WEBマスターの読書日記

「木戸さんがこんなマメだったなんて」と大方の予想を裏切って続いているブログ。本、映画、感じたことなどをメモしています。

『小津安二郎 美食三昧』(著者:貴田 庄)

2011-03-27 16:56:21 | 本と雑誌
小津安二郎美食三昧 関東編 (朝日文庫) 小津安二郎美食三昧 関東編 (朝日文庫)
価格:¥ 714(税込)
発売日:2011-03-18

「美食三昧」というタイトルだが、軽佻浮薄なグルメ本ではない。小津という映画の神様がこよなく愛した、いかにも日本らしい佳き店のオンパレードである。


料理人だって人の子、体調が悪い日だって気分が優れない日だってあるだろうに、毎日毎日、客をうならせるおいしい料理を提供し続ける。素材、味付け、お店の調度、清潔さ、ぜんぶに細やかに気をつかう。運営を維持できるだけの、節度ある価格を設定する。これぞ世界が賞賛する日本人の美点が凝縮されているではないか。しかも、それが何十年にわたって続くなんて、奇跡みたいな存在ではないだろうか。(小津監督が亡くなったのは昭和38年。この本で紹介されたお店は今でも営業している)


ところで私はまったくグルメではないが、何軒か知っているところが入っていて嬉しかった。最近は特に、家族や親しい人と、こじんまりとした高くないお店でおいしい料理を食べる時間がとても大切。


『アンナ・カレーニナ(1)』(著者:トルストイ 訳:望月 哲男)

2011-03-20 16:06:05 | 本と雑誌
アンナ・カレーニナ〈1〉 (光文社古典新訳文庫) アンナ・カレーニナ〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
価格:¥ 1,020(税込)
発売日:2008-07-10

高い空で鳥がなき、花の香りがする。今は、春のきざしがいつも以上に嬉しい。

初めての子を産後たった一日でなくして、激しいショックを受けた両親は、それから8年たって再び女の子がうまれたとき、「春が参る」と名づけてくれた。女の子と考えるとまたすぐに逝ってしまいそうだという不安から(それだけでも親の悲しみの深さがわかる)、5歳上の兄のときのように、小さい頃から男の子みたいに育てられた記憶がある。お洋服はブルーやグリーン、自分のことは「ぼく」、友達がみんなピアノやバレエを習う中で、なぜか書道。


その根っこがあってたぶん、中性的になってしまったのか、性格上、女性らしさの長所も短所ももっていない。(と思う) 服を買うのは即断、長電話や要点をえない話が嫌い、人間関係がベタベタするのも嫌い。(それは女性らしさとは関係ないか)
それで「アンナ・カレーニナ」を読み返して、アンナの過剰な女っぽさに改めてびっくりするのだ(笑)。壮大なオーケストラの演奏にもたとえられるトルストイ作品の、まだ序章、導入部ともいうべき一巻だが、それにしても突っ走ること。最後がわかっているだけにドキドキしながら読む。

それから今回の訳は、より「生き生きと、歌うように」言葉がつややかに飛び跳ねている。素晴らしいです。


『嘔吐』(著者:ジャン-ポール・サルトル 訳:鈴木 道彦)

2011-03-19 20:28:00 | 本と雑誌

嘔吐 新訳 嘔吐 新訳
価格:¥ 1,995(税込)
発売日:2010-07-20
サルトルの代表作。存在とそれに対比する観念、後者は作られるものであるが、前者はただそこに偶然に、でも強烈な存在感をもってあるもの。軽いPTSDなのか、体がゆれているように感じる中で、くらくらするような酩酊をおぼえながら読む。新訳はやっぱり違う。


中学校に入って、おこずかいを貰いはじめるとすぐに、それを貯めて好きな本を買う楽しみをおぼえた。今でも忘れないが、そうして自分で初めて買ったハードカバーが「ボーヴォワール~ある恋の物語」で、文字通り、衝撃だった。夢中になった。そう、今思えばとても不幸なことに、恋愛とは何たるかを理解できない年齢でサルトルとボーヴォワールを知ってしまったのである。


籍もいれない、お互いに別の恋人がいるときもある、でも、生涯における唯一無二の関係。知性のありようが一緒だから。書いている著作、考えている思想を何でも話し、いつでも議論することで彼らのイデーはさらに研ぎ澄まされた。時には相手に距離をおくこともあった。でも、死ぬまでずっとお互いを尊重し続けた、特にボーヴォワールは、相手に対してたえず女性であり続けた。こんな麻薬みたいな愛を知ってしまったら、どうしてそれに憧れずにいられる?


ということで、私は、友達が学ランの男子にバレンタインのチョコを渡しに行く気持ちがさっぱりわからず、付き合ったの離れたのという相談になんら有効なアドバイスができず、「あの、話があるんだけど」と言ってくれる男の子に、その場で「何?」と聞いてはせっかくの雰囲気をぶちこわし、初恋は20代の出会いまでやってこなかった。思えばひどい話だ(笑)


『音と言葉』(著者:フルトヴェングラー 訳:芳賀 檀)

2011-03-18 20:51:14 | 本と雑誌
音と言葉 (新潮文庫) 音と言葉 (新潮文庫)
価格:¥ 500(税込)
発売日:1981-03

未曾有の大災害から1週間がたつ。今日は、地震発生時間に1分間の黙祷をささげた。いまだ余震がくるたびに、オフィスビルの激しい揺れと遠くに見えた火柱を思い出してこわくなる。被災地の方のつらさを思うと胸が一杯になる。日々できることからと、節電、募金、日用品の節約にはげんでいるが、もっとできることはないのかと歯がゆくなる。


フルトヴェングラーが、音楽を生命そのものの芸術、有機物と定義するのは、曲がそれ自体でくりかえし新しいものを生み出していく力をもっているからだ。それは、教養や知識としての、趣味としての音楽ではない。古典作品は壮絶な環境で書かれたものも少なくない。(たとえばベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番は、砲弾がとんでくるので避難した地下室の中)


五線譜をひきながらスケッチされる、ベートーヴェン作品の神のような完璧さ。(というのは、その源泉が、すべて彼自身の中から汲み取られたという意味で)ニーチェの、ワーグナーに対する極端な愛。ワーグナーの巨大な感受性と構成力。そしてあまい思慕をこめて、特別に語られるブルックナー。今の音楽家、つまり楽譜という印刷物を通してしか受け取れない、後世の演奏者や指揮者に対する作品解釈への論考。どのページも、論理的な正しさと言葉の美しさが、より深いところで結ばれている。


この全欧を制覇した天才の理解力が作品に向けられたときの凄まじさを想像しながら、曲がなぜ創られたのか、作曲家がどんなに激しい思いを持ち続けていたのかと考える。それは今、意義のないことではないと思いながら。


『失われた時を求めて〈5〉第三篇 ゲルマントの方〈1〉』(著者:マルセル・プルースト 訳:鈴木 道彦)

2011-03-06 18:46:34 | 本と雑誌
失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントの方 I (集英社文庫ヘリテージシリーズ) 失われた時を求めて 5  (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
価格:¥ 1,300(税込)
発売日:2006-08-18

火曜日の晩、新橋でワインを飲んだときに食べたキャベツのアーリオ・オーリオがあまりに美味しく、家でつくってみた。キャベツを一口大に切って、オリーブオイルとアンチョビ、にんにく、とうがらしを細かく刻んで一緒に炒めるだけ。これは夏、ビールのおつまみにいいかも。休日はのんびり過ごして心身ともにリフレッシュ。


1巻から順に、語り手の幼年時代、番外編のスワン氏の恋、スワン氏の娘への恋、夏のバルベックでの少女たちへの恋、と来て、5巻はついに、社交界の花形、ゲルマント公爵夫人への恋が描かれる。社交界はたぶん、プルーストにとって大きなテーマのひとつ。堰をきったようにその舞台や人々が活き活きと表現される。それにしても物語と考察の広げ方(deplier)、たたみ方(plier)のうまいこと。あらすじを描く、それをたたんで鋭く切り取るような感情への考察、それをまたたたんで物語へと戻る、この緩急のつけ方が絶妙。


一昨年、読み始めたときには、1年に2冊ノルマで7年がかりと思ったのだが、去年から終わるとすぐ次の巻を開きたくなって、すっかりハマッてしまった。ひとつ残念なのは、これを読んでいるかぎり同じ訳者の「嘔吐」を読み進められないこと。(頭の中で、まじってしまうのだ)