佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

特攻隊員 林市造  その2

2008-09-13 | 平和

このテーマに関してお二人の方からコメントをいただいた。

林市造さんに関心を持っていただいて、嬉しかった。と同時に、彼の遺稿そのものを、私だけでなく皆さんにも読んでいただきたくなった。

 「きけ わだつみのこえ」はじめ多くに紹介されている彼の"母への最後の手紙"は、元山航空基地より鹿屋へ飛び立つ前日に書かれたもので、鹿屋からも3通ほど書いており、ということはこれが本当の"最後の手紙"ではないのだが、末尾に「出撃前日」とあるので、何となく遺書のように扱われている。

また、この手紙は、検閲を避けて梅野という友人に日記などとともに託しているので、後に書かれた3通よりも、本音が綴られているであろうし、また、市蔵さんは本当にこの手紙が最後と思って書いたようであるので、内容としてはこれを"最後の手紙"と扱ってもよいと思う。    

 

お母さん、とうとう悲しい便りをださねばならないときがきました。  

  親思ふ心にまさる親心 今日のおとずれ何ときくらむ 

この歌がしみじみと思はれます。 

ほんとに私は幸福だったです。我ままばかりとほしましたね。 

けれどもあれも私の甘へ心だと思って許して下さいね。 

晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思ふと泣けてきます。 

 母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思ふと、何も喜ばせることが出来ずに、安心させることもできず死んでゆくのがつらい のです。

 私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、といふことは、立派に死んだと喜んで下さいといふことはとてもできません。けど余りこんなことは云ひますまい。母チャンは私の気持をよくしって居られるのですから。  

 婚約その他の話、二回目にお手紙いただいたときはもうわかって居たのですがどうしてもことわることができませんでした。又私もまだ母チャンに甘へたかったのです。この頃の手紙ほどうれしかったものはなかったです。一度会ってしみじみと話したかったのですが。やはりだかれてねたかったのですが、門司が最後となりました。この手紙は出撃を明後日にひかへてかいています。ひょっとすると博多の上をとおるかもしれないのでたのしみにしています。かげながらお別れしようと思って。  

 千代子姉さんにもお会ひ出来ず、お礼いいたかったのですが残念です。 私が高校をうけるときの私の家のものの気づかいが宮崎町の家と共に思ひ出されて来ます。 

 母チャン、母チャンが私にこうせよと云はれた事に反対して、とうとうここまで来てしまいました。私として希望どおりで嬉しいと思ひたいのですが、母ちゃんのいわれる様にした方がよかったかなあとも思います。 

 でも私は技量抜群として選ばれるのですからよろこんで下さい。私達ぐらいの飛行時間で第一線に出るなんてほんとは出来ないのです。 

 選ばれた者の中でも特に同じ学生を一人ひっぱってゆくようにされて光栄なのです。私が死んでも満喜雄さんが居ますしお母さんにとっては私の方が大事かも知れませんが一般的に見たら満喜雄さんも事をなし得る点に於い絶対にひけをとらない人です。 

 千代子姉さん博子姉さんもおられます。たのもしい孫も居るではありませんか。私もいつも傍に居ますから、楽しく送って下さい。お母さんが楽しまれることは私がたのしむことです。お母さんが悲しまれると私も悲しくなります。みんなと一緒にたのしくくらして下さい。 

 お母さん、私は男です。日本に生まれて男はみんな國を負うて死んでゆく男です。有難いことに、お母さん、お母さんは私を立派な男に生んで育てて下さいました。情熱を人一倍にさずけて下さいました。お母さんのつくって下さいました私は、この秋には敵の中に飛びこんでゆくより外に手をしらないのです。 

 立派に敵の空母をしずめてみせます。人に威張って下さい。 大分気を張ってかきましたが、私がうけた学問も私が正しい時にかく感ずるのだと教えています。

 ともすればずるい考へに、お母さんの傍にかへりたいといふ考えにさそわれるのですけど、これはいけない事なのです。洗礼をうけた時、私は「死ね」といわれましたね。アメリカの弾にあたって死ぬより前に汝を救うものの御手によりて殺すのだといわれましたが、これを私は思い出して居ります。すべてが神様の御手にあるのです。神様の下にある私達には、この世の生死は問題になりませんね。 

 エス様もみこころのままになしたまへとお祈りになったのですね。私はこの頃毎日聖書をよんでいます。よんでいると、お母さんの近くに居る気持がするからです。私は聖書と賛美歌と飛行機につんでつっこみます。 

 それから校長先生からいただいたミッションの徽章と、お母さんからいただいたお守りです。 

 結婚の話、なんだかあんな人々をからかったみたいですがこんな事情ですからよろしくお断りして下さい。意思もあったのですから。ほんとに時間があったら結婚してお母さんを喜ばしてあげようと思ったです。 

 許して下さいと、これはお母さんにもいわねばなりませんが、お母さんはなんでも私のしたことはゆるして下さいますから安心です。 

 お母さんは偉い人ですね。私はいつもどうしてもお母さんに及ばないのを感じていました。お母さんは苦しいことも身にひきうけてなされます。私のとてもまねのできない所です。お母さんの欠点は子供をあまりかわいがりすぎられる所ですが、これはいけないと云うのは無理ですね。 私はこれがすきなのですから。 

 お母さんだけは、又私の兄弟達はそして友達は私を知ってくれるので私は安心して征けます。 

 私はお母さんに祈ってつっこみます。お母さんの祈りはいつも神様はみそなわして下さいますから。 

 この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね。やっぱり恥ですからね。もうすぐ死ぬということが何だか人ごとの様に感じられます。いつでも又お母さんにあへる気がするのです。あへないなんて考えるとほんとに悲しいですから。 

 私のもちもの、日記類なんか、ほんとに汚いものですからやきすてて下さい。お願いします。お母さんがみられてもいやですね。お母さんだけなら仕方がないですが、こればかりは他人には絶対にみせないで下さい。私の浅ぱくさがばれるのですから。やはり見栄坊の私は人にあらをみせるのがいやなのです。必ずやきすてて人にみせないで下さい。その他の本とか何とかお母さんの気のままに処分して下さい。 

 私は軍隊に入って変に自信をもちました。私達は少くとも綺麗な心をもつように育てられたということです。心の点では、たいがいのものにまけないという自信です。私の周囲がよかったのですね。家、そして友達、高校の友達なんかことに有難いです。 

 出撃が明朝に極りあわただしくなり落着かないのですが、せめて最後の言葉を甘へたいと思って居ます。 

 内のこと思い出すと有難くて涙が出るばかりですからもうこのことについてはかきますまい。私がその中に居たことが嬉しいのです。 

 千代子姉さんは光兄さんのこと御心配でしょうが、大丈夫ですよ。私は妙な確信をもって居ます。 

 潤子チャン陽子チャン達が私にかわってお母さんを喜ばしてくれることをお願いします。 

 今桜がさかりですね。校庭にもつくしが生えていましょう。春休みがなつかしいですね。萩尾先生や校長先生や妹尾先生 立石の小母さん、松田、井口の小母さん達によろしく。汽車の中は人が一杯でうごきもきれずたのしかったですね。結婚の話、みんなでみて品定してその結論をさしあげたのですがあれも私の最後をかざる思い出です。 

 梅野にきてもらってチャートにコースを入れて居ます。博多上空をとほります。桜の西公園を遠目に遥か上空よりお別れをします。 

 お母さん、でも私の様なものが特攻隊員となれたことを喜んで下さいね。死んでも立派な戦死だし、キリスト教によれる私達ですからね。 

 でも、お母さん、やはり悲しいですね。悲しいときは泣いて下さい。 私もかなしいから一緒に泣きませう。そして思う存分ないたら喜びませう。 

 私は賛美歌をうたひながら敵艦につっこみます。 

 まだかきたいこともありますがもうやめませう。 

 お母さんは私を何もかにも知って居られるのですから私の気持は、お母さんがお思いになるとおりに考えて居ました。軍隊という所へ入っても私は絶対にもとの心を失いませんでしたから、甘える心だけは強くなりましたが。 

 お母さん、くれぐれも身体を丈夫に長生して下さい。お願ひします。 

 千代子姉さん、博子姉さん、満喜雄さんと、潤子チャン陽子チャン宏明チャンの生長をたのしんでらくにくらして下さい。 

 変な手紙になりましたが書きなほすのもめんどうだからこのまま出します。 

 お母さん。くれぐれも身体に注意して下さい。お願ひ致します。  

   出 撃 前 日                        さよなら   

                                           市造                                          

母上様 

姉上様

 

 

まるで子供のように母を慕う気持が溢れている。

「晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しい」とか、「私は男です」「人に威張って下さい」などと言いつつ、「でも、お母さん、やはり悲しいですね」とも書いている。

そして、「讃美歌を歌ひながら敵艦につっこみます」と。

天皇陛下万歳ではない。

信仰心がかろうじて精神の根幹のところを保たせていたのか。

それにしても、本当にまっすぐな、純な心の持ち主である。

 

この手紙を書いたのと同じ夜、高校以来の友人Dの部屋を訪れている。たまたまDが留守だったので、手帳に次のように書き記している。  

 

黒ちゃんのおらすならよかばってん 

良き友よ、たのしかりし 

校庭の桜も今やさかりならん 

美しかり 我友どち 

飛行機に乗って讃美歌が、そして寮歌が口に出てくる日、 

雲の果て遠く故国なつかし 

別れの宴たのしくも今出でたつよ丈夫男子が 

七生滅敵、願はくは我が行く後も忘れずてなん 

酒がまはっとるけん何かくかわからん 

友達には何かいてもよからん わかってくれるじやらう 

大分今まで悪口ばいひよったばってん許してくりい 

黒ちゃんのおらすならよかっばって 淋しかたい

 

 

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3 コメント

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林市造さんの手紙 (mocci)
2008-09-15 08:45:12
林市造さんのこの手紙からも、彼の日記(「日なり楯なり」:北海道大学、石川明人さんの論文の中で拝見した部分のみですが。この論文はネット上で公表されています)からも伝わってくるのは、死を前にした青年の、「死の恐怖」に信仰心で打ち勝とうとする思い、そして自分の死を悲しむであろう母に対する思いや思い遣りなどであって、決して「敵を撃沈させてやる」とか「お国のために勇猛に戦う」などといったものではないことが良く分かります。未来ある青年を、このような目に遭わせては絶対にいけない、と強く思います。
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石川明人さんの論文について (cosmos)
2008-09-15 19:32:01
石川明人さんの論文、私も読みました。市造さんの心の襞を丁寧に分析なさっていますね。戦死が栄誉とされた時代に、死への恐怖と母への愛着と闘いながらその時に近づいていった彼の懊悩を改めて感じました。mocciさんのご紹介に感謝します。
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Unknown (加賀赳寛)
2020-09-04 04:46:00
林市造さんは私の叔父さんです。私は戦後すぐの生まれですから、生まれた時には、もう戦死されてました。林まつゑおばあちゃんから市造さんのことは聞いて育ちました。市造さんの姉で私の母、加賀博子が、市造さんを偲び、当時の暮らしを書いた遺稿集を残しました。
https://kagatakehiro.wixsite.com/-site-1
お読み頂ければありがたいです。
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