徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

書評:福島菊次郎著、『ヒロシマの嘘(写らなかった戦後)』

2015年12月17日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

引き続き読書感想文です。今回の対象は小説ではなく、ドキュメンタリー。
福島菊次郎氏が今年9月24日に亡くなられ、それを機に彼の著書がネットで少し話題になっていたので興味を惹かれ読んでみた次第です。
写らなかった戦後シリーズ第1弾の『ヒロシマの嘘』は2003年刊行です。福島氏が反体制写真家として活躍されていた期間は、私が生まれる前あるいは若過ぎて彼のテーマに興味を持たなかった時代(1960-80年代)のことで、また90年初頭からドイツ在住のため、彼のことを知ったのはお恥ずかしながら、彼の訃報が初めてでした。

さて、本の内容ですが、目次は以下の通りです。
1.ピカドン、ある被曝家庭の崩壊二〇年の記録
2.原爆に奪われた青春
3.四人の小頭症と被爆二世・昭男ちゃんの死
4.被爆二世たちの戦い
5.広島取材四〇年
6.広島西部第一〇部隊、僕の二等兵物語
7.僕と天皇裕仁
8.原爆と原発
9.カメラは歴史の証言者になれるか

「写らなかった」と題されているだけあって、福島氏の写真は表紙の一枚を除き一切掲載されていません。彼が世に出した写真たちの裏側の物語、世に出せなかった写真たちの話、あるいは「写せなかった」情景や人物たちの物語やその時の福島氏の心情が細やかに描写されています。
例えば第1章の崩壊した被曝家庭中村家のエピソードですが、被写体となっている被爆者家族の苦しみがあまりにも悲惨過ぎて撮影するのに躊躇してしまったカメラマンの著者の葛藤も描写されていて、読むのも辛いです。そしてここでも全然助けにならないどころか犠牲者家族を更に追い詰めていく生活保護制度とそうした行政に迎合し、被爆者たちを蔑視する民生委員たちの感受性の欠落が生活保護台帳の引用によって明らかにされています。漁村に住み、もともと漁師として生計を立てていた家庭の食卓に魚があることをまるで悪いことのように記録報告する民生委員の越権行為。家出した長男の収入分を生活保護から差し引き、返還要求をしたり、飼い犬は生活保護受給者に相応しくないと処分を「指導」するなど(表紙の写真はその処分の決まった犬と最後の時を過ごす中村さん)、原爆症で苦しみ、行商で家計を支えていた奥さんに先立たれ、6人の幼子を抱えた被曝貧困家庭に対してなんと冷酷な処遇でしょうか。
第2章では3人の被曝女性たちに触れています。お1人はブラジルに移住し、婚約するも、原爆症を発症し、治療のために帰国し、結局婚約解消してお亡くなりになった女性。もう一人は、顔に目立つケロイドがあり、「私には強姦してくれる男もいないの」と嘆く女性。もう一人は原爆孤児として施設で育ち、結婚せずに「広島妻」として不倫の恋に生きた女性。三者三様の人生ですが、三人の中ではケロイドもなく原爆症も発症しなかった「広島妻」の女性が一番幸運だったと言えるでしょう。
第3章・第4章で描かれている被爆二世たちもそうですが、本人の与り知らぬことで苦しんでいる人たちに対して、そうでない「普通の人」たちの差別はすさまじく、日本人のムラ社会的差別意識に嫌悪感を抱かざるを得ません。
第5章で言及されている、現在は広島平和公園の緑地となっている基町の原爆スラムに対する行政差別、朝鮮人被爆者を無視し続ける行政など、南アフリカのアパルトヘイトを想起するような行政の在り方は噴飯ものです。被爆者たちを調べるだけ調べて、治療しない米軍機関ABCCとそれに迎合する属国日本の役人たち。福島氏はこのような広島の闇をつまびらかにしつつ、「平和都市ヒロシマ」がいかに虚構であるかを証明しています。

第6章・7章は福島氏の軍国青年だった時代、軍隊での体験、終戦、天皇行幸の体験と天皇制に対する考え方が記されています。軍隊での体験談はともかく、あからさまな天皇制批判を含む、読む人が読めば「不敬罪!非国民!」と騒ぎだしそうな内容がよく日本で出版できたものだと少し感心しています。
『初めて見た現実の天皇は、まさに地に落ちた偶像で、目を覆いたくなるほどみすぼらしかった。一瞬ギョッとして、「こんな男のために死のうとしていたのか」と、子どものころからの夢を破られて愕然とし、こんな男が何百万もの国民を殺したのかと、殺す者と、殺される者の不条理に思わず激しい怒りが込み上げた。』(295ページ)
こうした失望や怒りは福島氏のように軍国主義教育を受けて育ち、実際に軍隊に入って、自殺部隊に投げ込まれて死の恐怖を味わいながら終戦を迎え、そして天皇の行幸を体験した人でなければ持ちえないものでしょう。私には想像もできません。
彼は一部の人たちに聖書のようにあがめられている日本国憲法にも疑問をぶつけています。まず憲法の序文に「朕は日本国民の総意に基づいて、日本国建設の礎が、定まるに至ったことを深く喜び云々」とあることに対して。「国民の総意」とは何なのか。天皇制の継続に反対した多くの戦争犠牲者たちの声は丸無視されています。
そして主権在民の憲法の冒頭を戦争責任のある天皇条項(第一-八条)が占める矛盾も指摘しています。憲法第九条が早くから自衛隊の設立によって形骸化しているのは言うまでもありません。

第8章の原爆と原発の闇も示唆に富んでいます。特に2011年3月に起きてしまった福島原発事故とそれに対する国の対応を鑑みると、福島菊次郎氏の指摘がいかに正しかったか理解できます。
『二名の死者を出したJCO事故で周辺住民が放射能障害を訴えているのに、国と会社が放置しているドキュメントを二〇〇二年九月六日のNHKで放映していたが、原発事故が起きたら国民は確実に同じ運命に晒されることになろう。同日の全国紙は、日本被団協が原爆症認定の二度目の集団申請をしたと報じた。四〇万被爆者のうち原爆症と認定されたものはわずか〇.八%である。半世紀前の悲劇をいまだに放置している国が、原発事故が起きた時被爆者を放置するのは確実である。覚悟しておくべきであろう。』(366ページ)。

国は「放射能の影響、考えられない」キャンペーンを目下実施中です。広島・長崎の被爆者に対するABCCさながらスクリーニングはするが根本的な解決となるはずの汚染地からの避難を住民に許さない姿勢です。これでさぞかし被曝障害に関する貴重かつ膨大なデータが集まることでしょう。ABCCで集積された情報はアメリカに独占されて、日本は被爆国でありながら被曝障害の研究に後れを取ってしまいましたが、今度はスリーマイルでもなく、チェルノブイリでもなく、日本国内の日本企業が運営する原発で起きた事故なので、情報独占も隠蔽も日本政府のやりたい放題にできます。折よく秘密保護法も施行されたことですし、フクシマをはじめとする汚染地域の住民たちはお気の毒ですが、広島・長崎の被爆者たち同様国によって救済されることなく、野ざらしにされ、その上更なる被曝を余儀なくされ、膨大な人体実験のモルモットにされるのでしょう。

同時に現在、安倍政権で愛国主義の復活が進められています。「非国民」呼ばわりもネットには溢れています。
『家庭も学校も社会も環境も崩壊してしまったこの国の何を愛せと言うのか。政治が正道を歩み、国民を守っていれば国民は誰に命令されなくてもこの国を愛し、この国を守るだろう。』(309ページ)という指摘の正しさをかみしめるばかりです。