凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋をつくる人

2012-04-30 12:28:07 | 日々の雑感
 年のせいか、最近、昔聞いたような決まり文句などをよく思い出す。

 これもその一つ。世の中の分業について言っているのだろう。職業的、身分的区分を駕籠で例え、それによって、社会がうまく回っていることを表現しているのだろう。
 
 小学生の高学年の頃、一回だけ聞いた言葉のように思う。聞いた時から、妙に気になって記憶に刻み込まれた。なんとなく、不公平感のようなものが残って、後味の悪い印象を持ったような気がする。

 が、大人になって、この言葉を今一度味わうと、これが職業的分業を言っているのなら、不公正でもないと、むしろ思う。なぜなら、駕籠に乗る人の仕事は、乗ることではなく、乗ってたどり着いた先での、重責だったりするのを、今ではわかるからだ。駕籠に揺られながらも、様々考えをめぐらし、統括的業務に身をすり減らすからだ。

 駕籠に乗る人の苦労、駕籠を担ぐ人の苦労、そのまた草鞋を作る人の苦労、、、それぞれの苦労がある、というように言い変えられる。
 そうした分業体制で、社会は構成されている。

 今、世の中がうまくいかないとすれば、多くの人が「駕籠に乗る人」を目指すからだ。駕籠に乗る人になれないから、やむなく駕籠を担ぐ人、草鞋を作る人、になっているとすれば、それは不本意な分業である。不満や不安や失意や怒りをかかえて、駕籠を担ぎ、草鞋をつくる。駕籠に乗り損ねた「失敗」の結果の分業なのだ。としたら、これはうまく構成されている、とは言い難い。

 負け犬の駕籠かき、草鞋職人だらけなら、ろくな草鞋は出来ないだろう。駕籠が安全に快適に担がれるとは限らないだろう。なぜなら、労働には労働の喜びがあって、その労働の成果が生み出されると思うからだ。

 なぜ、誰もが出来ることなら「駕籠に乗る人」になりたいのか? 嘗ての階層社会の分業体制には、階層間を移動する可能性がほとんどなかったために、それはほとんど宿命だった。が、今、階層間を移動する可能性が開かれている。だから努力次第で、誰もが「駕籠に乗る人」になれる。適性や能力は関係なく、「駕籠に乗る人」になることが「成功」なのだ。だから、それ以外は、「失敗」された結果、諦められた結果、失意の結果となる。

 階層制度はなくなったが、階層社会は続いている。「駕籠に乗る人」は階層の上位だ。階層の壁が一見なくなったように見えて、実は壁はある。すべての人が「駕籠に乗る人」になれば、担ぐ人もその草鞋を作る人もいなくなるが、現実にはそういうことにはならない。たえず、駕籠を担ぐ人や草鞋を作る人を、社会は必要とする。だから、絶えず、「駕籠に乗る人」になれない人を創り出す装置がいる。その装置が、目に見えない壁だ。様々な仕掛けで、この壁をクリア出来ないようにしてある。しかし、一見、壁がないように見えるので、多くの人は、一旦、「駕籠に乗る人」を目指すようになるのだ。
 誰もが「駕籠に乗る人」になろうとするのは、階層が上位であり、権力や富と結びついているからだ。権力や富のある地位に、がんばればなれる、と思うから、躍起になる。が、結果的に、見えない壁に阻まれ、失意と諦めと敗北感のうちに「駕籠に乗らない」方に落ち着いていくのが多くの人々だ。

 もし、「駕籠に乗る人」に特別な富と権力が結びついていなかったら。もし、駕籠に乗る人も、駕籠を担ぐ人も、草鞋を作る人も、労働に対する経済的な対価がほぼ均等であったら、、、。それぞれの人々は、自分の適性に合った職業を選択するかもしれない。

 職業間格差が、不適格な管理職を生みだし、人々の負け犬感情を醸成し、やっかみや蹴落としや、過当な競争原理に拍車をかける。人の性格も悪くなる。

 なんとか、もう少し公平な社会づくりが出来ないものか。公平な社会をいやがって、不公平な現状を維持したがるのは、いったいどういう人たちなのか?

猫に学ぶ

2012-04-23 09:58:50 | 日々の雑感
 飼っていた猫が亡くなったとき、一緒に泣いてくれた息子が、面白いことを言った。
「これから、○○ちゃん(猫の名前)を見習って、生きていくよ」と。
父親が亡くなった時にも、そんなことは言わなかったのに、なんで猫?

 確かに、目の中に入れても痛くない、というほどにかわいがった猫だったから、思いは様々あるが、「見習って生きる」とは? 猫じゃらしで遊ぶの? とはまぜっかえさなかったけれど、それに似たようなことを返したかもしれない。

 が、一方で、彼が言いたいことがわかるような気もしていた。人間世界の様々な苦悩に嘆息するとき、ふと猫を見て、その超然とした生き方に感心したこともあるからだ。

 そして、今も、亡くなった猫より二歳年下の猫がいるが、やはり同じようなことを感じることがある。
 もちろん、多分、脳が小さいから、ほとんど思考というものをしないせいだろうということはわかっている。深い記憶や未来への恐れなど、目の前に存在しないものに思いをめぐらしてあれこれ懊悩するのは、人の思考活動の特徴なのだろう。
 それでも、猫の淡白さに、こうべを垂れる思いの時がある。

 叱ったとしても、ちょっとした叱り方だと、さっとその場を離れるだけで、すぐに忘れてすり寄って来る。そもそも叱られた、とすら認識していないのだろう。なんかちょっとした災いが来たかのように、こちらの大き目の声から逃れるのだ。それだけだ。
 
 人の感情などに拘泥しない。する意味もない。静かで穏やかな暮らしがあれば、それで充足している。時々、母猫(つまり、私)を恋しくなるのか、すり寄ったり、いないと鳴きながらうろうろしているが、見つけるとやって来て、膝に乗る。私の感情にはおかまいなしだ。ただし、機嫌が悪くて邪険にすると、ぷいと立ち去る。が、それをなじるでもなく、恨むわけでもなく、「どうして邪険にしたのよ」と問いただすでもなく、何事もなかったかのようにまたやって来る。

 人の感情(つまり、自分の感情)に疲れた私には、そのこだわらなさが羨ましくなるのだ。このように生きたい、と思うことがある。

 他人の感情に疲れる、というより、そう、まさに自分の感情に疲れている。裏切り行為などない。あるのは、自分の期待感だけ。裏切られたとすれば、自分の期待に裏切られただけ。

 それだけのことだ。猫がすがすがしく見えるのは、こうしたややこしい感情に翻弄されることがないからだ。そこだけは、やはり、猫を見習って生きたいものだと思う。

せめて、明るい色で、、、

2012-04-22 23:06:14 | Weblog
 中身が暗いから、せめて、背景だけでも、と明るいデザインに変えた。

 ここしばらく失意の友人の話の聞き役になっていたが、私も相当な失意だ。私の話も聞いてもらう。まぁ、話をきいてもらえる友人がいることだけでも、助かる話だ。

 ある人が、あまりにも心ない態度をとっているとする。私は、私の苦悩、疲労感、失意の中にいて、その人のことを「つれない人」だと思う。こんなにも落ち込んでいる私に、これと言った言葉をかけるでもなく、無視。嘗て私の家に居候までしていたのに、どんなに私がその人のためにいろいろしてあげたかわからないのに、、、。

 そんなうらみがましい気持ちまで生まれる。

 でも、よく考えてみよう。その人は、私の苦悩の半分も、知らない。少しは事情をわかっていても、それほどまでとは考えていない。それに、その人自身も結構大変な日々かもしれない。その中で、最低限のことだけ、こなしているので、他の人たちに事務的なメールを送っても、私に個人的なメールを送る余裕などないのかもしれない。あるいは、もっと先で、どうせ連絡をとるのだから、その時にまとめて話をしようと思っているだけかもしれない。
 よしんば、「つれない人」だったとしても、私は何を期待していたのだろう? どちらにしても、私自身が乗り越えないといけないのだ。他人の親切に乗っかって、なんとか自分の落ち込みをやり過ごそうとしたのは、他人への依存でしかない。

 子どもの頃、親に言われた言葉に「ひと相場」ということばがあった。まるで人身取引の用語みたいだが、そういう意味ではない。「他人任せ」「他人が基準」という意味で使われていた。他人がどう出ようが、私は私のなすべきことをなすしかないのだろう。

 他人は、それほど、私のことに興味がない。それだけのことだ。











鬱々・・・

2012-04-19 15:49:59 | 日々の雑感
 思いもかけないほど早い時期に、夫に死なれて、ずっと苦しみ続けてきた。ずっと、自分を許さないできた。もう、幸せを望んではいけないような気がしていた。

 が、これが私を鬱にしているのかもしれない。

 何で乗り越えようか。

 我慢ばかりしている気がする。もちろん、遊んだりはする。楽しいと思うことで、時間とお金が許すことは何でもやろうとしてきた。

 まるで、受験勉強をしないといけない子どもが、教科書を広げたまま、部屋でゲームをしてみたりするように、楽しめない、解放されない、でも、勉強にも精を出せない、といううっ屈した暮らし。

 何もかも投げ捨ててみようか。

 これまでの蓄積なんていっても、たかが知れている。捨てても良いではないか。楽しくないことは何でも捨てればいいのかもしれない。

 しかし、来月とさ来月に約束をした学会参加は、やっぱり遂行しようとしている。


一人暮らしはよくない?

2012-04-18 20:25:35 | 日々の雑感
 今日、病院に行って(大したことはなかったので、無罪放免)、ふと壁のポスターを見ると「老人性鬱」の文字が、、、。自分は、今、そうなのだろうか、と思ったりする。

 とても悪く物事を受け取ってしまうのだ。余裕がない、というか、、、。ある女性カップルから、「遊ぼう」と、連絡が来ているのだけど、行きたくない、と思ってしまう。「二人で遊んでれば、いいじゃないか」と思う。二人の人は、もう1人、仲間を見つけたいのだろうけれど、親密な二人と一緒にいても嬉しくはない。こっちは独りぼっちなのだから、「二人ぼっち」に時々外の風を入れようというのは贅沢だ。私は、二人のためにあるわけではない。で、断っている。
 だけど、そういう人を断ると、本当は独りぼっちなのだ。私から何かを得ようとすることがわかっている人というのは、つきあいたくない人だ。昔は、そういう人ともつきあってきた。で、やたら友人知人が多かった。でも、そういう人は、こちらの利用価値がなくなると、もう寄っては来ない。

 たまにしか会わないが、まぁ、話すと楽しい友人というのがいる。そういう人は、こちらから何かを得ようとか、私に何かしてあげようとか、あまりそういうのがないからすがすがしい。たいていは、私より、持っている物が多い人だけど、、、。
 たぶん、私は、昔、持っている物が多いと思われていたのだろう。

 もう一組、こちらに来ると、必ず、私の家に泊まる女性カップルがいるが、呆れるほど、自分たちの都合でしか連絡を取ってこない。泊まりたい時だけ、連絡してくる。なんだか、利用されている感じで、もう、連絡を取る気にもなれない。

 性格が悪くなっているのかな、、、。余裕がないというか、、、。

 夫がいる人は、何やかや言っても、結局プライベートは夫と共に過ごす。人と番うというのは、やっぱり人間には良いことなのだろうか。

 しかし、私などは、結婚という制度にも乗っかったが、この世には、そういう制度にも乗っからず、パートナーを生涯、持たない、という人もいる。
 私が若い頃に知り合った障碍を持っている人は、親を亡くされて、どうされているのだろうと思う。今も、年賀状だけのやり取りだ。年賀状は、相も変わらずきれいな繊細な字で(床の上で、上体を床につけて肘を軸にして、文字を書いている姿を覚えている)、近況を簡潔に書いてこられる。まだ20歳代だった私は、自分より若干年下のその姿を見て、「この人は選択肢が極端に少ない、そのことがこんなにも清々しいスタンスで、人生を見つめる姿を可能にするのか」と、感動したことがある。自分は、やろうと思えば何でもできる身体を持ちながら、将来の前に混沌とした気持ちをかかえていたからだ。

 しかし、年をとって、選択肢が少なくなっても、相変わらず混沌としているから、選択肢がどうのこうの、という問題でもなさそうだ。
 この、春には必ず起こる心の不調を乗り切りたいのだが、、、。