佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

年の瀬に

2010-12-31 | 有明海・諫早干拓

2010年もあと少し。

私にとってもいろんな出会いや出来事がありましたが、

一番嬉しかったのは、諫早湾の開門が決まったこと!

私は漁民関係者でもないし、諫干反対運動をしてきたわけでもないけれど、
知ってしまったんです。

佐世保に越してきて、
長崎の知人に誘われて有明訴訟の裁判を傍聴して、
埼玉にいる時は何も知らなかった諫干問題を少し知って、
漁民の方の苦しみを知って、
「干潟の海の詩」に出会って諫早湾と有明海の豊麗さを知りました。

一日も早く開門されて、海が蘇ってほしい。
貝や魚やノリがたくさんとれる元気な海に戻ってほしい。

そう願いながらも、不器用な私は石木ダム問題だけで精一杯。
あれもこれもはできない性質だから・・・

何も行動しなかったのに、開門確定のニュースを聞いた時は、本当に嬉しかったなぁ。
ほんと?嘘じゃないよね?と信じられないような気分。
ベルリンの壁崩壊の時ほどではないけれど、
細川連立政権誕生(=自民党の下野)の時くらいかなぁ・・

そして、さらに嬉しかったのが、その有明海でとれた海苔の贈り物。

一昨日、漁民の方が手塩にかけた海苔をたくさん送ってくださって、
「川原のおばあちゃんたちに届けて下さい」とありました・・・

公共事業の魔力に取りつかれた政官業の癒着と必死に闘ってきた漁民の方には、
石木ダム問題も人ごとではないんですね。。

「皆さんの頑張りがとても励みになります」と書かれていました。

励みになっているのは私たちの方。
諫干問題の勝利で、私たちにも希望が湧いてきました。

長崎では12月としては観測史上初めてという大雪の年の瀬となりましたが、
心はポカポカです。


来年も良い年でありますように… 

 

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佐々木祭

2010-12-27 | 佐世保・長崎

今日も「西海アラカルト」用の記事探しをしていたら、面白い祭り発見!

佐世保市のお隣、松浦市に伝わっているという「佐々木祭」

顔の2倍はありそうな大きな杯でお酒を飲んでいるオジサンの嬉しそうな横顔の写真があり、

こちらはやけ酒? 大杯を回し飲み」との見出し。

 

毎年12月24日、巷ではクリスマスムード一色。
ローストチキンやケーキに、ワインやシャンパン、ビールで盛り上がってる頃、
松浦市志佐町池成免では、大杯で日本酒を回し飲みをする、それが「佐々木祭」だという。

なんで・・・?

と思うでしょう?それにはこういう深ーいわけがあったのです。

今から3百数十年ほど前の江戸中期、
池成地区を治めていた平戸藩士の佐々木様が参勤交代で留守中に、奥方が浮気したんだと。

佐々木様は悲嘆にくれ、酒におぼれ、ついに亡くなったんだと。

で、その命日である12月24日に、佐々木様に仕えてた家臣の子孫が集まって
大酒を飲み、供養するようになったんだと。

住民は、この日、佐々木様の墓とほこらを参った後、その年の当番の家で酒宴。
酒を回し飲みして佐々木様を供養するとともに、家庭円満を祈願するんだと・・・。

それって・・口実じゃないかい?

クリスマス行事もない昔、酒好きの家臣の子孫がお酒を飲みたくて考え出した行事?

だとしても、だとしてもですよ、な~んかイイですね。

普通は、自殺なんて思い出したくもないタブーな話題。
しかも、その原因が妻の浮気だなんて、九州男児にとって最もカッコ悪い、隠したいことでしょ?
家臣にとっても。

それを正々堂々と祭りの大義にするなんて・・いやー、実にカッコいい!
佐々木様の家臣の子孫に拍手!です。

見栄やメンツに拘る武士の世界にも、こういうユニークな一族がいらしたんですね~

私も見習いたいナ。

若い頃は自分の失敗や不運を嘆き落ち込み、
忘れたい、なかったことにしたい…と、見えない消しゴムで必死に心のノートを消していた。

歳を経るにつけ、だんだん物忘れが進み、おかげでイヤな記憶もすぐに忘れられる。

でも、本当は忘れちゃいけないイヤな記憶も、実はあるはず。
その苦い経験、辛い思いを忘れずに、次に活かしていかなくちゃいけないことだってあるはず。

そんなとき、この佐々木様の家臣の子孫の方々のように、
呑んで、語って、笑い飛ばせば、きっと未来は明るくなるはず。

イヤな記憶から逃げたり抹殺するのではなく、イヤな記憶と向き合って、それを笑い飛ばす。
しっかり向き合うので、同じ過ちは二度としない。

そんな生き方…したいものです。 

 

 

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みんなが心から笑える世界に

2010-12-26 | 平和

23日と24日の2日間にわたって、長崎新聞「音読コーナー」に掲載された中学生の作文を紹介します。

平成22年度 第20回島根県雲南市「永井隆 平和賞」の入選作品集から、
中学生の部の最優秀賞の作文です。

 

   みんなが心から笑える世界に

                       岩沢壮太  島根県奥出雲町立仁多中3年

 僕には一生を通しての目標があります。
「世界の人がみんな心から笑える世界を作る」という目標です。

 「世界には、ごはんが食べられなくて亡くなっていく人がたくさんいる」ということを知ったのが二年前の小学校の時でした。「なぜ生まれた環境や場所が違うだけでこんなにも生活格差が生まれるのだろう」そう思いました。それは世界の現状を初めて知った僕の疑問でもあり怒りでもありました。

 それからインターネットや本などで世界で今何が起こっているのかについて調べました。調べれば調べるほど出てくる信じられないような事実に僕は「怒り」「悲しみ」「泣き」ました。それと同時に、実際に現地をこの目で見ないとわからないことが多いなと思い始めました。

 それから二年がたちました。しかし、未だに「現地に行く」と言う目標は達成できずにいました。そんなある日、NGO団体が行っている「友情のレポーター」という事業を見つけました。この「友情のレポーター」とは、全国の十一歳から十六歳の子供二人をレポーターとして世界のいろいろな貧困国に派遣して現地の現状を「見て」「聞いて」「感じて」取材してそれを日本の人々に広く伝えるという事業です。

 僕は今年の春休みに「友情のレポーター」になって現地をこの目で見てきました。

 僕が取材したのは「カンボジア」という国でした。カンボジアはここ最近まで「内戦」と「戦争」を繰り返すという暗い歴史を持っている国です。そのせいもあり未だに政治が安定せず東南アジアの中でも最も貧しい国の一つと言われています。

 カンボジアのレストランで食事をしていると、一人の男の子が重そうな本がたくさん入ったかごを持ってやってきました。「これ買わない?これ買わない?」というようなジェスチャーをしていました。

 僕はカンボジアに来てからたくさんの物売りや物乞いをする人を見てきました。しかしそのたびに怖くなって目を合わせなかったり、無視したりしてきました。この男の子が来た時は自然と口が開きました。「何歳ですか?」僕はその男の子に聞きました。
「十四歳」

 僕と同じ歳でした。僕は毎日勉強できて、毎日三食食べられて、毎日家族に会えます。でも彼は、毎日朝から夜まで物を売っても一冊も売れない時だってあります。毎日、「今日はご飯が食べられるだろうか」とおびえています。それでも、こんなにも格差があっても、僕と彼は同じ年に生まれ、同じ年代を生きてきたのです。

 僕は頭をガーンと殴られたような気持ちになりました。すると彼が「あなたは何歳?」と言いました。僕が「十四歳」と言うと彼はものすごく苦い笑いをしました。それを見たとき「こんな世界はおかしい」と強く思いました。ホテルに戻ると同行していたスタッフが、「あの子は二年前にもいたよ」と言いました。自分は二年前一体何をしていただろうかと考えると、涙が止まりませんでした。

 僕は日本に帰ってきてから「本当の平和」とは何なのだろうかということを考えました。「戦争」や「紛争」などをしていない国はすべて「平和」なのでしょうか?僕はどうしてもそうは思えませんでした。それは、僕がカンボジアで見てきた子どもたちの苦しそうな表情が物語っています。子どもたちの苦しみを生みだしたのは「一個人」ではなく、この「世界」なのではないでしょうか?

 僕は「世界の人全員が心から笑顔になれる世界」これがまさしく「平和な世界」だと思います。

 僕には一生を通しての目標があります。

 「平和な世界を作る」

この目標に向かって一歩一歩歩んでいきたいと思います。

 

なんてまっすぐでしなやかな感性…

筆者の少年は、物売りの少年が自分と同い年だったことを知りショックを受け、
物売りの少年のそれを知った時の「ものすごく苦い笑い」を見て、
さらにその子が二年前からそこにいたことを聞いて、
涙が止まらなかったという。

それを読んで、私もうるうるとなる。
でも、私の涙は物売りの少年への同情でもなければ、理不尽な世の中への怒りでもない。

世界中の経済格差や劣悪な環境(医療、食料、清潔な水等の不足)で死んでいくこどもたちのことなど、
そういう現実を「知っている」私は、もう心が鈍化してしまって、涙も出なくなっている。

しかし彼は私たち大人が「知っている」ことを、自分の目と耳と肌で感じ、
その現実を心でしっかり受け止めたのです。
彼の素直な感性に心から感動しました。

同じ年の少年が置かれている酷い現実を見て、自分にはどうすることもできない…
とあきらめ、忘れ去るのではなく、
そういう世界はおかしい、世界中のみんなが心から笑顔になれる世界、平和な世界を作りたい・・
それを自分の一生の目標にしよう!と決意した少年の志の高さに感動しての涙でした。

岩沢壮太君、あなたの名前を私は覚えておきましょう。

今から10年後?20年後?岩沢壮太という名の偉大な政治家or活動家が現れることを
楽しみに待っています。

 

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小さな五木村の、大きな挑戦

2010-12-24 | 石木ダム

熊本県五木村。

五木の子守唄で有名な、そして、今では人口わずか1,353人の小さな村。

その小さな村の小さな村議会が、全国で初めてのドエライことをおっ始めたそうな。

それは、議員報酬に成果主義を導入したこと。

水没予定地を抱えダム計画に翻弄されてきた村の人口はピーク時の4分の1以下に減少。
このままでは村はつぶれる、議員も身を切る覚悟が必要だとして今年の3月議会に提案され、
1票差で可決。

月額21万3千円だった報酬のうち、8割は毎月支給して、残る2割を成果報酬とし、
活動の評価に応じて年度末にまとめて支払うのだそう。

その評価は、村民からなる評価委員によってなされ、
「一般質問」「政策提案」「地域活動」などを参考に5段階で評価される予定で、
今年度末、初めての評価が下されるという。

賛否両論あるでしょうが、
少なくとも村民の声にはきっとそれまで以上に耳を傾け、議会も活性化されていくのじゃないかな~

などと興味津々でその記事を読んだのは今月初めだったのですが…

なんと!

その五木村の12月議会で、「次世代を担う村民への伝言」が提案、可決されたそうです。

提案者は、最年長(78歳)でダム問題の推移を見てきた照山哲榮議員。
今月末辞職予定の照山さんは、
これまでの経緯を知る現役議員として、後世に伝えなければならない責任がある、と言う。

さて、どんな「伝言」が議会で可決されたのでしょう。

 

 昭和41年7月に突然発表された川辺川ダム建設計画に、五木村は反対し、村民一丸となり、
当時の建設省及び熊本県に強く抗議してきた。
 しかし、国、県は強い姿勢でダム建設同意を求めてきた。最終的には、五木村再建計画を
条件に、また、下流域の生命及び財産を守るため、ダム建設を受けざるを得なかった。
しかし、この44年間の経緯は、図り知れない損失を負い、語り尽くせないものがある。

 平成20年8月、相良村長が「ダムは容認しがたい」、更に同年9月、人吉市長も「ダム計画の
白紙撤回を求める」と表明、重ねて、同年同月、蒲島熊本県知事も県議会において「現行の
川辺川ダム計画を白紙撤回し、球磨川は宝としてダムによらない治水対策を追求するべきで
ある」と表明された。
 一方、ダム建設を強力に進めてきた国も平成21年9月、民主党政権が誕生し、就任当初の
前原国土交通大臣がダム中止を表明した。
 因みに、四者とも五木村に対し一言の事前説明もなく、ダムの原点と全く同じ唐突の表明である。

 現在、五木村は川辺川ダム中止を受け入れてはいないが、ダム中止の場合も含めて多角的
に協議するため、国・県・村による「五木村の今後の生活再建を協議する場」に参加している。

 昨今では、突発的で局地的な豪雨が頻繁に発生し、尊い生命財産を奪っている状況である。
このような、豪雨災害が当地方で発生した場合、川辺川ダム建設が本格実施に向けて再燃する
ことが懸念される。

 ここに、44年間もダム建設に翻弄され、人口減少及び産業の衰退、人間関係の希薄化及び
住民感情の対立を目の当たりにした現世代が将来を担う次世代に伝えるべきである。
 よって、川辺川ダム建設は中止の方向に進んでいる現在、拒むことが出来ない状況の中で、
現世代を生きてきた責務として、以下のとおり伝言する。

                記

 川辺川ダム建設計画による五木村の衰退を実際に体験した者として、将来に再び川辺川ダム
建設が動き出すような事態を迎えた場合は、二度と過去の歴史を繰り返さないよう、くれぐれも
ダム計画による五木村の繁栄に期待をしないよう願う。
 

一議員が引退する際に、このような形で議会が認めるのはあまり聞いたことがありません。
最長老として議員仲間の尊敬や信頼を得ていた方だったからでしょうが、
同時に、その「伝言」が照山議員一人ではなく、議会全体の願いでもあったからではないでしょうか。

反対運動の末、国、県の支援による村の振興を条件に、ダム計画を受け入れた村。
しかし、離村が相次ぎ、人口は激減。高齢化率は40%を超えている。
2009年には前原誠司前国土交通相がダム中止を表明したけれど、
政権の交代によってまたどう転ぶか、国はあてにならない。
自分たちの村は自分たちで守り、豊かにしていかなければいけない。

そのような想いを感じます。
八ッ場ダムはじめ全国どこのダム建設予定地にも、同じ想いの人がたくさんいるでしょう。

五木村だけでなく、日本国民への伝言にして頂きたいくらいです。 

 

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そのままのキミがすき

2010-12-17 | 石木ダム

3日前、図書館で探し物をしていたら、小さな絵本に出会った。

『そのままのキミがすき』 木村裕一/作 西村香英/絵 

ん? あの、「あらしのよるに」の木村裕一?

探し物も忘れてページをめくっていった…

 

たとえば キミが…

寝起きの グシャグシャな頭でも…

泣いたあとの 真っ赤にはれた 目をしてても…

すっぴんで しわくちゃなシャツを 着てても…

穴のあいた靴下や 汚れたクツをはいてても…

すてきなアクセサリーを つけてなくても…

いつも ドジ ばかりしてても…

人に言えないクセや 隠している過去があっても 誰かに追われてても…

漢字が書けなくても 計算が遅くても 敬語を知らなくても 記憶力が悪くても…

足が太くても 顔がでかくても 胸が小さくても 枝毛が多くても

10円ハゲがあっても ひげが濃くても マツゲが短くても タラコくちびるでも

体脂肪率が高くても お尻に消えないアザがあっても デベソでも…

世界中がキミをブスと呼んでも…

80歳を過ぎても…

わがままでも…

ときどき いじわるでも… 

それがキミなら…

そのままのキミでいいんだよ

キミが好きだから…

 

「キミ」もボクも猫の姿で描かれていた。

なんて温かい絵本!

親や先生にきつく叱られた時、

友だちに仲間外れにされた時、

自分の欠点に気づいて、自分のことを嫌いになりかけた時、

この絵本が手元にあったら、こどもたちはどんなに慰められるだろう。

 

いやいや、こどもだけではない。

おとなだって、こんな言葉に包まれたら、どんなに幸せだろう。

いや、おとなこそ必要なのかも…

お肌と同じで、心の弾力も失いかけてきた私たち、

渡る世間の北風に、カサカサにひび割れた心がふわふわとあったかーくなるだろう。

 

あ~あ、こんな言葉をかけてくれる人が近くにいたらなぁ…

などとボヤきたくなって、ふと気付く。

私はどうかな? 私は誰かにこんな言葉をかけることができるかな?

 

わがままでも…

ときどき いじわるでも…

それがキミなら…

そのままのキミでいいんだよ

 

なんて…言えない。 

 わがままなキミはイヤ。 いじわるなキミはイヤ。

優しいキミでいてほしい。

それが本音。

 

そのまんまのキミを丸ごと受け入れるには、

まだまだ修行が足りませぬ。。  

 

 

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第1回 検討の場

2010-12-11 | 石木ダム

この案内板が置かれていたのは、こちら。

ホテルセントヒル長崎です。

なぜ公共の施設ではなくホテルなのでしょう? ショバ代、高そう・・
長崎県はお金持ちなのね、きっと。 でも、税金なのに・・

それに、「関係自治体からなる検討の場」ですよ~
関係自治体=県、佐世保市、川棚町、波佐見町 じゃないですか~
ダム予定地の川棚でやれば、波佐見町も佐世保市もお隣さんで、すぐ集まれます。
どうして川棚でしないの?

傍聴は30人までとの制限があったのに集まったのは50人以上。
ほとんどが遠い川棚や佐世保から、高い交通費と貴重な時間を使って集まった住民です。
休日手当をもらってここにいる県職員さんたちとは違って、
身銭を切ってでも「検討」の中身をこの目で見たい!という住民の切なる気持ち、
それが理解できるような行政なら、ダム問題ももう少し早く解決しているのでしょうが…

ところで、30人を超えた場合は抽選を実施しますとの予告通り、くじ引きが始まったのですが、
私たち佐世保組5人は、日頃の行いが悪かったのか、全員ハズレでした!

でも、顔見知りの長崎の方々のご厚意で、なんと4人も中に入ることができ
皆様に心から感謝です。

シャンデリアが眩しい場違いな会場で、新郎新婦の…じゃなくて、
県土木部長桑原氏の挨拶から始まりました。

続いて、構成員の紹介。
長崎県(土木部長)、佐世保市(市長)、川棚町(町長)、波佐見町(町長)

これだけ。4自治体の4名だけ…。

「検討の場」の規約説明の後、いよいよ本日の本題の「検討の場の進め方」の説明です。

国交省から示された「ダム検証に係る検討の流れ」を図式化したものが示されましたが、
これが、超わかりにくのです。
佐世保市議会委員会の傍聴ですでに何度もお目にかかっている私でもわかりにくい!
わざとわかりにくく書かれているのじゃないかと疑いたくなるくらいです。

進め方の資料の最後のこのページだけはわかりやすかったのですが、
よく見ると、今日のこの場で、利水の一部が検討されると書かれていました。

右表の編みかけの黒っぽい部分が今日の流れだと言うのです。
県のHPに示された今日の議事内容は、

  ・「検討の場」の設置について
  ・ダム検証の進め方について     ほか

と書いてありましたので、この「ほか」というのが怪しかったんですね~

検証の進め方について、一通り説明が終わって、質問はございませんかと聞かれ、
口火を切ったのが、波佐見町長で、
結論はいつ頃までに出すのか?というもの。

よくぞ聞いて下さった…と耳を傾けると、

時期については今の時点で区切ってはいない、これからの検討作業の流れ次第、
でも、なるべく早く結論を出したいのでご理解を…

では、何回くらいやるのか?と再度質問され、

それも初めはわからないという雰囲気でしたが、「最低3回は持つ予定です
と、渋々お答え。

なに? 3回? たった3回?
思わずお隣の方と顔を見合わせました。あちこちでため息がもれていました。

しかし、傍聴者は何も発言できません。
ただじっと成り行きを見守るばかり・・・

他に質問もなく、いよいよ議事の「石木ダム事業の検証について」に入って行きました。 

1.石木ダム事業の経緯(昭和48年実施計画調査~平成20年2月環境影響評価書公告)

2.流域及び河川の概要(地形・地質・土地利用の状況・治水利水の歴史・現行の治水計画と利水計画)

3.石木ダムの概要(目的・規模・費用・進捗状況など)

それらについて、資料に従って淡々と説明が進み、眠気さえ覚えたころ、

4.石木ダム検証に係る検討の内容

に移りました。

まず、治水の観点からというページで、石木ダム事業の「再点検の必要はない」という文字に
眠気も吹っ飛びました!(上の写真、上から3行目、薄いからわかりにくいかもですが)

つい最近、八ッ場ダムに関して、飽和雨量のデータの誤魔化しがあって
基本高水がデタラメだったという事実が発覚したばかりじゃないですか~

これまで使ってきたデータそのものも見直しからやらないと、
な~んにも点検したことにはならないでしょうに・・・

と心の中でボヤいていたら、続いて早くも、利水の観点からの点検に移りました。

下の四角で囲まれた部分が利水参画者である佐世保市からの回答で、
県の担当者はこれを読み上げた後、

開発水量が40,000トン必要であることを確認し、その算出方法が妥当に行われたことを確認した

と明言したのです!!
どうやって確認したんじゃー!と叫びたい衝動に駆られました・・

平成19年度に作成された29年度の水需要予測、
それがどんなに希望的観測に基づいた過大すぎる数字であったか

専門家も指摘してるし、
その後の実績値と比較したグラフを見れば、素人でも一目瞭然なのに・・・

最後に、有識者会議が示した対策案というか代替案というか、
ダム以外の治水や利水の方策が示されました。

今後はこの中から可能性のあるものをいくつか選び出し、
それとダム案とを比較して、
ほらね、総合的に判断すると、やっぱりダムが一番でしょ?と持って行くのでしょう。

今後いろんな他の案と比較するとき、40,000トンの必要量を前提とすれば
結果は当局の思い通りに…。

さすが、頭のいい方々ですね。

でも、その冴えた頭の活かし方を、どうぞ考えて下さい。

県民のために。

未来のために。。。

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感謝の言葉

2010-12-09 | 雑感

   いやー、ほんとに思いがけなくて、びっくりしてねー。

   そうですか~お口に合うといいんですが…

   こんな新鮮な海の幸、僕らはめったに口にできないから、
   息子にも電話して、持たせてあげましたよ。

   えー!そんなにたくさんはなかったでしょう?
   先生たちが召し上がる分が足りなくなったんじゃ…?

   いえ、十分です。十分いただきました。
   何よりも、Mさんの気持ちが有難かった。
   今日はほんとに嬉しかった。ほんとに幸せだった。

あまりにも喜んで頂いて、却って恐縮してしまって、汗・・・


一昨年、中学時代の恩師の喜寿を祝っての同窓会以来、私たちは毎年集まることにした。
先生がお元気なうちにもっとお話を聞いておきたいと思ったから。

でも、実際に集まると、それぞれの仕事上の悩みや、家族の話や、趣味の話など、
話題は尽きることがなく、先生はそれをニコニコと笑顔で聞いて下さるばかり…

今年もつい一月ほど前に集まったのだが、その時、
先生が最近散歩の途中で倒れ、入院なさっていたことを知った。
病院での精密検査の結果はそれほど心配するものではなかったと聞いたけれど、
少しでもより元気になってほしくて、牡蠣を贈ることにした。
牡蠣は「海のミルク」と言われるほど、ビタミン、ミネラルたっぷりの滋養食品だし、
ここ佐世保には九十九島産の美味しい牡蠣があり、昨年もお歳暮で重宝したので、
先生にお歳暮を贈るのは初めてだったけど、時節柄自然でいいかなと思った。

冷や汗が出るほど感謝の言葉を頂いた2日後の今日、先生からのお歳暮が届いた。

牡蠣のお返しは「おかき」だった。
「もち吉」の缶入りおかき。来年の干支の兎の箸置き(有田焼)も入っていた。

カキにかき…しゃれのつもりか…?

電話でお礼を言った後確認してみると、
「ああ、そう言えばそうだね。僕の方はあんなありふれたものしか思いつかなくて」
と、全くの偶然だったらしい。

そして再び、牡蠣が美味しかったこと、心遣いがとても嬉しかったことを口にされた。
心遣い?と思っていたら、どうやらそれは、

牡蠣と一緒にナイフ、軍手、レモンなどが箱詰めされていたのだが、
それをセットしたのが私だと勘違いなさっていたようだ。

あ、違います。それはお店の方で箱詰めして送って下さったので…

という私の声と、先生の嬉しそうなお声が重なって、届いてなかったかも。

でも、それならそれでかまわない…という気持ちになってしまって、先生の声を遮るのは止めた。
先生が喜んで下さる。幸せだと思って下さる。
そのことが大事で、そのことが嬉しい。

事実よりも大事なことも時にはある。

そして、すっかり忘れていた大事な言葉も思い出した。

      実るほど首を垂れる稲穂かな

二日前とは違った冷や汗がまた噴き出してきた。  

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長崎新聞 昨日の記事

2010-12-06 | 雑感

今日は久しぶりにのんびりできた一日でした。

朝の日課、前日の新聞の切り抜き(西海アラカルトの記事集め)をやろうとしたら、なんてことでしょう…
昨日(12/5)の長崎新聞は興味をそそられる記事がたくさんあって、新聞はバラバラに分解されちゃった。

波佐見皿山器替まつり…焼物の町波佐見町では、不要となった器を持って行くと新しいお皿が半額に
               なる祭が4日と5日開催されたそうです!割れていても大丈夫。引き取った器は
               タイルに再生してトンネルやビルの壁面に使われるらしい。エコですね~

夏みたい!…平戸市田平町の耕作放棄地に今、2万本のヒマワリが見頃を迎えているそうです!
               NPO法人「ひらど遊学ねっと」の皆さんが丹精込めて咲かせてくれました~

9条で樋口氏講演…長崎大学医学部記念講堂で、東大名誉教授の樋口陽一氏が4日、
               「憲法という人類の知恵 その中で第九条こそが持つ意味」というテーマで
               講演。会場から「領海侵犯する国が周囲にある。9条を絶対守るとなると日本は
               武力行使できず生存権が脅かされる。それでも堅持すべきか」との反論あり。
               樋口氏は「9条を守るということは腹を決めないとできない。胸を張って9条で
               行くんだとならなければ」などと述べられたそうです。

400年前のクリスマス再現…南島原市で4日「フェスティビタス ナタリス」という恒例のお祭があった。
               キリシタン大名や宣教師に扮した市民約100人が当時のクリスマス行列を再現。
               天正遣欧少年使節に扮した小中学生たちや、聖歌隊もいて、写真を見るととても
               エキゾチック!来年は見に行こうかな~

離島は今⑤国家的な役割…シリーズの最終回で書かれていたのは、あまり知られざる国家的役割。
               日本は6852の島々からなり、国土面積は世界で61位だが、領海、EEZの面積
               は世界6位
の広さ!EEZとは、排他的経済水域=沿岸国の経済的主権が及ぶ
               水域
で、国連海洋法条約に基づき定められている。そこで、離島には、その権益
               を守るべく水域の保全や海洋資源の利用、環境保全などに重要な役割があり、
               その重要性は増している。日本は海洋開発により資源大国になれるとの指摘
               も。嬉しいような…でも、ますますキナ臭くなりそうな話だなぁ。

★「安保改定50年」大賞受賞…反核、平和などの分野で優れた報道をした団体、個人に贈られる「平和・
                協同ジャーナリスト基金賞」の大賞
になんと長崎新聞の記事が選ばれたんで
                すって!といっても、長崎新聞だけじゃない。沖縄タイムス、神奈川新聞社との
                3社合同企画「安保改定50年~米軍基地の現場から」の取材班に贈られた
                そうです。写真に大きく映っているのは、なんと、我が佐世保支社の山口恭祐
                記者ではありませんか!おめでとうございまーす!

 

そうして、これ。 きっと山口記者もかなわない。 心の中に平和が満ちてくる詩でした。

 

        ウルトラの母       

                          新上五島町立青方小2年  本村 瑶(もとむら よう)

   ぼくのお母さんは、お仕ごとから走って帰ってくる。

   台所でおりょうりしているお母さんの背中に、ぼくは話しかけている。

   お母さんは、背中だけどちゃんときいてくれて、ときどきふりむいて
   「すごいね」ってほめてくれる。


   そうしていると、一才の弟がいっつもこぼしたり、ないたりする。

   「あらら」と言ってお母さんは走る。


   やっとかたずいたら、つぎはきまって妹が「おしっこ」と言う。

   またお母さんは走る。


   みんなでごはん食べて、おふろからあがったら、お母さんは、
   「つかれたー」とたおれこむ。

   そして妹と弟は走ってお母さんの背中にのる。


   「お母さんはつかれているのに」とぼくは思うけど
   今日だけちょっとぼくも背中にのってみようかな。

   ぼくにもお馬さんしてくれるかな。

   お母さんがつぶれませんように。

 

 

 

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2010年日本平和大会in佐世保

2010-12-05 | 平和



ひょんなことから、この大きな会に参加することになった。

1986年から始まったというから、四半世紀に亘る歴史を持つ全国大会。
しかも毎回、海外からのパネリストを数人迎えてのシンポジウムや分科会を開催しているらしい。

また、開催地が沖縄や神奈川に多いというのは、基地問題を中心に考える平和の大会なのだろう。
佐世保での開催は6年ぶり、3回目のことだという。
今回のテーマは「米軍基地・軍事同盟のない平和なアジアの実現を目指して」となっていたし、
スローガンには「いま、沖縄と心ひとつに」と掲げられていた。

そういう大会の存在すらも知らなかった私が関わることになったきっかけは「うたごえ」だった。

平和大会は12月2日~5日まで開催されたが、4日の全体集会で、
長崎の合唱団が「平和の旅へ」という、合唱と語りによる構成曲の演奏をすることになり、
その語りをやってもらえないか…という依頼が舞い込んできた。

その依頼主は、「川原のうた」でたいへんお世話になった『ながせん』の方々。
断るわけにもいかず、また、それがどんなに大きな舞台なのかも知らず、安易に引き受けてしまった。。

一度だけ長崎での練習に参加して、音楽の演奏と合わせて語ることの難しさを実感。
でも、録音した演奏に合わせて自宅で練習すればなんとかなるだろうと軽く考えていた。

当日4日、午後2時頃から舞台リハが始まった。
家での練習のおかげで何とか音楽に合わせて語ることができ、無事にリハも終わりホッとしていたら、
客席で見ていた舞台監督とやらがやってきて、
「あなたの語りは独り言を言っているようだ。もっと語りかけるという気持ちを持ちなさい。
 平和の旅へ出かけるところでは、それまでとは全く違った明るい声の調子に変えなければ…」
と厳しい指摘。

私は指摘通りに声を変えていたつもりだった。
そしてもちろん、客席に向かって語りかけていたつもりだった。
それが全く伝わってなかった事にびっくりした。
これ以上感情を込めて語ると、いかにも演じてるという感じがして私にはできないと思った。

楽屋に戻る途中、何人もの方が「気にしなくていいよ。今のままで十分伝わるよ」
「あなたの語りをすればいいのよ」と言って下さったが、
その優しさに、却ってなんとか修正しなければ…という前向きな気持ちになっていった。

幸い合唱団の中に以前語りをやった方がいたので、その方にお願いして語りのところを読んでもらった。
全然違った。
私は音声訳の中でやってきた、感情を極力排した読み方に慣れていて、
私としては十分喜びを表現したつもりでも、それでは半分も表現されていないことに気付いた。

本番の幕が上がったとき、客席の方は暗くて見えなかったが、
このどこかに、川原の皆さんがいる、「ふれんど」の仲間もいる、東京から参加している友人もいる、
その人たちに伝えるつもりで語ってみようと思った。
いつもよりうんとオーバーに声の調子を変えてみた。
恥ずかしいという気持ちはどこかに置き忘れていた。

終わってから、合唱団の皆さんに再びたくさんの声かけをいただいた。
「良かったよ!」という同じ言葉でも、以前とはそれこそ声の調子が全然違う。
それまでは社交辞令や、私に自信をつけさせようとの温かい思いやりの賛辞であったことがよくわかった。
「語りをきいて涙が出そうになってしまった」という言葉を聞いた時は本当に嬉しかった。

その後、川原の皆さんが楽屋に入ってきて、楽屋は「川原のうた」練習会場に一変した。

約1時間後、先ほどのステージに、川原の住人だけでなく、私たち支援者と、長崎の合唱団も加わって、
今までにない大人数で「川原のうた」を合唱した。

指揮者のK子さんは途中から泣いていたそうで、(私は視力が悪いので気付かなかったけれど)
気づいていたS子さんは、彼女も胸が詰まって声が出なくなった、と言っていた。

終わってから合唱団の皆さんは、「川原に行ってみたい、石木川のほとりで歌ってみたい」と言ってたし、
川原のS子さんは、「同じ長崎県に住んでいながら私たちは原爆のこととかあまり考えていなかったね」
とつぶやいていた。
どちらの言葉も、私はとても嬉しかった。
私にとって、とても意義深い「平和大会」だった。


もちろん、そのような個人的な思いばかりではなく、シンポジウムや分科会も有意義だった。

2日の国際シンポジウムでは、ジョゼフ・ガーソン(米国)、イ・ジュンキュ(韓国)、コラソン・ファブロス(フィリピン)、モハンマド・イブラヒム・アルコザイ(アフガニスタン)各氏の貴重な話を聴くことができた。

特に印象的だったのは、韓国のイさんが言った言葉。
「韓国人にとって脅威の第1位は北朝鮮であり、第2位は日本。
 これからの日本はどうなっていくのだろう。戦前のような道を辿っていくのではないかと不安を感じている」

また、コラソンさんの話で私は初めてフィリピンに今も米軍が駐留していることを知った。
1991年に米軍基地を撤去したはずのフィリピンに、実は、1999年にVFA(訪問軍隊協定)を締結して米軍は戻ってきており、今や農村では重装備の米兵の姿が風景の一部になっているという。
いわゆる「軍事演習」で犠牲となった死傷者や、米兵による殺人やレイプなどの被害も後を絶たず、
また米兵が罪に問われることはなかったと聞いて、本当に驚いてしまった。

こちらは、アフガニスタンのジャーナリストのモハンマドさん。
戦争が続くアフガニスタンでは、42%が貧困ライン以下の生活をしており、
乳幼児の死亡率は25.7%という世界最悪の状況で、
70%の国民が清潔な水へのアクセスがないという。

「日本政府に求めたいのは、軍事的な支援ではなく民生支援をしてほしいということ。
 私たちには軍事基地ではなく病院が必要です。人を殺す銃ではなく食料が必要なのです」

沖縄は名護からやってきた大西照雄さんは、知事選の敗北を認めながらも、
「仲井真氏の政策は伊波さんに近づいてきた、
 告示前に移設容認を「県外移設」に変えた。この変化は明日への展望。
 私たちは県外移設と言い続けます。皆さんは基地が来るのはイヤだと言い続けて下さい。
 平和の衣をつけて歩み出した時にアジア情勢は変わります」

5日の最終日。朝9時半佐世保公園に集合。
10時に「うたごえ」で開幕。
「青い空は」「願い」「折り鶴」「沖縄を返せ」「We shall overcome」などなどを歌う。

10時半集会が始まり、各国からの参加者のスピーチの後、山下市議や各地からのアピールが続く。

11時過ぎ、ピースパレードに出発。

再び、歌で皆さんを送りだした後、私たちも行進のシンガリについて歌い続けた。


佐世保公園の桜の木は、すべて葉っぱを脱ぎ棄てて、裸木になっていた。

その向こうには真っ青な空が…。

歌う声にも思わず力が入る。

        青い空は青いままで 子どもらに伝えたい…♪

コメント (3)
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石木ダム問題 写真展

2010-12-02 | 石木ダム

昨日、今日の二日間、「アルカスSASEBO」で写真展を開催しました。

最近のものも、ほんの少しありますが、ほとんどは28年前の写真。

1982年、石木ダム建設のために県が機動隊を導入して行った強制測量。

当時の、住民と権力側との攻防の記録です。

すでにセピア色がかった、角の破れもみえる写真が、

なぜか生々しく、迫力を持って語りかけてきます。

女たちも頑張ります。歩けないお年寄りはリヤカーに乗って、共に行動します。

子どもたちも学校を休んで抵抗しました。

子ども心に「家を壊される。田んぼもとられてしまうと思うと不安だった。家族と一緒に自分も頑張りたい」
そう思ったそうです。

抵抗する住民を、一人ひとりごぼう抜きして、排除していく機動隊。

「これはまだ紳士的に扱ってるとよ。
 カメラが回ってないところでは蹴ったり、放り投げたり、無茶苦茶しよったけん。怖かったよ」

雨の中座り込んで訴える住民。必死に手を合わせる姿に、県側の職員はどのように感じたでしょう。

当時の新聞も拡大コピーして掲示しました。

 
アルカスのロビーにはスクリーンがあるので、ビデオも2本流しました。
1本は当時の記録フィルム。
もう1本は「川原のうた」
仲間の I さんが、歌の歌詞に合わせて川原の風景写真を映し出すDVDを作ってくれました。

 
昨夜は、アルカスで、野村克也さんの講演会があり、
今日の夕方は、「日本平和大会」の国際シンポジウムがあり、
それらの前後は人の通行も多いので、ほんの少し立ち止まって見てくれる人もいましたが、
この写真展を目当てに来てくれた人の数は…正直なところ胸を張って言えるほどではありませんでした。

でも、私たち主催者それぞれの友人知人が来てくれたし、

テレビ佐世保が取材に来て、けっこうきちんと流してくれたようで、
昨日のTVを見て来ました、という人も2,3人いました。

また、地元川原の皆さんもわざわざ遠くから来て下さって、
28年前の自分たちの写真を懐かしそうに見入って…「あら~みんな若かったね~」と、
楽しそうに話して下さったので、ホッとしました。

そうそう、写真展の準備をしていた一昨日(11月30日夜)のことですが、
通りかかった男性が熱心に資料を見ていましたので、

どう思われます?と問うと、
「いやー、もうダムは要らんっちゃなか?職場でも皆そう言っとりますよ」

職場って?
「〇〇バスです。佐世保の水もそこそこ足りとるごたるし、ダムを造るっちゃ金がかかるでしょ?
 これ以上税金の無駄遣いはしてほしくなかですよ。
 漏水が多かということやけん、そっちに金ば使ってほしかですね。
 うちの営業所には川棚の人間も多かとですけど、みなダムは要らんて言うてます」


この話を聴いた瞬間、前日の県庁での疲れが吹き飛びました。

そして、今日はテーブルの上に置いた資料もけっこう少なくなって・・・
ほーちゃんの「こうばる通信5」はきれいになくなりました~ 


今回は準備期間が短くて、事前のマスコミ報道もできなかったし、PR不足は否めません。

また来年、今度はしっかり準備して取り組もうね!と仲間たちと意気投合! 

乞うご期待です。 

 

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