凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

女性ばかりの職場

2012-07-19 11:10:46 | 日々の雑感
 関わっている活動の流れで、女性達が職場でつらい思いをしている話を聞くことがよくある。いじめ、モラハラ、パワハラの類だ。たいていは、パートや有期雇用の現場で、働いているのはほとんど女性という職場。

 女性達は、心を疲れさせ、日々、病気になりそうなほど悩んでいる。

 電話での相談などを受けると、そもそもその人が働いている職場が何をしている職場か、そのこと自体が全く語られないことがある。「その会社はどういう業種の会社ですか?」と尋ねても、曖昧だ。言いたくないのか、よくわかっていないのか、どちらかだが、よくわかっていないのではないか、と思えるケースも多い。

 女性達は、自分の目の前のことしか見えていないのだ。自分の隣の席の人と向いの席の人だけが世間であったりする。自分の配属されたグループの中だけが、世界だったりする。パワハラやモラハラについて、「上司に相談は?」と尋ねても、もう上司すら遠いところにいる。本社の管理職など、雲の上の人らしい。相談者のほとんどは、大企業ではなく小さな地域の事業所で雇用されているのだが、それでも、少し上のポジションになると、もう、雲の上のように届かない存在らしいのだ。

 思うに、女性達のこの日々の小競り合いは、おそらく、責任や権限とは無縁で、末端の現場でルーティンワークを行う中で生み出される。自分の仕事が工程のどの部分であり、どういう意義があり、ひいてはそれがどういう流通機構で世の中に出ていくのか、それは社会の中でどういう意味があるのか、考えることはない。つまり、仕事の意味を考えないのだ。考える必要もない。考えることは他の人が行うので、自分たちは言われたことをすればよい、というようになっている。
 だから、関心事は、一緒に働く人との関係だけになる。うまくいかないと、ただただそれが辛い。

 仕事の効果を考えたり、この仕事は会社の業務理念と不整合を起こしていないか? などを考えていれば、小競り合いはうれしくはないが、そこにエネルギーがいかない。仕事上の対立は起こるが、言い方がいやだとか、挨拶してくれなかった、とか、感じが悪い、とか、そういうことは関心の後景に退く。皆が一定の権限と責任で仕事をしていれば、同僚をシカトしている余裕はない。出来うる限り情報を共有して、効率よく仕事を進めることを最優先する。
 つまり、人間関係のトラブルが尽きない職場というのは、乱暴に言ってしまえば、仕事をしていない、ということなのだ。ルーティンワークの中で、関心は隣で働いている人の虫の居所になり、エネルギーは周りで仕事をしている人との関係作りに注がれる。気が合わない、ものの言い方が気になる、そぶりがいやだ、となる。

 私が上司の立場であった頃、中間管理職の質の低さに手を焼いたが、この人達は、優秀な部下が多い中で、自分の威厳を保つのに躍起になっていた。だから、相手の出鼻をくじくようなもの言いをする、情報を自分で抱え込む、お気に入りとそうでない部下をつくる、など、まことにお粗末な言動を繰り返していた。私は「何とかしてくれ」と平のスタッフから求められたのだけれど、ほんとうに手を焼いた。
 今振り返ると、この中間管理職は揃いも揃って、権力に従順な人たちだった。だから、自分でものを考えない。責任もとらない。まぁ、能力的に無理があったのだろうとは思うが、その能力不足も、ずっと責任をとらない、権限もないポジションで仕事をしてきて、そういう仕事の仕方しか身についていなかったせいだとも言える。

 女性達はずっと、責任も権限もないポジションで働いてきた。何年も同じポジションで、同じ給料で、責任は誰か雲の上の人がとるもので、自分は叱られるか叱られないか、それはどういう上司が上に来るか、で決まってしまう、ということでしかなかった。年をとれば、自分の息子ほどの年齢の上司が来ることもあり、現場の仕事に習熟している自分は便利な存在であるが、何一つ決めることはできない立場であり続ける。
 しかし、これまで、男性が正社員として採用されると、少しずつ仕事に習熟しながら少しずつ責任が重くなっていく、というコースが用意されていた。なだらかな道ではないかもしれないが、一定の方向性が決まっていた。新人を迎えれば先輩として、一つ昇進すれば上司として、責任と給与がついてきた。自ずと心構えも出来ていく。もちろん、言うほどたやすくないのはわかっているが、ある方向性は見えていたはずだ。

 だから、上司の立場から言うと、職場では女性は扱いにくい。個人的な感情レベルでものを考える。責任を取る気ははなからないが、権利意識だけは強い。こういう人たちの前では、職場の指示命令系統など意味がない。「権力」は悪いと思っているから、上司の指示すらきかない。それで、組織的な混乱を招く。職場の機能不全を招く。
 もちろん、女性達自身に責任を帰するよりも、女性に対して「気配り」や「和み」や「職場の飾り」のような役割しか期待せずに、真剣に働く人としての訓練機会を怠ってきた社会的構造と意識の問題として考える方が妥当だろう。
 それで、女はダメになったのだ。職場に出ると、不自然なほどにいたわられ大事にされるか、過酷なほどに冷遇されるかのどちかだ。当たり前の労働者としての扱いを受けることなく来ている。

 職場の一人ひとりのモラールを高めるのに、今更、何が要るのだろう? モラールも高まらず、社会人として鍛錬もされず、ただただ小さな職場内で人間関係のいざこざに神経をすり減らして心療内科にかかる女性が増え続けるのは、ほんとうに生産的でない、と思うのだが。





他人の主観

2012-07-17 23:30:55 | 日々の雑感
 相変わらず、他人が、私も無関係でない事件についてとやかくネット上で書いているのを読むと、(読む気はないのだが、たまに、他のことのついでに見てしまうことがある)、本当にうんざりする。これが、他の人のことだと気にもならずに読み捨ててしまうのだろうが、なにしろ、自分のことが書かれているのだから、甚だ気分が悪い。それも不正確な表現であったりすると、ざわざわする。他人事だとよかったのだが、渦中の人にされてしまったからね。

 某行政施設のトップ管理職(嘗ての私のこと)が長期の病気休職をし、長期にわたって管理職が不在であった、と書かれていた。これでは、私が病気で休んでいたせいで、管理職が不在だったみたいだ。
 私が退職届けを出したのは、2月半ば頃。実際に休職したのは2月の下旬。3月末付で退職した。その後1年間、確かに管理職は不在だった。が、私はもう退職しているのであって、私が病気療養休暇をとったのは、一ヶ月余だ。私が休暇をとっていたので、管理職が長期不在だったのではない。私の後任が見つからなかったのだ。
 私自身は、前年の夏に、理事長と副理事長に辞意を表明し、後の体制について相談していたが、辞められると困る二人は、その後も無視し続けた。私が業を煮やして、12月の臨時理事会で、辞意を表明すると決めたときは、理事長は「今は困る」と、すごい剣幕で制止した。そして、なかなか辞意が認められず、せっぱ詰まって電話で受諾を取り付けたのが2月に入ってからだったのだ。もう、からだが有無を言わせぬ状態だった。立っていられないほど、私は衰弱していた。尤も、心身症だと思いこんでいたので、入院したのは精神神経科だったし、ストレスさえなくなれば回復すると、まだ自分でも思いこんでいた。退職して半年経っても回復しないので、とうとう自分で専門医を受診して、癌がわかった。もう、早期癌ではなかった。

 この、ネット上で相変わらず他人を責め続ける人を見ていると、ほんとうに、どこまで他人の痛みに鈍感なのだろうと思う。もちろん、私を誹謗中傷したことでは、大きな騒動になり、迂闊に私をターゲットにはしなくなったが、人を責める口吻は変わらない。よくよく誰かを責めるのが好きな人たちなのだ。

 が、それらを何気なく読んでいる人の中には、私の友人もいる。大して気にもしていない。他人のことは、それほど気にならないものなのだろう。

 人の痛みは、ほんとうにわからない。私もたぶんそのようなことであるのだろう。この事件では、自分が巻き込まれ、自分自身が誹謗中傷され、はらわたが煮えくりかえる思いをしたが、きっと自分のことでなかったら、私も友人達と同じことなのだろうと思う。

 そして、他人の思い込みを変えることはできない。日にちのずれも、起こったことの記憶も、解釈も、私から見ると奇妙な不整合を起こしているが、その人にとっての真実なのだろう。

 私の主観と他人の主観はずれている。日にちや場所はまだ証明の手だてがあるが、解釈となると、「真理」などには到達できない。私の主観的観察と、私以外の人の主観的観察があるばかりだ。そのずれが明らかになる時、自分が絶対正しい、と思える人は強い。決して譲らない。そして、他人との見解が異なることに対して、その他人の非難を始める。口を極めて罵り、相手に改心を迫る。もう、こうなると手がつけられない。「そういう考え方もあるかもしれない」と思う方が負ける。だだっ子が勝つのだ。

 私たちの間の事実は、常に互いの主観と主観で成り立っている。間主観的な認識枠組みとでも言おうか、そういう了解事項がある。しかし、それは実はおそろしくすれ違っているのではないかという思いがすることがある。これは昔からで、それはむしろカフカ的世界の話ではあるから、今回の出来事と同じレベルではないかもしれないが、しかし地続きの感じはする。

 

 


めんどくさい事

2012-07-15 10:38:23 | 日々の雑感
 なるべく平易な言葉で、写真を主にしたブログを、もう一つ契約している別のプロバイダーのところで書いている。で、そこはたまにコメントが入る。

 ふと、気づいたことがある。特にSNSのオフ会で知り合った年上の方に多い傾向だが、こちらが「悩んでいる」とか、「人生とは」とか、「正義とは」というようなフレーズを入れて書いた文章には、すわとばかりに書き込む人がいる、ということだ。どうも私の「未熟」さに自分の「悟り」を開いた人生観を披露したくなるらしい。で、自分も思春期の頃は悩んだがそれなりに艱難辛苦を重ねて今の境地に至った、だの、あなたは「純粋」だのとおっしゃる。(本当は、未熟とか、青臭い、とか言いたいのを「純粋」という言葉で代用しているのはよくわかる。)

 言葉は「人生」とか「正義」とか、その人達も用いる言葉なので、悟っていると自分で考えてそれ以上の問いは立てないタイプの人が、書き込んで来るのだが、実はレスがめんどくさい。思考停止している人の人生論は、何も次に生み出されるものがないので、こちらの思考を刺激してこないので、「あ~、めんどくさ!」となる。

 が、こういう人こそが、反応してくるのよね~。思考停止しちゃってる人の人生哲学を聞かされるのは、まことにめんどくさい。こういう人を張り切らせる私も私なのだが、勘弁してほしいなぁ、、、。だから、マジョリティの世界に顔を出すとろくなことはないのだな。

某SNSのオフ会

2012-07-12 08:27:52 | 日々の雑感
 先日また、某SNSのオフ会に行ってみた。この度のは女性二人が主催しているサークルで、この二人がなかなか良いコンビで上手に運営をしている。一度ハイキングに参加して、感じの良い女性達が多かったのと、「また是非」と、程よいお誘いもあったので、今度は飲み会だが参加してみた。

 この二人の女性はやっぱり感じが良く、全く気負わずにリーダーシップをとれるバランスのとれた羨ましいようなキャラ。この自然なリーダーシップは、一体どこからくるのだろうと思っていたが、よく考えれば、女性が昔から期待されてきた「お母さん」的な役割に沿っているのかもしれない。男性リーダーのタイプは、力強い統率型が多いが、こちらの女性はふんわりと世話を焼きながら、皆を動かす。それが板について、見事だ。

 私のような伝統的な役割にはまらないタイプは、まことに中途半端で生き難い。男性役割に期待される力で引っ張る統率など間違っても出来ないし、お母さんのような役割に徹するのもそういう雰囲気を身につけるのも、逆立ちしてもできない。(逆立ちも出来ないけど、、、。)

 この二人の女性のキャラに興味があったが、ここまで考えてきて、今頃、あれは「お母さん」だったんだと気づく私も何だが、、、。

 つまり、一般の期待に添うことができれば、「自然体」というものに見える、ということだ。人々の違和感もなく、本人も一定の型を踏めばよいので、無理がない。見慣れた風景、なじんだ価値観の中で、実に心地よくスムースに流れる。

 この二人の謎に興味があって(謎だと感じていたこと自体が私のずれぶりなのだが)参加したが、初めて出会う人も多い。男の人たちは、結局、私が知らないタイプの、だけど、この社会にはおそらく一番多いだろうタイプの(つまり、これまでの役割になじんだ)人たちが多いようだった。1940年前後の生まれの人たちは、酒が入ると上機嫌で手拍子と歌が出てくるなど、絵に描いたような宴会風景を展開してくれる。現役を退いた年配の男性達は、おそらく年金もそこそこあって、こうした集まりを楽しみに生きているのだろう。

 昔、某有名な女性社会学者が、「マジョリティの現実」に興味がある、と言っていた。その頃、私はとてもじゃないが、マジョリティに目を向けるような余裕がなく、自分がかかえているマイノリティの、極めて個人的な苦悩に溺れていた。が、今、「マジョリティの現実」を知りたくて、こういうSNSのオフ会などに出てみる。
 まずは、この自分の変化を喜びたい。いつの間にか私を苦しめていた個人的な苦悩から脱けだしたのだ。否、自分の苦悩を個人的なものとしてではなく、社会的文脈で読み解けるようになったので、クリアしてしまったのだろう。自分の苦悩の正体が見えたと言おうか。そうして、今度はマジョリティの現実に参与観察のような気分で参加している。

 そして、知るのだ。マジョリティの現実は堅牢で、特にその伝統的な価値観と意識は、そうそう変わらない、ということだ。ヘテロな価値観が貫通していて、ジェンダーを相対化する意識など皆無で、恬として恥じないで、人生の終盤を幸福な気分で生きようとしている人たち。
 マジョリティの現実を知るために、今後も時々は参加すると思う。さりげなく「お母さん」的リーダーをしてくれる女性たちのメンタリティにもう少し近づいてみたいので、知らないことを知る喜びに近いので。

 それにしても、このマジョリティの現実を読み解く事への興味がわくのが遅すぎた。これほど、わくわくすることだったのに。人生の前半を自分の苦悩に使い果たしてしまった。無念だ。