佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

石谷閑子さんの訴えを読んで

2009-01-31 | 雑感

先日掲載した石谷閑子さんの訴え(1985年1月)を読んで、「全然知らなかった」とか「勉強になりました」とかいろいろメールを頂きました。

ああ、私だけじゃなかったんだなあ。
こんな大事な法律が決まろうとする時に、まるで他国のことのように、自分自身が無関心であったり、マスコミの怠慢で知らされてなかったり・・・そんなふうにして、この国の未来は決まってきたんだなぁと思いました。

そんな中でも、ごく一部の熱意ある人々がいます。
自分たちの暮らしがより良いものになるよう、他人任せにするのではなく、一市民として真剣に考え、声をあげ、行動する人々です。

自分の考えを押し付けるのでもなく、自分の無力さを嘆くのでもなく、淡々と、しかし希望を持って行動し続ける人々です。

ここ佐世保でも、そういう人々に出会えたことをたいへん嬉しく思っています。
その中のお一人Sさんから頂いた感想が、ズシリと心に響きました。

石谷さんの訴えをテープ起こししてくださったO先輩はもちろん、このブログを読んでくださっている皆さんにもお伝えしたいと思い、ご本人の許可を得ましたので、ご紹介します。



  「佐世保便り」で紹介された、石谷閑子さんの訴えを読ませて頂きました。
  貴重な資料です。

  「正論」は、ややもすると「俗論」に押し流されます。
  「結果」が出て、世間は反省します。(反省しない人もいますが・・・)

  しかし、世間は、世代交代の中で、「反省したこと」を忘れます。
  「戦争」、「原爆」についても、そんな気がします。
  「先見の明」を見抜き、「正論」を世間の多数に、
  「生活の知恵」にし続けるためには、どうしたらよいのでしょうか。
  
  
眼前にある「派遣労働」、「金融危機」、「テロとの戦争」、「地球環境」etc
  私たちの「思考」への課題のように思います。
 
 
 
私自身が 「俗論」に押し流されないようにするためにはどうしたらいいのか…
「反省したこと」を忘れないようにするためにはどうしたらいいのか…
「先見の明」を見抜き、何が「正論」であるかがわかるようになるにはどうしたらいいのか…

いま言えることは、私ひとりでは何もできないということ。

私ひとりの乏しい情報量や思考力の中では、すぐに俗論に流され、先見の明にも気付かず、いつも後の祭り・・・という繰り返しになりそうです。

情報を発信し合って、考えを伝えあって、少しでも自分自身の思考力を育んでいけたら…と願っています。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外務省の不思議なコメント

2009-01-28 | 雑感

IRENAってご存知ですか?

1月26日ドイツのボンで設立総会が開かれたばかりの新しい組織で、International Agency for Renewable Energies の略国際再生可能エネルギー機関のことだそうです。
リニューアブル(再生可能な)エネルギー、つまり風力発電や太陽光発電などの自然エネルギーの普及を国際協力で進めようという、地球にとって非常に重要な機関が発足したわけです。

ドイツ政府によると、120ヶ国以上が参加、75ヶ国が設立条約に署名したそうです。

残念ながら日本はその75ヶ国の内に入っていません

なぜ?

24日付の長崎新聞の記事によると、
日本政府は当初、「経済産業省出身者が事務局長を務める国際エネルギー機関(IEA)と事業内容が重複することなどを理由に参加に消極的だった」そうですが、「米国がオブザーバーを派遣する見通しとなったことなどから、方針を転換してオブザーバー参加を決定」したそうです。

情けない・・・。

この国際機関は、単にエネルギー問題にとどまらず、京都議定書のCO2問題や温暖化対策、
石油をめぐる国際紛争を防ぐ平和への道、そして世界的な金融危機の影響が広がるなか、
新たな雇用を生み出す産業の面からも大いに注目される分野だと思います。

そしてまた、太陽光発電技術などでは世界をリードしてきた日本の知恵と技を活かし、国際社会へ貢献できる場でもあるはずなのに・・・。

同じ政府内でも、環境省や農水省は加盟に前向きだし、自民党内でも河野太郎衆院議員や塩崎元官房長官などはそれぞれのブログで正式参加を訴えています。特に河野氏はずっと以前から熱く真剣に…。

環境エネルギー政策研究所長の飯田哲也氏も、「IRENAは今後、自然エネルギーの政策形成や世界基準づくりなどに大きな役割を果たすはず。一部の官僚の反対で正式参加を見送ったら、日本の産業界にとってもマイナスだ」と話していたそうです。

それでも、結局、日本は今回の加盟を見送ったのです。
で、その言い分、加盟に消極的(というか反対していた?)だった2つの省の意見をもう一度新聞記事で確認すると、

「状況を十分把握する必要がある」(経産省)
「正式参加するかどうかは米国しだい」(外務省)

と、ありました。 はーっ 何それ?って感じ・・・

私たちの国の超エリート集団である政府高官外務省の方々には、判断能力というものがないのでしょうか?
自国が参加すべきかどうかを考えるとき、他国次第だなんて…属国or植民地ですか?この国は。
日本国の外務省は、日本国と世界全体の利益を考えて政策決定なさるのではないのですか?
どこか他の国の都合に従って、右か左か決めていかれるのですか?

この件だけではなく、すべてがそうなのですか?
何でも「米国しだい」なのですか?
そうではなく、この件だけが「米国しだい」なのですか?
もしそうだとしたら、なぜ「国際再生可能エネルギー機関」へ加盟するかどうかの問題が、米国の意思に委ねられなければならないのですか?

私には全く理解できません。
誰か解る方がいたら、教えてほしいと思います。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きのうはあすに

2009-01-23 | 佐世保・長崎

長崎新聞に「健康歳時記」というコラムがあります。

先日、そこに、一つの詩が紹介されていました。

筆者の丸山寛之さん(医学ジャーナリスト)は、その詩を、毎年お正月の朝、読みたくなるのだそうです。

その詩は、大正生まれの詩人中桐雅夫が昭和の晩年に書いたもので、詩集『会社の人事』(晶文社)に収められています。

その詩集も、その詩も、その作者も、私は知りませんでした。
が、とても心に沁みるものでした。

来年のお正月が来る前に、私はきっとまた読みたくなるでしょう。
私の中にもある"後ろめたさ"(戦後生まれの私のそれは、ちっぽけなものかもしれないけれど)が、
大きく膨らんで困った時、きっと読みたくなるでしょう。

そのときは、このページを開いてみましょう。




           きのうはあすに              



     新年は、死んだ人をしのぶためにある、


     心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、


     おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、


     でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?


     人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、


     きょうはきのうに、きのうはあすになる、


     どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる、


     でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?

 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

派遣法に抵抗した女性たち

2009-01-21 | 雑感

先日、埼玉の先輩、Oさんから、とても貴重な資料が添付されたメールを頂きました。

Oさんも、昨今の派遣労働者の惨状にとても心を痛めていらっしゃいます。
と同時に、この惨状を生み出した労働者派遣法を阻止できなかった私たち自身も、鋭く問われているとおっしゃいます。

私たちが親の世代に「なぜ、あの戦争を止められなかったの?」と問いかけたように、
若者たちは、「なぜ、派遣法を止められなかったの?」と私たちに言いたいでしょうね。

正直なところ、私は、いつ派遣法ができたのかも知りませんでした。
当時(1980年代)の私は子育てや仕事に追われ、恥ずかしいけれど、政治や社会の動きにはほとんど「見ざる、言わざる、聞かざる」の日々でした。

しかし、その頃Oさんたちは、真剣に今と未来を見つめ、闘っておられました。
1985年1月19日、都内で男女雇用機会均等法に反対する女性たちの集会が開かれ、そこで、熱いスピーチが続出したようです。中でもOさんにとって印象深かったのが、石谷閑子(いしたに・しずこ)さんのお話でした。

Oさんは、「派遣法が制定されるとき、必死に反対してきた人たちもいます。歴史に埋もれてしまったその思いを、いま闘っている方々に知っていただきたい」と、その時の石谷さんのお話をテープ起こしされました。

その内容を読み、私もまた、多くの人々に是非知っていただきたい貴重なお話だと感じましたので、Oさんの了解を得て、このブログでご紹介させていただきます。

以前「家政婦は見た」という人気ドラマがありましたが、家政婦こそ、昔からある派遣業だったのですね。
そこでの不当な体験を経て、労働者自身による労働者供給事業というものを勝ち取っていった石谷さんの言葉には、「派遣法」がもたらす未来がはっきりと映し出されていました。

働く人たちがたいへん厳しく恐ろしいことが始まろうとしているのに、どうしたらいいかわからない、この残念さ、悔しさ。せめてみなさんに知っておいていただきたい・・・

最後にそうおっしゃっています。
かなり長文ですが、そのままの文章を読んで頂きたくて、全文を掲載いたします。



石谷閑子(いしたに・しずこ)さんのお話             

                       田園調布看護婦家政婦労働組合
                       労働者供給事業関連労働組合協議会  


 ただいまみなさんの歌われたなかに、「私たちはあしたも働くだろう、働かなければ食べていけないから」とあるのを聞きながら、自分がこれまでどのように働いてきたか、思い返していました。
 16歳からですので、50年は働いてきたことになります。いろいろな仕事をしましたが、いちばん長かったのが看護婦で、見習い看護婦から始めて戦争中は陸軍看護婦でした。戦争が終わりましてからは派遣看護婦です。
 先ほどからパート・臨時・派遣は正社員よりも労働条件が悪いという話がありました。看護婦は違いまして、家庭や病院に派遣される看護婦は、病院勤務の2倍のお金になります。それで、家庭の事情などで、どうしてもお金の必要な人が派遣で働きます。
 私も、戦争が終わっても2人の兄は戦地から帰ってきませんで、一家の生活を支えなければなりません。それで田園調布にある看護婦・家政婦の派出婦会に入りました。田園調布にはお金持ちがたくさんいますから、この仕事にはたいへん有利です。ボスは500人ほどの看護婦・家政婦をおいて、業界一の規模でした。
 経営にできるだけお金をかけないのがボスの方針でして、宿舎のベッドは500人に対して1割の50人分、それも3段ベッドでした。その布団がご近所の評判で、宿舎が線路の際にありましたので、その柵に布団を干す。晴れた日には汚い布団がズラーッと並んで、「ほらほら、看護婦さん、家政婦さんは、あの布団に寝ているんだよ」と、そういうところで働いていました。

 ところが、私が働き始めて1~2年たったころでしょうか、労働省―そのころはまだ内務省でしたが―のお役人と青い目の進駐軍が宿舎に来ました。そして、「あなたたちは長いあいだボスに搾取されてきた。しかし、新しい憲法によって職業安定法という法律ができ、人を働かせて搾取するような非民主的なことは許されなくなった」、そう言うんです。
 それで、仕事の紹介は職業安定所というお役所がやってくれる、しかもタダだというんです。私たちはボスに2割から3割ピンハネされていましたので、眉につばをつけながら聞いていましたが、ほんとうにそれ以後、ボスのピンハネはなくなりました。
 でも、仕事の依頼は安定所ではなく、やはりボスのところに来ます。そうすると、私たちは安定所に走って、「安定所の紹介」という書類をつくってもらってから派遣先に行く。病院から「お産があります」、「緊急の手術がはいりました」などと連絡があると、目の前の病院にではなく、大森にある安定所まで走って、それから病院に行く。これがたいへん不便でした。
 また、私たちは従来どおりボスの宿舎に寝泊りしていました。安定所は宿舎を用意しないで、ボスに委託したからです。しかし、委託料として1泊300円以上を取るのは禁止されていたのに、ボスは1泊600円も取った。それがわかって、ボスは廃業させられました。
 私たちはそれぞれ他の業者を探すように言われましたが、業者なんて似たりよったりです。小ボスというのは大ボスよりも陰険なところがあって、1泊600円を取りながら、それを洩らしたら1万円の罰金だとか、夜中に宿舎に忍び込んでくるとか、そういう業者ばかりです。

 それで、仲間の看護婦・家政婦と話し合って、自分たちで労働者供給事業をすることにしました。職業安定法は、ボスが人を集めて他の会社に派遣することを禁止していますが、労働組合が無料でおこなう労働者供給事業は認めている。この認可をとることにしたのです。
 こういう仕事をしていると、だいたいがヘソクリをもっています。それを出し合って、事務所と宿舎にする建物を買いました。そして労働組合をつくって、1日の賃金をいくらにするか、組合費をいくらにするか、みんなで話し合いまして、労働省に労働者供給事業の認可を申請しました。
 だけど、労働省は終始一貫して、労働組合が供給事業をおこなうのがイヤでイヤでイヤでたまらなかったんです。それで、私たちの申請はたらいまわしにされました。私が組合長になりまして、役所に行きますと、お役人が「悪いことは言わない、あなたが個人で派出婦会の認可をとっておきなさい。それなら、すぐに認可されるし、あなたの一生の財産になるよ」と言うんです。
 職業安定法では、職業紹介は職業安定所と学校、それから労働組合が組合員に無料でおこなう、それ以外は認められないことになっています。しかし、有料の職業紹介も、「無料の紹介所が機能を発揮するまで」ということで、暫定的に認められていました。その認可をとるようにというんです。
 だけど、みんなで始めようというのに、個人でとって自分の財産にしたら、私は裏切り者になります。「それはできません」と言ったら、「そうですか」と言ったきり、2年間、待たされました。さいごには、「バカヤロー、バカヤロー、これだけ延ばされても、こちらがどういうつもりでいるか、わからないのか」と言われました。
 それで、社会党の国会議員だった赤松常子先生に頼みに行きました。赤松先生はすぐに労働省に出向いて調査され、参議院の社会労働委員会で質問しました。そうしたら、職業安定局長が立ち上がって、「その件は調査が終わりまして、あと2週間で手続きがすみます」と、ほんとうにそれから2週間で認可が下りました。

 ところが、驚くじゃありませんか、禁止された派遣を、また復活させるというのです。4~5年前でしたか、労働省がそのための調査委員会をつくるといって、学識経験者、経営者の代表、労働組合の代表を集めました。労働組合はナショナルセンターの総評・同盟・新産別からと、労働者供給事業をおこなっている組合として、私どもと自動車運転手の組合、港湾で働いている人たちの組合から委員が出ました。
 私には昨日のように思えるんですよ。「人に仕事を紹介してピンハネするような非民主的なことは許されなくなった」と言われたことが…。私たちはそれを信じて、もうボスに搾取されることはないんだと、仲間のため、自分のために、労働者供給事業を一生懸命にやってきました。
 労働基準法の5条には「なんぴとも法によるほかは人の就業に介入して利益を得てはならない」と書いてあります。職業安定法には、「人の就業に営利の目的で介入してはならない」ということが、最初から最後までピーンと書かれています。まさかこれがホゴにされるなんて…。
 労働省の委員会で、私たちは反対しました。私は、日本は言論の国だから、正しいことをいえば通ると思っていました。だけど、委員会の前に結論は出ていたんです。言いたいだけ言わせておこうということだったんです。学識経験者なんか、「あんたたちも組合員を外で働かせて分け前を取っている。派遣事業とどこが違うんだ」と言うんです。
 労働者供給事業では、派遣先で働く人も事務所で働く人も同じ組合員です。派遣先からの賃金は働いた人に払われ、働いた人はそこから組合費を払って、事務所の維持費や事務所で働く人の賃金にします。組合費はみんなで話し合って大会で決め、私たちのところでは賃金の1割です。組合長も1年ごとに選挙で決めます。リコールの制度もあります。
 労働省が解禁しようとしている派遣業は違います。働く人は派遣会社に雇われるんです。派遣先からのお金は派遣会社に入って、働いた人は派遣会社から賃金を受け取る。働いた人には、派遣先からいくら入ったのか知らされないので、2割・3割どころか5割・6割ピンハネしても、それはボスの経営能力ということになります。

 派遣業は現在の法律では認められていませんが、マンパワーという会社は堂々と営業しています。労働省は派遣会社を取り締まらずに、野放図につくりたいだけつくらせておいて、「こんなにたくさんできたのは、働く人と働かせる人、双方のニーズだからだ」と、法律のほうを変えようとしているのです。
 委員会ではマンパワーにも調査に行きました。働いている人に「なぜ派遣で働くの?」と聞くと、「職安に行っても、正社員の口などありません」と。3割ピンハネされて、交通費も出ない。それでも、いまは法律違反ですから、マンパワーも少しは遠慮している。これが合法と認められたら、どうなるのでしょう。
 いま労働省が用意しているのは、職種を限って派遣を認めるという法律です。男の人はかなり特別な能力や経験が必要な職種で、狙われているのはおもに女の人です。みなさんが学校を卒業し、あるいは子どもの手が離れたからと仕事に出ようとすると、大手を広げて待ちかまえているのが、派遣会社のボスということになります。
 だけど、女の人だけの問題ではありません。「濡れぬ先こそ露をもいとえ」で、どうせ合法にするなら、どんな職種でも認めるようにしたいと、労働省ははっきり言っています。運転手や港湾の組合の人は「タコ部屋を復活させるつもりか!」と、たいへんな危機感をもっています。
 企業の経営者にとって、派遣で働く人はたいへん便利です。なにかあっても「派遣会社に言いなさい」ですむからです。残念ですが、労働省、また労働法の権威といわれる学識経験者がそれに加担しています。
 働く人たちにたいへん厳しく恐ろしいことが始まろうとしているのに、どうしたらいいかわからない、この残念さ、悔しさ。せめてみなさんに知っておいていただきたいと、お訴えさせていただきました。
                                  
1985年1月19日

                                

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野生馬のいる岬 宮崎

2009-01-17 | 

最終日の最終目的地、都井岬にやってきました。

Wikipediaによると、<野生の馬が棲息することで知られ、「岬馬およびその繁殖地」として国の天然記念物に指定されている。この野生馬は江戸時代に高鍋藩が軍用馬飼育のため、放牧を始めたものが、後に半野生化したものである>とのこと。



でも、この写真、なんとなく暗いでしょう?

天気のせい? それもあります。
カメラマンの腕のせい? それも大いにあります。
でも、それだけじゃあないんです。

この日の都井岬は、岬全体が暗~い雰囲気でした。
まず、観光客の姿がほとんど見あたりません。
駒止めの門」と名付けられた料金所(通行料ではなく、ここの野生馬を保護管理している「都井御崎牧組合」への寄付金を納めるところ)を過ぎ、岬の突端にある都井岬灯台まで行く間、この広い敷地で、他の観光客に出会ったのは2組だけ。。

道路の左右には時々元ホテルや、元レストラン・売店など、錆びて薄汚くなった建物が見える。まるで廃墟のよう・・・。

どうしてこんな状態になってしまったんだろう?
同じ日南海岸にある観光地なのに・・・
かつては青島同様、宮崎を代表する観光名所でハネムーンのコースでもあったのに・・・



心なしか馬たちも寂しそう…?



日本在来種が野生で存在するのはここだけということです。
確かに一般に見る馬と違って、少し小さめ。背丈も足の長さも。

一心に草を食んでいる親子連れ(?)の姿を見ていたら、小さい方の馬が自分から近づいてきました。
途中の看板には、「野生馬なので近寄り過ぎないよう十分気をつけて下さい。咬んだり蹴ったりすることがあります」と書かれていたので少々ビビったけれど、とてもそのようには見えない。
草を引っこ抜いて差し出すと、ムシャムシャと食べてくれた。
(ちなみに夫が2回ほど差し出したときは、そっぽむいて食べませんでしたが)



近くで見ると、とてもかわいい目をしています。

草は枯れ草ではなく、その下に隠れている緑の茎や葉をむしり取るようにして食べているのです。すぐそばにいると、バリバリというものすごい咀嚼音がきこえます。相当硬い茎も食べているようです。

5,6頭の馬がすぐ間近まで来てくれましたが、皆おとなしくて、近くの草をひとしきり食べると、またゆっくり移動していきました。


家に戻ってから少し調べてみたのですが・・・
この御崎馬たちの歴史も、人間によっていろいろ翻弄されてきたようです。

江戸時代、軍用馬を育てるために作られた高鍋藩所有の「牧」は、明治になって宮崎県の管轄になりましたが、県は経営難で、この「牧」を杉林の土地つきで民間へ売却します。
都井村に住む155人の人々が「都井岬牧組合」を作り、馬も土地も共有物として守り育てました。

人々は林業と牧畜の両立をめざしましたが、次第に杉の植林のほうに力を入れるようになりました。
植林地が増えれば草原が減ります。その結果、馬も激減。50~60年代には50頭までに減少
しかし、1953年、御崎馬が国の天然記念物となり、1968年、御崎馬保存会が発足。
少しずつ増え続け、現在は115頭にまで回復したということです。


観光地としては寂れたように見えますが、牧組合やボランティアの人々の熱意により、野生馬たちは温かく大切に観察保護されているようです。
また、草原が青々と萌えるシーズンには観光客も訪れ、ボランティアのガイドに耳を傾けている写真もたくさんありました。
よかった・・・。
観光客が増えすぎて、馬たちの静かな生活が乱されては困るけど、「駒止めの門」で観光客が渡す寄付金が「牧」の大切な運営費になっているようですから。




ここ佐多岬は、野生馬だけでなく、最北端のソテツの自生地としても貴重な場所です。

馬もソテツも、自然の恵みを知る宮崎の人々の優しさに守られて、ずっとずっとこの岬で元気に生き続けてほしいと思います。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サンメッセ 宮崎

2009-01-15 | 

でっかい、でっかい太平洋が、広がっています。
世界中、五大陸に通じる海が広がっています。

その広い海に浮かぶ遠くの島、イースター島、そこにある世界遺産モアイ像のそっくりさんが
ここ日南で見られるという。ぜーったい見たい!
なんせ、この先、本物にお目にかかれるチャンスがあるかどうかわからないんだもの…
と意気込んでやってきました。

そこは「サンメッセ日南」・・・期待の10倍素晴らしいところでした!



モアイ像が海岸傍に立っているように見えますが、ここは丘の中腹、
モアイの下には牧場が広がっていて、ふれあい広場ではヤギさんたちと遊べます。



ここは「太陽の丘」 
丘全体が日時計になっています。小さい石はストーンサークルの方向陣で、真ん中の大きい石に太陽が当たりその影で時を知ることができます。

何も遮るものはありません。ここに立つと全身が太陽に包まれます。

そう。 太陽(サン)に抱かれ、サンからのメッセージを感じて、大きなエネルギーと開放感に満たされよう…というのが「サンメッセ日南」のコンセプトだったんですね。

知りませんでした。
サンメッセ?幕張メッセみたいなもの?どうしてそこにモアイがあるの?
なーんて感覚でやってきた私、オハズカシイ・・・。



これは「天空の塔」といいます。
塔の真ん中に細い隙間があるでしょ?わずか10cmの隙間です。

春分の日と秋分の日の年2回、先ほどのモアイ像7体のうちの真ん中のモアイの背中から昇った朝日が、この天空の塔の10cmの隙間を通り、「太陽の階段」を駆け登り、頂上にある「地球感謝の鐘」の中央に差し込むように設計されているんですって!
すごいなー! その瞬間を見てみたいものですねー! 



これが、その、「地球感謝の鐘」です。
カヌサイトという古代原石が音源になっていて、近づくと、透明感のある、でも柔らかい美しい音色が聞こえてきます。



石碑にはこの鐘建設の趣旨が書かれていますが、
宗派を超えて国内の宗教団体(神道、仏教、キリスト教など)が協働したこと、
さらに国外の様々な宗教団体が多くのメッセージを寄せてくれたことに驚きました。
世界ではじめてのことだそうです。

ガザ、アフガニスタン、イラク等々、今の世界の現状を思うとき、この鐘の存在にさらなる感動を覚えます。




フランシスコ会修道院院長 マクシミリアン・ミッツィー神父



ダライ・ラマ  



ヒンズー教 ガンティ・オカー女史



ユダヤ教 ノーマ・レヴィット女史



イスラム世界連盟 


その他、<カンタベリー大主教 ジョージ・ケアリー>、<日本クリスチャンアカデミー 中川秀恭>、<比叡山延暦寺天台座主 山田恵諦>、<立正佼成会開祖 庭野日敬>、<一燈園 西田天香> 等々によるメッセージがかかげられていました。


さて、こちらが目的だったモアイ像。

近くで見るととても大きいです。私の身長の4倍近くあるでしょうか・・・?
アフ・アキビのモアイ像の復刻版が、なぜここにあるのか。
パンフレットには次のように書かれています。

日本のモアイ修復チームが、1990年から3年かけて倒れていた15体のモアイ(アフ・トンガリキ)を立ち上げた奉仕と友情に対して、ラパヌイ(イースター島)の長老会と島民が、日本で復元することを初めて、そして世界で唯1回だけ認め、両国の考古学者の監修と、ラパヌイで3年間苦労した石工によってアフ・アキビが見事に復刻されました。

「天空の塔」内にあるギャラリーでは、現地モアイの写真や、その謎についての説明パネルなどもありました。

モアイ像が何のためにどのようにして造られたのか、はっきりはわかっていないようです。
なぜなら、18~19世紀、ヨーロッパからやってきた「先進諸国」の人々によって、島民の多くが奴隷として連れ去られ、島はほぼからっっぽになってしまったからです。

また、モアイ像のほとんどが倒され破壊されていたのは、16~17世紀にかけての部族間の紛争のせいだと言われています。

なぜ、紛争が起きたのでしょう?
その要因の第一は、飢餓による食物争奪のようです。

なぜ、飢餓が始まったのでしょう?
4世紀頃、無人島だったこの島にマルケサス諸島から人々が移り住むようになったころ、この島は巨大な椰子が生い茂るジャングルだったようです。
が、人々は森林を伐採し、カヌーを作り、畑を作りました。
人口はどんどん増え、人々はますます森を破壊し、とうとう限界を超えてしまったのです。
土壌の劣化、流出、水不足・・・作物も育たなくなりました。
食物が不足し、奪い合いが始まり、殺し合い、そして相手の文明の象徴であるモアイを倒しました。
森林破壊は、それを行った人間自身の文明をも破壊する・・・ということなのですね。






太陽、森、水、海・・・すべてのものの恵みを実感させられた「サンメッセ日南」でした。

              ありがとう

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トロピカルランド 宮崎

2009-01-14 | 

宮崎二日目の夜明け。
たたなずく雲にさえぎられ、太平洋に昇る朝日が見れなかった。残念!


向こうに見える小さな島影。あれが青島
中学時代の修学旅行で訪れた場所。あの珍しい景色は今も健在でしょうか?



これ、これ、これです。「鬼の洗濯板
1500~3000万年前に海中で浸食された水成岩が隆起し、波に洗われてできたもの。
すごいですねー。波の威力。時の威力。自然の威力。



こちらは、青島に渡る橋のたもとにある「青島亜熱帯植物園
ここも考古博物館同様、宮崎県立で、入園無料です。
ビロウ、ヤシ、ガジュマルなど1万本以上の亜熱帯の花木が植えられているそうです。
温かくて、明るくて、の~んびりした気分になれます。


2本のアコウの木が合体しています。
「めおとアコウ」とか「絆の木」などと呼ばれているそうです。


青島を出て、国道220号を南下。
少しだけ山あいを走り、再び海岸沿いに出ると、眼前に真っ青な空と海が飛び込んできました。
そこは、日南海岸屈指のビューポイント「堀切峠」。


道路沿いにはフェニックスの並木。展望台の下には花々と鬼の洗濯板。


左の端から右の端まで、ずーっと海で、水平線は弧を描いてて…(この写真ではわかりませんが)
やはり地球は丸いんですねー。

階段を降り、近づいてみると、紫色の花はブーゲンビリア、赤いのはポインセチアでした。


私の背丈をはるかに超える、背高のっぽのポインセチア。
ポインセチアって、クリスマス定番の鉢物だから、てっきり寒い地域の植物かと思っていましたが、
違うんですね。原産地はメキシコだとか。


それにしても、日南海岸はほんとに南国ムードいっぱいで、日本ではないみたい。


それは、翌日訪れた「亜熱帯作物支場」でさらに強く感じました。

悲しいかな、電池切れでここの写真を公開できないのが残念!
かわりに、広報宮崎に出ていた写真と解説をどうぞ。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/honbu/hisho/komiya/H14/0203/sp1.htm

旅行ガイドブックの説明によると、作物支場とは農業試験場のことで、トロピカルフルーツ(バナナ、パパイヤ、マンゴー等々)など亜熱帯性植物を研究栽培し、その成果を市民に公開しているとのこと。

食いしん坊の私は、きっと採れたての果物が買えるかな?、もしかしたら試食なども…
と、期待に胸をふくらませ向かったのに…
ガーン!この日は月に2回(第1・3水曜日)の休園日でした。

しかし、門などもなく、敷地内の道路を車で登って行くと、頂上付近に銀色に光る大きなドームが見えてきた。

あれが、トロピカルドームだ!
休園日なので入れるわけはないけれど、少し覘くだけ…と近寄ると、
まるで待っててくれたように、自動ドアがすーっと開いた。

「すみませーん」「入っていいですかー」…返事無し…「入りますよー」
一歩中に足を踏み入れると、ほんとにここは別世界。
鮮やかな原色の、見たこともない花々があふれ、大きな葉っぱや面白い形の実をつけた木々などが次々と手招きをする。

お目当てのマンゴーも見つけました。
一つ一つの実にネットがかけられていて、それは熟した時の落下防止なのでした。

スターフルーツやコーヒーの木もありました。
どんどん進んでいくと、階下へ降りる階段があり・・・そう!入口は実は2階部分だったんです。
1階に降りると、いやー!ドームの天井が高いのなんのって!
その天井を突き破らんほどにそびえたつ樹木(ヤシの一種だと思うのですが)に圧倒されながら、
足早に見て回りました。
何しろ休園日に無断で入っているんですから、どこかで監視カメラがまわってて、不法侵入罪で逮捕されたらたいへん!

無事ドームを脱出、出る時に入口に置いてあったパンフレットを頂いてきました。

それによると、このドームは高さ17m、奥行き48m、面積845㎡もあるんですって!広いはずです。

また、ドームの周囲には20棟以上のビニールハウスがあり、そこがまさに亜熱帯作物支場の本体部分で、丘の頂上付近に位置します。
ここにたどり着くまでに、市民に開放されたいくつもの森やテーマゾーンがあり、とても面白そう。
「ジャカランダの森」、「トロピカルバレー」、「散策の森」、「恵みの丘」・・・名前を聞いただけでもわくわくします。

私たちは丘を下る途中、「イイギリの丘駐車場」に車を止め、「不思議の森」と「ロックマウンテン」「ジャングルクルーズ」などを散策しました。

「ロックマウンテン」はその名の通り、サボテンやアロエが点在する岩山で、
てっぺんからの眺めは絶景!
「ジャングルクルーズ」は、延々と続く木の階段が谷底へ向かい、
両側にはヤシなどの亜熱帯の大木が生い茂り、まさにジャングルに分け入ったよう。
ただ、「不思議の森」は・・・何が不思議なのかわからない不思議な森でした???

とにかく、静かで(休園日なので他に客無し!)、暖かくて、
自然って面白いなーと感じる空間でした。

  作物支場管理者様、無断進入ごめんなさい。
  門や鍵で閉ざさない、
宮崎県民のおおらかさを感じました。
  園内スタッフの皆様、どこもここも行き届いた清掃・手入れ、ご苦労様です。
  珍しい亜熱帯の植物を心から楽しむことができました。

トロピカルっていいな~、平和だな~  







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひむかの国 宮崎

2009-01-13 | 

2009年、たびぞめ(旅初め)です!
5日から7日まで三日間、宮崎へドライブ旅行。

宮崎を選んだのは…とにかく暖かそうだったから。

行ってみたら…ほんとにあったか!
コートが邪魔に感じるくらい穏やかな小春日和でした。

その上、宮崎は予想以上に魅力いっぱいの地で、
また来たい!心からそう思いました。



まず向かったのは西都原古墳群



お皿をふせたようないくつものボコボコ、これ、み~んな古墳です!

東西2km、南北4kmの地域に、311基もの様々な古墳が点在してるんです。
4~7世紀に築かれたものだそうです。

その中の一つ、鬼の屈古墳に入ってみました。












西都原古墳群の中では唯一の横穴式石室。もちろんこれは復元されたもの。
最後の首長のお墓だそうです。





古墳群の一角にあるこの建物は、宮崎県立西都原考古博物館
外見は普通の博物館。入館無料。
一歩中に入ると、不思議な世界が広がっていました。



舟形石棺。重さ1500kg。15号墳より出土。
なぜ、どうやって、こんなに重い石の棺を作ったんだろう?木なら簡単なのに。


熟年男性の頭蓋骨だと書かれています。
すぐ隣には、同じ場所から出土した壮年女性の頭蓋骨もありました。



暗い館内に、このような出土品の数々がスポットライトを浴びて、
まるで芸術作品のように美しく、意味を持って配置されています。
しかも、ガラスケース等で蓋われていない物は自由に手で触ることができるのです。

そして、何よりも、この博物館の壁面にちりばめられた言葉の数々に、驚かされます。













この考古博物館は物を展示しているだけではなかった。
なぜ悠久の昔を探り、知ろうとするのか、それが今を生きる私たちにとって何になるのか…
その熱い思いをも、しっかりと展示している。

矢じりや石斧などの展示物のそばの壁面には、
飢えと隣り合わせに生きていた当時を思う言葉と、今の飽食の時代の不幸が綴られ、

次のコーナーでは、
その矢じりを、なぜ人間自身に向けるようになったのかを問いかけ、
戦争という終わらない歴史の始まりを紐解いている。

「戦いは何時も消耗に決まっている」という言葉が目に飛び込む。

そして、農業が始まり、文明を手にし、「政治」が生まれた。
それを「得体の知れないもの」と表現し、
「そこからはもう逃れることはできない。とすれば、人間の理性の手中に取り込むことである」と結ぶ。

その理性が甚だ頼りないものだから、いまだに得体のしれないままだけれど・・・


博物館を出ると、広い敷地には冬枯れの芝生と樹木。
深呼吸すると古代人のパワーがもらえそうな、清々しい空間でした。


もっとゆっくりしたかったけど、もうすぐ4時。急いで宮崎県庁へ。



ご存じ東国原知事のお城。
1932年に建設された、全国で4番目に古い県庁舎だとか。
近世ゴシック様式の重厚な建物で、当時のお金で70万円、現在に換算すると50億円の建設費がかかったそうです。

中も見学できるんですよ。
まるで観光地。考古博物館と違って、お客さんがいっぱい。
職員さんたちも今やなれっこなのでしょう、皆さんお仕事中なのにニコニコと応対してくださいました。

県庁の隣には物産館があって、お菓子にも焼酎にも、キーホルダーやハンカチにも、
ほとんどすべての商品に東国原知事の似顔絵が・・・。
まさに県の顔。日本一人気者の知事さん。

願わくば、「得体のしれない」政治の世界で初心を見失われませんよう、
そして、美しい自然と悠久の古代ロマンあふれる日向(ひむか)の国を守ってくださいますよう、
切にお願いします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私にもできること

2009-01-12 | 平和

毎日、悲惨なガザの状況が伝えられています。
世界各地で繰り広げられているイスラエルへの抗議デモのニュースが流れます。
日本でも、東京や大阪で抗議デモがあったと、新聞の片隅に出ています。

が、残念ながら地方に住む私には、デモに参加する機会はありません。
また、こちらのテレビでその様子を見ることもできませんでした。
(私がチェックした限りでは)

先日(1月10日)東京で行われたピースパレード「ガザに光を」については、
World Peace Now からその告知が届いていたので、注目していたのですが…。

でも、今やインターネットのおかげで、いろんな情報を入手できますね。
私は、You Tube のサイトで、そのデモの様子を見せてもらいました。
http://jp.youtube.com/watch?v=BpwSvOLiv9Y&feature=channel_page

毎日新聞によると1500人ほどのデモだったそうで、それは、ワシントンやロンドン、パリなどとは比較にならない規模ですが、たとえ100人でも50人でも、同じ願いをもった人々がここにいる…と感じられるのは心強いことです。

それにしても、なぜ国連はこの蛮行を止められないのでしょうか?
イスラエル建国の経緯や、欧米との利害関係など要因はいろいろあるにせよ、
毎日大勢の市民がむざむざと殺されていくのを、私たちは為すすべもなく見守ることしかできないなんて…。
http://jp.youtube.com/watch?v=aemGPnggbLo&feature=related


この間私がやったことと言えば、MLから送られてきた攻撃停止をイスラエルに訴える署名にサインしただけ。
他にできることはないのだろうかと思っていたら・・・

友人が、イスラエル大使館宛にメッセージを送ったと知らせてくれました。
私もその宛先 information@tokyo.mfa.gov.il をそっくりコピーして、すぐに私の思いを伝えました。

     


イスラエル大使館
駐日イスラエル特命全権大使
  ニシム・ベンシトリット様
                                          

初めてメールを差し上げます。お願いがあります。
ガザへの貴国軍隊による軍事攻撃をただちに止めて下さい。

あなた方とガザの人々との戦いを外から見ていると、
大人とこどもが本気でけんかしているように見えます。
それほど力の差があるということです。

あなた方にどんなに言い分があろうとも、
このようなやり方は、アンフェアです。
いじめているようにしか見えません。
それも命を抹殺するといういじめです。

どうぞ冷静になって、
何の罪もないこどもたちがこれ以上犠牲になることがないよう、
いますぐ攻撃をやめることを、貴国首脳に進言してください。
貴方が大使としての使命を感じておられるなら、
どうか今すぐに、お願いいたします。

                         2009年 1月 11日
                       ○○○○○(長崎県佐世保市一市民)



私にもできる小さな意思表示。
自己満足だということは十二分にわかっているけれど、
何も伝えなければ、何も思っていないことと同じになる。
何の罪もない人々が殺されていくことに、
何の感情も持たない私でありたくはない。



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年越し派遣村 3

2009-01-08 | 雑感
派遣村ボランティアのKさんのメッセージは、多くの仲間やMLを通して、いまたくさんの人々に読まれています。

読者からの感動と感謝に満ちたメールが続々と届き、
Kさんはその反響の大きさに驚き、
あらためて5日間にわたる「年越し派遣村」での体験をまとめて、
メールに添付してくださいました。

その内容は…、そこで何がおきていたのか…、
とにかく必読です!
マスコミの報道などには出てこない、生々しい村の様子が伝わってきます。


         「年越し派遣村」ボランティアリポート

12月31日から1月5日まで日比谷公園に開設された「年越し派遣村」にボランティアとして行ってきました。メールで「年越し派遣村」を知って、「年越し派遣村」って何、「ちょっと見に行ってみようかな~」なんて軽い気持ちで31日の「開村式」に望みました。主催者や政治家、各労働組合の代表からの話を聞いているとだんだん事の重大さがわかってきました。「開村式」のスピーチが終わると100人くらいいたボランティアの割り振りがされました。そこからです。私の怒涛の年末年始が始まったのは・・・

私はまず、全国から届く物資の仕分けと在庫管理をすることになりました。米1トン、ジャガイモ200キロ、大根100キロ、りんご30箱、次々と運び込まれる食材の数量を確認しテントに積んでいきます。送り主は個人、地方の労働組合、共産党の支部、全国の農民連など多岐にわたります。

食事の時間にはボランティア総動員で食事作り、行列の整理など私は、倉庫番の合間に会場整理をやっていました。だけど、今、考えると31日の食事はとてもゆったりとしたものだったな~と思います。村民も100人ちょっとだったし。「村」の存在がテレビで報道されると入村者が雪だるま式に増えました。ボランティアも増えました。私の倉庫番の仕事も仕事を任せられる部下(?)が増え、ときどき顔を出せばいい感じになってきました。

「2列に並んでくださ~い」「お待たせしました~」「おかわりはありませ~ん」
日に日に食事の行列が長くなりました。4日には500人、行列がなくなるまで2時間近くかかりました。行列の中には、視点のさだまらない顔面蒼白の若者がたくさんいました。食事の時間が終わった頃大きな荷物を持って「村」にたどり着き、「何か食べ物、ありますか?」とたずねる青年。
後から聞いた話ですが、茨城県から歩いてきた人、自殺に失敗して「村」に来た人、交番で「村」を紹介された人。テレビの報道より厳しい現実を目のあたりにしていると「大企業」に対する怒りがふつふつと沸いてきました。

倉庫番の仕事もすごいことになってきました。入村者が予想以上に増えたため、倉庫として使っていたテントを急遽、入村者の宿泊用にすることになったのです。残っているボランティアで、米、もち、ジャガイモ、たまねぎ、大根、りんご、みかん、缶詰、カップラーメン、お菓子などの食材をすべて外に運び出しました。そして、野良猫、カラス対策のためにブルーシートをかけてその日は帰りました。元旦の夜のことです。

テレビの報道の影響で入村者、ボランティア、メディア、そして観光客が日に日に増えました。どんなに人数が増えても、入村者の方々からは「村」に来てよかったという穏やかなものが感じられましたが、それに引き換え、ボランティアやメディアの方たちは数が増えれば増えるほど、マナーが悪くなってきました。テレビ局だからとか外国から取材に来たからといって何をしてもいいというわけじゃありません。配膳の最中に厨房にずかずかと入ってきたり、プライバシーへの配慮がなかったり、広めてくれるのはいいのですが、その前に人権について考えて欲しい。人の気持ちや礼儀を考えて欲しいと思いました。
ボランティアの質も悪くなってきます。ハンドバックにスカート姿で「何か仕事ありますか?」とか、「ちゃんと指示してくれなきゃわからないじゃない」と同じボランティアに詰め寄るおばさん。 帰れ!

観光客などは論外です。「今、食事の準備中ですので通行できません。」というと「カンパしたのに何だ、その態度は。」と言ってボランティアに食って掛かります。食事の列に明らかにプロのホームレスを見ると「俺はホームレスのためにカンパしたんじゃないぞ。」 ・・・なんて心が狭いのだろう、カンパ返すよ!

全国から届く支援物資、米だけで4日には4トンに達しました。宅配便の宛名を見ると「日比谷公園派遣村」と書いてありました。それだけで届くんだ~と感動しました。たくさんの食材をリュックにつめて持ってきてくれる老夫婦。
ミュージシャン、マジシャン、飴細工職人、マッサージ師、村民のためにと集まる職人。
「政治を変えなきゃ」と切実に訴える観光客。床屋を申し出る美容師。
入村者の中にも「村」の運営に力を貸してくれる人もいました。
「派遣村」にはそういう心温まる人たちがたくさん集まっていました。

31日に「ちょっと様子を見てみよう」なんて思っていた自分が、名前も知らない人たちと団結して「村」を何とかして切り回していく、そんな中に自分が居られたことは自分にとって、かけがえのない時間でしたし、一緒に苦労したみんなと出会えたことはお金では買えない財産だと思っています。
自分のことを「高杉晋作」だという下ネタ好きのホームレス、一本芯の通ったオヤジ。いつも「よっしゃ、がんばろうー」っていうのりの体育会系のリーダーハナさん、一生懸命考えるワタナベサブリーダー、名前はわからないけど、ずっとゴミの整理をしてくれていたプロのホームレス。農民連の上山さん、みんなにまた会いたいと心から思います。

毎日、派遣村に通って、帰るときに日比谷公園を出ると目の前には帝国ホテル。
きらびやかなネオン、大きくてリッパな建物、あまりのギャップにため息が出ます。
「みんなでなんとかして頑張ろうよ」っていう世界から、「金儲けしたい、自分さえ良ければいい」という現実の社会が道ひとつ隔てたところにある。涙がでました。

「年越し派遣村」は、村民にとっても、私たち労働者にとっても希望の「村」です。
これだけの短期間で私たちの要求をアピールできたことは奇跡的だと思います。
「高杉晋作」さんが言っていました。「皇居のとなりの日比谷公園でこんなことができるなんて、世の中変わったな~」って、なるほどって思いました。
派遣村での4日間、体はきつかったけど、本当に心が温まることが多い毎日でした。
村民のみなさんにとっては、まだまだ、厳しい日々が続くとは思いますが、いざとなれば、いつでも「派遣村」は再開できます。「派遣村」での体験を忘れず希望を持って頑張ってもらいたいと思っています。

自分もこんな正月は初めてです。一生忘れません。


Kさんのレポートを読んで、怒りやら感動やら切なさやら、
いろんなものがごちゃまぜになって胸を熱くさせられました。

そして、不思議な気持ちになってきました。
ほんとうに貧しい人は誰なのか・・・
豊かさって何なのか・・・


貧しい政治が生みだした超貧困、生きにくい社会。
その政治家を生みだしたのは、
私たち・・・

 

 

 



コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする