佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

アフガン

2008-08-31 | 平和

友人から、

ぺシャワール会のホームページ http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/kaiho/96nakamura.htm

 に掲載されている中村哲さんの報告を読むと、

本当の意味で伊藤君を死に追いやったのが、

テロリストではなく、対テロ戦争であったのだということが良く分かります。

 と書かれたメールが転送されてきた。

 

 抜粋された中村さんの報告は、このようなものだった。    

 

<対日感情の動き>  

日本国内で議論が沸騰した「インド洋での後方支援=給油活動」は、幸いほとんど現地で知られておらず、「最大の民生支援国」であることが政府・反政府を問わず、好感を持って迎えられていた。

在日アフガン大使も、日本が(アフガンの国土に)兵力を送らぬことを望むと述べている。このことが私たちにとって大きな安全になっていたのは疑いがない。

しかし、六月になって「日本軍(Japanese Troop)派遣検討」の報が伝えられるや、身辺に危機を感ずるようになった。

余りに現状を知らぬ軽率な政治的判断だったと言わざるを得ない。

日本が兵力を派遣すれば、わがPMS(ペシャワール会医療サービス)は邦人ワーカーの生命を守るために、活動を一時停止する。

これまで、少なくともアフガン東部で親日感情をつないできた糸が切れると、自衛隊はもちろん、邦人が攻撃にさらされよう。

私たちはアフガン人が「故郷を荒らす日本兵」を攻撃するのを止めることができない。悲しむべきことだが、これが冷厳な現実である。

この末期の段階で軍事行動に協力する愚かさの帰結を、身にしみて知ることになろう。

(ペシャワール会報96号:2008年6月25日発行より)

 

現地を知り尽くした中村哲医師の、信頼できるこの指摘を、

見逃したor見て見ぬふりをした政府の罪は決して軽くないだろう。

学者や評論家やジャーナリストも同じではないか?

 

国家の思う平和と、 民の願う平和と、

同じことばなのに、それはまるで別物のようだ。

中村哲さんが以前から訴え、危惧していたことが現実になってしまったのに、

まだ為政者たちは、その過ちに気付いていないのだろうか?

気付かないふりをずっと続けるつもりなのだろうか?

 

29日に佐世保を訪れた外務省日米地位協定室長のコメントが

昨日の新聞に出ていた。

彼は、放射能漏れの情報伝達が遅れたことを謝罪し、

発覚から一カ月近くなってやっと訪問したことにも、

「批判があれば、甘んじて受け止めたい」と言った。

が、そのあと、

佐世保市長や市議会が、 原因が究明されない中での原子力艦船寄港拒否

を示唆したことについて、

「原潜を含む米軍の存在は、わが国の安全に重要な役割を果たしており、

入港の差し止めを米に申し上げる考えはない」と述べたのだ。

 

「申し上げる考えはない」と。

 

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8月が往く

2008-08-31 | 雑感
原爆記念日、終戦記念日、お盆・・・
1年で一番、命のことを意識する月。

今年はさらに、伊藤和也さんの悲しい事件があって、
いつもの8月よりも、もっともっと、意識してしまった。

いま、長崎県美術館では「相田みつを展」が開催中である。
8月8日のオープン以来、大盛況で、19日には1万人突破、
26日には2万人突破。
明後日、9月2日の最終日にはまた大変な混雑になることだろう。





以前から、彼の言葉が好きだった。
書の魅力はよくわからないが、心の底を見つめて見つめて、
その混沌の中から掬い取ったような本音や真実が、ストンと私の中に落ちていく。
そんな共感を覚えて、銀座にあった相田みつを美術館に行ったこともあった。
本も買った。
が、いつのまにか(たぶん、今回の引っ越しで)、その本も行方不明。

長崎まで足を延ばしてみようか…という気もしないではなかったが、
あまりにも新聞テレビで報道するので、
へそ曲がりな私は、やや興ざめ…や~めた!

そのかわり、本を買った。
今年出版された「いのち~いちばん大切なもの~」。
おなじみの作品も多いが、全く知らなかった詩もいくつか。
その中の2つ。「蜩」「三人分」
共に戦死した二人のお兄さんのことを詩っている。
残された親の想い、弟の気持ちを詩っている。

この本のあとがきに、相田一人氏は書いている。
 
  父は何を伝えたかったのでしょうか。
  出逢い、感動、人間など、相田みつを作品のキーワードを通して
  見えてくるのは、いのちというものへの深い思いです。
  大正13(1924)年に生れた父は昭和と共に歩んだ世代に属します。
  父の青春時代は、まさに太平洋戦争と重なっています。
  終戦のとき、父は21歳でした。
  かろうじて生き延びたものの、
  仲のよかった二人の兄はビルマ(現ミャンマー)と中国で
  若いいのちを散らしています。
  二人の兄たちの戦死。それが父の原点です。
  そこから、いのちをテーマに作品を書き始めるのです。
 
あらためて、彼の作品をじっくり見てみたいと思った。




   
   
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哀悼

2008-08-28 | 平和
「私が目指していること、アフガニスタンを本来あるべき緑豊かな国に戻すことをお手伝いしたいということです。これは2年や3年で出来ることではありません。 子どもたちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう、力になれればと考えています。」

アフガニスタンで亡くなったNGOスタッフ伊藤和也さんが、
「ペシャワール会」のワーカーを志望して書いた文面の一部である。

その彼が、その地で拉致され殺された。
関係者ならずとも、その死を悼み悲しんでいる人々はたくさんいるだろう。
ごくわずかな会費を払うだけの「ペシャワール会」末端会員としても、
他人事とは思えなかった。

新聞によると、
タリバンのムジャヒド報道官は関与を認めたという。
「日本人を殺害した。すべての外国人がアフガンを出るまで殺し続ける」と。

それでも、会の現地代表中村哲医師は
「大部分のアフガン人は我々を守ってくれる存在であり、
一部の犯罪者の存在によってアフガン人を断罪しないでほしい」と語った。

それは、伊藤和也さん本人も同じ想いだと思う。

経済格差に勝るとも劣らず、同じ地上に生きる人の命の重みの格差は大きい。

アフガニスタンの子どもたちの命を支える農業支援がしたいと出かけた彼が、
いともあっけなく、軽々と、その命を絶たれた。

しかし、いつかきっと、彼がアフガニスタンに蒔いた種は芽を出すだろう。
それはこどもたちの食を満たすだけでなく、
タリバンの人々の心にも届くものであると信じたい。

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地方紙

2008-08-27 | 雑感
佐世保に越してきてから、長崎新聞を読んでいる。
それまではずっと朝日新聞だった。
ここ数年は時々朝日への不満を感じることもあったが、
他紙に切り替えるのもなんとなく億劫で、そのままになっていた。

引っ越しをきっかけに、朝日から足を洗おう?と思った。
そして、できれば地方紙がいいと思った。

読んでみて感じるのは、読み易さ!

掲載されている写真の半分くらいがカラーで、それは、
より読者の目を引き付けるし、紙面が明るく感じる。
特に、ローカル面4ページの写真は皆カラーである。

地方紙だからローカルニュースを重視するのは当然なのだろうが、
経済面も、3ページ中1ページは「ふるさと経済」と銘打った地方版。
地域の企業やお店に関する面白い記事も豊富で、経済の苦手な私もつい目が行く。

では、長崎以外のことはあまり報道されないのかというと、そうでもない。
先日は、さいたま市で「いじめを許さない教師の会」が初の全国大会を開き、
教師自身の意識改革や連携を訴えたという記事に出会い、
つい最近まで埼玉県人だった私としては、内心拍手を送りつつ読み返した。

また、被爆地長崎の新聞という特殊性もあるのだろうが、
平和に関する記事が多いのも特色だろう。

8月10日、東京の友人から送られてきたメールには、
「東京の朝日新聞では、長崎の原爆の日の記事がたった100字だった」
と書かれていたが、その差に唖然!
10日の長崎新聞は、全紙面の半分は「原爆の日」関連である。
切抜きしようとして、裏も表も残したい内容で、選択に困ることもあったほど。
結局、この日私が切り取った記事は23件。
その3分の2は、小・中・高校生たちの平和学習や活動を伝えるもの。

こんなにも長崎のこどもたちは学んでいる。
原爆について、戦争について。
そして、平和を守るにはどうしたらいいのか考えている。

きっと広島や沖縄も同じだろうと思う。

被害にあった地域だけが過去に学び、次世代に歴史を伝えようと努力する。
それ以外の地域は、一部の人を除き、忘れ去り、努力を怠る。
そして、同じ過ちを繰り返す。
そうならないために、この子たちの学びが活かされ、広がることを強く願う。

話が横道にそれてしまった。
新聞に話題をもどし、ひとつの記事を紹介して、終わりにしたい。

それは、「対馬ちんぐ音楽祭2008」の記事。
音楽を通して友好を深めようと13年前から開催されている祭りで、
今年は韓国から3組、日本から4組のミュージシャンが出演したらしい。
チューリップの財津和夫さんや小室等さんなど、懐かしい名前があった。

長崎県対馬市でありながら、距離的には韓国の釜山のほうがはるかに近い。
当然交流も盛んで、市内のほとんどの道路標識には韓国語が併記されているらしい。
なのに、竹島問題でいつも犠牲になる対馬。
どっちの領土だとか、どっちが正しいとかでなく、ただ仲良くやっていきたい。
多くの対馬市民は、そのように感じているのではないだろうか。

「ちんぐ」とは、友達・仲間という意味。
韓国でも対馬でも使われる言葉だそうである。


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2008-08-24 | 雑感
死亡原因のトップに君臨して久しい「癌」という病気。
今や死因の3割が癌だという。

私の父やその弟妹も皆、癌で亡くなった。
母方の叔母や従姉も癌で亡くなった。
夫の母やその妹も。

しかし、それぞれの癌は医学の進歩でその生存率は伸びている。
なのに死亡者数が増えているのは、高齢者人口の増加のせいらしい。
その罹患率は、2000年には1980年の2倍に達したようだ。

一昨日東京の友人から届いた手紙には、
卵巣癌の手術を終え、近況が記されていた。
合唱団団長の彼女は、仲間の励ましと歌への意欲に支えられ、
「気長にがんばります」と結んでいた。

昨日、同窓会準備会で会った級友の一人は、白血病の一種の病気で
入退院を繰り返してきたという。
でも、闘病中とは思えない元気な話しぶり。
聞けば、自分の病気について徹底的に勉強し、医師と対等に話し合いながら、
治療法を模索してきたそうだ。
試行錯誤の末、いま使っている新薬がとても有効に作用しているのだとか。

彼の目の輝きに生きる喜びを感じた。
健康体に慣れ、その有難さや生きている実感も薄れがちな自分を反省。

明日、前立腺癌の手術を控えて入院中の友人は、
ベッドの中からメールを送ってくれる。
退屈で、早くも「別荘」暮らしは飽きたと。
入院前も今も元気な彼である。

戦争は大嫌いな彼だが、病気との闘いだけは怯むことなく挑み、勝利確実!
退院後はまた穏やかに平和活動を再開し、
いろんな情報を発信してくれることだろう。

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市議会傍聴

2008-08-22 | 佐世保・長崎
21日、原子力艦船入港に関する意見書を採択するため、
佐世保市議会が臨時会を開くと聞いて、
興味津津、出かけた。

自慢じゃないけど、市議会傍聴は初めてデス。
30年も住んでた新座市でも…無し。
だって、あの頃は、平日は仕事で忙しかったし…
なんて言い訳ですね。
ハイ、わかっております。

だから、佐世保市民の傍聴者が少なくても、とやかく言う資格はない。
それもわかっているが、こんなに大事な問題だから、
自分たちの身の安全にかかわる問題だから、
もう少し来てるかなぁと思ったけれど…20人ほど。
(知人の話では、「いつもよりかなり多いですよ」とのこと)

全議員数は36名。
2つほど空席があったが、女性議員の姿は二人だけ。
ちょっと少な過ぎだなぁ・・・

まず、米原潜ヒューストンの放射能漏れが判明した8月2日以降の状況について、
朝長市長から経過報告があり、
次に、市議会基地対策委員長より、意見書案の読み上げがあり、
一人の議員(共産党)から賛成の討論があり、
そのまま「異議無し」の全会一致で採択された。

正味15分ほどのあっけない議会だった。
もっと侃々諤々議論されるかと思っていたので、なんだか拍子抜けした気分。。

でも、考えてみると、これって、
与野党の別なく一致して市民の安全を考えているということなのかも。
であれば、それは素晴らしいこと…という気がしてきた。

あとでわかったことだが、基地対策委員会の委員長は自民党議員で、
委員のメンバー構成は、保守系議員が5名、
社民、民主、公明の議員が各1名、共産党議員はいない。

その委員会の中で、外務省への強い不満の声があがったのだ。

意見書では、まずはじめに
放射能漏れの事実の通報が遅れたことに強い遺憾の意を表しているが、
実際の委員会では、
「市長が上京するのではなく、外務省自身が佐世保に謝罪に来るべきだった」
との意見さえ出されたらしい。
  
正論ですよね!

また漏れが微量ということで容認されるものではなく、
漏えいがあったということそのものが論じられるべきだと強く指摘。

そして、徹底した原因究明と具体的な再発防止策、
佐世保港南部への放射線測定機(モニタリングポスト)増設など
六項目を要望した。

この意見書は、来月初めに
市議会議長と基地対策特別委員長が外務省、文部科学省に直接届け、
また、首相や衆参両院議長らにも送るそうである。

地方の要請に国がどれだけ真摯に耳を傾けるかは甚だ疑問だが、
でも、一佐世保市民として、市議会に拍手を送りたい。

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娘たちが帰った

2008-08-16 | 雑感
今日は朝からずーっと雨

雨の合間をぬってお墓参り。

その前に、途中にある「佐世保バーガー」の店でバーガーを食べることに。
全国的にその名を知られる佐世保バーガー。
若い二人は、これを食べるのをとても楽しみにしていたのだ。

一番人気の店に案内すると、長蛇の列。車を止める場所も無し。
しかたなく後戻りしてもう1軒のバーガーショップへ。
ここも並んでいたけれど、待つこと30分。やっとありつけた。
ビッグサイズに驚きながら、美味しそうにかぶりつく二人。
待った甲斐あり!よかった。

霊園に着いた頃は大降り!
お参り前にバーガー食べたりして、おばあちゃんが怒っているのかな?
トイレの屋根の下で雨宿りしながら小降りになるのを待つ。
「お墓の形が違うね」娘がぼそっと言う。
そういえば・・・こちらの墓苑はみな同じ背の低い洋型墓石。
長崎はクリスチャンが多いせいだろうか?

お参りを済ませ戻ろうとすると、すごい雷と、前以上の土砂降り。
またまたトイレの前で雨宿り。
するとたくさんの小さな虫が飛んできた。
いままでどこにいたのか、虫たちも雨宿り。
トイレの壁だけでなく、私たちの体にまでいっぱいとまるので、
私たちは手足をばたつかせ、一生懸命振り払った。

家に戻って、一休みした後、娘たちと共に福岡空港へ。
走り出して気がついたのだが、窓の外に先ほどの虫が止まっている。
小指の爪の半分ほどの、あの小さな虫が、
つるつるのガラス面にしっかりへばりついている。
外は雨なのに。
高速に入ると、スピードは100キロを超しているのに。
まだくっついている。
吹き付ける風を受けて、折りたたんだ羽が小さく震えている。
どうやってくっついていられるんだろう?
その足にはよほど強い粘着力の粘液でも付いているのか?
タコのような吸盤でもついているのか?
どんなに目を凝らして見ても、その秘密はわからない。
出発して40分ほどたったころだろうか、
気がつくと、もうそこに虫の姿はなかった。
自分の限界に挑戦し、見極め、どこかに飛んで行ったのだろうか?
だといいけれど・・・。

福岡に近付くにつれ渋滞。予定よりかなり遅れて到着。
早めに出て来てよかった。
たくさんのお土産を買って、
目的の一つだった長崎ちゃんぽんを福岡空港で食べたあと、
彼らは飛び立っていった

お疲れ様。またおいで。

次はどんなところを案内しようかなぁ。
それまでに、もっと佐世保や長崎を探検しなくっちゃ!
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雲仙・島原へ

2008-08-15 | 
今日は、佐世保を離れて雲仙・島原へ

期待通り、高地の雲仙に吹く風は涼しくて、車の窓を開けると、自然の風が気持ちいい
しかーし、誰の行いが悪いのか、山頂付近は雲に覆われていて下界が見えず!
楽しみにしていたロープウェイも乗らずに戻ることに…残念!



仁田峠付近ではたくさんの枯れ木が目に付いた。



道端の説明板によると、
2002年の雲仙・普賢岳大噴火の際、火山性ガスにより枯死したモミの木の残骸。
最近ではこの山の再生のため住民による植樹活動も行われているそうだ。

山を下りて、向かうは地獄。
地獄の入口に立つ九州ホテル内の「100年ダイニング」で、
地獄の湯煙を見ながら昼食。

窓から見るにはいい眺めでも、
実際に歩いてみると、強烈な硫黄の匂いに閉口!
一刻も早く地獄を脱したかった。
やはり地獄は行きたくない場所である・・・。



ビードロ美術館や、足湯広場で遊び、次に目指すは島原城。



着いたのがすでに5時を過ぎていたので、お城を眺め、周囲を散策するのみ。
だが、人気の引いた城の庭はしんとして風情がある。
城の裏の一角にいくつかの銅像がたっていた。
「観音菩薩像」、「若き日の小田信長」、「聖火」等々。
なかなか見ごたえのあるものばかり。



よくみると作者は、北村西望! 
あの長崎平和公園の平和祈念像の作者ではないか!
う~ん、どおりで、素晴らしい!
あの仁王像のような作品の怒った表情は、
その眼の玉といい、突き出した指先といいすごいなあぁ~
ため息交じりに見ていたら・・・

番外編?発見!
「天草四朗像」と記されたその像は・・・どう見ても美少年とは言い難い。
メタボのおじさんが羽織袴に鉢巻き締めて立ってるみたい(笑)
天草四朗というよりは、「桃太郎!」と皆の意見・・・。
(北村先生、すみません!)



実は島原は、知る人ぞ知る水の都なのである。
あちこちに水が湧き出ている。
これも、江戸時代の雲仙普賢岳の噴火によって湧き出したのだとか。
自然の力ってすごいなぁ。
人間の営みはやはり自然に左右されているんだなぁと思う。

市内のいたるところを流れる水路は、透明で清らか。
鯉がいっぱい泳いでいた。





その鯉に見とれていると、爆竹の音やお囃子が…。

今日は8月15日。精霊流しの日。
長崎県内いたるところで見られる仏教行事。
新しい仏様の霊を精霊船に乗せて運ぶ。
特に島原の精霊船は独特で、
竹と藁で作った船に切子灯篭を飾ったたいへん美しいもの。



ネット上でその写真を見て惹かれ、是非見たいと思っていたけれど、
どこに行けば見られるのかわからないままだったのだ。
それが、路地を歩いていたら、なんと…むこうからやって来た!
なんて運がいいんだろう。

まだ明るいので灯りはついていなかったけれど、
白と水色のコントラストが清楚で悲しげな美しさを醸し出している。

同じような船がいくつもいくつもやってきて、
船の前には「○○家」の文字が。
先頭を歩く初老の女性は喪主の方だろうか。

担ぎ手たちは何か掛け声をかけているが、聞き取れない。
交通整理をしていた方に夫が訊いてみると、「なまいどー」と言ってるそうな。
ナマイドー?
「そう、ナンマイダブツ、ナンマイダブツと言ってるうちにナマイドーになったんやろね」と、解説してくれた。
なるほど!

もう少し待ったら灯篭に灯がついて、有明海に流されるという。
その幻想的な光景を見たかったけれど、男性陣は興味なさそう。
「それより早く帰りたい。帰って飲みたい、飲みたい!」と
ドライバー役の夫が念仏を唱えるように言う。
しかたなく、後ろ髪を引かれる思いで、帰路に就きました。

いつかまた来たい。ゆっくりと。
できれば、ひとりで・・・

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娘夫婦が来た

2008-08-14 | 佐世保・長崎
民族の大移動が行われるこの時期、できれば家でのんびりしたいところ。
外は酷暑だし・・・

でも、、埼玉から娘と彼女の夫K君が遊びに来たので、
暑さも人ごみもなんのその、一日中さるいた。(さるく=歩きまわる)
何しろ高い高い飛行機代を使って来てくれたと思うと、
少しでもたくさん長崎を楽しんでもらいたくて・・・。

私たちがまず訪れたのは、佐世保市が一望できる弓張岳。(標高361.5m)



佐世保で育った夫が二人にいろいろ説明しているのを横で聞きながら、
私も、山の緑と光る海とその境に広がる街並みを見渡す。





鉄道や佐世保駅や建設中の高速道路、山の中腹まで密集している住宅街。
そして、貴重な平地に点在する米軍基地をあらためて実感。

山を下り、街が近づくころ、ある小学校のそばを通り過ぎた。
この明るい校舎を見るたびに私は過去の事件を思い出してしまうのだが、
佐世保市民の多くはもう忘れたいと思っているようだ。
誰にでも触れられたくない傷があるように、
地域でおきたあのショッキングな事件も、
人々の心の中に、自分の傷のように残っているのだろう。

ただ、あの事件の背景にあったもの、
子ども社会の病んだ現実や、それを生み出した大人社会の病根などを
考え続けることは大切だと私は思っている。
今なお日本の子ども社会にはいろんな問題が内在している。
いじめ問題も決して解決したわけではなく、深く広く蔓延している。
今もどこかで悩み苦しみ、死をも考えている子どもがいるかもしれない。
そのことにどうやって気づき、どうやって防いだらいいのか…。
いつも、事件後に悔やむ私たち。

次に向かったのは、西海パールシーリゾート。
九十九島遊覧船やカヤックの乗り場があって、
水族館や船の展示館、ドームシアターもある総合レジャーランド。
夏休み中なので、子ども連れでいっぱいだ。

しかし、大きな水槽には巨大な亀が悠々と泳いでいたり、
面白い顔の魚がいたり、珍しい生物のはく製もあって、
大人も大いに楽しんでいた。





お目当ての九十九島サンセットクルーズの出航は6時15分。
あたりはまだ十分明るい。
心地よい潮風を浴びながら、過ぎゆく島々に見入る。
K君はずっとビデオカメラを回しっぱなし、横で娘もパチパチ写真撮影。

突然、娘が教えてくれた。「お母さん、空がすごくきれいだよ!」
ほんとうだ!
雲の中の夕焼けもまた美しい。







クルージングの後は、歓迎飲み会(夫が一番楽しみにしていたこと!)
魚がおいしい佐世保の中でも、特に美味しいと評判のお店へ案内。
魚介類が苦手なK君も、埼玉では味わえない新鮮な食感に驚きながら、
どんどん箸が進む。
特にイカの活き造りは気に入ってくれたようだ。
皿の上でいつまでも足を動かしていたイカさん、ごめんなさい。
ごちそうさまでした!
げそは塩焼きにしていただきました。

これをきっかけにK君の魚嫌いが治るといいなぁ。。
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2008夏 ナガサキから

2008-08-10 | 平和
昨日8月9日は、63回目のナガサキ原爆の日。
その祈念式典に参列したくて、再び長崎へ。



平和公園に着いたのは式典開始15分前で、会場はすでに満席。
ほぼ1時間、外で立ちっぱなしだったが、あっという間の1時間だった。
何と言えばいいんだろう・・・大きな式典なのに、ほのぼのとした空域を感じた。





高校生男女二人による司会進行は歯切れよく爽やかで、
市長による「平和宣言」はわかりやすく心のこもったものだった。
被爆者代表による「平和の誓い」大きな悲しみと共に
力強い勇気を与えてくれた。
児童による合唱は一生懸命で、
女子高生による合唱は美しく、どちらも感動的だった。
また、場外ではお茶やおしぼりのサービスなど
高校生のボランティアがかいがいしく動いていた。

そして、式典の後も、心に残るできごとが待っていた。



平和公園の近くの爆心地公園までやってきたとき、
どこからか若者のアピールの声が聞こえてくる。
集会などをしているグループもいないのにどこからだろう?と見回すと、
日がかんかんと照る公園の中ほどで「OPEN MIKE」と書かれた立て看板の横で
女の子が一生懸命呼びかけている。



「皆さんは今日は、どんな思いでこの長崎に来られたのですか?
せっかく集まった私たち。胸の内を語り合ってみませんか?」
でも、足を止める人はほとんどいない。写真を撮ったり、
異例歩の前で手を合わせると、次の場所へ移動する。
彼女は私をまっすぐ見つめて「何でもいいから話してみませんか?」と繰り返す。
両横や後ろを見ても誰もいない。
しかたなく、私は勇気を出してマイクの前に立った。

私は埼玉県から佐世保市に越してきたばかりであること。
つい先日、佐世保港に原子力空母レーガンが寄港したこと。
でも、多くの佐世保市民は無関心のように見えたこと。
私はそういう人々と対話してみたいと思っていること。
憲法9条の素晴らしさを伝いたいけれど、まだまだ勉強不足であること。
戦争についても原爆についても知らないことだらけで、
だから今日ここにやってきたということ。
などを語っているうちに、
人々がたくさん集まってきたので、
次の人にマイクを渡した。

すると、一人の男性が話しかけてきた。
「オイは佐世保好きやね。オイは長崎より佐世保の方が好きやね。」
長崎の人か尋ねると、そうだと言う。お袋は被爆者だと言う。
それでもアメリカが大好きで、基地のある佐世保の雰囲気が好きなのだそうである。
アメリカのどこが好きか尋ねると、
「オイが子供んころは食べるもんがなくてさ、いつもひもじゅうてさ、
そんときアメリカ兵が来てチョコレートとかビスケットとかくれてさ、優しかったとよ。
もしあん時、アメリカがおらんかったら、中国にのっとられて、
今頃はチベットみたいになっとるよ」
それからしばし中国人の批判が続いた。
そこに先ほどの女の子が加わってきた。
「おじさんは、中国人と話したことはあるんですか?私のルームメイトは中国人だけど、
今おじさんが言ったような人ではありませんよ」
また、男子学生も「おじさん、中国にはそんな力ないよ」と中国海軍のことを語った。
北九州市立大学のこの二人の学生さんと「おじさん」と私は、その後も、
基地問題や、911、イラク戦争などいろいろ議論した。
おじさんの考えはもちろん変わらなかったが、最後にこう言った。
「誰でも平和がいいに決まっとうよ。オイもそうよ。戦争やら好かんばい。
それだけはおんなじたい」
そして私たちは来年またここで会いましょうと約束して別れた。



もう一人、ここでギターを弾きながら歌った若者がいた。



彼は歌い終わるとザックからチラシを取り出し配りだした。
それは、東京の高尾山の自然を守るためトンネルを掘らないで!というアピール文だった。
私はとても驚いて声をかけると、なんと「ケンジュウの会」のメンバーで、
埼玉県の蕨市からやって来たと言う。
共通の知り合い(ケンジュウの会代表)もいて、とても懐かしい気がした。
長崎だけではなく広島にも行って来たと言う。
高尾山の署名運動のこともすっかり忘れかけていた自分が恥ずかしかった。
(今日、そのケンジュウの会の代表から届いたメールによると、ケンジュウは毎年、
広島・長崎に出かけているのだそうだ。今年はサミットで北海道に行ったので、
九州まで行くお金がなくて、彼だけが出かけたとのこと。
「ユウイチ君からききましたよ。二人が出会ったこと!」と、その偶然を喜んでくれた)
ケンジュウの若者たちは、森だけではなく平和を守ることにも一生懸命なのだということを、
私はこんなに遠くに来て、初めて知ることができた。

爆心地公園を後にして、私は一人近くの中華料理店でお昼をとることにした。
店は満員で少し待って呼ばれたが、相席だった。
丸テーブルに4人組の先客がいて、私の後にもう一人案内されて若い女性客がやってきた。
どちらからともなく声をかけあったら・・・なんと彼女も佐世保市からで、しかも隣町だった!
自己紹介し合ううちに意気投合、1時間もおしゃべりしながらの食事となった。

彼女は小学校の先生で、平和学習担当。
その担当になると、毎年行われる平和学習の日(8月9日)の計画を立て、
職員会議で提案し、授業案を作らねばならないそうだ。
彼女は去年まで頼りにしていた先輩の先生がこの春転任していったので、
今年は一人で頑張って作ったけれど、やはりいろんな先生がいて、
忙しいのにそこまでやりたくないなどの批判が出て紆余曲折。
けれど校長先生の応援を得て、ほぼ願い通りの企画が通り、
それを子供たちが目を輝かせて聞いてくれたのが嬉しかった!
「昨夜は一人で祝杯をあげました」と笑顔で語ってくれた。
今年は9日が土曜日だったので、佐世保市は8ひが平和学習の日となり、
おかげで久しぶりに9日の平和祈念式典に参列できたとのこと。

私にもついていろいろ聞かれ、問われるままに応えていたが、
とくに2回目に訪れた広島での原爆祈念式典の体験話には、
涙を浮かべて聞き入ってくれた。
こんな先生に教えられる子どもたちの心には、
きっと平和の種がしっかり蒔かれていることだろう。
私たちは住所やメールアドレスなどを交換して別れた。

2時過ぎから6時すぎまで、たっぷり時間をかけて原爆資料館を見て回り、
7時から始まる平和祈念集会に参加するために浦上天主堂に向かう。



まだ明るい空に真っ白なマリア像がはっとするほど美しかった。



教会の中は敬虔なカトリック信者であふれ、
祈りと賛美歌に包まれた、静かで厳かな集会だった。



集会の後、被爆マリアの神輿を先頭に、
人々は火のついた松明を持ち、平和公園まで行進した。
行進の間も信者たちの祈りの言葉は続いていた。
今も私の耳に残る一節がある。
  私たちの罪をお許しください
  私たちも人を許します
信者ではない私も、心の中で唱和していた。

そのとき、「ヒバクシャ」という言葉が聞こえた。
私の隣の女性が、私たちの間にいる外国人女性にしきりに
「I am ヒバクシャ」と言っていた。
外国人女性は「I don't know japanese.」を繰り返していたので、
私の知っている単語で伝えてみた。
幸い理解してもらえたようで、それから三人のぎこちない会話が始まった。
もちろん私も英会話は苦手で、ほとんど身振り手振りと表情でのコミュニケーション。
彼女はカトリック信者で、広島と長崎で祈りを捧げるためにやってきたそうで、
明後日帰国するといっていた。
どこから来たのかきくと、答えてくれたのだが、残念ながら聞き取れなかった。
(ヒヤリングはもともと苦手中の苦手で、その上最近は難聴気味の私。聞き返すのが躊躇われた)

4歳のとき被爆した日本女性は、二人のお兄さんを当時亡くし、
彼女自身いまも後遺症に苦しんでいる。例年9日のあとは、数日は寝込むのだそうだ。
その彼女がこんなことを言った。
「黒焦げの死体があちこちにころがっていたと、よく聞くでしょう?
私も見たはずなのに、なぜか記憶がないんですよ。
でもね、馬があちこちで死んでいるのは見た記憶があるんです。
とても可哀想に思ったのも覚えてるんです。今でもたまにその光景を夢にみますよ。
そして夢の中で泣くんです。可哀そうで悲しくて泣いてしまうんです」
馬でさえそんなに悲しかったのだから、人が死んでいる光景を記憶にとどめるなんて、
その女性の神経には耐えられなかったのだろう。
体の防衛システムが働いて、彼女の記憶から消してくれたのだろう。

本を読んでも、TVで見ても得られない悲しさの臨場感が伝わってきた。
そして、平和公園に着いた。

信者さんたちのミサが始まる頃、そっと会場を後にした。





 
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