佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

玉ねぎの思い出

2009-06-30 | 雑感
先日、石木ダム建設予定地を訪れたとき、地元の方から玉ねぎを頂いた。
10個ほどが紐で結えられ陰干ししてあったものだ。

マンションのベランダでは日当りが良過ぎて、また雨にも当たるので、
玄関脇のちょっと奥まったスペースに干しておいたら、うっかり忘れていて、
今日初めてお味噌汁に使った。

お店で買う玉ねぎは頭の先っぽが短いが、こちらは茎につながる部分がかなりくっついている。
その長めの頭から一枚ずつ皮をむいていて、ふと、遠い記憶が蘇ってきた。

私が小学生になるかならぬ頃だったと思う。
いつも遊んでいるお隣の子と玉ねぎの皮をせっせとむいたことがあった。

1つ年下のその女の子Mちゃんと私は、よくおままごとをして遊んでいたが、
その日、Mちゃんの家の裏口にたくさんの玉ねぎを見つけた私は、嬉しくなった。

母からはまだ料理の手伝いなどさせてもらえなかったが、一度だけ玉ねぎの皮むきを手伝った。
それがとても面白かったので、「Mちゃんのお母さんもきっと喜んでくれるよ」と彼女を誘ってむき始めた。

ところが、Mちゃんも私以上に皮むきが楽しかったようで、二人で没頭してしまった。
気が付くと数十個の玉ねぎはほとんど真白に変身していた。

そこへMちゃんのお母さんが帰ってきて、私たちはすごく叱られた。
Mちゃんのお母さんは、どこからか頂くか買ってきたかした大量の玉ねぎを
軒下に吊るして保存しておこうと考えていらしたに違いない。

そういう光景をそれまで全く見たことのなかった私は、よかれと思ってやったことを
とても怒られて、戸惑ってしまった。
今思えば、その方の怒りはごもっともなのだが…
以来、「お隣のおばさん」は私の苦手な人になってしまった。

いまごろどうしていらっしゃるだろう?
うちの母のようにお元気だろうか?

そういえば、Mちゃんもどうしているだろう・・
昔の小学生は塾などいかなかったから、学校から帰ると、暗くなるまで近所の子と
遊んだものだった。学年の垣根を越えて。

私は1つ年下のMちゃんが大好きだった。
彼女は先天性の目の病気があって、片方の目が小さく、また眼球も濁っていた。
大人になったら手術するような話をきいていたが、子どもの頃の彼女は、眼帯もせず、
いつも自然なままの、明るく賢い女の子だった。

時には男の子たちから「ひんがら目!」などとはやしたてられても、決して泣いたりしない強い女の子だった。

そんな彼女が健気で可愛くて、いっしょに遊ぶときはいつも彼女の味方をしたくなる私だった。
弟や妹がいない私は、きっとお姉さん気分を味わっていたのだろう。

でも、なぜか中学になるとぷっつり彼女とは遊ばなくなった。
彼女だけでなく、近所の子どもたちの繋がりというのがなくなって、
友人関係のすべてが、同級生や部活の仲間に限定されるようになっていった。

異年齢のこども社会は楽しかった…そんな気がする。
今の小学生ははどうなんだろう・・

玉ねぎをむき終っても、しばし物思いにふけっていたら、お鍋の湯が沸騰して半分ほどになっていた。

よくあることです・・・ここだけの話。


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市民のいろんな考え?

2009-06-28 | 佐世保・長崎
今年の夏は、長崎で『平和市長会議』の総会が開かれる。
平和市長会議は1982年、長崎、広島両市が世界に呼び掛け結成したもので、
85年から4年に1回総会を開いてきた。現在134カ国・地域の2926自治体が加盟。
今年は2020年までに核兵器廃絶を目指す「2020ビジョン」実現に向けた議論も交わす。

その意義ある会議がせっかく県内で開催されるというのに、我が佐世保市長は不参加を表明したという。
えーっ!なんで?

市議会で質問され、市長は「市民にもいろんな考えがあるので」と答えたそうだ。

「市民のいろんな考え」って何?
平和を望まない佐世保市民がいるとでもお考えなのだろうか?


世界中どこの国のどんな民族も、一人ひとりの民は平和な暮らしを望んでいると私は思う。

国家レベルになると、国益の名のもとに、あるいは自衛のためと称して戦争が正当化され、
「愛国心」に燃える人々は、進んで戦場へ出かける場合もあるかもしれない。
が、都市レベルでは、そのような大義はない。
だからこそ、都市と都市は敵対する必要がなく、市民と市民は友好関係を築けるのだ。
 

今から20年前の1989年、広島で開かれた第2回平和市長会議を傍聴する機会があった。
まだ冷戦中のことだったが、欧米だけでなく、ソ連からも、イランからも市長さんが参加し、
ともに市民の平和を守るため、国家の枠を超えて手をつなごうと呼びかけていた。
そのスピーチに感動しながらも、一方では、こんなに長く続いている冷戦が終わることなど信じられない自分がいた。
しかし、その4か月後にベルリンの壁が崩され、翌年にはソ連が崩壊、東西冷戦の終焉が始まった。

以来私は信じている。人と人の交流、都市と都市の交流こそが世界を平和にすると。

佐世保市長さんも、ぜひ世界の市長さんと交流していただきたい。
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小さな駅で

2009-06-17 | 雑感
「潜竜ヶ滝」
初めて聞く名前の、小さな駅
薄暗い、短いホーム
改札もなく、踏切もなく、もちろん駅員も誰もいない
ホームの薄明りで真ん前に線路が見えるので、やっと駅だと信じられるけど・・・


大好きな詩人、藤川幸之助さんの講演があるのを新聞で知って駆け付けた

「インフィニタス江迎町文化会館で午後7時から」とあったので、
いつものようにネットで検索、場所と交通手段を確認。

地図で見ると電車の駅もバス停も近い、交通の便の良い場所にその会館はあった。
しかも時間的にちょうど良いバスがあった。
(なぜかバスの方が早い。電車は58分かかるのに、バスだと46分で行くらしい)

しか~し、往きはよいよい帰りは何とやら
バスの最終便は8時11分。これじゃあ半分くらいしか聴けない。
電車の最終便は9時11分だ。
よし!これにしよう。帰りは電車だ。
そう決めて、会場へ向かった。

バス停を降りると、道路の反対側に白い大きな建物が、目立って建っていた。
名前も確認せずに入って行ったが、やはりそこが「インフィニタス江迎町文化会館」だった。

受付を済ませてすぐに、受付の人に電車の駅までどう行くかを訊ね、最終電車の時間を告げ、
もしかしたら途中退席するかもしれない失礼を前もって詫びておいた。

その方は、私を大きな窓ガラスの所へ連れて行き、
「ほら、あそこの青い看板の右側に車が何台か止まっているでしょう。あそこがもう駅ですよ」
と、教えてくれた。
それは、嬉しいことにとても近かった。


初めて見るナマの藤川さんは、予想以上にお若くて明るい雰囲気の方だった。
詩を読むうちに私の中でかってにできあがっていたイメージとは程遠く、フレッシュな方だった。
話し方も、介護の疲れや暗さは微塵も感じさせない、爽やか熱血教師のような口調だった。

しかし、話の中身は、凄まじい認知症介護の現実。
私には縁がなかった、全く知らなかった認知症という病気の世界、
その世界に住む人の実態、
そして、その人を見守る家族の生き様、
すべてを率直に、温かいまなざしで受け止め、語っておられた。

そのような藤川さんの今があるのは、
「詩を書くこと」によって、苛立ちや葛藤を吐き出して、吐き出して、
心に残った大切なものに気づき、育んでこられたからだろうが、
また、「お母さんの面倒は俺がみる。俺がお母さんを幸せにする」と宣言して
その通りの日々を送ったお父さんの影響も大きいことだろう。

ご両親のエピソードで特に心に残ったのは・・・

お父さんは日々の生活をきっちりマニュアル化しておられたそうだ。
何時にお母さんと一緒に起きて、
何時にお母さんと一緒に朝食を食べ、
何時にお母さんと一緒に散歩に行くとかって。

その中に「お母さんと一緒に歌う」というのがあって、
二人はいつも「旅愁」の歌を歌ってた。

いま、寝たきりで、すべての言葉を失い、何もわからず無表情のお母さんが、
藤川さんが耳元で「旅愁」を歌ってきかせると、「おー、おー」と反応するそうだ。


9時近くなっても藤川さんのお話は続き、後ろ髪を引かれながら、会場をそっと抜け出した。

教えてもらった場所に、車が1台止まっていた。
そのそばの地べたに座って話し込んでいる若い"お兄さん"風の若者が二人。
暗くて駅舎ふうな建物も見えないが、その若者たちに訊くのはなんとなく躊躇われ、
そばにある小さな階段を上って行った。
と、確かに小さなホームがあって、ベンチもあって、駅に間違いなさそうだ。

が、切符はどこで買うんだろう?
窓口もないし、自販機はどこにあるんだろう?

しかたなく、もう一度階段を降り、くだんのお兄さん風の二人に声をかけた。
「あのー、ここは潜竜ヶ滝駅ですよね?切符はどこで買うんですか?」

「ああ、切符は電車の中で買うったい」と言い、一人が立ち上がろうとしたので、
「あ、大丈夫です。電車の中ですね。どうも」と、頭を下げ、急いでホームへ。

ホームの外は真っ暗で、何の気配もなく、ほんとに電車はやってくるのかしらと
不安な気にさえなってきたが、しばらくすると電車の近づく音がした。

電車はたった1輌だけ。
どこから乗るのかな…きょろきょろしていると、足音が近づいてきた。

さっきのお兄さん風の一人が後ろのドアを指さし「整理券ば取っとよ」と教えてくれた。
ああ、あの人も電車を待っていたのかと思いつつ、頭をちょこっと下げて乗車。
ほんとだ。乗るとすぐ右側に整理券の出るBOXがある。バスと同じシステムなんだ。

整理券を取りながら後ろを見たが、お兄さんの姿はなく、すぐにドアが閉まった。
あれ?窓からホームを見ると、その人は、外への階段を降りるところだった。
もしかしたら、わざわざ乗り方を教えるために上がってきてくれたの?
まさか…

でも、たぶんそうに違いない…
そう思えたのは、藤川さんのお話を聴いたばかりで、とても素直な気分になっていたからだろうか。


遠ざかる小さな駅の灯りが、私の心にほっこり残った。


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子どもサミット

2009-06-07 | 佐世保・長崎
今日は、「フリースペースふきのとう」による第5回子どもサミット。

私たち「うたごえフレンド」は、前回同様、オープニングで歌うことになりましたが、
今回は病気やお仕事で来られない人も多く、メンバーが少なくて不安でした。

でも、ギター伴奏の一人Nさん(14歳)が、友達に声をかけてくれて、
女の子たち3人が急きょ参加してくれて・・・大助かり!
大人だけで歌うより、声もずっと通るし、雰囲気も明るくなって大成功!
まさに怪我の功名でした。

オープニングのあと、高垣忠一朗先生(立命館大学教授、臨床心理学博士)の講演があり、
そして、いよいよ6人の若者によるトークが始まりました。

16歳から21歳までの男女、皆不登校経験者で、
今は苦しい時期を乗り越えて、通学していたり社会人になっていたり…。

不登校になった背景も、家族の対応もそれぞれ異なっていましたが、みんなの共通した意見は、

「不登校の子を無理に登校させようとしないで」

「時期が来るのを待って、見守ってほしい」

「不登校を後悔していない。不登校のときがあったから今の私がいる」

「不登校は成長していける期間。大人と闘って、社会と闘って、自分と闘って…」

でした。


特に印象的だった二人・・・

一人は、20歳のY君。

高1の頃から学校に行けなくなった。
自分でも理由がよくわからないのだが、なぜか学校が怖くなった。
なんで怖いのかわからない。
いやなことはいっぱいあったけど、そのどれが原因なのかわからない。
わからないけど、夜になり、明日の朝は学校に行かなきゃと思うと、怖くて眠れなかった。
母に何度も云われた。「どうして行かないの?」「甘えているの?」と。
何も答えられないのがきつかった。
学校に行けない自分が生きていていいのか…と思うようになり手首を少し切った。
母に「もう行かなくていい」と言われたとき、ホッとした。

彼は、体も声も細くて、とても華奢な青年。
でも、何を語る時も、優しく微笑んでいて、春の日差しのような温かさを漂わせていました。

もう一人は、21歳のTさん。

彼女の少女時代は、本当に辛い環境に置かれていました。
中学校に入ってすぐ、小学校の頃からの友人に疎外され、寂しい日々を送る。
母に相談しようとしても、忙しい母はきいてくれなかった。
そのうち、朝制服を着ると頭痛や腹痛に襲われ、登校できなくなった。
母は仮病だと言い、わがままだとも言った。
そして、ほっぺたやお尻をたたかれた。
父は母以上に私を嫌い、食事も与えなくなった。
それで、養護施設へ入れられた。
養護施設でもはじめは辛いことが多かったが、理解してくれる先生に出会って、
こんな私でも生きていていいんだと思えるようになった。
卒業してからは祖父母と暮らしている。

そんな過去を微塵も感じさせない、清楚なお嬢さんという感じのTさんでした。
声もきれいで、話もわかりやすく、ちょっと訛りのあるイントネーションが
その話し方に独特の魅力を与えていました。
今は子どもたちの話をきいてあげる良きお姉さんとして活躍中のようです。
居場所を見つけた彼女は、本当に幸せそうでした。


自分をさらけ出して語ってくれた勇気ある6人の皆さん、ありがとう。
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5年後の小学校で

2009-06-02 | 佐世保・長崎
日本中が衝撃を受けたあの日から、まる5年が経ちました。

小学6年生の女の子がクラスメートの女の子をカッターナイフで切りつけ死亡させたという・・・
信じられない事件でした。

事件が起こった佐世保市のその小学校では、6月1日「こころを見つめる集会」が開かれ、
その様子を翌日の長崎新聞は一面と社会面のトップで詳しく伝えています。

児童会で作った曲「大切な友達」を6年生がハンドベルで演奏し、
全員で黙とうをささげ、
校長先生は「6月1日はこの学校にとって忘れてはいけない日。
夢に向かって、たくましく生きる子どもになって下さい
」と語りかけ、
こどもたちは誓いの言葉を述べ、
保護者や地域住民や先生の代表がメッセージを伝えたという。

事件現場の教室を改装した「いこいの広場」では、
こどもたちがそれぞれ種から育てたサルビアの苗をプランターに移植。
そして亡くなった女の子の同級生である高校生たちが、
女の子が好きだったヒマワリを花壇に立て、
今日で5年だね… これからもずっと友達やけんネ」と書いたカードを添えた。

また、この日、児童文学作家のあまんきみこさんが来校し、
「いのちをつなぐ―作品を通して伝えたいこと」と題して講演。
こどもたちに優しく語りかけた。

ミーハーな私は、ええっ!あの、あまんきみこ?
「ちいちゃんのかげおくり」のあまんきみこ!
「きつねのおきゃくさま」のあまんきみこ!
と、心拍数が急上昇。

こどもたちもさぞかし目を輝かせ、耳をダンボにして聴き入ったことでしょう。

記事によると、あまんさんはご自身の戦争体験
(終戦直後に旧ソ連軍が進駐して学校が2か月間閉鎖され、同級生と一時会えなくなったこと)
を伝え、「登校できた時は、同級生らと抱き合って喜んだ。本当に人とのつながりが無くなった時
どんなに大切かが分かる」と話されたそうです。

また、「どんな思いを込めて作品を書いているのですか?」との児童の質問に、
あまんさんはこう答えています。

人生の中には光がいっぱい射すこともある。
自分に光が当たっていることで、その影が誰かに当たっているかもしれない。
そういうことも思ってほしい。

いま日本は戦争のない国だけど、
いまも被災して逃げ惑っている人がいることも思ってほしい。

光が当たるのとは逆に、真っ暗になることもあるかもしれない。
でも生きていれば必ず、光は当たる。

光のある世界を信じてほしい。
それが物を書くときに根元にある思い。


これらの言葉の中に、私はかってにあまんきみこさんの同級生Mさんの幻を感じました。
ポプラ社文庫の「おかあさんの目」のあとがきに、あまんさんは書いています。

戦時中、大連での女学校時代、仲良しのMさんと童話を書いては見せっこしていたことを。
Mさんはとても聡明で、彼女のお話にはいつも春の精や花の精が出てくる美しい世界だった…と。
そのMさんは戦後20代前半の若さで結核のため亡くなりますが、
あまんさんの中ではいつまでも大切な友人として生き続けているようです。
その本の出版に際して(2005年)お礼の言葉を伝えたい人の一人としてMさんの名前をあげ、
その理由をこう述べています。

「つらい戦時中のひととき、小さなお話交感の楽しさを、かくれながらわけあったことは、
私のかけがえのない力になっています」
と。



あまんさんのお気持ちはよーく分かる気がします。
心の底から分かり合えたり、尊敬や憧れの対象でもあるような友人に出会えたとき、
それはまた家族とは違う大切な存在となり、人生を豊かにしてくれるものです。

5年前のあの二人もそういう関係になれたかもしれない・・・
そういう聡明で魅力的な女の子たちだったように私は感じています。

だけど、一人がどこかで獣道に迷いこんでしまった・・・
きっと深い霧がたちこめて、彼女は不安でいっぱいだったんだろう、
早く明るい日の射すところに出たくって、闇雲に突っ走っていたら、谷底へ・・・

その霧は、この社会そのもの。
彼女の理性や判断力を奪った霧は私たちが作りだしたもの。

その霧の正体を突き止めるまでは、私たち大人も、いえ、大人こそ「6月1日を忘れてはいけない」
そう思います。


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