凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

女であるということ

2012-08-27 08:30:58 | 日々の雑感
 私と交流のある人たちは、私がこういうことを言うと、驚く人が多いと思うが、私は女性アイデンティティが薄い。

 いわゆるフェミ系、特にリブ系の女性は、すっぴん、ショートカット、パンツ派が多い中で、私は、どちらかと言うと、フェミニンに属しているらしい。特に私くらいの年齢では、エコ、フェミの活動をしている女性たちは、外見に独特の共通した趣味を持っているように見える。Tシャツにジーンズ、スニーカー、もちろん素ッピン、とほとんど年中同じ装いである人が結構多い。どうしてこうも、美しくも魅力的でもない恰好をするのか、よくわからない。なぜなら、どんなにこだわらない人でも、必ず選択が行われているからだ。Tシャツ一つを買うにしても、店には様々な色、柄の物が並んでいるわけで、その中から選び出す一品であるから、その人の趣味であるのだろうと思うのだが、それにしてもよくもこうまで、目を喜ばせない物を身につけるのか、とは思う。

 だから、そういう女性たちの中では、私はまだフェミニンタイプに見られることが多いのだ。ユニクロ系は着ない、スニーカーも街中では履かない、化粧はある程度する(メイクというようなものではないが、モロ日焼けを防ぐ程度のファンデーションは塗る)、ポロシャツよりもレースのブラウスの方を好み、帽子はキャップ型ではなくハットタイプ、通常は日傘、髪はベリーショートや坊ちゃん刈りにはしない。そういう私は、スカートを履いている女、という印象すら持たれる。実際は、スカートは年に数回だけ、主にコンサートに行く時に、長時間座っているので履く。それでも、私のテイストはフェミニンらしいのだ。

 が、女性アイデンティティが揺らいだことがないと言う男性と間違えられる友人よりも、私の方が女性アイデンティティは薄い。薄いと言えばいいのかよくわからないが、「女性」という性が自分のものとは思えない、という感覚だ。たぶん、世間に流通している女性イメージと自分との距離が遠いと感じてしまうのだろう。しかし、それは、幼い頃からだった。

 私にとって最初に出会い、最も身近に接してきた「女性」は母である。母は、濃厚に女性性をアピールしていた人だと思うが、そのせいなのかどうか、私は母を異常に好きだったが、同性である、という感覚を養えなかった。常に、自分は父の側の人間である、としか思えなかった。父は好きではなかったが、それでも父の世界の住人であって、母の世界の住人とは思えなかった。だから、母や母の世界に属する人たちは、私には異世界の人だった。自分が「女」の側に属していることは知っていたが、内面では異質感の方が強かった。

 が、性同一性障害と呼ばれる人たちと同じと思っているわけではない。気持ちはわかるような気がする部分もある。が、男に移行してしまいたい、とも思ったことはない。男の性態が良いようにも思えず、あそこまでにはなりたくない、という感じだ。
 男に近いが、男ではない。女では全くないが、女と呼ばれている、という感じ。程度で言えば、そういう感じになる。
 男と女を直線の両端に置いて、その線上のどこに位置するかによって、性自認を表現するという尺度を用いる場合がある。その尺度を使うと、私は、自分を男寄りに置くことになるのかもしれない。

 性自認というものも、単純なものではない。


 

幼い頃の悲しみの記憶

2012-08-22 11:22:39 | 人生
 カウンセリングの領域は専門ではないのだが、女性のための相談を仕事で担当したことや、友人がカウンセラーであることや、フェミニズム系のカウンセリング団体に近かったことなどもあり、どうも、門前の小僧のようなところがある。

 行政の相談を担当した時は、ちょうど、フェミニズム系の原稿を定期的に執筆している時期だった。リピーターとなったフェミニズムを勉強しているオタクな大学生が、新たなカウンセリングタームを駆使して相談を持ちかけてくるのに、全部対応可能だったのだが、これは、他の人だったら無理だろう、この目の前の頭でっかちの学生がバカにするのだろう、と思った。案の定、私が退職して後任になった人は、「普通のおばさん」と呼ばれ、痛罵されたとか。上司が困惑して私のところに相談に来たことがある。今の相談担当者を潰してはいけないから、と気をもんでいるのだが、その手厚さに私の方が僻みそうになった。なにしろ、私の時はほったらかしもいいところで、何もかもすべて私がやった上に、上司のフォローまでしていたのだから。私の後任が苦労したというのは、他の方面からも聞いた。

 こういう次第であるので、非常にカウンセリングに近い感じを持っていた。何よりも、私がクライアントであった時期があるので、一層、その世界を知っている感じがしていた。

 しかし、時とともに、わかっていたと思うのは間違いだった、と考え直すことがよくある。自分の体験と仕事の途上で得た知識・情報を総合して、私なりの心理観を持っていたのだが、まぁ、心理学というのは、「俗流」が流通しやすい分野なので、私もその一人と思った方がよいのだろう。

 最近もそういう手法をとられているのかどうか知らないが、嘗ては自分の問題のルーツを生い立ちに求めるために記憶をたどる、というような面接方法がとられていたと思う。親の離婚、親の心ない言動など幼い頃の出来事がその人のトラウマを作り、そのトラウマが大人になった今も苛み続けてその人の苦悩を引き起こしている、という考え方だ。
 確かに、それは間違ってはいない気がする。すべてが親のせい、というわけではなくても、その人の生育環境に起因することは多々あるような気がする。嘗ては、私はそこで止まってしまっていた。親を心の中で責めることで、自分をやっと免罪し、楽になっていた。

 しかし、思えば、親の問題は親のかかえてきたトラウマに起因することになるので、たどり始めれば、きりがない。親を責めれば自分は楽になるが、親のせいにしなければ自分が苦しむ、というのでは、この二世代間で罪のなすり合いになってしまう。しかし、親のトラウマのルーツを探り始めると、今度はその途方もない悠久の時の流れに巻き込まれそうで、きりがなくなるのだ。

 犯人探しは、出口を適当に用意しないと終わりのない苦悩のらせんに落ち込む。犯人は見つけてもよいが、見つけた犯人はたいてい、無意識無自覚な無辜の民だ。振り上げたこぶしは行き場を失う。

 トラウマは、その原因となった出来事の程度のひどさに比例するものでもなさそうだ。第三者からは、「それだけ酷い目にあったのだから、、、」と、そこを問題にすることが多いが、どうも、当事者には、客観的に見た出来事の過酷さのレベルと心の傷の深さとは必ずしも比例しない、というのが私の今の実感だ。
 場馴れしたクライアントは、カウンセラーを納得させやすい物語を語ろうとするので、出来ごとの過酷さのレベルを強調し、自分の傷の深さを大きく見積もってもらおうという意図が働いたりするので、出来事の過酷さと心の傷の深さの相関関係があたかも証明されたかのような結果をもたらすこともある。
 しかし、おそらく、経験豊かなカウンセラーはそのような法則は成り立たないことをとっくに知っているだろう。その出来事が、「その人にとって」どういうことなのか、ということを考えるだけなのだ。

 特にいつまでも引きずっている人について、なぜ、引きずるのかを、出来ごとの過酷さの程度でのみ測ることはないだろう。
 それは、私は自分について考えていて、初めてハッとした。上に書いたようなことは、理屈ではわかっていて、発言もしていたと思う。しかし、自分のトラウマについては、受けた過酷さに比例すると思いたかったのだ。そのように解釈したかったのだ。が、どうしても辻褄が合わない。思えば思うほど、私の親は愚かな親の一人だったかもしれないが、実はそれほど残酷な人たちではない。それは私が一番よくわかっている。しかし、これほど苦しんできたのはなぜか、を考えていた。
 そして今、思うのだが、おそらくそれは、起こったことについて慰撫されたかどうか、にかかっているような気がするのだ。そのつもりはなく、何かで動いた拍子にうっかり子どもの頭をたたいてしまった大人は、びっくりして、子どもの頭をなぜながら、ゴメンゴメン、悪かったね、と謝るだろう。その時に、頭をたたかれた子どもは、もう慰撫されているのだ。その出来事は引きずらないだろう。が、怒りで頭をたたいた親は、正当な行為だと思っている。それどころか、頭をたたく、という行為を自分から引き起こした相手に、一層腹を立てる。親は怒りに満ち、子どもはたたかれた行為に打ちのめされ、攻撃されたショックでダメージが来る。しかし、相手は一層怒っている。もはやこの二人関係に介在する慰撫はない。第三者が慰めても、攻撃を受けた相手には怒りや敵意が残る。

 これらが繰り返されると、良い親子関係は形成されない。子どもの心には親への怒りや反発、敵意が形成されている。しかしもちろん、可愛がられた記憶もあったりすると、愛憎ないまぜになった複雑な感情を抱くようになるのかもしれない。
 私には、そういう解釈が最も今しっくりくる。私の親は、私をたくさん責める人たちだった。生育過程において、責められ、批判され、攻撃された記憶は、私を絶望的にしてきた。一方、彼らは私を愛情いっぱいで育てていると思っていた。欲しい物を買い与え、常に身の安全に気を配り、無事に育て上げたいと願っていた。父は、子どもはほっとけば悪いことをするものだという考え方の人だったので、とにかくうるさく、意地悪に感じられた。信頼されていない、ということが私を打ちのめしていた。父も母も、自分たちは正しいと思いこんでいたようで、自己検証はしなかった。だから、私は一度も慰撫されることもなく、ここまで来た。なまじ、可愛がられて育てられている外観だったので、誰も私を慰撫することはなかった。私の悲しみは、そういうことなのだろう。

 もちろん、今では、自分で自分を慰撫してきたのかと思えるようになった。あんまり、根深く、怒りも悔しさもない。すっかり年をとって、力をなくした母を見ていると、ただ悲しい気分になるだけだ。






 

 

 

個人的な悩み

2012-08-13 21:49:22 | 人生
 個人的な苦悩をかかえていると、社会の現実に対して、怒りや闘いの原動力を養いにくいものだ。

 個人的なことは政治的な事であるわけだし、つながりがあるのはわかっているが、それを解きほぐしていくのは気の遠くなるような作業なので、つい、目の前の出来事に心が病んでくる。

 情けない話だ。
 こうして、情けないまま、年を取り、何を成したわけでもない人生を終えるのかと思うと、自分の人生が無意味に思えてくる。

 気力が萎え果てる。

なぜ、その人は、嫌われるのか

2012-08-12 09:58:02 | 人間関係
 私の交友関係の中にいる、数少ない男性の一人、仮にTさんとしよう、について、思ったこと。思った、と言うより、わからないこと。

 Tさんは、とても真面目な人だ。私が関わっている団体の会員でもあり、私が関わっている業界と重なる動きをしている人だ。そして、とても精緻に資料を読み込み、とても論理的な指摘を行うことが出来る人だ。

 ほとんどが女性ばかりの集団の中で、気負うこともなく、理性的に、でもソフトに、存在することのできる、まことに希有な人だと思う。しかし、この人が、女性達の中では評判は悪い。なぜ、この人が嫌われるのか、私にはわからない。

 ある女性だけの団体の集まりの時に、特定の分野について人材が欲しい、という話があり、Tさんの名前が挙がった。Tさんはその分野の専門だし、他にはあまりやっている人はいないのでは? という提案に対し、その場にいた人たちは、悪い評判を口々に言いだし、メールでやり取りをしたことのある人や、その団体についての意見を受け取った人たちが、いかに困った人か、という話をし始めた。たまりかねて私は、彼は確かに曲がったことが嫌いで、こだわるタイプで、融通はきかないかもしれないが、でも説明すればちゃんと理解する人だ、と擁護した。とたん、数人の人が、「違う!」「説明してもわからない!」と、大反論。擁護すればするほど、彼の欠点が一層強調される、というパターンにはまってしまい、私は黙った。

 そして、Tさんという人材については、あえなく却下、という結論に至ったのだが、考え込んでしまった。Tさんという人のことを、私もよく知っているわけではない。だが、ある出来事がきっかけで知り合ったのだが、これほど、公正に、理論的にものを考える人がいるだろうか、と感心するような人だった。
 妥協はしない。私たちの集団にありがちな、理屈よりも情が先行する、ということは金輪際なさそうだ。むしろ、情が先行していると、それは理屈が合わない、と、指摘してくるだろう。あくまでも、理論先行。そこは頑固だ。が、私も彼と意見が合わないところがあるが、「これは、あくまでも私の見方であって、ひょっとして偏っているのかもしれないが、今の私の判断材料からは、このようにしか考えられない」と伝えると、彼もまた、「自分の見渡せる範囲ではこのように考えられるが、まだ自分の知らない実態状況があるかもしれないので、また教えてください」と、決して意固地ではない。

 相手の見解を知りつつ、この点では意見は違うが、この部分については支持する、と極めて明快だ。

 このTさんがここまで忌避されるのはなぜだろう? と考え込んでしまうのだ。この人は、多分、男友達はいないのではないかと想像される。男の持つジェンダー的特性がこの人にはない。男の行動様式、男たちが共通に持つ何かが完全にないように感じられる。
 男は、女を女として見る。女として扱う。性的対象として、とか、差別的に、という意味ではない。非常にジェンダーニュートラルな男性でも、男として女と接する共通した行動様式がある気がする。マナーとても言おうか、「異性」ですよ、という何らかの暗黙のメッセージが介在している気がする。「男ですから、女の人のことはよくわかっていませんが」という紳士的態度、とでも言おうか。
 Tさんとの距離感はそれとは違うように感じる。男の行動様式ではなく、人とあまり近くなじめないタイプの、単に「人」であるような感じだ。見かけはどう見てもただのおじさんだが、Tさんの内面は、「男」として社会化された人のそれではないのではないか、と思う。

 しかし、フェミニストといえども、女達は、男によって扱われる扱われ方に慣れている。それはもちろん、大切に扱われる、とか、性的対象として見られる、とか、そういうことではない。上に書いたような、男共通の行動様式で、女一般と対応する対応の仕方、という意味だ。そこに、Tさんのような人が現れる。女性達は、出会ったことのないタイプの男性に戸惑う。しかも、Tさんは自説を曲げない。論理的に破綻している主張については、明確な異議を唱える。
 「女の人はわからんなー」と、紳士的な男性が閉口して議論をやめるのとは全く逆に、彼は説得を続ける。何か、それが偏執狂的な難儀な「男」に見えるのかもしれない。が、彼は同じ理論家として、議論をしているだけなのだ。同じように論理的に反論をすればよいのだ。議論を止めるときは、「まだ私の側にはこれしか判断材料がないので、ちょっとそれ以上は理解ができない」と言えばよい。

 ただ、私がそれで済んでいるのは、Tさんが私の心身の事情を知っているので、特別にものわかりが良いだけなのかもしれない、と今思った。そうでなければ、ひょっとしたら、自分の意見を補強する判断材料を送ってきて、改心を迫るのかもしれない。しかし、現時点での自分の限界を示し、議論の中断をすることは可能だ。それをしつこく追い詰める人ではないと、私は思っている。

 Tさんを忌避する女性側にも、議論に勝とうとする人の持つ独特の苛立ちがあるのかもしれない。一歩も引かないTさんは、物わかりの悪い、しつこい、いやな男に見えているのかもしれない。しかし、女に言い負かされて適当なところで降参してきた男達は、男特有の行動様式を共有しているだけなのかもしれないのだ。これ以上議論をしても得策ではないと読むと、さっさと相手に譲って、その議論を放置する。そこにこだわる必要はなく、他の方面でいくらでも自分の活路はあるから、頑固で気の強い「女ども」相手に、消耗する気はないのかもしれない。それよりも、嫌われないでいる方を選択するのかもしれない。

 Tさんはどこまでも女達と互角だ。おかしいことはおかしいと言い、許容できる主張とできない主張を厳密に腑分けする。どこまでもどこまでも精緻に。しかし、議論に勝つことを目的にしている側は、そんな腑分けなどどうでもよい。要するに相手が、自分の主張を「理解」し、賛同者になることしか考えていない。なぜなら、自分の側は、全面的に「正しい」から。理論を放棄しているのは、女たちの方ではないのだろうか。理屈ではなく、心情的に賛同されることを願っている気がする。だから、心情的に寄り添って来ないTさんは、とんでもない困ったさんなのだろう。

 心情的なこと、心の機微などが、Tさんは苦手なのかもしれないとは思う。だから、多くの人が共有する、少々の理論的不具合よりも、心情的に同調できる、というような行動様式を共有しない。場の空気を読んで、場の空気を乱さない動きをする、というのは出来ないことなのだろう。
 
 私の知っているフェミニストには、自身、空気を読まない唯我独尊風の人が多いのだが、他人が空気を読まないことには、意外に厳しい。
 フェミニスト=男みたいな女、というような昔のアンチフェミ派が言ったような図式に実態が陥っていかないように、と願う。

 それにしても、日本のフェミニズムは、ヘテロセクシズムを超克するにはほど遠い現状だと思うことがある。日本のフェミニズムを牽引している人の限界がそのまま現れてしまうほど、層に厚みがないのか、あるいは、アカデミズムの世界で成功した人たちの言説が、他の領域の人たちの活動に比べて、影響力が強すぎるという、アカデミズム偏重の社会だからなのか、、、。
 Tさんのような優れた理論家が、きちんと遇されることがないのが、この国の現状の問題を示しているような気がするのだ。

子どもを育てるということ

2012-08-08 12:30:37 | 人生
身近にいる若い人を見ていて、この人はいつ大人になるのだろうと思うことがある。

 私の若い頃に流通していた「女は子どもを産んで一人前」という前の世代の女性達が誇らしげに言うせりふは、ずっと私自身禁句としてきたものだ。自分の経験から考えて、確かに、出産・育児という人生の選択は、ドラスティックな変化をもたらした。何よりも、「他者のために、自分を明け渡す」という事態は、そうそうあり得ないような気がする。屈従させられる、とか、征服されてやむなくそうするわけではなく、自らの喜びや積極的意志として選択する「他者優先」という行為。

 子ども達が小さい頃、春先、家族でお花見に出掛けたことがあった。夜になって昼間の暖かさを裏切る寒波に見舞われた。家族皆が初夏のような軽装だった。夫や息子はまだ平気そうだったが、小学校の低学年の娘は震えている。私も死ぬほど寒かったが、昼間から着用していた薄い羽織物を、夜の寒気の中で、脱いで娘に着せるより他に方法はない。娘はちょっとホッとしたように元気になり、私はただただ寒さを耐えるしかない状況だった。
 具体的にはそういうようなことである。子どもを持つということは、我が身を省みず、子どもを優先する時がある、ということだ。同じように寒くても、先ず子どもに暖をとらせる、同じように空腹であっても先ず子どもに食べさせる、少ない家計費は自分の物を購入せずに、子どものための消費が優先する。
 子どものいる多くの親たちは、自分が若い頃できなかった勉強をしたいと大学への入学を望んでいたとしても、勉強に何の興味もなく遊びほうけている子どもの学資を捻出する方を選ぶ。高い学費を払ってさぼりまくっている子どもの代わりに自分が学びたいところだろうが、子どもの将来を考えると、自分の勉学意欲など封印するより仕方がない。

 そうした経験は、なにがしかの人生への態度を養成するような気がする。少なくとも、私自身は、「他者の意志」の存在にいやというほど気づかされ、それをおろそかに出来ない、という経験をしたと思う。
 もちろん、子どもを持たないでも、「他者の意志」に気づくのだろうが、たとえばそれが会社の上司の意志であったりすれば、「支配」「抑圧」もっと不本意であれば「自分への蹂躙」というような意味づけがなされ、ネガティブな捉え方で置かれる可能性がある。自分よりも下位に位置づけられる人であるならば、その他者の意志が自分の意志と異なれば、「負担」「従属させるもの」「排除したいもの」として意味づけられるかもしれない。

 子どもを持つと、子どもという「他者」の存在は、ネガティブな位置づけではなく、むしろ尊重したい、受容したい、という欲求を呼び覚ます。もしその他者の意志が自分の意志と対立するときは、葛藤し、苦悩し、やがて一定の結論、たとえば自分よりも相手の尊重、時には自分自身の意志の調整などを行うことにより、人生自体を調整していくことになる。

 それは、「苦労」でもあるが、「修行」の意味合いのあるものだ。子を持つと、こうした修行の状況へと、自ずと導かれてしまう。私などは、この「苦労」をして、やっと少しは人として鍛錬されることもあったのかなと思う。

 それで、冒頭に戻る。「女は子どもを産んで一人前」などという前世代の言葉など毛頭使う気はないのだが、それでも、ふとそのような言葉が悪魔のささやきのように想起されることがあるのだ。

 身近にいる子どものいない女性達を見ていて、ふと、この人は自分を明け渡した経験がないのだなと思うことがある。悪い人ではない。性格も良いし、常識もある。それでも、自分を解体するような出来事に遭遇していないから、男性と同じように、人生は生まれた時から、自分を主体とした一貫した流れなのだ。
 否、子どもを育てたかどうかではなく、私という特殊な個人が、自己解体を余儀なくされただけなのだろうか。否、やはり、「母」あるいは「妻」と呼ばれるだけの人生を過ごした女性達は、自分が主体でない人生、自分が主人公でない人生の時間を生きたと思う。そして、ずっと専業主婦であり続け、年をとって、今度は介護者になった女性は、自分を自分の人生の主人公にしない人生の時間をもう長く過ごしてきたはずだ。

 だから、皆で食事をする時、「何を食べたい?」と尋ねられても即答できない。そんな質問を受けることがなかったし、そんなことを自分に問うことすらないからなのだ。自分が何を食べたいか、ではなく、何を作るのが今最もふさわしいのか、を考える。他人のニーズを汲むことには長けてきたが、自分のニーズや欲求など考えたこともない。そういう人が、元気の良いフェミニストから、自己主張のできないダメな女と言われたりする。違うのだ、自分を見失ったダメな女ではなく、自分が何をしたいか、など問うたこともないまま何十年も生きてきたのだ。自分のニーズに気づいたり、自分の欲求のままに生きるのは、男性と同じように、それが許されてきたから、なのだ。
 一点の曇りもたゆたいもなく、自分を主語にしてものが言えるということは、それ以外の経験のない人の特権のようなものだ。

 私の夫の姉は、とても気の優しいおっとりした人だが、60歳を過ぎても、「私はね、、、」「私の好きな食べ物はね、、、」「この写真の中の私はね、、、」と、臆面もなく「私」の連発。彼女たちきょうだいの幼い頃の写真を見ていて、私が亡夫の姿を探して、「どこにいるの?」と尋ねても、「私はね、、、」とくる。義姉の小さいときの写真を見たいのではなく、私が見たいのは、亡夫の幼い姿なのだ。
 生涯、結婚をせず、子どもも産まず、優しい母親と二人暮らしだったから、ずっと幼いままなのだろうと思う。性格が優しいので愛されているが、気の強い人なら鼻つまみものだろう。

 生まれた時から、自分を主体とした人生でまっすぐに貫かれている、ということは、まだまだ女性にとって僥倖のようなものだ。私など、子どものいない人と小学校時代の頃の話をしていて、気がつくと、自分の記憶が、自分のことではなく、子どもの小学校時代の記憶しかないのに愕然としたことがある。最近は年をとって、やっと、自分のことにばかりかまけるようになって、また、自分の子ども時代と記憶がつながった。
 そうなのだ、自分のことにばかりかまける、ということが、男性や子どものいない女性には、当たり前のことなのだ。自分の人生は自分中心に構成されている。

 そういう人の人生の風景は、おそらく、私が見る人生の風景とは、全く違ったものだったのだろう。

 しかし、子どもがいるからと言っても、もちろん、人として成長するとは限らない。私の母は、自分を明け渡す経験が薄い人だ。うんと年上の夫に、自分がかわいがられることを優先していたので、夫が私をかわいがるのは気に入らなかった。私は二人の、たった一人の娘であるにもかかわらず、である。彼女にとって、自分を私という子どもに明け渡すのは耐え難いことだったろうと思う。だから、ネグレクトであったし、私を常に自分の劣位に置き続けた。そうして、自分が主体の人生を中断することのなかった人だ。

 だから、一概に言うことはできないのだが、自分を主体とする人生を中断することなく生きられた人は、やはり、臆面もなく自己優先の考え方を貫き通している気がする。


気むずかしい人

2012-08-07 18:17:37 | 性格
 団体の長など、社会的権威のある人が気むずかしいと、力のない者はとても困る。昔は、それは多くは男性だったのだろうが、私の関係する団体や組織は、皆女性の長を戴いている。そして、フェミの思想が入っているから、どの人もどの団体も、平場や平等というコンセプトに基づいて動いている。
 という筈なのだが、なぜ、どの人も権威主義に見え、権力を恣にしているように見えるのだろう。

 まず、多くのエライさんは、周りに気を遣わない。周りが気を遣う。何でもフランクに言って、と言われて、うっかり言おうものなら嫌われる。平場主義と言いながら、自分がルールである。

 昨年亡くなった人は、ほんとうに、感性の優れた能力の高い人だった。私は尊敬していたし、その人の下で論文を書いたが、その人の下で論文を書けたのはよかった、と思った。私の研究分野は非常に新しくて、海外には先行研究が多かったが、日本では学術論文はほとんどない状態だった。私は英語の文献を中心に論文を書いたが、その人だからこそ、理解し、評価してくれたと思う。他の教員だったら、そこまで理解できなかったのではないかと思う。だから、とても感謝していたのだが、如何せん、非常に気むずかしい。年を取るに従って、その気難しさはエスカレートし、私はだんだんその人に会うのが辛くなっていった。もちろん、それでもその人を尊敬しているし、恩義も感じているので、仕事であまり会う機会がなくなっても、入院されたと聞いて病院に行ったり、何回目かの時には入院の手続きをして保証人になったりもした。そのうち、私自身が病気になったので、しばらく全く会いに行くことはなかったが、元気になったらまたお見舞いに行こうと思っていた。
 しかし、その人に寄り添っているのが、私が仕事で辛い思いをした人とつながっている人だったので、その人がいると思うと、足が遠のいた。そうして、何年も過ぎた間に、その人の訃報が舞い込んだ。

 あまりにも寂しい別れだった。私は、お別れ会にも偲ぶ会にも行けなかった。その人に付き添った人たちと会うのがいやだったので、一人でひっそりとその人を追悼することしかできなかった。しかし、その人と、若いときに私よりももっと親交のあった人たちが、つながりを断っている。その人の偉大さに比すると、あまりにもわびしい扱いだった。

 その人の気難しさには皆が閉口していて、慕っていくことが出来なくなっていたのだろうと思う。なぜ、そんなにその人は気むずかしかったのか。とても孤独だったのではないかと思うが、口を開けば容赦ない批判、攻撃、そして何が作用するのか、とても楽しそうにニコニコすることもある。そのニコニコが見られるのか、攻撃が始まるのか、その瞬間までわからない。その人を慕って近くにいることに疲れてくるのだ。

 だんだん人々が遠ざかって行った。私自身は、別の理由もあって遠くなってしまったが、親しかった人がどんどん傍にいなくなる。
 私よりはるかに年上で、その人と互角に交流できる人は最期の方までお見舞いに行っていたそうだが、もう誰のこともわからなくなっていたと言う。早いボケ方をしたのだ。人々との縁に希望を持とうとしなかったのかもしれない。だから、人々のことを早く忘れたのかもしれない。孤高の人は、孤独に亡くなったような気がする。

 入院しておられて見舞いに行ったとき、まだ元気そうではあったが、それでもだいぶん弱っている感じだったとき、私は不覚にも涙を落としそうになった。でも、あの人は、そういう私の気持ちなど考えないだろう。私は、誰かにしがみついて頼りにすることはしないが、尊敬と恩義は忘れない。人を慈しんだり愛しむ気持ちはある。しかし、その人はそれは理解しなかったと思う。誰にも頼らないで自立する、それがあの人のポリシーだったのだろう。

 人は、生きたように老いるのだろうな。

 

気性

2012-08-07 09:48:03 | 日々の雑感
 気性というものは、つくづく変わらないものだと思う。ものの考え方は変化するが、その人の気性は、どこでどう培われるのか、基本型は維持されている気がする。

 私が信頼しているある友人は、ものの見方もなかなか公正で温情もあり、頭の回転も速く、すぐれた人物の一人だと思っているのだが、どうも、若手をびびらせる傾向がある。彼女について仕事を習う若い人は、結局、怖がって逃げ出す。時には、パワハラという訴えがくる。私も、彼女のパワハラでノイローゼのようになった若い人の話を聞いたことがあるが、友人の良さを伝えてもむしろ逆効果だし、悪気はないからやり過ごしたらいいよ、と言っても、若い人には無理だ。もちろん、彼女自身にも、厳しすぎないかと注意はしたが、本人は厳しくすることが相手に良いことだと思っているふしもあり、また厳しくする正当な理由があると思っているから、なかなか態度は改まらない。それでも、私と話した直後だけは優しくなったらしいが、その次の日には元の木阿弥で、結局、その若い人は仕事を辞めてしまった。

 彼女が子どもを育てている時に、「転ばぬ先の杖」になってしまっている、と指摘されたことがあると言う。「なるほど」と思う。確かに、この人はひょっとしたら、よく気のつく口うるさいお母さんをしていたのかもしれないと思う。私などは同年配だからそういう関係になりようがないが、若い人やおとなしい人には、そういう面を出すのかもしれない。それと、不機嫌が出てしまうことがある、ということも最近わかってきた。不機嫌がモロに出る相手も若手に対してであるようだ。そのために、若手がびびるのだろう。

 年を取ると、それだけで上位に置かれることがある。それを寂しいと感じるこちらがいるが、一つ間違えばそれが権威になることもある。黙っていても、こちらには敬語で話しかけられるのだから、よくよく気をつけなければならないことなのだろう。だが、年寄り、ということで、時には差別も受けるのだから、頑張らないとやってられない部分もある。年を取るのも結構難しい。

 そして、気性は変化が困難、というのを年を取るごとに感じる。友人が「転ばぬ先の杖」であり過ぎたとすれば、私は子どもが転んでも気づかない親だったろうと思う。子どもが持つ力を最大限に発揮してほしかったので、確信犯的に気づかない親をやっていた。が、それをやっていたのは、このキャラのゆえだろう。「転ばぬ先の杖」型の友人のキャラではやれないし、やろうとも思わないことなのだろう。私も、「転ばぬ先の杖」をやれないし、やろうとも思わないのだから。
 私の子どもたちは、私の知らない間に転び、自分で起きあがり、何事もなかったかのように歩いていたので、私は転んだ現場を見ていない。ただ、転んでいるであろう事は想像はしていた。見てしまうと辛いので、見ないようにしていた。

 ここまで考えると、ほとんどネグレクトのようだった私の親も、そういうところもあったのかもしれない、と思う。自分には何も出来ない、ならば、一人で頑張って貰おうという、無意識の、確信犯的な放置だったのかもしれない。母は、自分の得意分野である着る物や持ち物には、やたら行き届いていた。だから私は、とても手をかけられた子どもに見えていたと思うが、病気や怪我や体調管理においてはネグレクト同然だった。母は、私の体調不良や怪我を極端にいやがり、中学生の時に私が自分の部屋で小刀を踏みつけて深い傷を負った時も、手当をしてくれたのは父で、母は遠くから見ていた。今思えば、自分の非力な部分においては、何もできない、だから何もしない、という状態にあったのだろう。

 そういう意味では、件の私の友人は、とても力のある人なのだろう。転ばぬ先の杖を用意できるほど、能力があり、守備範囲も広い、ということだ。

 気性というものは、その人の体力、知力、健康状態、生育環境要因が総動員されて構成されてきたその人固有の持ち味なのだなと思う。
 だから、そうそう変化するわけがないのだろう。