佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

お土産話その三

2009-07-30 | 石木ダム
今回の目的のもう一つは、ダム関連。

埼玉・東京・神奈川・山梨には、遠く離れた長崎の小さな石木ダム建設に関心を持ち、
署名活動などに協力してくれた人々がいます。

この仲間たちの応援は、私にとって本当に心強いものでした。
550を超える署名だけでなく、その他の活動にも親身になって手を差し伸べてくれました。

この仲間たちに会って直接お礼を言いたかったし、
またさらなるご協力をお願いしたかったのです。

ところが、その願いが叶えられただけではありませんでした。

友人からの情報によると、私が埼玉を去る日の午後、
八ッ場ダムに関する講演会が浦和で開かれるとのこと、
急きょ時間を作って参加することにしました。

講師は「水源連」(水源開発問題全国連絡会)の共同代表の嶋津暉之さん、
お名前だけは書籍や資料で、また仲間からの情報でよく存じ上げていた方でした。

テーマは「八ッ場ダムの現状」でしたが、
「八ッ場ダムの歴史」から始まって、「八ッ場ダムの必要性の検証」
「八ッ場ダムがもたらすもの」「八ッ場ダム事業の進捗状況と見通し」など、
総合的にわかりやすく解説してくださいました。

規模の違いはあるけれど、その歴史や必要性の問題など、
石木ダムとの共通点をたくさん感じました。

水需要の動向は首都圏も右肩下がり。
驚いたのは、東京です。
八ッ場ダムに関わる1都5県の中で、東京都は唯一人口が増え続けている(年に約10万人増)
のに、水道用水の消費は減っています。
これは節水機器の普及によるものだそうで…いいことですね!
今後人口が減り続けるであろう佐世保市においては、ますます水が足りてくるはずと確信しました。

そもそも八ッ場ダム構想が浮上したのは、1947年のカスリーン台風の被害(利根川の氾濫で
約1100人もの死者が出たという)が発端で、その規模の台風の再来に備えるためだったのに、
八ッ場ダムにはその効果がないことが昨年6月、政府の答弁で明らかになったそうです。
国土交通省の計算によると、再びカスリーン台風と同規模の台風が襲来したと仮定したとき、
下流の観測地点のピーク流量は、ダムがある場合もない場合も同じ20,421トンだったそうです。

石木ダムにおいてはダムによる治水効果がありそうなのは、全流域の9分の1と言われています。

また、ダム計画があるがために河川改修がなおざりにされ、
今すぐできる必要な治水対策がなされていないなど、
かえって住民の安全を無視している現状も同じでした。

異なっている点としては、これまでは現地住民の方の対応について感じていました。
つまり、石木ダムの場合は今現在も13世帯の人々が反対の意思を貫いているけれど、
八ッ場ダムの場合は、住民の皆さんはすでにダム建設を受け入れ、
納得してその地を去っておられるのだとばかり思い込んでいました。

実際はそうではありませんでした。
たしかに、1992年に「八ッ場ダム反対期成同盟」は闘争の旗を降ろし、
96年から代替地の造成も始まりますが、それは水没地近くの傾斜地を切り開いたもので、
しかも周辺地価に比べて高額。
地元での生活に見切りをつけて仕方なく町外へ移転する人々が増えていきました。

ダムは決して町を活性化させるものではなく、
住民の対立や苦悩を招いた揚句、地域は疲弊し人口は減る一方で、
それを目の当たりにしてきた住民は皆、賛成派も反対派も共に大きな心の傷を負っていたのです。

最後に事業費の話があり、
当初2100億円と言われた事業費が、2004年には4600億円に増額されたが、
これがさらに大幅に増額される可能性が高いとのこと。
なぜ、2100億から4600億に増えたのか訊いたところ、
地質対策や補償費が計画以上にかかったとのことらしい。
田中康夫さんが言っていた「補正3兄弟」の実態がこれなんですね。

平成20年度までに、実にその70%の3215億円が消費されています。
それでも八ッ場ダムを止めようと頑張っている人々がいます。
「八ッ場ダムを考える会」や「八ッ場あしたの会」などの市民運動だけでなく、
「八ッ場ダムを考える群馬県議会議員の会」「八ッ場ダムを考える1都5県議会議員の会」など
政治家の議員さんたちもしっかり声を上げ始めたようで、ここが長崎と違うところ!

羨ましい・・・なんて言っていてはダメですね。
私たち市民が声をあげて、世論を作っていくことが大切で、
政治家はきっと世論についてくるでしょう。

この日初めて会ったOさん(八ッ場ダムをストップさせるために埼玉で頑張っていらっしゃる方)
が教えて下さいました。

「ささやき運動」

八ッ場では、「ヤンバは止めれば儲かります」というキャッチコピー。
佐世保では、「水は足りてるんだってよ」こんな感じでいかがでしょうか?…と。

いいですね~
お隣の人にささやいてみようかな。
「あのね、実はね、水は足りてるらしいよ」って。 


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お土産話その二

2009-07-29 | 
今回の埼玉行きの目的の一つに、「Hさんを励ます会」がありました。

人生の先輩であり、平和案内人として最も尊敬する方のお一人Hさんが、この春突然の入院。
5月の連休明けに手術。退院後に、すい臓癌だったことを知らされました。

Hさんを知る仲間はみな大きなショックを受けましたが、そんな私たちを逆にHさんが励まし、
勇気を与えてくれました。


Hさんは、沖縄で生まれ、父や兄などたくさんの家族を沖縄戦で失い、0歳で敗戦を迎え、
栄養失調や大病などに見舞われながらも、お母様の大きな愛に包まれて生き抜いてきました。

沖縄を出てからは、大都会東京で仕事をしながら夜学に通い、卒業後は社会科の教師として
高校生と共に学んできました。

歴史を学ぶ大切さ、特に先の戦争を忘れてはならない、風化させてはならない、
その思いは、退職後もますます強くなり、各地で沖縄戦の真実を語り続け、
また沖縄への平和ツアーを度々企画してきたのです。

中でも、宮良英加(沖縄戦で亡くなった師範学校生徒)という若者の死と生き様を伝えることが、
Hさんの大切なライフワークとなっていました。


そんな使命感と、生命力の強さと、生来の前向きな性格と、いろんな要素がミックスして、
Hさんは退院後も落ち込むことなく、切り取ることのできなかった自分の癌細胞と真っ向勝負、
闘病生活を開始しました。

山梨に住む仲間の一人が、励ます会をしようと言いだし、東京のとある沖縄料理店に
皆が集うことになり、私もなんとか出かけたいと思ったのです。

久しぶりに見たHさんは、確かに以前より少しは痩せていたけど、
その笑顔は全く変わらずハツラツとしていて、声も元気そのもの!
ん?すい臓癌ってほんと?誤診じゃなかったの?と言いたくなるくらい・・

なにしろ、現代医学、東洋医学、民間療法、食事療法、免疫療法・・・
ありとあらゆることにチャレンジし、しかも楽しんで続けているという。

これはもう、勝負あり。
癌細胞さん、住み着くところを間違えましたね。早くお引っ越しを!
と、乾杯しながら心の中でつぶやきました。

「励ます会」のつもりが「励まされる会」になってしまい・・・
その上たくさんのお土産までいただきました。

採れたての野菜、オクラ、ゴーヤー、ナーベラー!
そして、写真家でもあるHさんの作品を額に入れて・・・

私がいただいたのは、「夏の一日の始まり~富士山頂にて~」と題されたもの。
朝焼けに染まった流れる雲、そのスピード感が伝わるような壮大な音楽がきこえてきそうな
そんな"はじまり"の瞬間です。

静かな勇気がわいてきそうな…そんな写真です。

ありがとう、Hさん。 






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お土産話その一

2009-07-28 | 
後悔しています。
「お土産話をたくさんできるといいな」なんてセリフを吐いたりして・・・

期待させてごめんなさい。
今回はなーんにもありません。
素晴らしい景色も、面白いできごとも、写真一枚ありません。
トホホ・・です。
いえ、ごくプライベートな非公開物件はあるのですが、それはナイショなので。

別に期待なんかしてないからいいよ!
とお思いでしょうが、せめて言い訳をさせてください。



写真が撮れなかったのはお天気のせいです。
往きも帰りもドシャ降りでした。

土日祝日は高速料金が1000円でOK!という夢のような話に魅せられて
今回の旅は車で!と決めたのです。

私は無免許。運転できません。
が、ドライブ好きの夫は長時間一人で運転することが全く苦にならないようで、
これまでも何度か佐世保と埼玉を往復してきました。

なので、何の心配もせずに出発。
ところが、九州では曇り空だったお天気が、山口県に入ってから雨がポツポツ落ち始め、
あっというまにザーザー降り。
広島、岡山と進むほどに雨足が激しくなり、バケツをひっくり返したようなドシャ降りに。

スリップしないか・・
滝のような雨で、ワイパーが動いていても視界が遮られどこかにぶつかるんじゃないか・・
道路わきの山が崩れてくるんじゃないか・・
そんな不安がよぎるほど、スリリングなドライブでした。

何度かパーキングで雨宿りしつつ、近畿地方から名古屋を抜けるころには雨雲から無事脱出。
中央道のPAで仮眠を取って、恵那峡付近で夜明けを迎えましたが、厚い雲に覆われて、
輝く朝日は拝めず、ただ白と灰色の水墨画のような世界でした。


途中、用事があって八ヶ岳の麓に住む友人を訪ねたのですが、そこは緑一色の世界。
ちょうど陽もさしてきて、木々の葉っぱはピカピカに輝いて見えました。
なんでも、ここは日照時間が日本一の場所だそうです。
標高1000mに近い山の中なのに…。
だから冬も温かくて雪が降らないそうです。

ログハウスのベランダでいただく美味しいお茶、爽やかな風、
そこでの暮らしを心から楽しんでいる友人の笑顔と言葉。
たくさんの感動を頂いてサヨナラし、再び高速に乗ってから気付きました。
「アーッ!あの景色、撮っておけばよかったー!」

ダメですねー。おしゃべりに夢中になるとすぐこれですもん。


その後は順調に中央道から圏央道、関越道を通って目的地へ着きました。

翌日と翌々日は栃木に住む母を訪ね、ゆっくりした時を過ごしましたが、
この2日間も雨が降ったり止んだり、はっきりしないお天気で、
皆既日食の中継を見たり、おしゃべりをしてずっとお部屋で過ごしました。

残り3日間は埼玉と東京を行ったり来たり。
所用を名目にたくさんの友人たちに会えて楽しい時を過ごし、
あっという間に帰る日がやってきました。


夜8時頃東名高速に乗り、阪神を抜け、再び中国自動車道へ。
その頃は夜も明けていたのですが・・・なんと、またまた大雨です!

往きのときは、ニュースでも話題になった岡山県美作(みまさか)での暴雨風に遭遇しましたが、
帰路でも広島、山口などで大雨が続き、荷卸峠あたりではものすごい豪雨。
車窓から見える川は茶色になって、堤を超えて溢れていました。

それでも、人間横着なもので、二度目となると恐怖を覚えるほどではなく、
緊張感よりも疲労感から何度もPAに立ち寄り、ゆっくりと帰路に就きました。
夫いわく、「やっぱりもう歳だなぁ。これからは途中で1泊しなきゃなぁ」

(はい、そうしてくださいナ)


九州に入るとほとんど雨は小康状態だったのに…
なぜか福岡インターから太宰府インターが不通で、高速を降ろされ、
一般道をノロノロと走りました。(大渋滞だった!)

帰宅後、夜のニュースで知ったのですが、
福岡はここ数日で大きな災害に見舞われていたのですね。

中学時代の親友が住む筑紫野市は死者まで出たと知り、あわてて電話。
おかげさまで友人に被害はありませんでしたが、すぐ近くの方が亡くなったそうで、
彼女もさぞ怖い思いをしたことでしょう。

また、私たちが高速を降りることになった九州自動車道の災害は、崖崩れで、
当時そこを走っていた車が土砂に埋もれ、乗っていたお二人が亡くなったとのこと。

中国自動車道で大雨に会わず、また夫が元気で休まず運転していたら、
その時間私たちもそこを通っていたかもしれません。

それを思うと、運ということもあるけれど、
やはりもっと自然の動きに目を向けなければ…と反省しました。

この頃はインターネットに携帯と、いつでも見たいとき知りたいときに情報が得られるので、
以前のように前もって先々の天気予報に気を配ることも少なくなり、
また、道を選択するのもナビにお任せで、自分で地図を見ることを怠っていました。

いま自分がどこにいるのか、どこに向かおうとしているのか、
目的地へのあらゆるルートの情報を集め、
メリット、デメリット、リスク等比較検討し、
よりよいルートの選択はナビ(他者)任せでなく、
自分自身でしなければ…

もちろん、いろんなミチの選択において・・・ 



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佐世保に うたごえ合唱団誕生!

2009-07-18 | 佐世保・長崎
小さな小さな「うたごえ合唱団」が、佐世保に誕生しました。

これまで年に数回歌声喫茶をやってきた「うたごえフレンド」が中心となって、
新たな仲間も集めて、まだ月に1回だけですが、定期的に練習する場所と指導者を確保。
昨夜、第1回目の練習を開催。楽しいひとときを過ごしました。

指導者にお迎えしたのは「うたごえ」の世界とは全く無縁だった若い先生で、オペラがご専門。
私たちは譜面も満足に読めない「下手の横好き」の集まり。
どうなることかと一抹の不安はありましたが、杞憂でした。

先生は私たちのレベルをみるために、私たちの手作り歌集から何か歌ってほしいと言われ、
一人が「若者たち」をリクエスト、みんなで歌い始めると、
先生はその場で楽譜無しで伴奏を付けて下さり、
皆は驚きながらも、伴奏にのって歌い、
続いて誰かが「泉のほとり」をリクエストすると、また先生はその場で伴奏!
「花の街」や「乾杯の歌」「あなたが夜明けをつげる子どもたち」などなど、
あっというまに歌声喫茶状態となりました。

そして、緊張もほぐれ、私たちが気持よく声が出るようになった頃を見計らって、
先生は新しい歌の指導に入ってくださいました。
(さすが、プロ!)

わずかな時間で、12月のステージで歌う2曲の内の1つ「あの日の授業」を
全く知らなかった人も皆が歌えるようになりました。

もちろん、しっかり人前で歌えるようになるのはまだまだこれからですが、
希望が見えた嬉しいスタートでした。

もう1つの「我が窮状」はリズムが難しく、こちらはそう簡単にはいかないでしょうが、
先生の御指導ならぜったい大丈夫!と思いました。
来月から挑戦です。

佐世保やその近くにお住まいで、
12月5日、アルカスSASEBOの大ホールのステージで、
「あの日の授業」と「我が窮状」を一緒に歌いたいと思う方、どなたでも大歓迎です!

毎月1回、第4金曜日、夜7時から「サンアビリティーズ佐世保」で練習をします。
どうぞいらしてください! 


ところで、
明日から8日間留守にしますので、ブログもちょっとだけお休みです。
帰ってきたら、お土産話をたくさんできるといいな・・

期待せずに待っててください。

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合唱の力

2009-07-16 | 佐世保・長崎
先週土曜日、佐世保合唱団創立55周年記念の演奏会を終え、今日が初めての練習日。

みんな未だ興奮冷めやらずといった感じで、顔が輝いていました。
大きな舞台を無事に終えたという開放感、
あのアルカスの大ホールで歌ったという達成感、
誰もがお褒めの言葉を頂いた嬉しさなどでしょうか。

いつもは体操から始まって発声練習と続くのですが、
今日は一人一人が自分自身の感想を述べ、
また自分の家族や友人などからもらった言葉を伝え合いました。

自身の技術的なものは全く満足していないけれど、
「精一杯歌った」「今までで一番よく歌えた」「楽しんで歌えた」などの感想が多く出され、
中には「歌っているうちに感動して鳥肌がたった」人もいました。

そしてお客様からの反応は…
ほとんどの方が第3ステージの「蔵王」を絶賛。「迫力があった」「感動した」と。

何しろ第3ステージは、OB・OGの皆さんとの合同演奏で人数が倍加した上、
先輩方はあちこちで合唱指導をなさっているような実力者揃い。
私たち現役だけの合唱と違って、ボリュームも奥行きもある質の高い演奏になったと思います。

55周年という歴史の豊かさを感じました。

また、第3ステージだけでなく、第2部の和楽器とのコラボが印象的だったという感想や、第1部の「花のこもりうた」がとてもよかったという声もありました。


そして、ある団員は「個人的なことですが…」と前置きして、こういう話をしてくれました。

私の両親も聴きに来てくれました。
92歳の父と83歳の母を、姪が連れて来てくれました。
母は少し認知症なのですが…
歌ってる私を見て、母は一生懸命手を振っていました。
私も手を振って返したかったのですが…笑顔で応えました。
母はすぐ忘れるかもしれませんが、
いい親孝行ができたと思っています。

また、その姪の息子は農業をやっていて、歌のことはよくわからないのですが、
「はじめは高齢者の姿も目についてちゃんと歌えるのかなと思ったけど、
 歌が始まってびっくりしたよ。特に男性の力強い歌声に元気をもらった。
 なんだか励まされているような気がした、明日から農業を頑張ろうと思ったよ」と、
そう言ってました。


私は、ちょうど彼女の隣で歌っていたので、彼女が歌いながら何度も頷くように
首を振っていることに気付いていました。
その意味が今日やっとわかり、あらたな感動を覚えました。

また、若い青年のお話も心に残りました。
合唱と農業って何の関係もないのに・・
今回歌った歌には農に関わるものも、労働の喜びを歌うものなども何にもないのに、
その青年の心には響いたんですね。

いま彼は農業に関して何か壁にぶつかっていたのかもしれない。
悩みを抱えていたのかもしれない。
それが、混声合唱の迫力ある歌声に出会って、
特に男性の力強く温かい歌声に彼の心の耳が反応したのでしょうか?
しかも中には後期高齢者と思しき人々の姿も見えるのに、その凛とした歌う姿に
何か背中を押されるような感じがしたのでしょうか?
かってにそんなことを想像しました。

私の友人は、第2ステージの「浜千鳥」をきいて子供のころを思い出した、
懐かしくて一緒に歌いたくなった、と言いました。

また、別の友人は「花の子もりうた」をきいて涙が出そうになったと言ってくれました。
おそらく、峯陽作詞、小林秀雄作曲のこの子もり歌の経緯を事前に私が告げていたからでしょう。

知らない方がほとんどでしょうが、聴いてみたら、
多くのお母さんたち、特に長崎に住む女性の心に響く歌だと思います。

歌詞だけでもご紹介したく・・



   花の子もりうた


おやすみなさい 花の子どもたち
橋を渡って夕闇が ひろまっているから
石畳の坂道を 夜が濡らしているから
おやすみなさい つぼみのままで

  やがて夜が明けて
  海に陽が昇り 花たちの歌がさざめくまで
  愛する人の夢を見て おやすみなさい


     ユキヤナギの花のけなげさは 帰らぬ人を待つ身の切なさです
     ボケの花は優しくて 働き者の母さんみたいです
     アジサイの花は ただ一度だけの愛を秘めた心です

     サルスベリの花は焼け土に 明日を見つめ根を張る確かさです
     キンモクセイはふるさとに 思い焦がれる哀しいたよりです
     ロウバイの花は 殉教に生きた乙女たちの祈りです


おやすみなさい 花の子どもたち
山の上では星たちが ときめいているから
天主堂も船たちも 夜に埋もれているから
おやすみなさい つぼみを抱いて

  やがて夜が明けて
  海に陽が昇り 花たちの歌がさざめくまで
  愛する人の夢を見て おやすみなさい

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27年ぶりの抗議行動

2009-07-09 | 石木ダム
昨日、2009年7月8日、長崎県庁前で、
石木ダムに反対する地元住民による抗議行動が、実に27年ぶりに行われました。




「石木ダム建設絶対反対同盟」「清流の会」など川棚町住民の方をはじめ、
数名の佐世保市民や長崎市民も参加。
県庁前に座り込んで、抗議の意思を示しました。

いつも「話し合いましょう」「話し合いに応じて下さい」と言ってきた県側は
誰もその場に出てくることはなく、
私たちは「石木ダムはんたーい」「強制収用はするなー」などのシュプレヒコールをあげ、
県庁を後にしました。


その後、市民に訴えるビラ配りのため繁華街へ向かったのですが、
その間ずっと、私は地元住民の一人の女性と一緒に歩いていました。

その女性は病み上がりで、一人で歩くのは不安だったのです。
ときどき家の中でもフラッと倒れることがあるとのこと。
そんな方までも、この場に来て訴えたかったのかと思うと、胸が熱くなりました。




アーケード街の中心地でビラ配りと「強制収用につながる事業認定申請反対」の署名活動。


私は先ほどの女性の分も…との思いで、道行く人に署名のお願いをしました。
避けて通る人、うるさそうにムッとした表情で歩く人もいる中で、
すすんで署名しにくる人、声をかけると気軽に書いてくれる人もいました。

こちらからの声掛けに応えてくれた人の中には、断るのが苦手でなんとなく書いてくれてる人もいそうな気がして、書いて下さってるあいだに尋ねてみました。
「ときどき石木ダムに関するニュースが出ますが、ご覧になってますか?」
「石木ダムについて、どのように思ってらっしゃいますか?」

すると、
「もうダムはいらんよ」「税金の無駄遣い!」とあっさり言う若者たち。
一方高齢者は、「この問題は長かでしょう?もう年十年たちます?反対し続ける人たちのおらすけん、もうあきらめたほうがよかでしょうと思うとります」という反応が多くきかれました。

また署名を拒否する人の中には、「よくわからないから」という返事も多く、
それに対して自分なりに説明をしてみましたが、一番効果的だったのはこういうふうに言ったとき。

「私は佐世保市民です。石木ダムは佐世保の水道水確保のために造ると言われています。
でも、佐世保では漏水がひどくて、毎日たくさんの水を無駄にしています。
自分たちが水を大切に使わないでいて、足りないからと他所の土地にダムを造り、
そこに住んでいる人の土地を取り上げようと しています。
私は佐世保市民の一人として、それだけは止めたいんです」

そう言うと、「へー、そうなの?それはいかんね」と何人もの方が署名して下さいました。


約1時間に43名の署名を頂きました。全体では300名以上あったようです。

蒸し暑い一日で、みんな汗びっしょりでしたが、「いい汗をかいたね」と笑いあって別れました。


いつか、佐世保でも街頭署名を行う日がくるでしょう。
そのとき、どれだけ応じてもらえるか…不安と期待が入り混じります。。    
コメント (11)
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石木川まもり隊

2009-07-07 | 石木ダム

パンパカパーン!

発表いたします。

7月吉日、私たち2名(夫と私)は「石木川まもり隊」を結成し、

ホームページを開設しました。

http://www1.bbiq.jp/ishikigawa/

 

とはいえ、携帯電話も使いこなせない私にホームページなどはお手上げ。

すべてあちらにお任せです。

私は依頼された項目をほんの少し書いただけ・・

 

私たちの思いは、「石木川まもり隊宣言」に書いています。

どうぞ皆さん、お時間がある時に立ち寄ってください。

そして、もしよかったら、仲間になって下さい。

 

年齢・性別・住所不問。

この星の大地を流れるすべての清流を守りたいと思っている方なら誰でも隊員になれます。

 

ただし、隊員になってもお給料は出ません。

また、会費もありません。

特別な任務もありません。

ただ、あなたの力を少しだけかしてください。

 

佐世保市や川棚町近辺の方は、学習会やイベントのお知らせを掲載しますので、

それを見て、参加できるときはどうぞいらしてください。

遠くに住んでいる方は、情報提供や、アイデア・ご意見等何でも発信してください。

 

もちろん、何も発信しなくてもいいのです。

ただ関心を持って下さるだけでいいのです。

その思いはきっと私たちに伝わって、私たちの力となりますから。

 

私たちも何もできません。

組織もお金も知識もないです。

ただ、清流石木川と、その周囲に広がる美しい棚田、この素晴らしい自然を残したい、

そして、そこに住む住民の方々の権利と生活を守りたい・・・その思いだけです。

 

同じような思いで活動しているいくつかの市民グループがあります。

多少の考え方の違い、手法の違いは当然ありますが、

目的が同じなら、情報を共有し、協働できるところは協働して、運動の輪を広く太いものにしたい。

このHPがそのきっかけになるといいなぁと思っています。

 

隊員になって下さる方は、HP上にあるメールへor「みんなの広場」→掲示板へ、

または、このブログのコメント欄でもいいし、

私のメールアドレスをご存じの方はそちらへでもけっこうです。

 

どうぞよろしくお願いします。

コメント (3)
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脱原発学習会

2009-07-06 | さよなら原発
今日午前、グリーンコープ生協主催の脱原発学習会「プルサーマルを知っていますか?」に参加した。

講師は藤田祐幸氏。

今年になって藤田氏のお話を聞くのは3回目。
今まで聴いた内容と重複する部分もかなりあった。

日本の原子力政策の歴史や、
「核兵器はいけないが、平和利用はいい」という核に対する二重認識の所以や、
核兵器を保有していないのにプルサーマルを推進しているのは日本だけという現実。

そして、そのプルサーマルとは…
原発で使用済みの核燃料を再処理し取り出したプルトニウム(わずか1%)とウランを混ぜて作ったMOX燃料を、軽水炉原発で燃やして発電する仕組みである。

莫大なお金をつぎ込んで他国(英・仏)に再処理を依頼してまで作ったMOX燃料も
1回燃やせば、核廃棄物になるだけ。その再利用はない。
つまりこれ以上サイクルしないのだ。とてもリサイクルとは言えない。
しかも危険性だけはより大きく、より長く残るだけ。


そんなお話の中で、今回初めて理解できたことがあった。
ずっと思ってた疑問(高いリスクと費用に反して得るものはほとんどないプルサーマル計画が
なぜ止められないのか)が少し解けた。

それは2つの理由があるらしい。

1つは、返還プルトニウムのこと。
長年英・仏に依頼して、再処理してもらった結果抽出されたプルトニウムが返還され、
それは使わないかぎり溜まる一方である。
(余談だが、初めて返還プルトニウムが日本に陸揚げされたのは、
 昭和天皇が亡くなった日だったそうで、21年前のこと…覚えやすい!)
当初は高速増殖炉「もんじゅ」でじゃんじゃん使う予定だったのだろうが、
1995年の事故以来、その計画は頓挫。
そのまま溜まり続ければ、国際社会のルールに背くことになり、疑念と不安を招くばかり。
なんとしてもプルトニウムを消費しなければならない。

もう1つの理由は、
日本各地にすでにある原発、これを建設するとき地元に対し、
使用済み燃料は速やかに運び出しますという約束をしていた(安全協定)らしい。

その約束を履行するためにも、六ヶ所再処理工場が必要だったわけだけれど、
その六ヶ所工場もただいま故障中。

もう、はちゃめちゃだ。
にっちもさっちもいかない。
前にも後ろにも進めない、先の見通しが全く立たない状況。

それを示す出来事が、7月3日の「原子力大綱改定の先送り」だった。
(この記事を読んだときはよく理解できてなかったが、それは、
 原子力委員会が日本の原子力の先行きについての指導力を失ったことらしい)

藤田氏はこの状況を「断末魔」と表現し、かつて戦争に突き進み破局に至ってもなお認めようとしなかった戦時中とそっくりだと評された。

そして、この政策はみんなでちょっと押せば倒れる寸前まできている。
でも、その「ちょっと押す力」が、残念なことに今の我々にはない。

本当にそのとおりだ。
こんなにコストがかかり、危険がいっぱいで、設計図もないでたらめな計画を
どうして私たちは止められないのだろう?

やはり、メディアの責任は大きいと思う。

年金問題や、食品偽装のように、新聞もテレビも一斉に毎日報道すれば、
あっという間に情報は日本列島を駆け巡り、すべての国民が知る。

知れば怒りがわいてきて、抗議の波が押し寄せる。

原発問題に関しては、マスメディアは決してそういうやりかたはとってこなかった。
その理由は想像できる。

が、一部、心あるジャーナリスト、カメラマン、映画監督などによる作品さえも
大きなうねりにならないのはなぜだろう。
やはりこれは、私たち市民の問題のように思われた。


さて、質疑の最後に私はある質問をして、藤田氏に叱られてしまった。

「MOX燃料を軽水炉で燃やすのは危険だと言われていますが、
 それは具体的にどのような事故が起こり得るのでしょうか?
 また、その危険性の割合などわかりましたら教えて下さい」

「ぼくはそういう議論は好きじゃない。
 軽水炉の存在そのものを認めたくないし、危険性が増すのは当然で
 それが何%増すかなんて問題じゃない、危険なものは危険なんだ。
 そこで働く人々の命の危険性が増すわけです。
 また、いま我々が生きている意味は、過去の人々が守り継いできた地球を
 次の世代に渡すこと。なのに我々の世代だけが1万年たっても消えない毒を
 残していくことにぼくは加担したくない。
 ぼくは科学者ですけど、科学的な議論が大嫌いです」

私も全く同じ気持ち。
なのに、なぜこのような質問をしたのか、その意図をわかって頂きたかったので付け加えた。

「お気持ちはよくわかります。私も同じです。
 ただ、いまプルサーマルがまもなく現実のものとなろうとしているときに、
 それを止めるには、佐賀の人もそうだし、わたしたち佐世保市民にも
 プルサーマルの危険性を多くの人に伝えることが大切だろうと思うわけです。
 玄海原発自体はすでにあるのですから、その存在を認めている人々に訴えるには
 プルサーマルがこれまでよりどれだけ危険なものであるかを具体的に伝えることが
 一つの手法ではないかと思ったので、お訊きしました」

すると、藤田氏は再度マイクを握って、こうおっしゃった。

「確かに電力会社や役人たちと議論するためにぼくたちはものすごく勉強してきました。
 そしてどのような偉い推進派の学者たちをも論破し凌駕してきたと自負している。
 しかし、それを市民に伝えようとするのは間違い。
 それをすると、推進派の学者と同じことになる。俺たちの言うことを信じろとなる。
 そうじゃない。自分たちを信じて下さい。直感を信じて下さい。
 イヤなものは嫌だと言ってください。
 とにかくぼくは科学者は大嫌いです。科学的な議論も大嫌いです」

と、締めくくられてしまった。


私は今すごく戸惑っている。。


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ここに住み続けたい・・

2009-07-05 | 石木ダム
2日、「広報させぼを読む会」の皆さんの主催で、『権力の水行政と住民の闘い』が上映された。

この映像は、1982年春、地域住民の反対を押し切って、県側が強制測量をしたときの貴重な記録である。

小雨の降る中を、「石木ダム建設絶対反対」の鉢巻をしめたたくさんの住民がデモ行進。
田舎の道を、男たちが力強いシュプレヒコールをあげ、エプロン姿の女たちは腕を組む。
リヤカーに乗ったおばあさんの手には数珠がしっかり握られていた。
ご先祖様に「守ってください」と祈るように…

住民の圧倒的パワーに押し切られ、この日の測量は中止となった。

数日後、住民と県側が話し合う。
住民は、なぜダムが必要なのか納得のいく資料の提出と説明を求め、
その話し合いが続いている間は強制測量はしないよう約束を迫るが、
県は、「話し合いをしながら測量も進めたい」と譲らず、平行線のまま…。

話し合いの結論は持ち越された状態で、ついに県は機動隊を導入し、強制測量実施。
反対派住民は、男も女も、こどもも年寄も、家族総出で抵抗する。
「帰れ、帰れ」の大合唱。固く腕を組んで座り込む。
が、一人ひとり、両腕を機動隊員に捕まれ、ごぼうを抜くように抱えあげられていく。
立ち上がった少女の腕を取ろうとしたとき、彼女はその手を激しく振り払い、
隊員をキッと睨みつけた。
幼い心に権力への反発がしっかりと芽生えているのが伝わってくる。

激しい抵抗も機動隊に突破され、ついに測量班の大型車両が住民の前を通過する…

映像は「未完」の文字を残して終了となった。


上映後、反対同盟の若きリーダーMさんのお話があった。

 「僕たちはここに生まれ、ここに育って、ここが好きやけん、
  これからもここに住みたか・・と思うとるだけです。
  こどもたちに残してやりたか・・と思うとるだけです。
  それがなしていかんとですか?
  どうして僕たちが出て行かんばならんとですか?」

彼は当時小学校の2年生で、今は小学生の子らの父親である。

彼は言う。
 「僕が反対運動に取り組み始めてからはまだ10年くらいですが、
  僕らの親の世代はずっと闘い続けてきました。
  人生の半分以上が闘いの歴史です。
  いつまで頑張っとるとか?なんで出て行かんとか?と言われ続けてきました」

 「僕たちの住んでるところは、畑や野原のあちこちに看板がいっぱい立っています。
  『ダム建設反対』とか『石木ダム絶対反対』とか。
  その中で育ってきましたから、僕にとってそれは当り前の光景でした。
  ところが、嫁さんが初めて来たとき、その光景に驚いていました。
  それで僕も初めてここが普通の場所ではないことを知りました」

 「僕たちはいつまで闘わんばいかんとですか?
  早くあの看板がなくなる日がくることを願っています。
  あの看板がなくなったら、あそこに花を植えたいと思っています」

その言葉に私は胸が熱くなりました。
そして、私もその光景を見たい!看板の消えた石木の里をぜったい見てみたい!
と強く思いました。


コメント (2)
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若葉マークをはずします

2009-07-01 | 佐世保・長崎
今日から、佐世保市民として2年目に突入。

家事・育児・仕事に明け暮れ、終盤は家族の顰蹙をかいつつ趣味や市民活動に没頭。
そんな埼玉での30年間に終止符を打ち、のどかな地方都市でのんびりとした生活を…
と移住してきたこの佐世保市で、なぜか、以前以上の忙しい日々に…。

その一因はきっとこのブログに有り…かな?

遠く離れてしまった友人たちに、佐世保のあれこれをお伝えしたい、
こんなに素晴らしい海や里山があるんだよ、
こんなに興味深いイベントがあるんだよ、
こんなに素敵な人々がいるんだよ、
こんなに楽しい出来事があったんだよ・・・と。

そんな思いで書いてるうちに、
いつとはなしに、今までよりほんの少し周囲のことに敏感になったのでしょうか。
その結果、気になることがいろいろ出てきて、無関心ではいられなくなって、
だんだん深みにはまっていった…?

そこで、2年目からは、それら気になることを中心に佐世保便りを発信していきたいと
思っています。

そういうわけで、ブログタイトル『佐世保便り』の下の文章を修正。
「新人佐世保市民」を削除して、内容も少し書きかえました。

ブログ人は相変わらずのスローテンポで、アップも不規則ですが、
今後とも気長にお付き合いいただければ幸いです。
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