佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

第7回絵本屋さん大賞~へいわってすてきだね

2014-12-31 | 平和

友人からのメールで知りました。

今年の絵本屋さん大賞に「へいわってすてきだね」が選ばれたそうですね!

ネットで確認すると、朝日新聞デジタル版12月22日に、以下のように報じられていました。

 

沖縄戦追悼式で反響の詩、絵本大賞1位に 作者は小2

全国の絵本店員がお薦めする「第7回MOE絵本屋さん大賞」の第1位に、絵本「へいわってすてきだね」が選ばれた。昨年の沖縄戦全戦没者追悼式で読み上げられた詩に、人気絵本作家の長谷川義史さん(53)が絵をつけた。

詩を書いたのは沖縄市に住む小学2年の安里有生(あさとゆうき)君(7)。《やさしいこころがにじになる。へいわっていいね。へいわってうれしいね。みんなのこころから、へいわがうまれるんだね》

安里君は、当時住んでいた与那国島の豊かな自然を通して平和を表現。長谷川さんが力強い絵をつけた。沖縄の「慰霊の日」に合わせて今年6月に出版され、計7万部が発行された。

大賞は、絵本店員1900人が2013年10月~14年9月ごろに出版された絵本のうち、おすすめベスト3を回答。「平和を守りたいという少年の強い意志を感じる」「ずっと平和がつづくように、私もおすすめします」など店員の声が寄せられ、1位となる317ポイントを獲得した。

19日に都内で贈賞式があった。長谷川さんは「絵本は時代を映す鏡。平和に対してみんな危機感があるから注目されているし、僕も描かなきゃいけないと思った。一人でも多くの人にこの本から、戦争しないという思いを伝えていきたい」とあいさつ。安里君は贈賞式で詩を朗読し、恥ずかしがりながら「うれしかった」と話した。(牛尾梓)

 

私も素直に嬉しい。

この詩が絵本になったのを知ったとき、

私がお金持ちだったら、この絵本をありったけ買って、安倍総理など国会議員にプレゼントしたい・・・なんて書きましたが、http://blog.goo.ne.jp/michie39/d/20140622

今は、安倍総理にはこの絵本さえも通じないような気がします。

何を読んでも理解できない、しようとしない硬いバリアで覆われているような…

知事選でも、国会議員選挙でも、あれだけ明確に沖縄県民の民意が示されたのに、

安倍総理は会見で「真摯に受け止めるが、辺野古移設が唯一の解決策との考えに変化はない」と表明しました。

あきれました。

安倍さんは国民の声は意に介さず、政府の意思のままに政策を推し進める、

つまり民主主義を否定する政治家なのでしょう。

こんな人を国のトップに選んでしまったのは私たち国民だということを

あらためて思い知り、深く反省し、

安里君たち次世代を担うこどもたちに申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

総理や議員のせいにしても何も変わらない。

変わるべきは私たち国民自身。

 

「ああ、ぼくは、へいわなときにうまれてよかったよ」

安里君が大人になるまで、そう思い続けられますように。

安里君の子どもも、そう思って暮らせますように。

私たち一人ひとりが平和を守り、創り出す努力を続けていかねば…

今はそう感じています。  

             

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幸せ

2014-12-30 | 雑感

友、遠方より来る。また楽しからずや・・

福岡から、若い友人たちがやってきました。

目的の1つは、ここ、北風商店。https://ja-jp.facebook.com/kitakazepunch

小さな店内には、絵葉書や焼き物やタオルなど創作小物がいっぱい・・

 

買い物の後は、夫がお気に入りの「なごみ野」で昼食。

安くて美味しくて、新鮮野菜たっぷりの、だご汁と高菜飯セットに大満足の2人。

よかった!

噴火を見たいというリクエストに応えて草千里へ。

間近に見る噴煙に感動?していた友人たちも、風が吹くと火山灰が目に入って、現実を実感。

これに懲りずに、噴煙がおさまったら、またゆっくり遊びに来てね~

 

夕食は、和風レストラン「さー蔵」へ。

馬刺し、地鶏、あか牛、岩魚、そして自家製野菜を囲炉裏で焼きながら食べるのは格別の美味しさ。

実は今日は私の誕生日。

夫が予約してくれていました。

 

息子夫婦からは、素敵なお花とケーキが届き、

娘夫婦からは、部屋着のガウン。

夫からは加湿器も。(乾燥肌でこの時期ボロボロヒリヒリの私のために)

友人たちからはカードや電話やメールやfacebookにたくさんのメッセージをいただき・・・

幸せな一日でした。

 

でも、こんなに幸せでいいのかな?

こんなにみんなから優しくしてもらっていいのかな?

と、ちょっぴり不安な気分も…。

 

「神田川」のフレーズがふと聞こえてきました。

…優しさが、怖かった…

 

 

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啓翁桜

2014-12-29 | 雑感

午前中、長い箱に入った宅配便が届き、開けてみると・・・桜?!

この時期に??

添付されていた説明書によると、「啓翁桜」という品種だそうです。

一足先に春を告げる早咲きの桜として、お正月用に栽培されているようです。

名前の由来は、昭和5年、久留米市の良永啓太郎という人が

中国系のミザクラを台木にし、 ヒガンザクラの枝変わりとして誕生させたもの。

名付け親は同じ久留米市の弥永太郎さんで、啓太郎の 一字をとって啓翁桜と名付けたとか。 

それにしても、ほんとに蕾がいっぱい!

ピンク色の蕾が・・

お正月元旦には無事開花するといいな~ 

 

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灰色の世界

2014-12-28 | 阿蘇

今日から1月6日まで、阿蘇の家で過ごします。

久しぶりの阿蘇。

覚悟していた寒さはさほどでもなく、というよりむしろ暖かい・・

曇っているせいでしょうか?

厚い雲に覆われています。

いや?雲かな?この暗さは火山灰では?

「いや、違う!何でも噴火のせいにするな!

 そんな人が多いから、風評被害で阿蘇の観光客は激減してるんだぞ」

とムキになる夫。

 

でもね~この空の色はたんなる曇り空には見えませんが…

と、心の中で呟いて。。

 

さあ、着きました~

久しぶりの我が家!

あれ?

玄関に続く砂利道はこんな色だっけ?

違うよね、やっぱり・・

ベージュの砂利だったよね~

駐車場には、今歩いた靴跡がハッキリと…

そして、玄関横のクチナシの葉は…

重たそうに火山灰を抱えていました。

 

さあ!明日は庭の大掃除だ~

 

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命は取り戻せない~菅原文太さんの「遺言」

2014-12-18 | 佐世保・長崎

菅原文太さんの「遺言」 失われたら、命は取り戻せない 有機農業、反戦、脱原発 根っこは同じ

毎日新聞 2014年12月17日 東京夕刊のオンライン記事です。

http://mainichi.jp/shimen/news/20141217dde012200002000c.html

転載させていただきます。

 

「仁義なき戦い」では一本気なアウトロー、「トラック野郎」では人間味あふれる純情者……。そんな銀幕のスターが先月末、81歳で逝った。晩年、菅原文太さんが私たちに伝えようとした「遺言」とは何だったのか。【小国綾子】

 
沖縄県知事選での応援演説が、菅原さんが公式な場に姿を現した最後となった=11月1日、佐藤敬一撮影
沖縄県知事選での応援演説が、菅原さんが公式な場に姿を現した最後となった=11月1日、佐藤敬一撮影
 

 「選挙中とはいえまるで言論統制だ」。同じ東北出身で親交のあった評論家、佐高信さんは切り出した。菅原さんの訃報が伝えられたのは衆院選公示の直前。多くのメディアは集団的自衛権行使容認や原発再稼働を進める安倍政権に配慮し、菅原さんが反戦や脱原発を訴えてきた事実を十分に報じなかったのではないか、と言うのだ。

 確かにテレビの追悼番組では晩年の政治的な発言に触れず、映画スターとしての功績だけを追うものが目立った。無農薬有機農業を広めることと、再び戦争をしないよう声を上げることの二つの「種」を世にまいた、とつづった妻文子さんのコメントを、肝心の農業や不戦に触れた部分を削除して報じたテレビもあった。ネット上では「菅原さんの反戦の思いを封殺した」と批判の声が上がった。

 佐高さんには忘れられない思い出がある。菅原さんに「文化勲章をもらうことになったらどうする」と冗談交じりに尋ねたら、菅原さんは「きっと『非国民』栄誉賞だな」と笑った。「彼には『非国民』と呼ばれようと、この国の未来のためには一歩も引かない覚悟があった。政治色がついたら俳優もタレントも干されるこの国で、そこを突破した最初の大スターではないか」

 菅原さんが大切にしていた仕事に月刊「本の窓」(小学館)の対談連載がある。2010年に始まり、全部で43回。対談相手の35人はすべて自分で選んだ。俳人の金子兜太さん、元沖縄県知事の大田昌秀さん、著書「タネが危ない」で知られる種苗店経営者、野口勲さん、第五福竜丸元乗組員の大石又七さん。顔ぶれに菅原さんの大事にした憲法9条や沖縄、脱原発、農業などのテーマが見て取れる。

 編集長の岡靖司さんが「出版社の地味で小さなPR誌ですが……」と恐縮しつつ連載を依頼した時、菅原さんは逆に「とても気の利いたいい話だ」と喜んだ。目立つことがすきではなかったうえ、週刊誌のような大きなメディアでは言いたいことが言えないこともあるだろう、と。

 実際、菅原さんの連載は率直で、時に政権も批判した。

 <拳を振り上げ、憲法改正を煽(あお)りたてる人たちは、いざとなったとき戦場には行かない人たちじゃないですか。(略)出て行くのは無辜(むこ)の民衆だけ>(13年6月号)

 <安倍(晋三)首相が「日本人は中国で何も悪いことをしていない」というようなことを言ってるんだから。(中略)上がそうだから、若い連中まで「虐殺はなかった」なんて言っている>(13年7月号)

 連載を書籍「ほとんど人力」(編・菅原文太と免許皆伝の達人たち)にまとめた岡さんは語る。「菅原さんはこの対談を、在野の精神を持ち続けるアウトサイダーたちの語り合う場にしたいと考えていた。日本社会は『はみ出し者』を排除し『無菌状態』を作ろうとしていると強い危機感を抱いていたから」

 東日本大震災後、進まぬ復興や原発問題に憤った菅原さんは「役者引退」を宣言し、12年暮れ、身近な仲間と「いのちの党」を結成した。被災地沿岸に計画されていたコンクリートの防潮堤に対し、宮脇昭・横浜国立大名誉教授が提唱する「緑の防潮堤」を応援する講演会を開いたり、ミツバチの大量死とネオニコチノイド系農薬の関係についての勉強会を開いたりした。

 菅原さんを「おやじ」と慕う同党メンバー、「夜回り先生」こと作家、水谷修さんは「おやじにとって無農薬有機農業も反戦平和も脱原発も根っこは同じ。『ひとたび命が失われたら取り戻せない』という思い。だから『いのちの党』と名付けたんです」。

 銀幕のスターから社会派へいつ、なぜ転身したのか。30年来の知人、NPO法人「ふるさと回帰支援センター」代表理事、高橋公さんはしかし、「転身ではない」と否定する。「彼は昔から社会問題に深い関心を持っていた。読書家で、俳優時代には父親がしっかりしようと『雷おやじの会』も結成した」

 当時、NHKの大河ドラマ「獅子の時代」(1980年)で会津藩下級武士で自由民権運動の闘士を演じた菅原さん。高橋さんが自治労に勤めていた縁で、自治労の自治研究集会で自由民権運動について講演したことも。「ノーギャラでやってくれた。自由民権運動への関心は、それを演じた一役者という立場を超えるほどに深いものでした」と高橋さんは振り返る。

 菅原さんの父親は宮城県の元河北新報記者。自身も仙台一高の出版部(新聞部)に所属し、当時、部の後輩には作家の井上ひさしさんがいた。実は元々、社会派なのだ。

 ただ、菅原さんの人生観を大きく変えた出来事はあった。01年、長男薫さん(享年31)が踏切事故で夭折(ようせつ)したのだ。高橋さんは「菅原さんと知り合ったきっかけは30年前、合気道などを教える私たちの道場に『ぜんそく気味の息子の体を鍛えたい』と訪ねてきてくれたこと。菅原さんは本当に息子さんをかわいがっていたから、息子さんの死は大きかったろう」と口ごもる。

 菅原さんは我が子の死から2年後、女性誌に「その後の心境はひと様に話すことはできない」「『大事なことで、男はモノを言うな』と、自分に言い聞かせている」と述べている。岡さんは「本の窓」連載の打ち合わせで、菅原さんが「俺は教育については語れない。息子のこともあるし」と漏らしたのを覚えている。菅原さんが岡さんに息子の話をしたのは後にも先にもこの時だけだ。

 「菅原さんは『政治の言葉』ではない言葉で政治を語れる、けうな人だった」と佐高さんは言う。11月1日の沖縄県知事選の翁長雄志氏(現知事)の決起集会での応援演説がそうだ。1万数千人の聴衆を前に菅原さんはマイクを握り、力強く言った。

 「映画(「仁義なき戦い」)の最後で、裏切り者に『山守さん、弾はまだ一発残っとるがよ』というセリフをぶつけた。その伝でいくと『(対立候補の)仲井真(弘多)さん、弾はまだ一発残っとるがよ』とぶつけてやりたい」と。

 しかしあの日、菅原さんの体は既に悲鳴を上げていたのだろう。スタッフに支えられながら壇上に立った。

 「アメリカにも良心あつい人々はいます。中国にもいる。韓国にもいる。その良心ある人々は、国が違えど、同じ人間だ。みな手を結び合おうよ。今日来ている皆さんもそのことを肝に銘じて実行してください」。演説をこう締めくくると、最後は明るく「はなはだ短いけど、終わり!」。

 スクリーンの中でも現実でも、菅原さんは一本気に信念を貫き、行動を止めなかった。数々の「遺言」を残して。

 

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香港の若者から 日本の友へ

2014-12-14 | 雑感

今日は総選挙!

私たちの手で、衆議院議員を選ぶ日です。

もう投票は済みましたか?

まだの人は、ぜひ投票所に足を運んでくださいね!

あなたの貴重な1票、無駄にしてはもったいない!

私たち一人ひとりの1票が私たちの未来を決めるのですから。

そんな当たり前のことを、私もつい忘れてしまいそうになっていました。

香港の若者たちが、それを教えてくれました。

5分ほどの短い動画です。ぜひ見てくださいねー

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マララさんノーベル平和賞受賞演説

2014-12-11 | 平和
その演説に世界中が感動し、その力強い声に世界中が勇気づけられたことでしょう。
 
とても17歳の少女とは思えない堂々たる歴史に残る演説でした。
 
でも、数ヵ月後にはきれいさっぱり忘れているかもしれない…可能性は大。。
 
なので、ここに全文をコピぺさせていただきます。
 
いつも何度でも読めるように・・
 
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

 国王、皇后陛下、ノーベル委員会の皆さん、親愛なる姉妹兄弟の皆さん。

今日は私にとって、とても幸せな日です。ノーベル委員会がこの貴い賞に私を選んでくださり、恐縮しています。

皆さんの継続的な支援と愛情に感謝します。今も世界中から届く手紙やカードをうれしく思います。親切で、激励してくれる一言一言が私を強くし、鼓舞してくれます。

 両親の無条件の愛に感謝します。私の翼を切り取らず、羽ばたかせてくれていることを父に感謝します。私が忍耐強く、常に真実を話すよう奮起させてくれていることを母に感謝します。これこそ、イスラム教の真のメッセージであると、私たちは強く信じています。

 この賞を受ける最初のパシュトゥン人であり、最初のパキスタン人であり、最初の若者であることをとても誇りに思います。そしてまた、まだ弟たちとけんかするようなノーベル平和賞受賞者は初めてだと確信しています。私は世界中が平和になってほしいと思っていますが、弟たちと私はまだその途上です。

 長い間、子供の権利の擁護者であり続けてきたカイラシュ・サティアルティさんと受賞できることも光栄です。私が生きてきたよりも実に2倍の長さです。また、私たちが並んで立つことで、インド人とパキスタン人が平和的に力を合わせ、子供の権利のために共に活動できると世界に示すことができて、うれしく思います。

 兄弟、姉妹の皆さん、私は、感銘を与える、パシュトゥン人のジャンヌ・ダルク「マイワンドのマラライ」にちなんで名付けられました。「マララ」という言葉は「悲しみにうちひしがれた」「悲しい」という意味ですが、それに幸福の意味を与えるため、祖父はいつも、私をマララ、世界で最も幸せな少女と呼んだのでした。私は今日、私たちが重要な目標のために共に立っていることをとても幸せに思います。

 この賞は私だけのものではありません。教育を受けることを望む、忘れられた子供たちのものです。平和を希求する、おびえた子供たちのものです。変革を望む、声なき子供たちのものです。

 私は彼らの権利のために立ち上がり、彼らの声を発信するため、ここにいます。彼らを気の毒に思うのではなく、教育の機会を奪われた子供たちを見るのはこれで最後になるよう行動すべき時なのです。

 人々が私をいろいろな表現で説明していることがわかりました。タリバンに撃たれた少女と呼ぶ人もいます。権利のために闘った少女という人もいます。今は、ノーベル賞受賞者と呼ぶ人もいます。

 私の知る限り、自分はただ、全ての子供が質の高い教育を受けることができ、女性に平等な権利があり、世界全体に平和が行き届いてほしいと願っている献身的で頑固な人間なのです。

 教育は人生の恵みの一つであり、生きる上で欠かせないものです。それこそが、私の17年間の経験です。パキスタン北部スワート渓谷の故郷で、私は学校に行き、新たなことを学ぶことがいつも大好きでした。何か特別なことがあると、私は友達と一緒にヘナ(染料)で手を装飾したことを覚えています。私たちは花や模様の代わりに、手に数式や方程式を描きました。

 私たちは教育を渇望していました。なぜならば、その教室に私たちの未来があったのですから。共に席に着き、読み、学びました。きちんとした学生服に身を包むのが大好きで、大きな夢を抱きながら着席したものでした。私たちは親に誇りに思ってもらいたかったし、学業優秀で物事を成し遂げられるのだということを証明したかったのです。それは、男の子だけができるのだと思っている人もいます。

 物事は不変ではありません。10歳の時、美と観光の地であるスワートが、突如としてテロリズムの地と化したのです。400を超える学校が破壊されました。女子は学校に行くことを禁じられました。女性はむち打たれました。罪なき人々が殺されました。みんなが苦しみました。私たちの美しい夢は悪夢に変わりました。

 教育は権利から犯罪に変わりました。しかし、環境が突如として変わった時、私の優先すべきものも変わりました。

 私には二つの選択肢がありました。一つは声を上げず、殺されるのを待つこと。もう一つは、声を上げて、殺されることです。私は後者を選びました。私は声を上げようと決めました。

 テロリストは私たちを止めようとし、2012年10月9日、私と友人たちを襲いました。しかし、彼らの銃弾は勝利をもたらしませんでした。

 私たちは生き延びたのです。その日から、私たちの声はさらに大きくなっていったのです。

 私が自分の話をするのは珍しいからではなく、珍しくないからです。これは多くの少女の話なのです。

 今日、私は彼女たちの話もします。私はオスロに何人かの「姉妹」を招きました。彼女らはパキスタンやナイジェリア、シリア出身で、この話を共有しています。私の勇敢な姉妹であるシャジアとカイナート・リアズは、あの日スワートで私と一緒に撃たれ、彼女らも悲惨なトラウマを経験しました。ひどい暴力と虐待を受けたパキスタン出身のカイナート・スームロは、兄を殺されましたが、屈しませんでした。

 そして、マララ基金運動で知りあった少女達もいて、今では姉妹のようです。妹のような存在の、勇気ある16歳のシリア出身のメゾンは、ヨルダンの難民キャンプに住み、テントからテントへと回って少年少女に勉強を教えています。そして、ナイジェリア北部出身のアミナです。そこでは単に学校へ行きたいと望むだけで、(イスラム過激派組織)ボコ・ハラムが少女を脅し、誘拐しているのです。

 私は、ハイヒールを含めても身長5フィート2インチの、1人の女の子、1人の人間にしか見えないかもしれません。でも、私は1人ではなく、大勢の人の代弁者なのです。

 私はシャジア。

 私はカイナート・リアズ。

 私はカイナート・スームロ。

 私はメゾン。

 私はアミナ。私は教育の機会を奪われた6600万人の少女と同じなのです。

 なぜ少女の教育が特に重要なのかと人々が聞いてきます。私の答えはいつも同じです。

 私が聖なるコーランの最初の2章から学んだのは、「読む」という意味の「イクラ」という言葉、そして「ペンにかけて」という意味でしょうか、「ナン ワルカラム」という言葉でした。

 だから、私が昨年国連で述べたように、「1人の子供、1人の教師、1本のペン、1冊の本が世界を変えられる」。

 今日、世界の半分では急速な進歩、近代化、発展がみられます。しかし、何百万もの人々が飢餓、貧困、不正、紛争という昔ながらの問題に依然として苦んでいる国もあります。

 確かに、私たちは今年、第1次世界大戦勃発から1世紀が過ぎたことを思い起こしました。しかし私たちは、100年前に何百万人もの命が失われたことで得た全ての教訓をまだ学んでいません。

 大勢の無辜(むこ)の民が命を奪われた紛争は今もあります。多くの家族がシリア、ガザ、イラクで難民となっています。ナイジェリア北部ではいまだに学校に自由に行けない少女たちがいます。パキスタンとアフガニスタンでは罪なき人々が自爆テロや爆弾によって殺されています。

 アフリカの多くの子どもたちが貧困のため学校に通えません。

 インドやパキスタンの多くの子どもたちは社会的なタブーから教育の権利を奪われています。もしくは児童労働にかり出され、少女たちは幼くして結婚させられています。

 学校の親友の一人は、私と同じ年齢ですが、いつも度胸があり自信のある女の子でした。彼女の夢は医者になることでしたが、夢のままです。12歳で彼女は無理やり結婚させられ、わずか14歳で息子を産みました。彼女自身がまだ子供の年齢だというのに。彼女はきっと良い医者になれたでしょう。

 しかし彼女は医者にはなれませんでした。なぜなら、女の子だったから。

 彼女の話こそ、私がノーベル賞の賞金をマララ基金に充てる理由です。どこにいる女子にも質の高い教育を与え、私やメゾン、アミナのような女の子を助けるよう指導者たちに求めるためです。最初の資金提供は私の心がある場所、パキスタンで、特に故郷のスワート、シャングラで学校を建てるために使われます。

 私の村では女の子のための中等学校がいまだにありません。私はそれを建てたいのです。そうすれば私の友人たちが教育を受け、夢をかなえるための機会を得られるのです。

 そこは私が始める場所ですが、終わりの場所ではありません。私はすべての子供が学校に通えるまで戦い続けます。私は攻撃に耐えた後、ますます強くなったと感じます。なぜなら、誰も私を、私たちを止めることができないと知ったから。今、私たちは数百万人で一緒に立ち上がっているからです。

 みなさん、マーチン・ルーサー・キング(牧師)、ネルソン・マンデラ(元南アフリカ大統領)、マザー・テレサ、アウン・サン・スー・チー氏のような変革をもたらした偉大な人々も、かつてこの壇上に立ちました。サティアルティさんと私がたどってきた歩みと、そしてこれから歩む旅も同じような変革、長く続く変革をもたらすことを願います。

 私の大きな希望は、これが子供の教育のために私たちが闘わなければならないのはこれで最後になるということです。この問題をきっぱり解決できるよう、一緒になって私たちの運動を支えてください。

 私が言ったように、私たちはすでに正しい方向にいくつものステップを踏んできています。今こそ躍進するときです。

 指導者に教育の重要性を認識させるときではありません。彼らはすでに気づいています。彼らの子供たちは良い学校に通っています。今は彼らに行動を呼びかけるときです。

 私たちは、世界の指導者たちが結束し、教育を最優先とすることを求めます。

 15年前、世界の指導者たちは「ミレニアム開発目標」を世界的な目標に定めました。その後の年月で、いくらかは進展しています。学校に行けない子供の数は半分になりました。しかしながら、世界が重点的に取り組んでいるのは初等教育の拡充だけで、その進展は全ての人には届いていません。

 来年2015年には、次の目標、「持続可能な開発目標」を決めるために世界中から代表者たちが国連に集まります。これは、何世代にもわたる世界の目標になるでしょう。指導者たちは、無償で質が高い初等、中等教育を全ての子供に保証するために、この機会をつかまなければなりません。

 これは非現実的で、費用がかかりすぎる、難しすぎる、もしくは不可能と言う人もいるでしょう。しかし、世界はより大きく(このことを)捉えるときです。

 みなさん、いわゆる大人の世界ではこれは理解されるかも知れませんが、私たち子供には理解できません。なぜ、「強国」と呼ばれる国々は、戦争を起こすことにはとても力強いのに、平和をもたらすことには弱いのでしょうか。なぜ、銃を与えることはとても簡単なのに、本を与えることはとても難しいのでしょうか。なぜ、戦車をつくることは簡単なのに、学校を建てることは難しいのでしょうか。

 私たちは、21世紀という現代に生き、不可能なことは何もないと皆が信じています。私たちは月に到達できるし、おそらく火星にもまもなく降り立つでしょう。そして、この21世紀において、全ての子供たちが質の高い教育を受けられる夢の実現に向けて、私たちは決心しなくてはなりません。

 全ての人のために平等、正義、平和をもたらしましょう。政治家や世界の指導者だけでなく、私たち皆が貢献しなければなりません。私も、あなたも。これは私たちの義務なのです。

 ですから私たちは行動しなくてはなりません。待っていてはいけません。

 私は仲間の子供たちに世界中で立ち上がろうと呼びかけます。

 みなさん、これで終わりにしようと決めた最初の世代になりましょう。

 誰もいない教室、失われた子供時代、無駄になった潜在能力――これらを私たちで終わらせましょう。

 男の子や女の子が子供時代を工場で過ごすのはもうこれで終わりにしましょう。少女が早婚を強いられることも、戦争で罪のない子供の命が失われることも、教室が空であり続けることも、少女が教育を受けることが権利ではなく罪だと言われることも、子供が学校に通えないことも、これで終わりにしましょう。この終わりを始めましょう。

 私たちで終わらせましょう。ここから今すぐ、より良い将来を築きましょう。ありがとうございました。

 

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園長さんから平和へのメッセージ

2014-12-08 | 平和

新聞テレビはもちろん、ネット上でも「自民圧勝」「自民単独で3分の2以上」などの情報が飛び交っている。

驚きを通り越して、不思議でならない・・・

世論調査によると「他よりは良さそうだから」というのが自民支持の理由らしい。

確かに他の政党が頼りないのはわかるけど・・

いくらリーダーシップがあっても、悪い方向に持っていかれることは誰も望まないはず。

現政権がやってくれたことは、

近隣諸国との関係悪化、集団的自衛権の行使容認、秘密保護法など平和と自由の先行き不安、

経済の面でも良好なのは大企業だけ、実質賃金は下がり、ワーキングプアは増え、

生活保護受給者は過去最多となっている。

あの危険極まりない原発の再稼働と他国への輸出にも力を入れている。

どこが他の政権、政党よりもいいのか、さっぱりわからない。

 

と思いつつも、その思いを声に出して言うわけではない。

マララさんのように、外に向かって力強く声をあげるほどの熱意はない。

せいぜいブログでつぶやく程度・・

だから変わらないのだろう。

日本人は私のようにモノグサで臆病なタイプが多くて、変えようとするエネルギーが決定的に足りない。

この先、この国はどうなっていくのだろう・・

 

でも、中には、思い余って一歩を踏み出す人も出てきた。

5ヶ月ほど前に保育園の園長先生が書かれたメッセージを見つけた。

東京都稲城市にある「ひらお保育園」園長の田中雄二さん(62)が書かれたもの。

田中さんは、集団的自衛権の行使容認が閣議決定された7月1日に危機感を持ち、保育者としての思いを綴った。

「政治信条は人それぞれだし、自分の思いを押しつけるつもりはない。でも、子どもたちが他国の人を殺し、殺されるようなことはしてほしくない」

「私になにができるか 考えました そして ここにみなさんに 伝える言葉を 記すことにしました」と言う。

そのメッセージの全文をぜひ読んで欲しい。

 

 

寝ていては いけないのだと思う 

黙っていては いけないのだと思う 

あきらめては いけないのだと思う

昨日、安倍内閣は臨時閣議で 憲法の解釈を変えるという 途方もない手段で 

日本の平和憲法の柱 「戦争の放棄」が変えられた

みなさん 知っていますか

2年前 自民党が政権に復帰した 総選挙の得票率を

わずかに24% 

全国民の民意の四分の一 それで国会の議席 過半数を占めるという 

小選挙区制度の不思議さ その不当さ

 

みなさん 知っていますか

第二次世界大戦の中で 日本軍として参戦した 兵隊240万人が死んだことを

そして 日本軍によって アジア全体で殺された人たちは2000万人ということを 

なかでも 中国では 1000万人もの 多くの命が 奪われたことを

 

みなさん 知っていますか

戦争が終えた1945年の 日本の平均寿命を 

男性23.9九歳 女性37.5歳 信じられない この年齢 

そのもつ意味 そのもつ重み

 

1945年3月 東京下町への大空襲 

8月6日 広島への 原爆の投下 8月9日 さらに 長崎へも…

累々(るいるい)として おびただしい 死者の叫び 命の訴え

けっして 取り戻すことのできない 命の代償 家族の無念さ

そして 戦争が終えた そして 憲法が産まれた

時の権力によって 時の政権によって 二度と再び 戦争が 起こされることがないように 

事情や状況を問わず 外交問題の解決に 武力を行使することが けっしてないように 

私たちの 日本国憲法が 産まれた

その後 67年間 朝鮮戦争でも ベトナム戦争でも 湾岸戦争でも 

また イラク戦争でも アフガン戦争でも 日本が直接に 戦争を起こすことは なかった 

日本が直接に 戦争に巻き込まれることは なかった



いま 寝ていてはいけないと思う 

いま 黙っていてはいけないと思う 

いま あきらめてはいけないと思う

子どもたちが そのまた子どもたちが 

建物を くらしを 地域を破壊し ひとのいのちを 奪わないため 

ひとにいのちを 奪われないため

くらしや文化 言葉や習慣は違っても 

地球に住む さまざまな世界の人たちと ともに手をつないで生きるため

 

知っていますか 

安倍総理大臣にも 小野寺防衛大臣にも 国務大臣には 憲法を擁護する 義務があることを

知っていますか 

私たち 日本の国民には 

二度と戦争を起こさないために 憲法を守り 育てる 不断の努力が 求められていることを

 

寝ていては いけないと思う 

黙っていては いけないと思う 

あきらめては いけないと思う 

 

いま このときに 

不戦の誓いのもと 憲法の骨格に 第九条「戦争放棄」を 明確にもつこの日本の国で

憲法改正の手続きも 議論も経ず 閣議で解釈の変更を 了承する形で

これまで67年間 現在の憲法下では法的にできないと すべての政権が公言していた 集団的自衛権

これを「解釈改憲」として 閣議で決定した「現政権」

この事態に 一人の保育者として 一人の日本人として 私になにができるか 考えました

そして ここにみなさんに 伝える言葉を 記すことにしました

 

子どもの命を守りはぐくむこと これを阻む 理不尽な動きには 学び 訴え 協同し 行動していく

このことを理念としてもつ 我が社会福祉法人「厚生館」の 職員として 施設長として

また これまで 多くの保護者と たくさんの子どもたちに

輝くいのちのすばらしさを 日々の中で 教えてもらった 一人の保育者として

あらためて訴えたい 伝えたい

憲法を守ろう いのちをはぐくもう

戦争につながる動きに ノーの行動を示そうと

  

                          7月2日 ひらお保育園 園長 田中雄二

 

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俺たちの生活は、何一つ変わらなかった・・

2014-12-06 | さよなら原発

「アベノミクス解散」「アベノミクス選挙」とアベノミクスを連発し、

安倍自民党は争点を経済問題に押し込めようとしている。

野党も同じ。

マスコミも同じ。

原発問題があまり聞こえてこない。

わずか2年前の衆院選では、原発が一番大きな争点だった。

脱原発を実現するために急遽幾つかの党が集まって「日本未来の党」を創ったりもした。

 

それが、今回はほとんど話題にならない。

何も解決していないのに・・

 

12月2日の毎日新聞に、福島県を離れて暮らす避難者を取材した記事があった。

http://mainichi.jp/shimen/news/20141202ddm041010124000c.html

 

福島第1原発事故から約3年8カ月。

今も県外で避難生活を送っている福島県民は約4万6000人。

事故は収束せず、帰郷の見通しも立たない。

避難者はこの選挙をどのように見ているのか・・

 

   理不尽に降りかかる放射能が 双葉地方の住民から奪い去ったものは 

   生まれ育ったふるさと 

   我が家とわが土地から いとも無造作に放逐された人々は 

   異郷の空の下で あてもなくさすらい続けるのだ

東京都武蔵野市の都営アパートで避難生活を送る詩人、小島力(ちから)さん(79)が

福島県葛尾村から避難後に書いた詩集の一編だ。

妻ヤスさん(84)と暮らす1DKの部屋には所狭しと日用品が置かれる。

「こんなに長くここで暮らすことになるとは思いもしなかった」

ヤスさんはため息をついた。

小島さんは東京生まれだが、戦時中に母の実家の福島県に疎開し定住。

郵便局に勤める傍ら、創作活動をしてきた。

3人の子供と8人の孫に恵まれ、年に数回孫たちが遊びに来るのが楽しみだった。

そんな幸せを原発事故が奪った。原発から約25キロにある村は避難指示区域になった。

小島さん夫婦は子供を頼って都内を転々とし、都営アパートに落ち着いた。

小島さんは「子供や孫が来ても、部屋が狭いから、気を使って泊まらず帰る。

近くて遠い存在になってしまった」とつぶやく。

衆院を解散し、「アベノミクスの信を問う」と強調する安倍晋三首相。

ヤスさんは「避難者の生活より、経済が大事なんだね。

政治家の人たちは福島のこと、被災地のことを忘れてしまったんだね」と思った。

「俺たちの生活はこの3年8カ月、何一つ変わらなかった。

このまま原発は再稼働が進み、福島の避難者がなかったことにされるのでは。

いつ古里に帰れるのかを示すのも政治の役割だ」小島さんは語気を強めた。

 

この国の政治家は、なぜ国民を見捨てたままで平気なんだろう?

原発難民をいつまで放置しておくのだろう?

「すべて国民は、健康で文化的な最低 限度の生活を営む権利を有する。」 と記された憲法25条。

この憲法は、どこの国のものなのだろう?

 

 

 

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素朴な疑問

2014-12-05 | 雑感

みなさん、風邪はひいていませんか?

今とても流行ってますよね~

十分気をつけてくださいねー

よく言うでしょ?

「うがい、手洗い、マスク」って。

ものぐさな私は、ほとんどやりません、うがい、手洗いってやつ。

その結果、バツとして、すぐに風邪をもらってくるんですよねー。

しかも、熱は直ぐに下がるけど、長引くんだな~咳が!

本人も苦しいけど、これは自業自得ってやつで、仕方ない。

問題は周りの方にうつさないようにすること。

なので、なるべく外出は避け、用事も電話やメールで済ませます。

が、それでは済まない用事も多いので、そんな時はマスクだけはしっかりして出かけます!

 

マスクって昔はとてもイヤだったけど、最近のものはいいですね。

息苦しくないし、耳も痛くならないし、使い捨てで清潔だし・・・

それに、マスクは風邪や花粉症だけでなく、いろんなメリットがありますね

吸い込む息が温かく湿っているので寒い時には防寒対策になりますし、

一番のメリットはお化粧しなくていいこと!かな?

寒い日は、毛糸の帽子を被ってマスクをすれば、出ているのは目だけのようなものだから、お化粧の必要無し!

 

ところで、前から疑問に思っていたことがあります・・・

マスクは咳によって発散される風邪ウイルスを飛散させず閉じ込める効果があるんですよね、

ってことは、咳をするたびに自分の喉から出たウイルスはマスクの内側にへばりついているんですよね?

そして、息を吸うたびにそのウイルスはまた鼻や口から自分の体内に戻る?

 

咳は、外から入ってきたほこりやばい菌を外に出すための反射的な働きなので、

咳止めなどで無理に押さえ込むのはいいことではない、とも言われています。

ならば、誰もいないところではマスクはしないほうがいい?

自室ではマスクをとって、咳とともに風邪菌を思い切り空中に飛散させたほうがいいのかな・・・?

 

皆さんはどう思います?

一人でいるとき、マスクはするべきか?外すべきか?

う~ん、悩ましい~ 

 

 

 

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