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佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

金時鐘 日本語への報復

2011-12-21 | 雑感

長崎新聞文化欄、「日本語に報復するために」という見出しが目に止まった。

金時鐘さんのことが書かれていた。

在日詩人で、今年「失くした季節」という詩集で高見順賞を受賞した方だそうだ。

詩集などほとんど読まない私は全く知らなかった。

 

新聞記事やネットで検索してわかったのは、

北朝鮮・咸鏡南道元山生まれ。
植民地時代は済州島で育ち、日本語教育を受け、熱烈な皇国少年となっていった。

1948年には「4・3事件」(朝鮮半島南部の単独総選挙に反発した左翼勢力が武装蜂起し、鎮圧過程で左翼関係者と見なされた島民ら数万人余りが死亡したとされる事件)に関わり、翌年に日本へ渡った。

1973年から兵庫県立高校の教員となる。
「朝鮮、帰れ」という罵声に迎えられ、特に被差別の子どもたちの反発が大きかった。

 

実際の詩の一節に、こんなのもあった。

詩人であり朝鮮文学者でもあるぼくは声を持ちません。
声を上げるだけの寄り場が
ぼくにはありません。
くぐもってばかりで
声はぼくの耳でだけ鳴っています。

ぼくは知らせる手立てを知らないのです。
ぼくは情報機器のいかなものにも
属しません。置いてけぼりの
声だけが耳の底で鳴っています。

 

日本人が特別排他的だとは思えないが、朝鮮民族に対しては、それが言える。

なぜだろう?一番近い隣国で、大昔はいろんな文化がその半島から渡ってきて、

私たちの祖先はたくさんのことを学ばせてもらったのに。

顔も雰囲気もそっくりな民族同士なのに。

なぜ日本人は朝鮮民族に反感や蔑視の感情を持つのだろう。

幸いにも私の育った環境の中では未体験の問題だったので、

大人になって、その実情を知った時は、驚き以上に何故?という思いが強かった。

 

長崎は鎖国政策の江戸時代から、唯一の海外貿易窓口として外国人と交わり、

そのDNAが今も長崎の人々の中に welcome 精神を根付かせている。

そんな長崎県民でさえ、朝鮮人蔑視感情は強かったようだ。

 

一昨日聞いたばかりの友人の話もそうだった。

かなり以前のことだが、友人の妹さんの結婚相手が在日韓国人とわかったとたん、

お父さんはメチャクチャ反対した。

「アメリカ人でも黒人でもかまわんが、よりによって朝鮮人など絶対許さん!」と、

まわりがどんなに取りなしても、ご本人がどんなに誠意を尽くしても許してくれない。

姉である友人が「許してあげて・・」など言おうものなら、

「お前たちも出ていけー!」と怒鳴られたとか。

最後は「勝手にしろー!」と言われ、妹さんは勝手に結婚なさったそうで、

今はとても幸せな家庭を築いている。

 

お父さんはなぜそんなに朝鮮人を嫌ったのか?Y子さんに尋ねると、

「特別な理由はないと思う。あの頃この辺じゃそんな人多かったからね」と。

確かにそういう話は夫からもよく聞いた。

子どもの頃、「チョ-セン、チョーセン、パカスルナ!」と囃したてて遊んでいたと。

  

金さんは、1945年夏、植民地統治が終わるまで日本語を使っていた。

藤村の「若菜集」や小学唱歌や抒情詩歌が彼の心に住みついたのだろう。

憎むべき日本という国の言葉の情趣が母乳のように彼を育ててしまったのかもしれない。

 

僕にとって解放とは何だったのか。

歴史的事実としては植民地統治というくびきから解き放たれたが、意識の源泉である言葉の問題の面では解放されたとは言えないのではないか。

それを問うために、僕は詩を書き続けているのかもしれない。

僕はいつも、日本語に報復したいと思ってきました。

それはつまり、ぼく自身が身につけてしまった日本語の間口を広げ、日本語が豊かになる契機を差し出すことだと思っているのです。

 

 

コメント (2)
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