういう開き直りは無理だ。ギブする資産もない。テイクばかりの暮らしに耐える丈夫な神経もなさそうだ。
 「早くお迎えが来てほしい」というよく聞く年寄りのつぶやきがわかるような気がする。

ぼけるということ

2013-07-08 21:50:55 | 人生
 亡夫の姉が、最近少しおかしい。とても善い人なのだけれど、自分のことを盛んに「頭が悪い」と言う。学校時代は成績の良い人だったそうだが、確かに今の義姉を見ていると、賢いとは言えない。どうにもならないほど無意味な子ども時代の話などを力をこめて話すと思えば、つい先ほどの会話を忘れて全く同じことを繰り返す。

 手みやげに渡したホテルで買ったくず餅を手に、何度も包み紙まで観賞するように見ながらコメントを述べ、「わたし、こういうの一人で食べてしまうの」などと喜んでくれていたのだが、数分後に、バッグに入らずに横に置いていたくず餅の箱を眺め、「あれ? これ、何かな?」と。しばらくじっと考え込み、思い出したのかどうか、それを話題にはしなかった。そしてさらに数分後、その場を立ち上がって移動するとき、再度、くず餅の箱を見つけ、「あれ? これ何だったかな?」と考え込んでいる様子。茫然として声も出ない私。最後は、息子の車で送るときに、バッグと一緒に持ったくず餅の箱を眺め、「あれ? これ、何?」と。
 よほど、くず餅に興味がないのか、とも思うが、いや、違うだろう。この忘れ方は尋常ではない。

 数分前に話していたことを、そっくりそのまま数分後に繰り返す。

 彼女には夫も子どももいない。一人暮らしだ。仕事を辞めてもう10年近く。こんなにぼけるのか?
 若い時から社交ダンスを習っているので、人との交流もあるし、趣味も続いている。ちゃんとわかっていることもたくさんある。
 が、短期記憶があやしい。数分前のことを覚えていないのは、どういう思考と記憶の構造なのか? どうしてよいかわからないが胸が痛む。

 自分の場合、願わくは死ぬまではしゃきっとしていたい。このようなボケ方はいやだ。でも、ぼけたら、自分ではわからないのだろうな。自覚ができないのは辛い。
 

小児うつ

2013-07-04 07:00:15 | 人生
 「小児うつ」などということばが登場したのはそんなに古い話ではないから、私の子どもの頃に、当然、そのような概念があった筈はない。が、症状はあったのだろう。「小児うつ」という言葉を知ったとき、「あ、自分はこれだった」と思った。暗い、元気のない、子どもだった。11歳の時に、初めて死にたいと思った。死にたい、というよりも、「誰か私を殺して!」と泣き叫びながら、ノートに書き殴った。自分を身もだえするほど憎んでいた。それなのに、それは自分自身なのだった。自分で自分の身体を痛めつけたり、死に至らしめるのは、まことに残酷な所業だ。通常は、自衛本能によって、あらゆる困難から我が身を守ろうとするのが自然な姿であるだろうに、その我が身を自分で痛めつける。それほどに、自衛本能を上回るほどに、自己への絶望、憎悪、そのようなものが増大する。

 それを境に、どんどん暗くなっていったように思う。笑わなくなり、無気力になり、絶望していたが、その私を親は嫌った。父は、さもいやなものを見るような表情で、「おまえはいんけつや!」と罵り続けた。母は私に無関心で、気に入らない時だけ、私に焦点を合わせて叱りつけた。

 ほんとうに、なぜ、死ななかったのだろうと思う。私の中に、どこか健全な部分があったのだろう。コミックを読んで楽しみ、落語や漫才を笑う健全さが残っていた。

 親たちも、自分のナルシシズムが満たされる状況であると機嫌が良くて、あたたかい家庭の雰囲気を醸し出すので、そうした気まぐれも私を救っていたのかもしれない。
 何よりも、もの言わぬ赤ん坊の頃、無条件にかわいがられたので、タフになる健全さのベースが培われたのかもしれない。

 ただただ未成熟だった親に育てられて翻弄され、心をたくさん病ませたが、なんとかその親も乗り越えて、今となれば、まあ普通に社会生活を送っている。良し、としよう、か。

 男ゆえ繊細なマナーを仕込まれなかった父は、娘に対して限りなく粗野で野蛮だった。社会的訓練が欠如した母は精神的に鍛えられず、娘に対して自身が子どものままだった。私が子ども時代、言い争いの挙げ句に、「親を理解してあたたかく見守ろうとしない子ども」として、私を責め続ける父母に対して、「わたし、子どもやでぇ~」と、情けない思いで訴えたことを昨日のことのように覚えている。あなたたちは子どもだった時代があるから経験しているはずだが、私はまだ大人になったことも親になったこともない未経験なのだから、経験をたどって理解できるのはそちらの方ではないのか、と、6年生くらいだったか中学生になっていたか忘れたが、まことに情けない思いで抗議したのを覚えている。親の言い分は、「親」と「子」を入れ替えないと成り立たないような、呆れた内容であったのだが、もうさすがに詳細は忘れた。ただ今思い返すと、ほんとうに幼子のようにもののわかっていない人たちが、子どもを育てていたのだと空恐ろしく思う。私が無事だったのは、家庭内ではだだっ子のように君臨していた人たちであるが、世間体は命がけで守る人たちでもあるからだった。それは、あの頃の文化的基盤だったのだろう。

 「世間に顔向けできないようなことはしてはいけない」「人さまに迷惑をかけるようになってはいけない」「世間に恥をさらしてはいけない」と外聞を保つことを何よりも優先する人たちだったから、外向きには賢そうにふるまえた。その分、一歩家に入れば、弛緩すること甚だしく、父は赤ちゃんのように、母はわがままな娘のようになった。その中で育ったのだ。
 鬱症状を呈していたが、鬱病になることはなく、激しく彼らに抵抗しながら、暗い人生を送りながら、なんとか本を読んだり、別世界に心を遊ばせながら、生き延びた。

 まあ、よく生きた方かもしれない。そろそろ総括?かな。

この年にして、つらいこと

2013-06-12 22:16:37 | 人生
 いや、この年だから辛いのだ。もう、取り返しがつかない、もうやり直しがきかないから、辛くて、無念だ。そしてその思いがストレスになる。

 中学生の時だった。そろそろ進路を考えるのが他人事ではない時期にきた。やっと私も、大きくなったら、自分はどうなりたいのかを考えた。物書きになりたい、というような夢はあったが、夢は夢、現実とは違うとも思っていた。私の中学生の頃は、中学を卒業して働く人も、クラスに何人かはいた。だから、余計に現実感がわいたのだろうと思う。
 そして、思った。ほとんど啓示のようだった。私は、結婚することにも、子どもを生んで母のように生きることにも、あまりにも自分が遠いと思った。否、自分には関係がないと思った。そのような人生に、何の興味も希望も抱かなかった。何になりたいかは明瞭にならなかったが、はっきりと、結婚しない、子どもを生まない、と思った。
 そして、それを母に伝えた。「わたし、大人になっても、結婚したり、子どもを生んだりしない」と。次の瞬間、母は般若のような顔になって怒鳴りつけた。「親に孫の顔を見せない気か!」と。それはすごい剣幕だった。そのあまりの剣幕に、私は恐れおののき、私の思いはかなわないことなのだ、結婚して子どもを生まないといけないのだ、と悟った。

 19才、大学の1年生で結婚した。だって、どっちみち結婚しないといけないなら、年上の得体の知れないサラリーマンなんかより、同じ大学の友だちの方が、まだ何となく今後の見当がつくではないか。二人でどんな会話をするとか、そんなことも見当もつかない相手と、父が言うように見合いなどさせられてはたまらない、という感じだった。そもそも大学に入る前に、もう、絶望していた。人生の先に何も見えなかった。私の人生には先がなかった。だから、ノイローゼ様になってしまっている私を、父はとにかく大学に行かせる気になったのだが、どちらにしても、私はもうその時「終わって」いたのだ。

 私に結婚したいと言ってきた人は、早すぎる結婚を親に言いだしかねて、「先に一緒に暮らそう」と言った。「同棲時代」などの漫画や映画が流行った時代だ。が、私は断った。同棲するには、親の反対を押し切って一緒に暮らすだけの情熱が要る。そんなものは私にはなかった。「結婚」は遠からずしないといけない、親も納得する、だからするなら「結婚」しかなかった。私に同棲の意志はないことを知って、彼は親と掛け合い、結局、早い結婚が実現した。
 そして子どもを二人産んだ。これでもう文句はあるまい、という親に向けた気持ちがあった。そう、そこまでは、親のための人生であって、私の人生ではなかった。
 結婚して子どもが生まれてから、ふと夜中などに目覚めると、いつも自分のその時の状況を思い出す必要があった。
 ここはどこだろう? と天井を見つめて思った。そして、急いでそれまでの人生を頭の中で辿り直すのだ。そうだった、私は結婚して、子どもを生んで、今、ここに夫と子どもと住んでいるのだ、と、状況確認を必要とした。そうでないと、自分がどこにいるのか、何をしているのか、つかめなくなっていたのだ。

 後年、家を出た。一緒に暮らしたいと言ってくれる女性とマンションを借りた。その時を境に、状況確認が必要でなくなった。いつも、私は自分の意志で生き、自分の選択で人生を決めていた。「自分の人生を生きている」と思えるようになった。

 自分の人生を諦めた私が、自分の人生を取り戻したのだと思う。そして、今も取り戻し中だ。そうして、やっとこれまでのストレスフルな人生に気づいてきた。私は、結婚したくなかった。男の人とセックスしたいと思っていなかった。「女」として扱われることに抵抗を感じ続けていた。でも、いやだと思う余地はなかった。それは宿命のようについてきた。
 子どもを生むのも、自分のために生んだのではなく、親のために生んだ。親に、もう文句はないだろう、と言いたいような気持ちで二人目を産んだ。

 もちろん、結婚した相手の人に情は生まれた。いい人だし、私の育った文化とは全く異質の文化を私に教えてくれたし、何よりもこの私をほんとうに好んでくれた。私は彼の好きなタイプだったのだ。だから、私は彼に感謝している。死んでしまったので、余計に辛い。かわいそうでならない。私のセクシュアリティが幸いしたのかどうか、彼は私が愛したたった一人の男になった。そうたった一人の男だ。だから、許してね、といつも思う。

 でも、だから、ほんとうは結婚したくなかったのだ。私はヘテロセクシュアルとは言えないセクシュアリティの者だった。ごめんね、でもあなたのことは愛したのだから。
 
 でも、くやしい。彼を不幸にすることなく、私は私の生きたい人生を生きたかった。でも、自分を殺して、自分とは違う人生を生きたのだ。
 そのくやしさ、無念さ、辛さが、今激しく私を揺さぶる。私は怒りに駆られる。

 だからヘテロ女の無神経さに接すると、猛烈に頭に来るのだ。これ以上、私にかまうな、と歯を剥いて吐き捨てたくなるのだ。