凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

LGBTについて覚書

2015-11-02 09:24:16 | 日々の雑感
 自分のセクシュアリティが何であるか、ということを特定することは難しい、という実感を持っている。

 異性愛の要素も多分にあるし、しかし、同性を求める部分も多分にある。
むしろ、トランスジェンダーの要素が大きいような気もする。
だけど、女性として、あまりにも普通に「女性」であってきたので、女性というカテゴリーに同一化できなかったわけでもなさそうだ。否、労働運動などにかかわっている女性たちの中では、むしろ、「女性」らしい、とさえ、言われる。
たいていの女性の集まりの中では、最も女性的な女性と、認識されることが多い。

 私が、なぜ、LGBTQ(あえてQをつけよう)の主張にこだわり続けるのか、というと、おそらく、それは強制異性愛が私を苦しめてきたからだろうと思う。
 セクシュアリティだけではなく、私はいろいろな部分で苦しめられてきたが、でもとりわけ、「女性」であること、男性に好まれなければならない女性として生きねばならなかったことの根深いコンプレックスがあった。
 べつに、モテない女、だったわけではない。「男の人は、あなたのような人が好きなのね」と、女性からねたまれさえした。なにしろ、私自身の意向とは無関係に、「女性」らしかったようなので。

 では、なぜ、私が異性愛に苦しめられたのか、というと、それはたぶん、あまりにも無自覚、無意識の、父親のせいだったのだろうと思う。時代の変化についていけない大正生まれの、繊細な思考のできない、しかし自分の野心や沽券にこだわる父親のコンプレックスのターゲットになってしまった。そして、異性愛社会の中で、勝者であろうとした母の、小心な無意識の振舞がそこに加わり、私は不幸感をかかえて生長していった。
 まずいめぐりあわせの結果なのだろう。

 フェミニズムは、その女性の苦悩をなんとか社会的なテーマに置き換え、構造的な病理を明らかにしてきたと思う。が、セクシュアリティについては、まだ隔靴掻痒の感がある。セクマイからのアプローチが主流で、なかなか、フェミニズムが問題にしてきたテーマとリンクしない。

 ひとつ、残り時間で、書いてみようかな。

 死ぬまでにとりあえず。