凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

母を見送る

2015-07-23 19:16:50 | 
 母を見送った。信じられないけど、もう、母はこの世にいない。

 亡くなる少し前、寝たきりになってしまった母は、どんどんかわいくなっていた。思い出したのだ。
 私はこの人が、とてもとても好きだ、ということを思い出した。私の女性への気持ちの原点は、この人だった。女性性を余すところなく身につけて、仕草もものの考え方も表情も、何もかもが「女性」だった。ちょっと幼い、かわいらしい、思わず守りたくなるような、そのような女性性に満ちていた。この人に、男のような部分を感じたことがない。恬として恥じずに、この人は「女」なのだった。

 迷いなく「女」として存在する人は、ジェンダー文化の中で、魅力を発揮する人なのだろうか。私もまた、このジェンダー文化の中で、ジェンダー表象に魅力を感じるように社会化されてきたのだろうか。

 亡くなる数日前に、まだ母が死ぬとは思ってもいなかった時に、私の家の近くまで友人たちが来てくれて、一緒に夕食をとった。友人たちに、私はこう言った。
 「まるで、恋をしているみたい」なのだと。母のかわいらしさに、愛しいという気持ちがふくらんでいて、自分でも困っていた。
 小さくて、幼い感じがして、女のつつしみというようなものもまだ残していて、なんとも魅力的だった。

 ああ、この人を好きだった、と思い出した。
 大きくなって、男になれたら、このような女の人と結婚したいと思っていた子どもの私。自分が「女」であることが、とても残念だった。
 「女」であることは、無念なことだった。

 「男」になりたい女性は、往々にして、男の仕草を身につけていたり、中性的な風貌であったり、という人をよく見かける。が、私は、「女らしい」のだ。
 高校を卒業して私服に身を包み始めると、私は、男の人に関心を持たれやすい女の子になった。母は、こう言った。
 「あんたも私も、女らしいタイプやから、男の人に好まれる」と。
 母が男の人に好まれるのは知っていた。が、私も、母と同じだと母は言った。私には、それは喜ばしいコメントだった。なぜなら、母に似ていたかったから。

 しかし、母とは似ていなかった。似ていないし、だんだん、母とは異なる道を歩み始め、遠くなった。すっかり遠くなっていた。母のように、自分の身の周りのことだけに関心を抱いて生きる女性は魅力がないと思っていた。もっと、社会に開かれた自分でいたい。
「かわいいおばあちゃんになりたい」と、言い続けた母は、ほんとうにかわいいおばあちゃんになった。
 しかし、私はかわいいおばあちゃんになりたいとは思っていない。最後まで、理性を保ちたい、知的な活動がそれほど衰えない状態でいたい、と思うばかりだ。しかも、それを、自分の子どもには言わない。

 母のかわいらしさ、愛らしさは、完全に私を頼りにする依存的な態度からも来るのだろう。頼られると、がんばってしまう私の心性がある。
 私は、守りたいと思うたちだ。守ってもらいたいという気持ちがとても希薄だ。

 私の人生は、「無念」で始まったのかもしれない。「女」である無念さ。しかも、女らしい外見としぐさと物言いがある。女性ばかりが集まっても、他の誰よりも「女らしい」と受け止められるようだ。しかし、その私が、「女」アイデンティティが薄い。「女」でいることは、落ち着かない。頗る残念な事態だ。

 私にとって、「女性」はずっと他者だった。「女性」は、私にはとてもミステリアスな存在だ。もっと近づいてわかりたい、と思っても、近づけず、つかまえておけない、そういう存在だ。ジェンダーに彩られたこの社会で、私はそういう「女性」観がある。だから、断じて自分ではない。
 男性に好まれたり誘われたりすると、苛立つ私がいる。相手が私を「女」と見ていることがわかるので、不快になる。年を取ると、無視されることが多くなった。それも不快だ。男には、見られても無視されても不快になる。

 それは、男の人のせいではない。「女」を表現してしまっているにもかかわらず、「女」アイデンティティが持てない私自身への苛立ちだ。
 無念だ。私の人生は無念に始まり、無念に終わるのかもしれない。

 


結局、母が勝ち!

2015-04-22 10:38:19 | 
 若い頃、私の苦悩は、母が原因だとようやく気づいて、母から自立し始めた。そうすると、実にすがすがしい日々がやって来た。
 しかし、父が亡くなって、母が一人になると、母の方から私の近くへ転居してきた。もとより、一人で暮らしを完結させる気はない人だ。

 母は、父に頼り、父に庇護されることを当然として生きてきたが、今は、私に頼るのを当然としている。

 そして、今は、病院で寝たきり。早く帰りたい、とそればかりを願っていて、何一つ、他のことには興味を示さない。テレビも観ないし、食事も摂らない。からだが弱るから食べるようにと、様々な人に言われるが、聞き入れない。ケアマネージャーさんと相談して、退院の日を決めた。少しでも母の状態が改善してくれると、少しでも手のかかり方が変わる。しかし、そのための努力も協力もしてくれない。
 病院にいること自体が不本意なのだ。帰ったら、自分の思うようになると思い込んでいるらしい。
 
 が、自分で食事もできない。おむつをしている。酸素ボンベも離せない。
退院して家に帰る、ということは、誰かがその世話をする、ということだ。ヘルパーと訪問看護師の手配はしてもらっているが、とても足りない。三度の食事と排泄は、一日に1時間の介護ヘルパーでは、間に合わない。では、後は誰がするか。私しかいない。私が母の24時間に仕えることになる。

 親の世代の介護をしなかった母だ。介護の大変さは、まったく知らない。父は、体調不良を訴えて、2カ月入院して逝ってしまった。父が体調不良を訴えた時も、すぐに母から電話がかかって来て、私は当時、激務でからだをこわしそうだったのだが、それでも仕事の合間に実家と病院に通った。が、今、私には、助けてもらえる人はいない。独りぼっちだ。
 
 母は、私が子どもの頃から、「子どもは一人でいい。きょうだいがいると、親の世話を押し付け合ったりして困る。一人なら、自分が看ないといけないと思って看てくれる」と、言っていた。そして、今、母の目論見通りになった。してやられた!と思う。
 子どもの頃は、実感がないので、実際にどうなるかはわからなかった。否、最近までピンと来ていなかった。介護の大変さを、身近に見たことがないので、想像力を欠いていた。母は、父の母親が病気の時も亡くなった時も、父の実家には行かなかった。行くと、田舎のあの家で、息子の嫁として働かされるに違いないからいやだと言って、病気と偽って、実家に帰る父に同行しなかった。私は子どもなので、父に連れられて行っても遊んでいるだけだが、母は大人なのでそうはいかないらしいということはわかっていたので、何も言わなかった。

 私の子どもの頃の母は、自分の父親に庇護され、夫に庇護されて、ようやく元気にしていられるひ弱な女の人だった。そして、今は、私に庇護されることを当然と思っている。母の勝ちだ。
 私には、自由はない。私には、母のために捧げる暮らししか待っていない。お金で解決できないのは、父の遺産を独り占めした母が、どれくらい相続したのか知らないけれども、湯水のようにお金を使ったので、今や、母自身の介護のためにどれくらい使えるお金が残っているのかわからないからだ。私自身はお金はない。わずかな年金とわずかな貯金しかない。
 母のために拠出するだけのお金はない。だから、からだと時間を母に捧げるしかない。

 施設やデイサービスを利用する、という手はあるらしいが、母が断固拒否してきた。それを押し切るだけの力が私にはない。

 母の勝ちだ。たった一人の娘を、自分の老後のケア要員として、最初から見据えていた母の勝利だ。 
 

母と娘の話をまた、、、

2013-04-25 21:49:39 | 
 友人と話をしていて、あらためて思ったのだが、私の知人で、すでに故人となった女性の何人か。結婚をしないで、そのために、年を取ってきた母親と同居して、結局、母親より先に亡くなった。3年ほど前に亡くなった人は、とても元気な人で口達者だったが、母親はそれを上回るのだと笑っていた。その人が亡くなったとき、私は、母親との同居によるストレスが大きかったのではないかと思った。娘は母に似る。エネルギッシュな娘の母親はたいていそれ以上にエネルギッシュだ。二人のパワーがぶつかりあえば、母が勝つ。なぜか、勝つのだ。

 友人の母との関係を聞いていても、専業主婦で長年を生きてきて、娘よりもよほど教育も受けていないし社会的位置もないのに、なぜか娘を凌駕する迫力があるらしい。娘の方がよほど力を持っているのに、母は娘を組み敷いている。そして、娘は日々ストレスを溜めている。

 よく、カウンセリングでは、「母殺し」というような物騒な言い方をする。自分の内面に根を張って、自分を攻撃したり支配し続ける「母」を、自分の中で駆逐する、ということだ。現実の母は年老いて、すでに弱者であるのに、幼い頃から支配され続けた関係を娘は脱することができない。

 私の子どもの頃、趣味で猛獣を飼っているおじさんが近所にいた。そのおじさんは理髪店を営んでいて、動物のいる床屋さんというふれこみだったので、私も時々行って、ガラス越しに、檻の中の虎や熊を見ていた。そのおじさんが亡くなった時に、動物園だかに引き取って貰った、というような話であったが、私の子どもの頃は、そのおじさんはまだ元気で、「虎が子どもの頃から、檻に入るときは金槌を持って入り、それでしつけてきたので、大きくなっても、金槌を持って入ると、虎は怖がっておとなしい」とのことだった。成長した虎の前では、金槌など何ほどの武器にもならないだろう。しかし、虎は幼い頃から、それは怖い物として、自分が逆らえない物として、インプットしているので、その前では無力になるのだ。
 母に組み敷かれる娘も、これに似ている。もはや、現実のパワーは逆転しているのに、インプットされた支配と被支配の関係から抜け出せない。

 母親も、娘といさかいが生じた時は、命がけで闘うのだろう。決して負けてはならない相手なので、おそらく迫力が違うのだろう。勝たねばならない母と、服従が身についた娘なのだから、勝負は始めから決まっている。

 私の母は、負けるが勝ち、の人だ。強い人、社会的な位置を持っている人の前で、いともたやすく屈服して見せる。あれほど、私に君臨した人とは思えないほど、さっさと私の上から下りた。
 理由の一つは、私が母にあまりにも似ていなかった、からかもしれない。母の得意範囲から逸脱していた私は、母が調教する対象になり得なかった。私は母のようになれなかったし、またなりたいとも思わなかった。あまりにも異質であったから。男の子のような私をある程度矯正し得た母は、そこで終わりにしたのかもしれない。結婚して後も、私が母を頼り続けていれば、母は私の頭上に君臨したかもしれないが、私が母から独立してしまったので、そこで母の支配は終わったようだ。
 友人は、何度も母親からの自立を図ったにもかかわらず、未亡人になった母を見捨てることができず、気づいたら、母親の傘下に入っていた、という感じだ。その友人の母親の強さは、私には理解不能だ。なぜ、恬として恥じずに、そうしていられるのか。私の母のように繋累に恵まれない人は、恃みにする後ろ盾がないために、目の前の人間と関係が悪くなるのは得策ではないと思うのかもしれない。友人の母親は、しっかり者の姉たちがいるために、それらを精神的後ろ盾にして、その世界の揺るぎない価値観を娘に押しつけるのかもしれない。むしろ、娘の価値観を受け容れれば、姉たちの世界から引き離されるので、それが怖いのかもしれない。自分のなじんだ世界の価値観を捨てるのは容易ではないのだろう。少なくともそこにとどまることが、自分の生きるすべだと思いこんでいれば、そこから出ることは決してないだろう。

 友人がストレス死しないことを願うしか方法がないのが、なんとも悲しい。
 
 

胸が痛むこと

2013-02-08 14:37:34 | 
 母が70歳の頃、入院した。その年は、春と秋の2回も手術をすることになってしまった。もう、父は頼りにならず、私は仕事の合間に母を見舞いながら、父の食事の心配をしなければならなかった。夫にも助けて貰いながら、家と職場と病院と実家を行き来する毎日だった。
 手術を終えて、少し元気になった母は、元の母に戻り、同室の人たちへの気配りを始めた。「これから行くけど、何か要る物ある?」と電話をすると、たとえば「駿河屋で、△△を6セット、のし紙をつけてもらって、買って来てほしい」だの、「この前、和菓子だったから、今度は××(洋菓子の店の名前)で、カステラの小ぶりのを6個、のしをつけて、、、」だのと、同室の人に、1~2週間おきくらいに配り物をする。
 私は、大げさにならず、ちょっと気の利いたお茶請け用のお菓子などをベッド数だけ用意して、持って行くのだった。

 母は緊急で入院したので、しばらくずっと6人部屋にいたのだ。暫く経つと、だんだん同室の人の様子が見えてくる。癌で、長く入院している人がいた。母よりずっと若そうだが、身寄りがいないふうに見えた。私は行くと、母の洗濯物を持って帰ったり、時に急ぐ物は病院のランドリーを使って洗濯をしたが、その人が、一人でランドリーを使っているのや、病院内の売店で買い物をしているのに気づいた。母なら、決してしない日用品の買い物を、その人は自分でしていた。
 元気になって来た母を伴って病院内の喫茶室などに行くと、母も、「あの人は、家族がいないみたい。誰もお見舞いに来ていない」と話していた。
 そして、母があまりしょっちゅうお菓子などを配るので、その人は気を遣ったのだろう。売店で買ったお菓子を、お返しに、と母に持って来ていた。売店には、私が見舞いの途中で買って来るような、気の利いたこじゃれた物は売っていない。しかし、その人の行動範囲は、病院の中だけだ。その病院は大きな国立病院で、郊外にあり、近所にはこれといった商店はない。一日中、パジャマを着ているその人が出かけられるところには、買い物をする場所はない。私は胸が痛かった。病室を出て、喫茶室などに行って、母に「お母さんがあんまりお菓子を配るから、気を遣われたのよ」と言ったが、「一人では外に行けないしねぇ。お金もあまりないみたい」と、母はまったく悪気なく、しかし胸を痛めているふうもなく答える。(その母の無邪気さは、私にはまぁ救いではあるのだが)。家族もなく、裕福でもなく、癌にかかって何ヶ月も入院するのはどんな心地だろうと思った。

 今、その母に私は胸が痛むのだ。私は、相変わらず、あちらこちらへ出掛けることが多い。が、母は最近はめっきり足が弱り、目も耳も悪くなって、一人では遠出をしない。私のこどもたちが車で連れてくれる時はいっしょに外出し、ランチを食べて買い物に行くが、私は運転ができないので、こどもたちが忙しいととたんに外出が難しくなる。母が、近くまででもバスに乗ってくれるといいのだが、バスも地下鉄も、無料パスがあるにもかかわらず、決して利用しようとしない。先日は、仕方なく私と二人でデパートに行ったが、タクシーで往復5000円以上を使ってしまうことになる。せめて、バスにでも乗ってくれるといいのだが、、、。

 そして、私が出先で母のために買って来て目新しいお総菜やお寿司やお菓子などを届けると、気を遣うのだろう、自分が余分に買ったからと持ってきてくれるのが、母の徒歩圏内のスーパーで買った物だ。そういう店では、上等な、しゃれた物が買えない。胸が痛むのだ。高級志向のしゃれた物が好きだった母が、近所のお手軽スーパーで、量販品を買って持って来てくれるのに、胸が痛む。こうなってしまったか、、、と思う。かわいそうでしかたがなくなる。
 が、ひとたび思い返せば、一方で、母が自分で選んだライフスタイルでもある。楽をしよう、楽をしようと、頑張らない姿勢が足を弱らせたのではないか、高いメガネを二つも作ったのに決してかけようとしないために目が悪いまま、補聴器などは使い勝手が悪いと決めつけて試してみようともしない頑固な姿勢のために耳も悪いまま、放置している。そして、私や孫がかまってくれるのを待っている。仕方がないのではないか、とも思うし、いや、どのようなライフスタイルであっても、弱るものは弱るのであって、個人の努力の結果ではない、ということかもしれないとも思う。自分がまだ、そこまで老いていないのでわからない。

 ただ、母と年の変わらない私の一番年上の友人は、ヘルパーを受け容れて掃除を週に1回してもらうので家はきれいだし、遠方でも電車を乗り継いで勉強をしに行くなど知識欲も盛んだ。読書欲も旺盛で、若い頃よりもっと本がおもしろくなったと言い、映画にも行く、芝居も見に行くといった感じで、話題に事欠かないし、話をしていてもほんとうに興味が尽きない。耳が遠くなったので、と、私と話すときは補聴器を耳に入れる。
 近代芸能史の連続講座に行こうかと思っている、と、その人に言ってみると、プログラムを見て、「いいなぁ、私も行きたいなぁ、でも、今夫があんまり具合良くないしね、でも、このプログラムはいいわねぇ。講師陣も一流だし、、、」と興味津々で生き生きと話をしてくれる。古典芸能に造詣が深いので、また話す内容も聞き応えのあることばかりだ。
 一方、母は、昔話しかしないし、私の声は基本的に聞こえないので、会話が成立しない。私はもっぱら聞き役だ。

 私はできれば、その友人のように年をとりたい。母のようにはなりたくない。

 思えば、若い頃から、母のようにはなりたくないと思ってきた。母は、若く見えることと美人であることが自分の張り合いのようなものだったのかもしれない。未だに、「若く見える」と言われたとうれしそうに言うことがあるが、80歳を過ぎた今、若く見えると言われても、せいぜい70歳代だろう(60歳代、ということもあるかも?)。所詮、20歳代や30歳代に見えるわけもない。また、仮に見えたとして、それがどうなのだろう? それは彼女の何を豊かにするのだろう。
 私は容貌が母に似ていたいと思ったことはあったが、似ていないものは似ていないし、それはどうしようもない。そして、容貌を除くと、母に似たいところは何もなかった。依存心が強く、10歳年上の父に甘え、自分の弱さ、華奢さを強調して、他の庇護を望む。母もどこか、それだけの女でいたくはない、という思いが若い頃はあったのだろうと思うが、もはや蓄積した社会的な何もなく、甘えたい父も他界し、友人をつくらないできたので娘と孫以外、日常の相手をしてくれる人もいない。話題も乏しく、テレビを見ながらご飯を食べながら、過ごしている。二週間に一度の病院通いさえ、億劫がる。義務感以外に、母に会いたいという思いがわかない。

 母のようにはなりたくない。年を取るとは、そういうことだ。現役時代の全てを失うことだ。健康も、若さもなくなる。それでも残るとすれば、知を求め、わかりたいという欲求を保ち続けること、そして、興味と好奇心で生き生きとすること。
 そういうことしかないのではないのか。

 しかし、母に胸を痛め、母のようにはなりたくない、と思っていても、自分がどのように老いるのかはわからない。努力しても足が悪くなり、耳も目も悪くなるのかもしれない。何にも興味を持たなくなるのかもしれない。

 凋落・・・ということばがあった。

 
 







 


母がいよいよ重くなってきた話

2012-01-04 10:46:27 | 
 年末年始は、母とのつきあいが増える。母の家の年末の掃除を娘が頼んでくれたので、業者に来てもらうことにした。「家に他人を入れたくない」と言うのを、娘が説得してくれた。おそらく私だけなら、断固として受け容れなかっただろうが、孫娘に言われたのでしぶしぶ受け容れたのだろう。

 業者がやって来るという日、母の家に行ったら、いつもより濃い化粧をして口紅を紅く塗った母が居て、驚いた。しかも、普段しない掃除もしてある。他人を家に入れる、ということは、母にとっては大変なことらしい。

 そして年が明けて、足が悪く神社等にも行けなくなった母に、正月らしいことをさせてあげたいと思って、歩いていける近所のホテルに誘ったら喜んで行った。徒歩5~6分が杖をついて行ける範囲だ。もちろん、母の足では10分かかる。
 
 ホテルでのランチは母が一番喜ぶことなので、おいしそうに食べていた。丁寧に扱われるのも母のお気に入りだ。ただし、会話ははずまない。母は右の耳が完全に聞こえないので、隣で呼びかけても反応しない。辛うじて聞こえる左耳が、最近とみに悪くなっているようだ。うっかり、母の右側に座ってしまったので、声をかけるのが大変なので、「席を替わる?」と尋ねたら、要らない、と言う。ここまで聞こえなくても平気らしいのだ。

 そして、疲れたのでそろそろ帰ろう、ということになっての帰り道、親戚の話を始めた。母より少し年上の母の従姉の話だ。(子どもの頃、母とそのおばさんとが同じくらいの年だろうと言ったために、ものすごく怒られた記憶がある。「同じくらいの年に見えるとでも言うの?」 と大変な剣幕で、父を巻き込んで大騒ぎした。それ以来、その類の話題はタブーになった。)

 その従姉が今はパーキンソン病で、年末に骨折をしたためにその娘(私より一つ年下の私の又従妹)がずっと看病で大変だったらしい、とのこと。ふーん、と聞いていたが、やがて、その従妹の母親が、亡くなる前に姥捨て山に放り込まれて、従妹に対してとても怒っていた、という話をし始めた。私は「え?」と思った。母の従妹には弟がいて、生涯結婚をせず仕事にも行かず、親と一緒に暮らしてきた。もう70歳代だが、ずっと、親に面倒をみてもらって暮らして来て、「ひきこもり」の先駆けみたいな人だ。親が亡くなったので、そのまま生活保護を受けて暮らしている。

 その親に頼りっぱなしの弟ではなく、結婚して夫も子どもも孫もいる姉娘に対して、姥捨て山のような病院に放り込んだ、と、怒っていたというのだ。「弟の方には怒ってなかったの?」と尋ねると、「あの人は論外」と言い、「子どもが生まれたとき、ものすごく世話になったのに最後にひどいことをした」ということを言う。
 なぜ、母がそんな話をし始めたのかわからないが、母は、完全に「姥捨て山のような病院に放り込まれた」というそのおばあさんに感情移入している。

 長年母とつきあって想像するのは、毎年、年末の掃除を私がやっていたのを、昨年末は業者に任せたことに不安を感じたのだろうということだ。私自身が12月に入ってから何度も風邪をひき仕事も休み、しかも年末まで仕事が忙しくて、体調を戻す余裕すらなかった。3時間の母の家の掃除につきあい(業者が来るのに一人では母が心細がる)、その後、買い物に行って母と昼食を共にし、さらにその後、夕方には私の家に友人達が来ることになっていたので、自分の家の掃除をしなければならなかった。一日中、ほとんど座る間もなく走り回っていたのだが、体力の衰えをしみじみ感じた。

 しかし、母は私が母に捨て身で献身することを望んでいるのだろう。自分自身は、誰の介護もしなかったが、自分は手厚く思い通りにヘルプされることを当然のように望んでいる。私の近くに住みたい、と言っていたのは母なのだが、今となれば、親戚に電話をかけて「前の家がなつかしい」と盛んに言っている。母が懐かしいのは、前の家ではなく、さっさと歩けて何でも自分で出来た若い頃の自分なのだが、そのような分析はできない。前の家がよかった、と思っているらしいのだ。
 他罰的で(しかもターゲットは私)、幼児的で、非理性的な母がいよいよ顔を出してきたようで、頭が痛い。自分のうまくいかなさは、全部、父のせい、私のせい、だった。母にはさんざん辛い思いをさせられたので、その萌芽を感じるだけで恐怖が起こる。

 母によく思われることを望まない、それしか対処の方法はないだろう。あのようなタイプの人には、気に入られようと思うこと自体が罠だ。

母を見ていて思うこと

2011-08-19 14:51:52 | 
 正直なところ、母は苦手だ。年をとって、もう、ほとんどおとなしくなった母だが、そうなると、優しい気持ちになれない自分が、今度はいやになる。

 耳がどんどん遠くなる。テレビを大音響でつけるので、何度か、テレビの音を耳元で大きくするタイプの補聴器を買って渡したが、今ではしまいこんでしまって使わず、大音響の上、テレビの傍で見ている。また、母があまりにも耳が悪くなったので、一人で買い物に行くときに不自由だと言うので、やはり集音タイプの携帯用補聴器を購入して母の家に持って行ったが、受け取ってすぐにしまいこんでしまった。

 耳が遠いので不自由だと訴えるが、補聴器はいや、ということなのだ。もちろん、自分にあった補聴器を作りに行く気など、毛頭ない。

 以前に、「私と会話する時だけでもつけてくれない?」と頼んだら、「あんたと話すのなら、なおさら要らない」と笑って一蹴された。私の言葉が聞こえないことには不自由を感じない、私が彼女の要求を聞き取りさえすればよい、ということなのだ。
 あぁ、ずっとそうだった、と思い出した。子どもの頃から、私は、母の気持ちにいつも気を遣い、母の思いを汲みとろうと一生懸命だったが、母は、私の思いなど気にしたこともない。気にする必要のない相手だったのだ。

 私の友人で、母親が、死の床まで娘であるその友人をないがしろにし、搾取し、他の男兄弟とは差別し続けた話を聞いたことがある。死の床に至るまで、そうだった、ということが、彼女を悲しませた。
 話を聞いて、胸が痛むと同時に、そうだろうと想像も容易についた。私の世代では、母親から虐待に等しい扱いを受けた娘である人が、結構多いのだ。母親自体が、その上の世代から丁寧には扱われていないし、夫からも大事にされていない人が多い。その母親が唯一自分の思い通りにコントロールできるのは、娘だったのだ。娘は、母親を幸せにする義務がある、と思いこんでいる母親は多い。否、娘に幸せにしてもらえる権利があると思い込んでいる、ということか。娘の側に立って考えることはないから、要求だけを思い描く。それによって、娘がどういう思いでいるか、なんてことは、一切考えない。娘の気持ちなどどうでもよいのだ。あるいは、娘がそれによって困るはずがなく、自分の幸せが娘の幸せであると思いこんでいるのかもしれない。多くの昔の夫族が、自分の幸せが、妻の幸せだと信じて疑わなかったように。

 母は、私と話していても、真面目に会話をする気がないから、ふんふんと、聞こえなくても適当に相槌を打っている。が、時として、正面から私の顔を見つめて、話しかけることがある。
 昨日の会話はこんなふう。最近、夜もなかなか眠れないことが多いそうだ。(最近と言っても、ここ何年もそう言っている。)いろいろ、こんなふうに眠れなかった、少しうとうとしたが4時ころにはまた目が覚めた、という話を事こまかにした挙句、真顔で、私を見つめ、姿勢まで正して、「熱中症かしら?」と、こちらの返事を待つ。
 「さあ、、、」としか返事のしようがない。そういうのを熱中症と言うのか、言わないのか、、、。翌日ぴんぴんして、私たちと一緒に和食の店でウナギなんかを食べているのだから、大丈夫なんじゃないかと思うが、返答に困る。第一、いろいろ言っても、どうせ聞こえないんだから、話す方もくたびれるのだ。

 父も年をとるにつれて、どんどん耳が遠くなっていったが、もともと私と会話をする人ではなく、日常レベルで私を頼っていたわけではないので、あまり気にならなかった。若い時も年をとっても、距離が変わらないので、好々爺になった分、印象は悪くない。
 しかし母は、一人になった分、日常の楽しみ、生きがいの部分も、私に期待しているようで、荷が重い。母は何が望みだったのかわからない。が、母が親せき筋やご近所の離婚話などを好んでするのを(しかも同じ人の過去の出来事を、昨日のことのように何度も噂をする)、私が一緒になって興味津津で聞けばよかったのか。最近は芸能人の離婚話やスキャンダルについて話をしたいらしいふしが見えるが、彼女の価値観は「身持ちが良いのがよい」ということなので、これが厄介なのだ。不倫とか、恋多き女性とか、そういう人の不幸は好きらしく、「やっぱり、身持ち良くしておかないと、、、」と、話をそこに落としたいようなのだ。それが、彼女の、華やかな恋愛も何もなかった人生を肯定して、「それで良かった」と結論づける役割を果たすのだろうが、そこに合わせてしまうと、私の価値意識と抵触してくるので、そう簡単に同意もできない。要するに、その価値観の違いなどに想像力を働かせることもなく、ただ自分の狭い世界に私が適合することを当然と思っていることに、いらだちを覚えるのだ。

 母を見ていると、どのように年をとればよいのだろうと途方に暮れる。母の娘だから、似ているかもしれない。私の娘は、私と母が、どうしてこんなに違うの? と思うくらい違う、と言う。だから、あなたはおばあちゃんのようにはならないと思う、と言う。しかし、先のことはわからないからなぁ。

 母は、ずっと反面教師であり続けた。母と何とかやっていけるのは、娘や息子が一緒に買い物につきあってくれたり、ランチを一緒にしてくれるからだろう。
 父母から学ぶとすれば、とにかく、年々機嫌よくなること。気難しさは、どんどんとれる。母も、踏み込んだつきあいをしなければ、機嫌の良いおばあさんだ。そこだけは、見習いたいと思う。思うようにならないことに対して、どんどん諦める。非力な人の、最後の生きる知恵なのかもしれない。





 

2010-03-26 22:07:00 | 
 友人と話していて、「母と会うと、傷つく」という話をすると、自分もそうだ、という人が結構多い。女性は、母親との関係に悩んできた人が実に多い。
 多くの母親たちにとって、娘とは、自分のコントロール下に置いて当然の存在だった。特に、私の母のような年代の人たちは、娘だけが自分が支配できる相手だったので、娘の人としての尊厳などには、思いも至らない場合が多い。娘は自分の言うことを聞き、自分に奉仕して当然と思っている。しかし、戦後教育を受けて、男も女も対等だと教え込まれた娘たちは、自分を独立した、プライドも夢もさまざまな権利もある社会的存在として、感じている。だから、母の支配欲に屈服しない。が、どこかで、母に支配はされている。され慣れている、といおうか、子ども時代の支配被支配の関係をひきずっている。しかし、もはや母を支えるだけの存在ではない娘たちは、どこまでも、支配権を当然のように感じて、行使しようとする母とのやり取りに疲れてしまうのだ。

 私の母も、私を使う。平気で使う。が、私が距離を置いているので、かろうじて、自制しているのがわかる。距離を置きあって、他人行儀でいて、初めて、平和を保っている。

 これを崩すと、恐ろしいことになると、私などは思っている。それでも、母と子どもたちと一緒にいると、母が私よりも、孫を好んでいるのはよくわかる。

 なにしろ、私が子どもの頃から、「子どもよりも、孫の方がかわいいらしい」と平気で言っていた人だ。まだ子どもであった私が、どのような気持ちを抱くのかなど、考えもしない人だった。若い時に産んだ私という子どもは、彼女にとって、愛情の対象ではなかったのだろうと思う。娘に愛情をかけるということを知らなかったのだろうと思う。彼女を見ていると、愛着というようなものも、後天的に会得するものだとわかる。愛されて、慈しまれて、会得するのだろう。
 
私も母親だが、娘から遠ざからなければ、娘を虐待してしまうのではないかと、恐ろしかった。私が母の酷薄さに目に見えて傷つくようになった年頃に娘が近づいたとき、このままどのようにして、この娘と同居すればよいのだろうと不安になった。娘との関係の作り方がわからなかった。なぜなら、母のあの薄情な、娘の心を解さない、自分が娘に優先しなければ気がすまない、というようなわがままな長女のような、そういう母親像しか私の中にはなかったからだ。母のように娘を傷つけたくはなく、母のように残酷にもなりたくなかった。幼い娘を慈しんだ、その時のままの自分でいたかった。が、成長して自我を発達させていく娘を前に、私は逃げ出した。自分の母のようにはなりたくないが、思春期の娘とどんな関係を持てるのだろうか。私がしたのは、娘から物理的に距離を置くこと。自分の人生を生きたい、娘を虐待する母にはなりたくない、、、目をつぶって私は飛んだ。

 「母」という特別な意味合いを付与された位置に置かれて、私はモデルを見失っていたのだろう。世間で、「虐待」する母のことが取り上げられることがよくあるが、「虐待」する母は、一つの母親像なのだろう。それ以外を知らない母親達は、「虐待」を選ぶか、子捨てを選ぶか、しかない。それ以外に、その関係を生きるすべを知らないのだ。

 親子の心の傷は深い。無責任に名指された「親子」という関係性に、人々は果てしなく、人生を賭けて、傷ついていく。

年をとるということ

2010-01-01 11:31:27 | 
一度書いた文章が、画面展開のために消えてしまった。また書き直すけれど、同じようには、決して書けない。年明け早々、やれやれ、、、。

 母は81歳。自分の生きた流儀で、今も生きる。一人娘である私に、少し負担感を抱かせながら、自分のやり方、自分のテンポ、自分の価値観で生きる。一歩たりとも、若い者に譲る気はない。小金があるので、それを孫や私にばらまいて、私たちのサービスのお返しにしている。孫たちには、結構、過剰なお返しだ。
 寂しい年越しをさせたくないと思う私に、こどもたちもつきあってくれている。

 自分はどのような死に方をするかわからないが、母のようではありたくないと思う。自己中で、わがままで、娘の私には何やら無限の権利を持っているかのように、私には振る舞ってきた。が、私が仕事をしてきたので、控えているところがある。母と同じように、専業主婦でいれば、母の支配下で母の僕のようになっていただろうが、幸い、そこからは抜け出すことができた。

 その母が、「もうすぐ死ぬ」などと言うと、涙がこみ上げてくる。老いた母を見ていると、悲しみと切なさが、わき上がってくる。私に対して少しも優しくなかった人なのに、なぜ、こんなに思うのか。

 母がいる間は、今の暮らしを続けるしかないが、一人になったら、この地を離れようと思う。こどもたちの負担にはなりたくない。自分がどのような死に方をするかはわからないが、こどもたちには前日くらいに駆けつけてもらって、一晩見守ればあの子たちも気が済むだろうから、それで、さっさと逝きたいと思う。それまでは、離れた場所で、機嫌良く暮らしているよ、というメッセージだけを届けて、気ままに自分のしたいように、暮らしたいと思う。
 どうせ、私も母親譲りの、自己中で、気ままで、人に合わせることの出来ない人間なのだから、それは仕方がないとしても、母のように、若い者にケアをさせて当たり前、という感覚はないし、子どもたちも、私よりもドライな世代だ。
 こどもたちは優しいが、世代的には、私よりも遙かにドライで、前の世代に責任も義務も感じてはいないだろう。

 だから、年老いた私の存在は、負担になるだけだろう。それは避けたい。なんとしても、、、。

 ひとりぼっちが嫌いだという友人がいる。彼女は、人と暮らす煩わしさよりも、孤独の方が辛いのだろう。私は、人といる煩わしさや不自由さよりも、ひとりぼっちの寂しさの方を採る。孤独はつらいが、出来る限り、自由にしていたい。それは悲願だ。

 
 


二重構造

2004-08-16 22:39:06 | 
私の母は、典型的な京都人で、とても複雑なメッセージを出す。というより、「察する」ことを要求する。私は、メッセージが出ていたかどうかも気づかないのだが、母は、メッセージを出していたという、そして、それに答えなかった私を責めまくったものだ。また、メッセージを間違って受け取っても、後で責められた。人前では、決してダイレクトにものを言わないので、私にはわけがわからない。
 小学生の頃、隣のおばちゃんがかわいがってくれるので、しょっちゅう遊びに行っていた。母は、「もう晩ご飯やから帰りなさい」と迎えに来る。私は「もっと遊びたい」と言う。「なにゆうてんの。おばちゃんとこも迷惑え」と言う。おばちゃんは、「もうちょっとかまへんえ」と言ってくれる。でも、母は一歩もひかず、結局私は連れ帰られる。帰ってから、母は、「もう行ったらあかん」と言う。「なんで。おばちゃん、また来てやて言わはった」と私。「そう言うたはっても、ほんとは来たらいややと思たはんのん」「なんで? なんで、来たらいややのに、またおいでて言うの?」「そういうもんやのん」「お母ちゃんかて、またあした寄せてもらいますて、ゆうたやん」「それは、ゆうただけ」「ほな、うそ言うたん?」「うそと違うの。そういうもんやのん」「そんなん、うそやんか」、、、と母とはこういう会話を交わしてきた。やりにくい子どもであっただろうと思うが、言われたことと思っていることが違う、という事態が私をいつも混乱させていた。京都の人はいつ、この二重構造になじむのだろう? 私はとうとう、京都を逃げ出した。こんなわけのわからない世界で、生きていくことはできなかったのだ。
 本音と建て前の二重構造が、今でも私は苦手だ。