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佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

低線量被ばく_揺らぐ国際基準

2011-12-30 | さよなら原発

一昨夜のNHK総合TV 「追跡!真相ファイル」には驚いた。

 低線量被爆の国際基準がいかにいい加減なものなのかが、あまりにもはっきりと示されていたから。

 

日本政府が子どもの年間許容量を20ミリシーベルトにすると発表したのは、たしか4月だったと思う。

国内外の専門家から驚きと批判の声が上がり、翌月、1ミリシーベルト以下を目指すと修正した。

が、では、その1msvなら安心なのか?それはなかなか分かりづらい。

私たち素人には判断する知識もないし、専門家の意見もバラバラだし、

一方政府は1msvは科学的根拠に基づいた国際基準なので信用できると胸を張るので、

不安を感じつつも、わたしたち一般市民はなかなか反論できなかった。

 

ところが・・・そこには科学的根拠など全くなかった。

その国際機関 ICRP の事務局長自らが認め、

また、その基準を策定した当時の委員の有力者の言葉なので間違いはないだろう。

 

ICRPの本部(カナダのオタワ)事務局長クリストファー・クレメント氏によると、

現在の数値の根拠となったのは、ヒロシマ・ナガサキの被爆者のデータだったが、

それが1980年代後半になってデータの間違いが見つかった。

1000msvと書かれていたものが、実際は500msvだった。

ということは、ICRPが示していた癌死亡リスクは倍に引き上げられねばならず、

被爆許容量は半分に修正されねばならなかったのに、そうはならなかった

なぜか?

 

その疑問に答えたのは、当時の基準策定委員だったチャールズ・マインホールド氏(米)。

悪びれもせず笑顔で彼が語るには、

「私は他の米国の委員と協力してリスクの引き上げ(許容量の引き下げ)に強く抵抗しました」

私たちは科学的根拠に基づいて決めたのではありません。それは政治的判断でした」と。

当時の委員15人中13人が核関連や原発関連の関係者や政治家。

リスクを引き上げれば、その安全対策に莫大なお金がかかる。

(当時の予測資料では3億6900万ドルとなっていた)

結局彼らは団結して、リスクの引き上げを阻止しただけでなく、

同時に、放射線業務従事者のリスクをさらに20%も引き下げるのに成功した!

(同業務者の年間許容量を20mcvとした)

 

今も、ICRPは、核関連企業やその政治部門に関わる人たちの意向で動いているのではないか?

2010年度の予算617,000ドルのうちの40%250,000ドルを米国が出していた。

ちなみに日本は4位で、45,000ドル出していたとのこと。

 

世界の警察を自認し、他国は許せないが自国の核兵器は必要な抑止力として開発を続け、

原発も一時期はどんどん増やしていったアメリカ。

その政策をサポートするために都合よく決められていった「国際基準」

そのデタラメな基準値のおかげで病に苦しみ、死んでいったアメリカ国民の存在。

 

イリノイ州、シカゴ郊外。3つの原発をかかえ、地域の水が汚染された。

しかし、そのトリチウムの量は基準値以下として放置され、100人の子どもたちがガンで亡くなった。

その子どもたちの名前が石畳に刻まれていた。

 

幼いころ脳腫瘍を患い、今もその後遺症で苦しんでいるセーラさん。

18歳の彼女の身長は140cmで、右手がうまく動かない。

小学生のように可愛い彼女が、震える声で言った。

科学者には、私たちが単なる統計の数値でないことを知ってほしい。

私たちは生きています。

空気と水をきれいにして下さい。

たくさんの苦しみを味わいました。

誰にも同じ思いをしてほしくありません。

 

日本の原子力安全委員会のエライ人たち、

文部科学省のエライ人たち、

経済産業省のエライ人たち、

最もエライ内閣総理大臣の野田さん、

そして、すべての電力会社の社長さんたち、

どうぞ、セーラさんの言葉を目に止め、耳に止め、心に止めてください。

 

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お墓掃除

2011-12-29 | 雑感

今日は穏やかな小春日和。

午後からお墓掃除に出かけました。

いつものように途中でお花を買って・・

そのお花は造花です。

初めてこちらの墓苑に行った時、すべて造花が飾られているのにビックリしましたが、

生花や果物などのお供え物はお持ち帰りくださいとの張り紙が有り、

そのようなナマモノは鳥がつついたりしてお墓を荒らすからとの理由を聞いて納得しました。

 

今はどこの霊園でもそうなのでしょうか。

確かに管理する方のことを考えると…わかる気はします。

5000基以上もあるお墓にすべて生花が供えられていたら、

お水をあげたり、枯れたら捨てたり、確かにお世話がたいへんでしょう。

でも、何もないのは寂しい…そこで誰もが造花を供えるようになったのでしょう。

私もその慣習にならって毎回造花を供えていますが…

 

ふと遠い昔の記憶が蘇ってきました。

小さい頃、私はお墓掃除が大好きでした。

いえ、家族や親せきのお墓ではありません。

全く見ず知らずの人の・・

 

当時私が住んでいた家は町営住宅で、その住宅地を「桜ケ丘」と言いました。

隣の住宅地の町名は「旭ケ丘」と言い、両者の間に小さな墓地がありました。

私の住んでる桜ケ丘には店は1軒もなく、パンやトーフやお魚などのお店は、みな旭ヶ丘にあったので、

買い物を頼まれると、必ずその墓地の傍の道を通って行かねばなりません。

臆病者だった私は、そこを通るのが怖くて、昼間でも走って通り過ぎ、

夜はぜったい近寄れませんでした。

 

ところが、ある夏の日、近所の年下の女の子たちと3人で遊んでいたら、

あんまり暑くて、一人の子が気分が悪くなって墓地の木陰に座り込んでしまいました。

そこは本当に涼しい風が吹いていて、近くにあった井戸水でハンカチを濡らし、冷やしてあげたりするうちに、彼女はすっかり元気になっていきました。

そして、その子がありがとうといった時、私は何となく照れ臭くなって、

「いずみちゃんが元気になったのは、お墓の仏様たちが守ってくれたからよ!」と口走ってしまい、

その日から、私たち3人のお墓掃除遊びが始まったのです。

 

ススキの穂のような草を集めて束ねホーキにみたて、それで墓石の土埃を払い、

ハンカチを濡らして雑巾がけ、仕上げは野原で摘んだ花を飾って、3人そろって手を合わせパンパン。

野原で花が調達できなかったときは、自宅の庭からチョン切ってきたり、それも足りないときは、

なんと!たくさんの花が供えられているお墓から失敬したりして・・・

どこの誰かも知らない仏様が喜んでくれてるような気がして、

それまでお墓が怖いと思っていた気持は、すっかり消えてしまっていました。

 

数日後、庭の花をしょっちゅう持ち出していることを母に叱られた私は、

お墓掃除をやってることを白状しました。

花を無断で切りとったのは悪いけど、でも、いいことに使ってるんだから許してもらえるはず、

いや、褒めてもらえるかもしれない…なんて内心思っていたのです。

ところが、母は褒めるどころか、すごい剣幕で叱りました。

よそのお墓には近づいてはいけない、

お墓には死んだ人の魂がたくさん眠っている、

その眠りを邪魔することになるので、遊び半分に足を踏み入れてはいけないと強く言われました。

それだけでなく、中には成仏できない霊魂もいる、そういうのに乗り移られたら大変なことになる、

と悪霊の昔話まで付けくわえたものですから、

臆病者の私は震えあがり、以後決してそこで遊ぶことはなくなりましたし、

お墓のそばを通る時は、以前以上に駆け足で通り抜け、

「私に近寄らないで。私は親切でも優しくもありません。だからどうぞ近づかないで下さい」

と心の中で念じていました。

 

我ながら本当に単純な子どもでした。

この話、母は覚えているでしょうか?

もう訊く機会はなくなってしまいましたが… 

 

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今年は始まりの年だった

2011-12-28 | さよなら原発

友人が「ぬまゆのブログ」というのを紹介してくれました。

「ぬまゆ」という意味はわかりませんが、

ぬまゆさんは南相馬市在住の女性で元高校教師で、被災犬を預かるボランティアをしている方です。

そして、あきらかに被爆者です。

下痢、頭痛、めまい、出血、脱毛等々に悩まされる福島原発事故の被害者です。

タイトルの下には「8月6日 から ブログを始めました」という一言メッセージが添えられています。

記事を読んで、その生々しさに圧倒されました。

皆さんもどうぞご覧になって下さい。

私たちの知らない恐ろしい現実が綴られています。

テレビが伝えない、伝えるべき事実が語られています。

http://blogs.yahoo.co.jp/kmasa924/28532025.html

http://blogs.yahoo.co.jp/kmasa924/28563665.html

http://blogs.yahoo.co.jp/kmasa924/28583711.html 

http://blogs.yahoo.co.jp/kmasa924/28593200.html

 

ぬまゆさんには子どもはいませんが、たくさんの「教え子」がいます。
その一人は今も原発の敷地内で働いています。
また、放射線量が高い地域の学校に通う子どもたちの将来が気がかりでなりません。
ぬまゆさんのブログを読んで、あらためてフクシマの今を思いました。
年末の特集記事や特番の中で、3・11は度々登場しますが、それは心なしか既に歴史の史実のような印象を与えています。
が、そんな生易しいものでは決してなく、今がこれから長く続く核被害の始まりなのだと実感しました。


昨日届いた「うたごえ新聞」には、こんな詩が掲載されていました。
 
 
 
原発はいらない
               瀬原徹郎
 
 
誰が何をしたの
誰が何をしなかったの
あやつれぬ原子の力
その悪魔は人類を蝕む
海に生きるすべての命
この地球に原発はいらない
この浜辺に原発はいらない
 
私が何をしたの
私が何をしなかったの
世代を超えてふりそそぐ
その恐怖をすぐに止めて
空に羽ばたく鳥の行方
この地球に原発はいらない
ここ大空に原発はいらない
 
あなたは何をするの
あなたは何ができるの
胸の痛みを願いに変える
その涙で未来に進む
陸に広がる草木の連なり
この地球に原発はいらない
この大地に原発はいらない

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またしても・・・

2011-12-27 | 石木ダム

沖縄米軍基地移設問題では少なくとも「県外」と言っておきながら、「やっぱり辺野古にお願い!」と言い、

子ども手当てや高速道路無料化も、みんな計画倒れ。

次々に破られていくマニフェスト。

そして、八ッ場ダムも・・・

 

「コンクリートから人へ」とかっこいいキャッチフレーズに私たちは大いに期待してしまった。

民主党ならやってくれるかも・・

やっと日本もチェンジするかも・・

が、一年も経たないうちに鳩山総理退陣・・

お坊ちゃんだからね~無理だったのかな~

しかし、草の根から這い上がってきた菅さんも、脱原発を主張した以外は全くダメだった・・

お、野田さんはちょっと違うかな?

政策通で、理論派で、リーダーシップも有り、その上温かな人柄のよう・・

民主党代表選挙の時の演説を聴いていて、そう感じた。

だのに・・

またしても裏切られました!

私って相変わらず人を見る目がないのね~

 

民主党は2年前の夏、衆院選のマニフェストで八ッ場ダムを名指しして中止すると言ったのに、
昨日、政府は2012年度予算案に本体工事費を計上し、工事再開を明言した。

沖縄問題は相手(米国)の意向もあって思い通りにならなかったかもしれない、

子ども手当てや高速道路無料化は、思ったほど埋蔵金がなくて財源不足だったのかもしれない。

だが、八ッ場ダムに関しては、民主党が腹をくくれば達成できたはず。

公約の重大さがわかっていれば、官僚の意のままになることはなかったはず。

あらゆる予算を削減し、震災復興のための財源を生みださねばならないと凛として訴えていたのに、

野田政権は八ッ場ダムなど、必要性が疑問視されている大型公共事業を次々に認めていくようだ。

長崎県は新幹線についで、石木ダムも認めてもらおうと期待に胸を膨らませていることだろう。

私たちの声はどこに託せばいいのだろう・・・



京都新聞社説 2011年12月25日

八ツ場ダム再開 古い河川行政に戻すな

無駄な公共事業の代表として、民主党が2009年の衆院選マニフェスト(政権公約)で建設中止を掲げた八ツ場(やんば)ダム(群馬県)の建設工事再開が決まった。

「コンクリートから人へ」の理念はどうしたのか。あまりに明白な「変節」にあきれるしかない。

前田武志国土交通相は「マニフェスト通りの結果が得られなかったのは残念だが、苦渋の決断をした。代替案のないまま中断するのはよくない」と説明した。

すでに立ち退きを強いられた住民や流域6都県の反発は当初から予想されていたことだ。ダムに代わる地元振興策と治水策を示し、説得することこそ、政権党がなすべき一貫性のある態度だ。

2年前に国交相として建設中止を宣言した前原誠司党政調会長が頑強に抵抗したが、最後は決定を政府に委ねて容認した。筋を通したかに見える前原氏だが、自らが決めた事業検証の手順を逆手にとられる形で建設再開に道を開いたことは大きな失策と言えよう。

前原氏が設置した有識者会議の提言を受けて実施されたダム事業の検証は、国交省が実務を担い、コストの比較に重点が置かれた。その結果、すでに着工され、追加工費が少なくて済む既存事業の多くがコスト的に有利とされ、追認されたのは自然だ。こうした官僚主導の「検証」に基づく今回の再開決定は、民主党が目指す政治主導とは程遠いはずだ。

今後の河川行政への影響も大きい。全国で見直し対象のダム事業83のうち「検証」が終わったのは八ツ場を含む20事業。中止は6カ所にとどまり、14カ所は継続となった。八ツ場を突破口に、未検証の事業についても継続方針が続出する可能性がある。

国交省による「検証」には、今本博健京都大名誉教授ら河川工学の研究者らが異議を申し立てている。水需要の減少を無視しているうえ、局地的豪雨に対する効果は未知数というわけだ。自民党政権時代の政府答弁でも八ツ場ダムの治水効果は否定されている。

こうした問題を認識していたからこそ、民主党は「脱ダム」をマニフェストに盛り込んだはずだ。公共事業は止まらない、という象徴的な意味での痛手にとどまらず、今回の決定が「治水はダムで」という古い河川行政に逆戻りさせるのろしとならないか、懸念する。

国交省は、凍結していた東京外郭環状道路(外環道)の建設工事を再開し、整備新幹線の未着工3区間の着工を認可する方針だ。これでは「コンクリートから人へ」どころではない。

これ以上、時計の針を逆回転させてはならない。さもなくば、国民が政権交代で期待を託した民主党の存在意義が消えてしまう。

http://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20111225_2.html


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安全な「しきい値」はない

2011-12-26 | さよなら原発

しきい値=一般に境界線、境目のことを指し、ある値以上で効果が現れ、それ以下では効果が現れないことをいう。いわゆるボーダーライン。

原発問題について議論する時しばしばこの「しきい値」を耳にする。

具体的な数値をネット上で見つけた。
東京大学放射線取扱者講習会テキスト(RIコース用) (2007年版) に示されたものだという。
http://d.hatena.ne.jp/Becker/20110319

一部を抜粋させて頂くと・・・

例えば部分被曝の場合、
   3000 mSvで脱毛、5000 mSvで白内障、20000 mSvで皮膚がんへ移行

全身被曝の場合、
   1000 mSvで発がん率2倍、1500 mSvで一部の人が死亡、15000 mSvで全員死亡
      
胎児への影響
   (受精9日-8週)150 mSvで奇形、(受精8-25週)200-400 mSvで精神発達遅滞

 

などと書かれていて、確かに放射線を取り扱う専門家には必要な「しきい値」だろう。

しかし、実際私たちが見聞きするのは、

「どこそこで通常以上の放射線が計測されたが、〇〇シーベルト以下のなので人体に影響はない」とか、

「この野菜に含まれているセシウムは、〇〇ベクレルで安全だ」とか、

原発推進派や政府などの安全宣言の目安のように使われてきたケースが多い。

 

 

これに対して、長崎大学客員教授の高橋眞司氏は、

安全な「しきい値」はない、核兵器と原発は究極の暴力と断罪している。

放射線の内部被爆は、たとえ低線量出会っても生命と健康に深刻な影響を及ぼすとして、その事実を解明する重要な発見ペトカウ効果」についてのわかりやすい解説を、長崎新聞に寄稿されていた。

ペトカウ効果とは「核分裂生成物の吸入または摂取による長期にわたる低レベル放射線は、人の免疫機構に不可欠な白血球の細胞膜を破壊する」というもの。

ペトカウとはカナダ人医師、エイブラム・ペトカウさんの名前。

ペトカウさんは1970年代はじめ、モデル細胞膜に様々なレベルの放射線を照射する実験を繰り返していた。

その細胞膜は、エックス線を毎分260ミリシーベルトで2時間15分間照射して破壊された。

ところが、塩化ナトリウム22の水溶液の中にモデル細胞膜を置いて実験すると、毎分0.01ミリシーベルトで11時間半照射して破壊された。

前者の総線量は合計35,000ミリシーベルト=35シーベルトで、後者のそれはわずか7ミリシーベルト、つまり5000分の1しか浴びていないのに破壊された。

実験は何回やっても同じ結果だったという。

つまり液体の中ではたとえ微弱の放射線であっても長時間照射すると細胞は破壊される。

しかも、人の体内に入った放射線は、ずっとそこに留まって周りの細胞を照射し続けることが2009年証明された。

長崎大原研病理の七篠和子助教授が撮影に成功したアルファ線は、1945年に死亡した被爆者の腎臓から出ていた。

これらの発見や成功によって、もはや私たち素人でも、放射線の危険性は理解できる。

そこに「しきい値」など有り得ない、その存在そのものがいかに危険かということが理解できる。

だからこそペトカウ効果は、ほぼ半世紀にわたって無視されてきたらしい。

 

しかし今、フクシマを経験した日本は、いえ世界中が、

この恐ろしい発見=ペトカウ効果を直視して、一刻も早く核と縁を切りたいものだ…とつくづく思う。
   


 

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心は自分のもの

2011-12-25 | 雑感

昨日、「コスタリカに平和を学ぶ会」のMLに、あるメッセージが送られてきました。

それは、10月22日に開催された「学校に自由と人権を!10・22集会」に寄せられた、作家赤川次郎さんのメッセージで、それを送ってくれた幹事のOさんの短いメッセージも合わせてご紹介します。

 


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        「心は自分のもの」        赤川次郎


「日の丸・君が代」強制の問題を取りあげた劇「歌わせたい男たち」の作者、永井愛さんと対談したときのことです。
 
イギリスで永井さんの劇を上演するという話があり、永井さんは執筆中だった「歌わせたい男たち」のあらすじを送りました。すると、先方から、「何年前の話ですか?」と訊いて来て、「今、今です」と返事をしたら、向うはびっくりして、なかなか信じてくれなかったそうです。
「イギリスだったら、全国的に大ストライキになるだろう」 と言われて、永井さんは「ちょっと悔しかった」と、おっしゃっていました。
 
今、「日の丸・君が代」強制に抵抗して処分されても、新聞やTVではほとんどニュースにさえなりません。しかし、これは民主国家として、海外から見ればとんでもない出来事なのだということを、日本人は知るべきです。

「日の丸・君が代」の問題は、その歴史的な意味にとどまるものではありません。

「炎のランナー」という映画をご存知でしょうか。戦前のパリでのオリンピックに参加したイギリス人ランナーの実話です。牧師でもある短距離ランナーは、日曜日に予選があると知って、「神の定めた安息日にレースはできない」と出場を拒みます。選手団長は彼を呼んで「愛国心」に訴え、出場を促しますが、牧師は頑として応じません。団長は苛立って、「君は傲慢だ」と非難しますが、牧師は即座に「人の信仰に立ち入ることこそ傲慢です」と
反論するのです。
 
二十歳ごろだった私はこの言葉に強く打たれました。どんな権力も人の心に立ち入ることは許されない。
「日の丸・君が代」強制の問題もまた、「人の心に立ち入っている」からこそ許してはならないと思います。裁判官の意見や、新聞の社説などには「問題はあるかもしれないが、これくらいのことは我慢しては」という言い方が見られます。
 
しかし、一旦「心の中へ立ち入る」ことを許せば、次はさらに泥靴で心の中へ踏み込んで来る。それを拒むには、この一歩を拒否することです。「日の丸・君が代」の問題は、決して入学式と卒業式だけのことではないのだと、粘り強く訴えていきましょう。

 

     ********************************************************

 

 

今から丁度120年前、内村鑑三は教育勅語への礼拝を拒否したため、第一高等中学校の教員の職を追われました。
同じようなことが大阪をはじめ、日本の各地で起きつつあります。この100年余り、日本社会は進歩をしてきたと言えるのでしょうか?(O・S)

 

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クリスマス・イブ

2011-12-24 | 雑感

今夜はクリスマス・イブ。

日本中が宗教とは無関係に、この日を祝っている。

私も子どもの頃は本当に楽しみにしていた。

願っていたプレゼントが本当に届けてもらえるか?…ワクワクしながら、

サンタさんをこの目で見たいから今年は絶対起きていよう!という思いと、

「早く寝ないとサンタさんは来てくれないよ」という母の言葉に脅されて、早く寝なきゃ!という思い、

2つの思いに悩みつつも、寝付きのいい私はすぐに夢の中。

気が付くといつも朝。そして枕元にはプレゼントが…。

 

小学2年生までサンタクロースの存在を信じていた。

その年にもらったプレゼント(何だったかもう忘れた)を近所の友だちに見せて喜んでいたら、

「それはお父さんかお母さんが置いたんだよ!サンタクロースなんていないんだよ!まだ信じてたの?」

とあきれられて、半ベソかいて家に戻ったっけ。

母が否定してくれるものと思っていたら、あっさり「ついにばれたか…」と言われ、

よけい大泣きしたのを覚えている。

翌年からプレゼントをもらう楽しみも半減してしまった。。

 

また、当時はクリスマスにしか食べられないローストチキンやデコレーションケーキを思いっきりパクつけるのも嬉しかった。

チビチビ食べる姉は、26日くらいまで取って置いて、私に見せつけながら美味しそうに食べていた。

 

最近は、サンタさんからクリスマスカードが届くシステムもあるようで、事前に申し込むとフィンランドのサンタさんからお手紙が届く!(もちろん有料)

ところが、サンタさんのほんとのふる里はフィンランドじゃない。
サンタさんの発祥の地は実はトルコだ。

紀元3世紀、聖ニコラ(セント・ニコラウス)という慈悲深い神父さんがいて、死んだ子供を生き返らせたとか、貧しい娘を助けるためにその家の煙突から金貨を投げ入れたら、暖炉に置いた靴下の中に入ったとか、いろんな伝説がある。

その言い伝えがヨーロッパからアメリカへも伝わり、トーマス・ナストが漫画に描いて広まったらしい。
しかし、ナストの絵に描かれたサンタの服の色は、白雪姫に出てくる小人たちのように色々だった。

ところが、1931年、コカコーラ社が宣伝に使うため赤と白を基調としたサンタクロースを画家に依頼。
その販促企画が当ったのだろう、サンタクロースと言えば赤い服が定番になってしまったというわけ。

 

以前、スウェーデンのメールフレンドが嘆いていた。

スウェーデンにも昔からサンタクロースの言い伝えがあって、絵本もあったが、そこではサンタクロースの服は灰色だったそうだ。いかにも聖人に相応しい厳かな雰囲気だったのに、今じゃ軽薄な赤い服を着せられてかなわない・・とボヤいていた。

彼は幼い娘のために、午後3時を過ぎると「ちょっと出かけてくる」などと言い置き外に出て、そこでサンタの服に着替えて「メリークリスマス!」と現れるのだそうな・・スウェーデンではこの時期、3時頃はもう夜だから。

今夜は世界中に偽サンタが出没するだろう。

数日前から、東北の被災地にもたくさんのサンタクロースが現れているらしい。

でも、サンタクロースは子どものところにだけしか現れないのだろうか。

3年前には年越し派遣村が注目されたけれど、今はもう路上生活者のことは話題にならない。

そんなに簡単に解決されたとは思えないが…。

電気は使わなくても温かな夜を過ごしている幸せを噛みしめつつ、窓の外をそっと見る。

 

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18人が通り過ぎたわけ

2011-12-23 | 雑感

何日前だっただろう、中国で、車に轢かれた女の子を誰も助けなかったというニュースを聞いた。

が、途中からだったので全容も知らないまま、記憶は薄れかけていた。

今日、夕方のニュース番組で、現地まで出かけて取材したジャーナリストの報告があった。

 

まず、事故の全貌が映っている録画映像が流れた。

それは、商店街が立ち並んだアーケードの通りだった。

1台のワゴン車が女児(2歳)を撥ね、車の下に倒れたその子を後輪が轢いた。

直後に、そのそばを歩いて通る若い男性。

全く気付いてないようで、顔も前方を向いたまま一顧だにしなかった。

が、その足は明らかによけて通ったので、気付いていたことがその時わかった。

その後も、数人の徒歩の人、自転車、バイク、車など通り過ぎていった。

横を通りながら顔を向ける人もいるが、無視に近い状態の人の方が多かった。

1台のトラックは徐行しながら、その女児の上を通って行った。

車は確かに2回バウンドしていた。。

母と子の二人連れもいたが、やはり足を止めることはなかった。

そうやって18人が通り過ぎて行って、やっと19人目の女性が、その子を抱えて道の端に移動させた。

その時女児がまだ生きていたことに私は初めて気付いた。手足が動いていたから。

そばを通り過ぎた人たちは生きているのがわかっていて、瀕死の子どもをなぜ助けようとしなかったのか!

あらためて、そのニュースに強い衝撃を受けた。

 

そのジャーナリストも同じ思いだったらしい。

なぜ人々は子どもを助けようとしなかったのか?その謎を解きたくてやってきたと言っていた。

その謎を解くカギは3年前の事故にあった。

 

バスから降りた老女が誰かに押され転倒した。

一人の男性が彼女を助け病院に運んだ。

ところが後日、その老女は自分を転倒させたのはその男性だとして、彼に損害賠償を求めた。

裁判所も老女の言い分を認め、男性に高額の賠償金支払いを命じた。

男性の無実の訴えは通らなかった。

なぜなら、「やましいところがあったからわざわざ助けたのだろう?」というものだった。

 

似たような事例は中国内のあちこちで起きているらしい。

そんな世相の中で、人々は人助けをするとかえって損をする、と思うようになっていったという。

それが真相だとすると、人助けをしない=君子危うきに近寄らず

という風潮が広がっていったんだろうと理解できる。

しかし、それ以前のことについては理解できない。

 

つまり、助けられた人たちが、なぜ自分の恩人を訴え、お金を奪い取ろうとしたのか…

それがどうしてもわからない。

いかに生活に困窮していたにしても、そこまで人として落ちていくものだろうか。。

 

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武力に勝る力

2011-12-22 | 平和

年に数回「ペシャワール会」の会報が届く。

2,3日前、その110号が届いた。

 

ペシャワール会現地代表で、PMS(平和医療団日本)総院長の中村哲医師による報告、その見出しはこうだった。

人と和し自然と和すことは 武力に勝る

       ―― 平和とは理念ではなく生死の問題

 

また、会報と共に新聞記事のコピーが同封されていた。

これはめったにないことだが、たぶんその内容が、本文の中に書かれていることを具体的に示していたからだろう。

それは、11月26日の西日本新聞の記事で、その見出しは、「長老の悲痛な謝罪」だった。

 

今年10月2日、カシコート村の長老たちがPMSに過去の非礼を詫びに来たと言う。

中村医師率いるPMSは、医療団というよりも土木集団と勘違いされるほど、ここ数年アフガンでの灌漑工事に命をかけてきた。

パキスタンやアフガニスタンの辺境の地で医療活動を行っていた中村医師は、人々を救うのは薬よりも水だと気付き、井戸掘りを始めた。

その効果が点で確認された時、これを線に、面にするためには用水路の建設が必要だと確信し着工する。

用水路の線が延びるごとに、砂漠だった大地に緑が広がっていった。

しかし、マルワリード用水路の対岸にあるカシコート地域では、耕地の荒廃で生活できなくなった人々の多くが警備員や傭兵などの職に就き、武装要員の一大供給地となっていた。

彼らは首都カブールに赴任すれば、欧米兵を守るため前線に立たされ、罪のない同胞に発砲を命ぜられた。屈辱感に耐えられず、反政府側に寝返ったり、衝動的に外国兵を狙撃したりする例も・・・

平和医療団PMSに対しても、重機や運転手を拿捕するなどの事件を起こしていた。

そのカシコートの長老たちが頭を下げたのである。

「私たちは闘いに明け暮れる野蛮人になってしまいました」

「武器は解決になりません」

「以前のことは忘れて下さい」と言い、カシコートの大地の回復に手を貸して欲しいとPMSに懇願したのだ。

このような地域での「農村復興」こそ、我々の本来の目的だったと中村氏は言う。

 

昨年の初夏、ペシャワール会事務局で見せて頂いたたくさんの畑の写真。

砂漠が劇的に緑に変化し、そこで収穫の笑みを浮かべている人々の写真を思い出した。

カシコートの大地もいつかそのような緑に覆われたら、若者たちは人殺しの職に就く必要はなくなる。

その日を願って長老たちが頭を下げ、中村さんもそれを受け入れたのだ。

11月1日、さっそく始まったカシコート側の護岸回復工事の写真もそこに掲載されていた。

 

人と和し、自然と和すところにだけ自然の恵みはもたらされるに違いない。

そこにだけ本当の平和が訪れるのだろう。

 

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金時鐘 日本語への報復

2011-12-21 | 雑感

長崎新聞文化欄、「日本語に報復するために」という見出しが目に止まった。

金時鐘さんのことが書かれていた。

在日詩人で、今年「失くした季節」という詩集で高見順賞を受賞した方だそうだ。

詩集などほとんど読まない私は全く知らなかった。

 

新聞記事やネットで検索してわかったのは、

北朝鮮・咸鏡南道元山生まれ。
植民地時代は済州島で育ち、日本語教育を受け、熱烈な皇国少年となっていった。

1948年には「4・3事件」(朝鮮半島南部の単独総選挙に反発した左翼勢力が武装蜂起し、鎮圧過程で左翼関係者と見なされた島民ら数万人余りが死亡したとされる事件)に関わり、翌年に日本へ渡った。

1973年から兵庫県立高校の教員となる。
「朝鮮、帰れ」という罵声に迎えられ、特に被差別の子どもたちの反発が大きかった。

 

実際の詩の一節に、こんなのもあった。

詩人であり朝鮮文学者でもあるぼくは声を持ちません。
声を上げるだけの寄り場が
ぼくにはありません。
くぐもってばかりで
声はぼくの耳でだけ鳴っています。

ぼくは知らせる手立てを知らないのです。
ぼくは情報機器のいかなものにも
属しません。置いてけぼりの
声だけが耳の底で鳴っています。

 

日本人が特別排他的だとは思えないが、朝鮮民族に対しては、それが言える。

なぜだろう?一番近い隣国で、大昔はいろんな文化がその半島から渡ってきて、

私たちの祖先はたくさんのことを学ばせてもらったのに。

顔も雰囲気もそっくりな民族同士なのに。

なぜ日本人は朝鮮民族に反感や蔑視の感情を持つのだろう。

幸いにも私の育った環境の中では未体験の問題だったので、

大人になって、その実情を知った時は、驚き以上に何故?という思いが強かった。

 

長崎は鎖国政策の江戸時代から、唯一の海外貿易窓口として外国人と交わり、

そのDNAが今も長崎の人々の中に welcome 精神を根付かせている。

そんな長崎県民でさえ、朝鮮人蔑視感情は強かったようだ。

 

一昨日聞いたばかりの友人の話もそうだった。

かなり以前のことだが、友人の妹さんの結婚相手が在日韓国人とわかったとたん、

お父さんはメチャクチャ反対した。

「アメリカ人でも黒人でもかまわんが、よりによって朝鮮人など絶対許さん!」と、

まわりがどんなに取りなしても、ご本人がどんなに誠意を尽くしても許してくれない。

姉である友人が「許してあげて・・」など言おうものなら、

「お前たちも出ていけー!」と怒鳴られたとか。

最後は「勝手にしろー!」と言われ、妹さんは勝手に結婚なさったそうで、

今はとても幸せな家庭を築いている。

 

お父さんはなぜそんなに朝鮮人を嫌ったのか?Y子さんに尋ねると、

「特別な理由はないと思う。あの頃この辺じゃそんな人多かったからね」と。

確かにそういう話は夫からもよく聞いた。

子どもの頃、「チョ-セン、チョーセン、パカスルナ!」と囃したてて遊んでいたと。

  

金さんは、1945年夏、植民地統治が終わるまで日本語を使っていた。

藤村の「若菜集」や小学唱歌や抒情詩歌が彼の心に住みついたのだろう。

憎むべき日本という国の言葉の情趣が母乳のように彼を育ててしまったのかもしれない。

 

僕にとって解放とは何だったのか。

歴史的事実としては植民地統治というくびきから解き放たれたが、意識の源泉である言葉の問題の面では解放されたとは言えないのではないか。

それを問うために、僕は詩を書き続けているのかもしれない。

僕はいつも、日本語に報復したいと思ってきました。

それはつまり、ぼく自身が身につけてしまった日本語の間口を広げ、日本語が豊かになる契機を差し出すことだと思っているのです。

 

 

コメント (2)
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