佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

公正?中立?

2015-03-31 | 雑感

「農相が公平、中立な立場から審査した。問題は無い」と菅官房長官は評価し、

中谷防衛相は「適正に審査をして頂いた」「引き続き作業を進める」と答えた。

本当に国はどこまで沖縄県民を無視し、国民をバカにしているのだろう。

 

これまでずっと国は沖縄の思いを無視して米軍基地の移設作業を進めてきた。

その作業の中で、重いコンクリートブロックによるサンゴの破壊が確認された。

沖縄県知事は、サンゴの被害状況を調査するために作業の停止を沖縄防衛局に指示した。

ところが同局は謝るどころか、その指示を不服として、水産資源保護法を所管する農相に審査請求を行い、

裁決が出るまで、知事の指示の効力を停止するよう申し立てた。

そして農相はこれを認め、海底作業停止指示について、効力の一時停止を決めた。

防衛相が農相に判断を求める、つまり国が国に審査を求め、出された結果のどこが公正と言えるだろう?

誰がこれを中立と思うだろう?

同じ閣僚仲間で、国民よりも米国の意思を重んじる政策を進めている仲間同士。

 

別件だが、

私も、石木ダム問題で散々「公正・中立」という言葉を聞かされてきた。

佐世保市は5年に1回、石木ダム事業を継続すべきかどうかの再評価をおこなっているが、

それを評価する評価委員会の委員を選ぶのは市水道局なので、見直しという結論が出るはずがない。

県も石木ダム事業の再検証をおこなったが、それを検討したのは県土木部と佐世保市長と川棚町長など。

促進派の役人ばかりで、結果は初めからわかっている。

石木ダム事業を認定した認定庁も、第三者機関に意見を求めたというが、

その機関である社会資本整備審議会は国土交通省に設置されているもので、任命したのは国交省。

公共事業を進めるために作られているシステムやチェック機関はどれも仲間同士。

なのに、平然と彼らは言う。

公正中立だと。

 

この国に正義はあるのか?

どうしたら正義を取り戻せるのか?

このままでは、沖縄の海も、沖縄県民の意思も見殺しにされてしまう。 

それは沖縄に限らず、やがて全ての地方自治や国民の声が蔑ろにされていくということ。。。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法治国家ならばこそ

2015-03-27 | 平和

日本は法治国家だから、一度決めた工事は粛々と進めると言った菅官房長官。

その通り、日本は法治国家です。

だからこそ、法に従わねばならない。

国会議員や政府役人は、誰よりも憲法を守り従う義務がある。

沖縄県民が選挙で示した民意を無視し続けている政府こそ、憲法を犯している。

このオール沖縄の声にいつまで耳を塞ぐつもりなのか?

翁長沖縄県知事との話し合いをいつまで拒み続けるのか?

 

これほど平然と法を犯し、それが許されている今の日本は異常だと思う。

政府による沖縄イジメを私たちは認めてしまっていることになる。

秘密保護法を成立させたり、

集団的自衛権を閣議決定してしまったり、

自衛隊を「我が軍」と首相が呼び、官房長官はそれを記者会見で間違っていないと言ったり、

(「陸海空軍」を「保持しない」と明言した憲法9条を改憲前からすでに削除?)

こんな政権が大手を振って存在していることが不思議だし、

存続させている私たち自身がおかしい。

 

いつからおかしくなったのか・・

どうしておかしくなったのか・・

どうしたら民主主義をとりもどせるのか、沖縄イジメを止められるのか、平和を維持できるのか・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015.3.10キャンドルナイト

2015-03-13 | さよなら原発

私たちがおこなった小さな小さなキャンドルナイトが翌日の新聞に掲載されていました。

2月10日現在で死者1万5890人、行方不明者2590人、震災関連死は19県で3194人、

仮設住宅での孤独死が昨年1年間で44人、未だに避難生活を送っている人は約23万人!

まずはこの過酷な事実を伝え、https://www.youtube.com/watch?v=rGBnt5UWodU

黙祷を捧げました。

 

黙祷のあと、参加者のお一人が福島の現状について話してくださいました。

 

県外に移住した子どもたちの多くがヒバクシャということでいじめられている。

耐え切れず戻った子たちは、福島でもいじめられ、居場所がなくなっている現実がある。

でも、長崎の人はそれは絶対しないと思う。

などの話が心に残りました。

 

公園そばのアーケード街を通る人々がキャンドルの方を見つめています。

なんだろう?

何やってんだ?

中には足を止めて、ポスターの1枚1枚に見入ったり、話を聞いていく人もいました。

 

昨年浪江町を訪ねた方のお話も聞くことができました。

 

最後に、みんなで「ふるさと」を歌いました。

ギターが3人、ハーモニカが2人!

5人の方の伴奏のおかげで、参加者全員で歌うことができました。

https://www.youtube.com/watch?v=oncxE052RmA

 

津波で破壊された「ふるさと」が一日も早く復興し、避難者が一日も早く戻れますように…

原発事故で汚染された「ふるさと」に帰れない人々の苦悩に寄り添い、国や東電が責任を持って対応し、

原発被害者の方々が一日も早く普通の暮らしに戻れますように…

そんなことを願いながら「ふるさと」を歌いました。

 

そして、いま思います。

天災によって破壊されたふるさとは、わずかな時間の経過とともに蘇るけれど、

原発事故という人災によって破壊されたふるさとは、そうではない。

果てしなく長い年月を要するか、永遠に戻らないか…

この罪は大きい。

大き過ぎる。

その責任を全く感じない人々が、この国を動かしている。

そのことに戦慄を覚えます。

             

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村山談話が生まれるまで

2015-03-06 | 平和

最近話題になっている村山談話が生まれた経緯について、私はよく知らない。

1995年8月、当時の村山富市首相が戦後50年の終戦記念日に発表した談話で、

日本が第二次大戦中にアジア諸国で侵略や植民地支配を行ったことを認め、公式に謝罪したもの。

…ということは知っているけれど、その内容は歴史的にはごく普通のことだと思っていたので、

その談話がなぜ、どういう経緯で生まれたのかなど、あまり考えたこともなかった。

 

朝日新聞デジタル版に村山談話誕生ドラマとも言うべき面白い記事があったので、コピペさせてもらいます。

 

安倍氏は国会決議を欠席、村山首相は談話を決断 95年

藤原慎一 冨名腰隆

2015年3月4日04時59分

 

20年前、「村山談話」はなぜ生まれたか

 村山政権で連立を組んだ自民、社会、新党さきがけ3党は、1994年6月の政権発足時、「戦後50年を契機に、過去の戦争を反省し、未来の平和への決意を表明する国会決議の採択などに積極的に取り組む」との合意を交わした。

 決議の文案づくりは翌95年に始まったが、協議は難航。「不戦」や「謝罪」の表現を求めた社会党に対し、自民党慎重派「終戦50周年国会議員連盟」を中心に「後世に歴史的禍根を残す」と反発が広がった。

 同年3月、新人議員の安倍晋三氏が国会で「我が国が一方的に不戦の決議をするのは意味がない」と訴えた。安倍氏は議連の事務局長代理に抜擢(ばってき)されていた。

 3党は6月6日、ようやく合意にたどり着く。不戦や謝罪には触れず、「植民地支配」「侵略的行為」との文言が入った。ただ、妥協の末の決議文は3党それぞれに不満を残した。

 3日後の衆院本会議。決議は賛成多数で採択されたが、与野党から欠席者が続出。安倍氏の姿も議場にはなかった。全会一致が原則の国会決議が不調に終わり、政権は大きく傷ついた。「これではいけない」。村山富市首相は、首相談話の作成を決意した。

■「おわび」入れるかどうか

 1995年8月15日の「村山談話」につながる動きは、6月9日の国会決議から始まった。

 侵略や謝罪の表現があいまいにされた決議に対し、首相官邸には落胆が広がっていた。「何のために社会党から首相が出たのか、悔しい思いだった」。村山富市首相の政務秘書官だった園田原三氏は振り返る。

 談話作成の検討は、国会決議前からあったものの、それは閣議決定された村山談話とは別のものだった。首相の演説などを担当する内閣参事官室が準備を進めていた。

 しかし国会決議が不調に終わり、村山首相や五十嵐広三官房長官は、より明確な外交メッセージの作成を決意する。書き手に指名したのは官邸で外交を補佐する外務省出身の谷野作太郎・内閣外政審議室長だった。同じく外務官僚で首相秘書官だった槙田邦彦氏は「歴史認識は外交問題と直結する。能力を考えても谷野さんしかいなかった」と回想する。7月上旬、村山首相は谷野氏に「一文を書いてくれ」と伝えた。

 谷野氏は、1週間ほどで草稿を書き上げた。当時の自民党や国会決議があいまいにしていた「侵略的行為」という表現を、最初から「侵略」と明記した。「私自身、『侵略的行為』という表現に強い違和感を持っていた」

 ただ、谷野氏は「おわび」の文言を盛り込むことをためらった。槙田氏も、草稿に「おわび」がなかったことを覚えている。谷野氏は「あの頃、すでに日中、日韓間の主題は謝罪ではないと感じていた」と語る。重要なのは歴史をゆがめることなく次世代に正しく伝えることだと考えた。

 槙田氏の考えは違った。「おわびという言葉を入れるかどうかは、世界が注目している。入れるべきだ」。五十嵐長官にこう進言し、その場にいた園田博之官房副長官もうなずいた。五十嵐長官からおわびを盛り込むよう指示を受けた谷野氏は、「最終的には政治判断に従った」。こうして村山談話の骨格が整った。

 詰めの作業をほぼ終えた8月7日午前。村山首相、河野洋平自民党総裁のほか、正副長官らが官邸に顔をそろえた。

 村山首相が文案を示すと、河野氏の表情がゆがんだ。「これはなかなか厳しいぞ」。国会決議ですら反発が出た党内を抑えられるのか。翌日に控えた内閣改造では、タカ派の平沼赳夫氏や江藤隆美氏らの入閣も内定していた。河野氏に不安がよぎった。

 自民党の空気を察してか、8日の内閣改造で官房長官に就いた社会党の野坂浩賢氏は、談話を閣議決定して政府の公式見解とすることを提案する。野坂長官は平沼、江藤両氏や島村宜伸文相らを一人ずつ回り、事前了解を取りつけたと著書「政権」に記している。槙田氏によると、改造前まで運輸相だった亀井静香氏も党内の説得にあたった。

 焦点は橋本龍太郎通産相の意向だった。大物閣僚である橋本氏は、戦後50年国会決議に反発した日本遺族会の会長も務めていた。橋本氏の説得には、村山首相が自ら動いた。

 8月11日、村山首相は首相執務室から橋本氏に電話をかけた。談話を説明すると、橋本氏は「現物を見たい」と言った。

 発表前の談話が通産省に届けられ、村山首相は返事を待った。間もなく、電話が鳴った。2人のやりとりは、「村山富市回顧録」に詳しい。

 村山「あの文案見てくれたか」

 橋本「見た」

 村山「異議はありませんか

 橋本「別にないですよ。ただ強いて言えば、あの文章を見たら『終戦』と『敗戦』の二つの言葉が使われている。どっちか一本に絞った方がいいんじゃないでしょうか

 村山「どっちがいいと思いますか

 橋本「そりゃあ『敗戦』の方がいいんじゃないですか

 談話には「終戦」と「敗戦」が1カ所ずつあったが、「敗戦」にそろった。槙田氏は「橋本さんのコメントは意外だった」と当時を振り返る。

 8月15日午前10時、官邸の閣議室。野坂長官の「副長官が総理談話を読み上げるので謹んで聞いてください」との発言に続き、古川貞二郎官房副長官が談話を読み上げた。

 古川氏の回顧録「霞が関半生記」に当時の様子が記されている。

 「僕は丹田に力を込めて読み上げた。閣議室は水をうったようにシーンとしていた。だれも発言しない。僕は心底ホッとした」

 午前11時。村山首相は、記者会見で談話への思いを語った。「謙虚に反省し、国民全体としておわびの気持ちを表すことが、50年目の節目に大事なことではないか」=肩書は当時(藤原慎一)

 

■05年「小泉談話」、独自色も

 村山談話の歴史認識を受け継ぎつつ、より未来志向を目指したのが2005年の「小泉談話」だ。伏線は同年4月、インドネシアでのアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の50周年記念首脳会議にあった。

 1955年に開かれたバンドン会議は、第2次世界大戦後の旧植民地独立運動に弾みをつけた。記念式典に参加した小泉純一郎首相は「植民地支配と侵略」「心からのおわび」などに言及し、村山談話を踏襲する演説を行った。同年1月、スマトラ沖大地震の緊急首脳会議のためインドネシアに向かう機中で、町村信孝外相から「戦後60年の節目にメッセージを出す方がいい。バンドン会議がふさわしいのでは」と提案されたのがきっかけだったという。

 大型連休が明けると、8月15日に向けた談話作成に着手。二橋正弘官房副長官を中心にチームが作られた。小泉首相は「村山談話の歴史認識は正しい。植民地支配とおわびは引き継ぐように」と指示した。

 当時の政府高官は、途中段階の草稿に小泉首相自ら赤ペンで手を入れたのを覚えている。「分かりやすさ、伝わりやすさを意識した直し方だった」。「心ならずも命を落とされた」「300万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ」などの独特のフレーズは、小泉首相によって書き足されたようだ。

 一方、村山談話にある「国策を誤り」との表現は消えた。談話発表後の会見で細田博之官房長官は「文章の流れの問題であり、首相もかつてその趣旨の発言をしている。否定するものではない」と語った。実際に小泉首相は01年8月の靖国神社参拝後に出した談話で「過去の一時期、誤った国策にもとづく植民地支配と侵略を行い」と記している。

=肩書は当時(冨名腰隆)

 

「村山談話」を書いた当時の官僚も、日本遺族会会長を務めていた橋本龍太郎など自民党の重鎮も、歴史認識はしっかりしていたようですね。

10年後に「小泉談話」を発表した小泉純一郎も、「村山談話の歴史認識は正しい。植民地支配とおわびは引き継ぐように」と指示したなんて、意外でした。

それに比して今の安倍首相は…よほど学生時代に歴史の授業をサボっていたのか、おじい様の影響か…

近現代史の勉強を一からやり直してほしいものです。。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『自然保護』表紙

2015-03-05 | 雑感

これってなんだかわかります?

エノキダケではありません。

「イヌセンボンタケ」というキノコだそうです。

私は名前も初めて、見たのも初めて。

最初は真っ白の毛糸の玉に見え、そのうち何かの卵かな?と思い、さらによく見ると、

小さな茶色のヘンテコナものに気づき、どうも虫のような・・??

とすると、花の中に隠れている雄しべかな?

うーん、降参!

ということで、表紙の裏の解説を見て、知ることができました。

虫のようなものはカタツムリの子どもでした。

子どもというより赤ちゃんに見えます。

背中にしょった殻も濡れていて、まるで生まれたてのよう・・

 

これは日本自然保護協会の会報誌『自然保護』の3・4月号の表紙の写真です。

同会の方から依頼を受けて「石木川まもり隊」と石木ダムについての紹介記事を投稿したので、

先日送られてきたのでした。

 

イヌワシについての特集記事や、辺野古の埋め立て工事で傷つけられているサンゴのことや、

石ころの観察などなど、興味深い記事がいくつもありましたが、

やはり、私はこの表紙の写真に魅せられました。

 

どう見ても、この白い玉の集まりはキノコには見えなくて、

柔らかそうで、温かそうで、甘そうで・・

それにしても、このカタツムリの子どもはどこからやってきたんだろう?

解説には「キノコを餌にするのか、ゆっくりとキノコの上を移動していました」とありますが、

この子にとっては、この白い玉の上は、高いビルに登っているようなもの。

次の玉に移るのが怖くないのかな?

玉と玉の間が離れているところはどうやって移動するのかな?

いや、これは玉ではなくてキノコで、それを餌としているようだけど、

自分が乗っかっているものを食べたら、自分も下に落っこちてしまうのではないか?

それとも、落ちない程度に少しだけ食べて次のキノコの玉に移るのかな?

などと想像の翼を広げてしまいました。

 

自然界の写真には、そんな力が潜んでいるのですね~

同会編集部の方によると、表紙の写真は、「会報表紙フォトコンテスト」の優秀作品なのだそうです。

「賞金は出ず、開放の表紙を飾るという名誉だけのもの」とか!

来年度も募集するそうなので、そのときは是非あなたも応募してみては?

今年度の作品がこちらに紹介されています。

 

                                   

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする