佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

今日

2008-12-30 | 雑感
今日は12月30日。
あと一日で今年が終わる年の瀬、そして、私にとっては記念日でもあり…。

家族や友人たちから、有形無形の優しさが手渡される、幸せいっぱいの日。
今年もそんなほっかほかの温かい胸の中に、
なぜかすーっと隙間風のようなものを感じて…

昔よく歌った「神田川」の一節に、こんな歌詞がありました。

    若かったあのころ 何もこわくなかった
    ただ あなたの優しさが こわかった


その気持ちに似ているかもしれない・・・


テレビをつけると、
毎日派遣労働者やリストラされた人々の厳しい現実が語られ、
公園や駅で眠るホームレスの姿が映され、
住む所はあってもわずかな年金生活で病気の治療も受けられないお年寄りなど
近年の凄まじい経済格差を実感します。

私は、その様子を50インチのTV画面を通して、暖かな部屋で、おなかいっぱい飲み食いしながら見ている・・・

海外ニュースでは、イラクやアフガニスタンだけでなく、最近はイスラエル軍によるガザ地区への空爆や、コンゴでのウガンダ人による大虐殺も伝えられ・・・
それを、私は、全く安全な部屋で、のんびりと映画を観るようにながめている。

ニュースとして流れなくても、世界中のあちこちで飢えて死んで行く人々は日々たくさんいる。
きれいな飲み水がないために伝染病で苦しみ力尽きるこどもたちもたくさんいる。
そのことを私は知っている。

でも、今の私は彼らとはまるで別世界で飢えや戦に怯えることなく、のうのうと暮らしている。
彼らのことを思うと、申し訳ないと感じながら、でも、こちらの世界に生まれてきてよかったなどと内心ほっとしている自分がいる。


そして、そんな後ろめたさに蓋をして、今日を楽しませてもらいました。

佐世保の街は、この時季、イルミネーションで華やかです。
きっと皆さんの街と同じように。。










(こちらはハウステンボス内のお城です)


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家族の思い

2008-12-29 | 平和
昨日、ペシャワール会報98号が届きました。

その中に、伊藤和也さんのご家族が書かれた記事がありました。

お母さんが書かれた「我が子 伊藤和也へ」
妹さんが書かれた「無題」

ペシャワール会現地ワーカー伊藤和也さんの悲報に接した時の胸の痛みが再び蘇ってきました。
が、ご家族の方々にとっては、痛みよりももっと深い喪失感が、ずーっとずーっと進行形で続いてきた日々だったことでしょう。

お二人の書かれたものには、家族を失った切なさがあふれています。
どんな政治家よりも心に響く平和へのメッセージを発していらっしゃいます。
(私は全文をそのまま皆さんにも読んで頂きたくて、ペシャワール会事務局に記事引用のお願いの電話をしましたが、やはりそれは無理でした)

お二人が書かれていたのは、マスコミで報道されてきたりっぱな青年伊藤和也ではなく、
普通の、身近な、でも本当にかけがえのない存在である家族としての和也さんへの思いでした。


よく夜泣きをする赤ちゃんだったそうです。
お母さんがだっこして、お父さんの運転で、毎晩のように深夜ドライブ…。
でも、妹さんが生まれると不思議にピタリと夜泣きが治まったそうで、
またその後弟さんが生まれた時はとても喜んで、一層お兄さんらしくなった…と。

その妹さんから見たお兄ちゃん和也さんは、本当に優しく頼もしいお兄さんだったそうで、
偏食家の彼女がお父さんに叱られないようにいつもこっそり嫌いなおかずを食べてくれていたとか、二段ベッドの場所取りやお菓子選びもいつも下の二人に選ばせてくれたとか、そんな思い出が懐かしそうに語られていました。

その優しい、大好きなお兄ちゃんがアフガニスタンに行ってしまって、最初のころ彼女はとても心配したけれど、でも、帰ってきたときに見せてくれるたくさんの現地の写真、そこに映っている人々はとてもやさしい笑顔をしていたので、だんだん安心するようになったそうです。

お母さんが食べ物のことなど心配して聞くと、彼は、
お母さんが想像するような貧しい国ではない、そんな失礼な考えは捨ててくれと抗議して…。

彼がアフガニスタンの人々を心から愛したようにアフガニスタンの人々も彼のことが大好きで、
とても皆に慕われていたという話をさんざん聞かされた妹さんは少しやきもちを妬いていたそうです。
でも現地ワーカーの方が「妹さんの話もしていましたよ」と声掛けられ嬉しかったと綴られていました。

お二人が書かれた最後の部分だけ、抜粋させていただきます。


   和也 和也 平和なり 和なり
   名前のようにあなたは育ちましたね
   返事をしてくれない笑顔のあなたに
   母の命がある限り 
   和也 和也と呼びかけます


   お父さん、お母さん、
   三人兄弟に産んでくれてありがとうね。
   最後にひとつだけ欲を言えば
   「お兄ちゃん もう一度逢いたいよ」
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ノーベル平和賞をお返ししたい

2008-12-28 | 平和

長崎新聞27日付コラム『水や空』のタイトルはとてもインパクトの強いものでした。

ノーベル平和賞を取り消せ

今月22日に公開された外交文書の記事を見落としていた方は驚かれたかもしれません。

以下、原文のまま引用します。

 

 「日本の元首相、佐藤栄作氏にノーベル平和賞を授与したのは、ノーベル賞委員会が犯した最大の誤りだった」。2001年、ノーベル賞創設100周年を記念して平和賞の委員会が記録報告書を出版した際、著者の1人は慚愧(ざんき)に堪えないといった表情で、そう語った▲佐藤氏の受賞は1974年で、非核3原則の表明などが評価された。佐藤氏が平和希求の政治家のように見えたのだろう。ところが、実像が判明するにつれて同委員会はがくぜんとする▲100周年の報告書は記す。「佐藤氏はベトナム戦争で米政策を全面支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした」「後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスと言っていた」▲ノーベル賞委員会ともあろうものが、平和賞の理念に反する人物を選んでしまったわけだ。同書は「選考委が日本側の陳情にだまされた」と批判した新聞記事まで引用し、その不明を恥じた▲同委員会が、また新たな反省文を付け加える必要に迫られたようだ。佐藤氏が65年の訪米時、中国と戦争となった場合には「米国が直ちに核報復を行ってほしい」と要請していたことが、今週、外務省の文書公開で明るみに出た▲被爆国日本の首相が核兵器使用を求め、核戦争をそそのかしていたのだから、罪は重い。ノーベル賞委員会には、佐藤氏への平和賞授与を早急に取り消してもらいたい。

 

当時(34年前)の私は国際社会や政治経済についても全く無知で、ノーベル平和賞という名誉ある賞が日本人に授与されたということだけを単純に喜んでいました。

が、それでも、何で佐藤首相なの?という驚きを感じたことは覚えています。

そして、一般国民には見えにくい国際政治の裏舞台で、しっかり平和のために活躍して下さったのだろうとかってに思い込んでいました。

じつは・・・一般国民には見えにくい国際政治の裏舞台で、そっと反平和の言動を繰り返していらしたのですね。

 

アメリカのベトナム戦争を支持し、非核政策を貶し、むしろ有事のときはアメリカに核使用を頼んでいたなんて・・・。

この国の総理が。この国の憲法を一番守らねばならない人が。。

もし、彼がコスタリカ国の総理であったなら、即、憲法違反で訴えられていることでしょう。

 

「佐藤栄作氏にノーベル平和賞を授与したのはノーベル賞委員会が犯した最大の誤りだった」と関係者の方が嘆かれたように、佐藤氏を首相に選んだ私たち国民もその誤りを嘆き恥じるべきではないでしょうか。

 

でも、私たち日本人はなぜかあまり驚いていないようです。

非核三原則なんて、疾うの昔に有名無実になっているのを感じていたし、

一切の軍隊を持たないと宣言したのに世界で5番目の軍事費を使っているし、

それを許している、または見て見ぬふりをしている私たちですから、佐藤氏を批判するのは気が引けるのかもしれません。

 

こどものころ、大人って嘘つきだなあと感じる時がありましたが、そんなとき「大人にはホンネとタテマエがあるんだよ」「嘘も方便といって必要な嘘もあるのよ」などと教えられ、だんだんその解釈に慣れ、いつの間にかその解説をこどもにする立場にもなっていました。

 

談合事件が報道されるたびに、氷山の一角だと多くの人が思っているし、産地偽装、消費期限偽装、古紙偽装、温泉偽装、耐震強度偽装などなど後を絶たない偽装問題にも「ありそうなことだ…」などと感じてしまいがちです。

 

いつから私たちはこんなふうになってしまったのでしょうか?

昔の日本人はもっと正直で正々堂々としていたように感じるのは、単なる思い違いか両親のイメージのせいでしょうか?

 

中には笑って済ませられる誤魔化しもあるでしょうが、決して許されない誤魔化しがあることを忘れてはならないと思います。

 

被爆地のマスメディアである長崎新聞のコラムが、そのことを気づかせてくれました。

 

私も、佐藤栄作氏へのノーベル平和賞はお返ししたいと思います。

 

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言うべきことを言う

2008-12-18 | 雑感
昆虫写真家、栗林慧さんをご存じですか?

「アリになったカメラマン」という異名を持つ、アリの目線で昆虫や草花を写すカメラマン。
「虫の目レンズ」を開発して、それまで誰も見たことのない昆虫の世界を撮り続けて40年。
素敵な銀髪のかっこいい紳士です。

栗林さんの作品は以前テレビで見てびっくりした記憶がありますが、そのすごいカメラマンがすぐ近くの平戸市にお住まいだったとは・・・昨日の講演を聴きに行って初めて知りました。

大きなスクリーンいっぱいに映し出された昆虫たちは、とても迫力があって、その上愛嬌があって・・・私が苦手とするカマキリさえも可愛く感じてしまいました。
そして、栗林さんの解説は、わかりやすく、おもしろく、満席の会場は感嘆や驚きの声に何度も包まれ、みんなが心から楽しんでいるのが伝わってきました。


しかし、昨日の感動はそれだけではありませんでした。

それは、講演が始まる直前のことです。
一人のおじさん(70代くらい?の方)がステージの真下に歩み出て、声をあげました。

  「皆さん、私は主催者ではありません。一般の観客です。
   しかし、私は皆さんにお願いがあります。
   私はこの前、ここで長崎県立大学主催の講演会を聴きにきました。
   講演会が始まる前に、司会者は3回も携帯の電源を切るよう注意しました。
   しかし、講演中、5回も携帯が鳴りました!
   皆さん、恥ずかしいと思いませんか!
   今日はぜったいそんなことがないようにしてください。
   もう一度しっかり確認して電源を切って下さい。
   この前の主催者は注意もしませんでしたが、私は許せません。
   これだけ言って、一回でも鳴らしたら、私がその人の所へ行って、
   会場から引きずり出します」

やや乱暴な口調でしたが、その真意は多くの人に伝わり、拍手がおこりました。
私も、心から拍手しました。

彼が話していた講演会は、11月25日に行われた長崎県立大学開学記念特別講演で、
浅井信雄氏による「いま世界はアジアの時代」というものでした。

開演前に司会者がしつこいくらい注意したにもかかわらず、浅井氏の話が始まってすぐに、
左前方から携帯の呼び出し音がかなり長めに鳴り響きました。

携帯の扱いに不慣れなお年寄りだろうか?誰か周りの人が切ってあげればいいのに…
と私は思ってました。

その5分後くらいに、また同じ方角から聞こえてきました。
なぜ?と思い、誰もがそちらのほうへ顔を向けています。壇上の浅井氏も。
そのようなことが、なんと5回も繰り返されたのです。

本人の非常識はもちろんですが、周りの人はどうして何も注意しないのだろう。

また、ホールの出入り口には腕章を巻いた主催者側のスタッフが立っているのに、
なぜ彼らは携帯の持ち主をそのままにしておくのだろう?と不満がこみ上げてきたころ、
ついに浅井氏本人が壇上から注意しました。

「先ほどから携帯の音が響いてみんなが迷惑しています。電源を切って下さい」
と、冷静な声の中にも不快感ははっきりと感じ取れました。

私は恥ずかしくなりました。
国際政治の話を聴きにくるような人でも、こんな簡単なルールが守れないなんて…。
浅井氏は佐世保市民のマナーの悪さにあきれて、もう二度と講演に来てくれないのではないか…。

講演が終わったら、何も対処しなかったスタッフに抗議しようと思いました。
でも、終了後の人ごみの中で彼らの姿は見当たりませんでした。
また、私は探そうともしませんでした。

帰宅後、明日になったら長崎県立大学に電話しようと思いました。
でも・・・、そのまま忘れてしまいました。

そして、昨日の講演会で、あのおじさんが呈した苦言で思い出したのです。

私は、言うべきことを言う勇気に欠けていました。
ルール違反、マナー違反の人を見ても、それで迷惑している人や困っている人を見ても、
誰かが注意してくれるのを待っていることがほとんどです。

そして、そのような苦い思いも、時がたてばすぐに忘れてしまいます。

でも、あのおじさんは忘れていなかった。
怒りと恥ずかしさをしっかり受け止めて、行動をおこして下さった。
おじさんの気合いの入った呼びかけは、みんなの心に届きました。

名前も知らないおじさん、ありがとう。
あんなにかっこいいことは私にはできないけど、
言うべきことを感じたら口に出す勇気を持ちたいと思います。
はじめは蚊の鳴くような声かもしれないけれど、
何も言わなければ、何も感じなかったことと同じになってしまいますから。
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海と森

2008-12-14 | 雑感
前回、最後にちょっとだけふれた畠山重篤さんってどういう方?というメールを頂きました。

私もつい最近知ったばかり。先月3日の「文化の日」でした。
佐世保で「森と海のシンポジウム」が開かれ、そのとき基調講演をなさった方です。

いきなり「僕は一介の漁師です」と自己紹介なさいました。
宮城県は気仙沼湾で、牡蠣やホタテの養殖をなさっています。
でも、それだけではありません。

気仙沼湾に注ぐ大川上流の室根山での植樹運動や、
その成果を著した「森は海の恋人」他の執筆活動、
全国各地での講演活動など幅広くご活躍です。

私は、畠山さんの訥々とした語りの中に、海や森の本当の豊かさを感じ、
なんだかわくわくしてきました。
でも畠山さんのお話には、時々科学的で専門的な内容もさりげなく散りばめられます。
高校生の頃から化学を不得意分野とする私にはちょっぴり消化不良でしたので、
その後彼の著書を3冊ほど読みました。

その中でも、子ども向けに書かれた絵本「カキじいさんとしげぼう」は、とてもわかりやすく
私にぴったりの本でしたので、今日は、その本の内容を短くご紹介したいと思います。



「しげぼう」は漁師のこどもです。
いつも海で遊んでいます。川と海がぶつかるところに大黒岩があって、
そこにがっちりとへばりついているカキのおじいさんと仲良しです。

カキじいさんは、しげぼうにいろんな話をしてくれました。
川から流れてくる水はとても栄養があって、それで植物プランクトンがいっぱい増えること、
その植物プランクトンをおなかいっぱい食べて、カキやアサリやホタテ君たちも元気いっぱい育つこと、特に春の雪解け水はとってもおいしいことなどなど。

数年後、そのカキじいさんはすっかり元気がなくなっていました。
この頃の川の水はくさくて、泥水や毒の入った水も流れてくるというのです。
きっと川の上の方で何かがおこっているにちがいない、様子を見てきてほしい
とカキじいさんはしげぼうに頼みました。

夏休みになると、しげぼうは山に住んでいる親戚のおじさんの家に泊まりに行きました。
いとこのみちこちゃんは山のブナじいさんと仲良しです。
ブナじいさんの仲間が開発のためどんどん切られさびしくなったと涙ぐみました。

おじさんは、ブナの木がどうして「森のお母さん」と呼ばれるのか教えてくれました。

ブナの木はたくさんのおいしい実をつけ、鳥や動物に食料を与えるだけでなく、秋になると
何十万枚もの葉っぱを落とし、それを土の中の虫が食べて養分たっぷりの土ができるんだよ。
そして降った雨がその栄養分をとかして、やがて川に流れ、海に流れ、
その川の水が田んぼの稲も育てているんだよ。

そうすると、山の動物だけでなく、お米を食べる人間も、海にすむ魚介類もみんなブナという森のお母さんのお世話になっているんだ!
しげぼうは家に帰るとそのことをカキじいさんとお父さんに話しました。

カキの生育が悪くて悩んでいたお父さんは、山のおじさんと何やら相談をはじめました。

そして、早春のある日、お父さんとしげぼうは漁師仲間とともに山へ登りました。
トラックいっぱいにブナの苗木とクワやシャベルを積みこんで。
はげ山になった地面に、大漁旗が翻り、漁師さんが慣れない手つきで苗木を植えていきました。
山の人たちもおじさんと一緒に手伝いにきてくれました。

こうして毎年春になると、漁師さんと山の人が木を植えるのを見て、不思議に思っていた街の人も手伝ってくれるようになりました。

年ごとに森はふくらみ、川の水もどんどん変化してゆきました。

しげぼうが久しぶりに会ったカキじいさんはとても元気で嬉しそうです。
大黒岩のまわりの干潟にはゴカイやアサリやアナジャコがいて、
空にはカモメやミサゴ、カルガモ、カワセミが、
海の中にはアマモやホンダワラなどの海藻がゆれ、
メバルやウミタナゴなどたくさんの種類の魚たちが泳いでいます。

豊かな命あふれる海の中から生き物たちの大合唱が聞こえてきます。

うるうるうる うるるるる
うるうるうる うるるるる



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再開

2008-12-09 | 雑感
「一週間の御無沙汰でございました。司会の○×△でございます。」という台詞でいつも始まる歌番組がありましたね…かなり昔。

その司会者の決まり文句をお借りして・・・三週間の御無沙汰でございました。

心配をしてくださった皆様すみません。風邪をひいた以外は体に異常はありません。
熱しやすく冷めやすいヤツだからなぁと…私の本質を見抜きつつも時折覗いて下さっていた皆様すみません。決して冷めたわけではありません。

久しぶりに、少々、身辺整理していました。
というと誤解を招くかな?

深い意味はないのですが、
もともと超スローモーで整理整頓が苦手なくせに好奇心だけは旺盛で、
このままいくと、私の頭の中と同様に、超ぐちゃぐちゃな日常になりそうで、
そうなる前に、ちょっと一時停止、リセットしてみました。

私に与えられた時間の中で、
本当にやりたいこと、やれること。
やりたくないけどやらねばならないこと。
今しかできないこと、後でもできること。
などなど熟慮しつつ、やっぱり、このブログは再会することに決定しました。

ただ、今までよりはかなりペースダウンするつもりです。
書きたいこと、伝えたいことはたくさんあっても、ぐっと我慢。
身の丈にあったユックリズムでの~んびりいこうと思います。

それに、これまでの文章はかなり生意気で、ちょっと偉そうに構えていました。
知識も理論も何もないのに論文調で…恥ずかしいです。
自己満足に浸って長々と…深く反省です。
ですが、たぶん、文章力は急には改善されないと思われ・・・
なので反省はしても、きっとこれからも変わり映えのしない中身になる可能性大です。

けれど、そんなことも気にせず、マイペースで、ただぼちぼち発信していこうと思います。

やっぱり…有益と思われる情報を得たら、少しでも多くの人に伝えたいし、
素晴らしい人に出会ったら、その人の存在を誰かに教えたくなるし、
美しい自然に遭遇したら、その景色を切り取って、誰かに送りたくなるし、

それを受け止めてくれる誰かがいるかぎり、やはり続けたい…と思いました。
よかったら、今後とも、お付き合いいただければ嬉しいです。

以上、決意表明?終わり。


さて、では、このブランク中、心に残った景色を少しだけ贈ります。











11月末の暖かい日でした。
本土最西端の神崎鼻公園に行きました。

「夕日に一番近いまち」「海光るまち」がキャッチフレーズの小佐々町(現在は佐世保市)。
その通り、午後の太陽がきらめいていました。

真ん前に見えるのは黒島でしょうか?
最西端といっても、本土と地続きの最西端なだけで、もっともっと西の方に住んでいる人々はたくさんいます。
なにしろ、ここは、九十九島の海。

「九十九島」と聞いたときには、たくさん島があるという意味で、実際には99もないだろうと想像していたのですが、実はなんと208もの島があるんですって!


そして近年、その九十九島産の牡蠣が好評です。
小ぶりだけど身がしまってて、とても美味しいんです。
そのヒミツは・・・牡蠣祭りに行ったら、大きな立て看があって、楽しく勉強させてもらいましたので、ご紹介しまーす。
















「森は海の恋人」という本をお書きになった畠山重篤さんもおっしゃっていますが、
豊かな海は、豊かな森が作ってくれるんですね。。


そういうことが、やっと、少しずつわかりかけてきた今日この頃です。
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